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イオ

大野城(和歌山県西牟婁郡白浜町大古) (2021/01/10 訪問)

# 大野城は安宅本城の支城にあたるため、安宅本城で投稿します。

詳細は不明ながら、大野城は熊野水軍・安宅氏の執事を務めた大野氏の居城と伝わり、日置川の河川交通を監視する役割を担っていたと考えられます。

安宅本城から安宅橋を渡ってすぐの春日神社の裏山が大野城の城域で、春日神社の駐車場(2~3台)に車を駐めて境内に上っていくと、境内の南西部に登城口の案内があります。登城口からは2分もかからず南の曲輪南下の横堀に行き当たります。南の曲輪は東辺から南辺にかけて土塁がめぐり、北側の主郭との間は堀切で遮断されています。堀底からは主郭南端の土塁外周にわずかな石積みがあることが確認できます。主郭の西下と北下には帯曲輪が設けられ、さらに北に続く尾根にも曲輪があったようですが、北尾根は昭和期に土取り工事で大きく削り取られてしまい、見る影もありません。

ひと通り見ても30分かからない小規模な城ですが、横堀に土塁に堀切にと見どころは豊富ですので、安宅本城や八幡山城を訪れる際には、徒歩圏内の大野城もあわせてどうぞ。
 

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昌官忠

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日」② (2017/02/16 訪問)

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」の2城目は大洲城です。宇和島城からの転戦です。
2回目の攻城を2020/11に攻城予定でしたが、新型コロナの影響でキャンセルしました。

元弘元年(1331) 宇都宮豊房が地蔵ケ岳に城を築きます。
永禄11年(1568)宇都宮は河野・毛利連合軍に敗れ、城は河野の武将大野直昌が預かるところとなりました。
天正13年(1585) 羽柴秀吉の四国平定後、道後湯築城を本拠とする小早川隆景の枝城となります。
天正15年(1587)隆景が九州に転封となった際、 戸田勝隆が16万石で大洲に入城。
文禄3年(1594)朝鮮で病死した勝隆の後を受け、文禄4年(1595) 藤堂高虎7万石で板島に入城。大洲は蔵入り地となり高虎が代官となるが、すぐに大洲を居城とします。
慶長14年(1609) 脇坂安治が洲本より大洲に入城。
元和3年(1617) 加藤貞泰が米子より大洲に入城。版籍奉還まで加藤氏の治世が続きます。

時間はあったのに、苧綿櫓(二の丸)には近づけず、南隅櫓(三の丸)は見落とし。
心残りばかりの攻城でした。もう一度チャレンジしたい。攻城時間は90分くらいでした。

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昌官忠

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」① (2017/02/16 訪問)

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」の1城目は宇和島城です。
自分の100名城巡りの原点は、このツアーから始まりました。
会員なりたての2020/07/29に投稿していますが、内容がないので再投稿します。(攻城日も誤っているので訂正します。2017/02/19➡2017/02/16)
2回目の攻城を2020/11に攻城予定でしたが、新型コロナの影響でキャンセルしました。

1595年(文禄4年)藤堂高虎は伊予国宇和郡に7万石で封じられると、翌1596年(慶長元年)から築城がはじまり、160年(慶長6年)には天守が完成しています。
1608年(慶長13年)今治に転封となった高虎に代わり伊勢国から富田信高が入ります。
1613年(慶長18年)に信高が改易されると、1年間は天領となります。
1614年(慶長19年)伊達政宗の庶嫡子秀宗が10万石で入封します。
1664年(寛文4年)二代藩主の宗利が全体の改修開始(完了まで約7年かかりました)。現在残る天守も、このときに造られたもののようです。
その後は明治を迎えるまで、9代(3代宗贇、4代村年、5代村候、6代村寿、7代宗紀、8代宗城、9代宗徳)にわたって、宇和島伊達家の居城としてあり続けます。

北側の登城口から登り、郷土資料館から本丸に向かいました。
石垣は見ごたえがあります。三重三階天守の唐破風造の玄関、懸魚の写真を撮りました。
心残りは搦手門口にある「上り立ち門」を見学できなかったことです。攻城時間は50分くらいでした。

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ぶーたろー

天気が良い日、お散歩に行こう! (2020/12/05 訪問)

前編:https://youtu.be/Fm-eFtbWTQo  後編:https://youtu.be/iKM5e3Cl-uM
↑この動画が参考になります。山頂は公園として整備されていて、展望台がありました。登城口も整備されていて、歩きやすいよ!

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姫街道

信長の父である織田信秀築城の堅固な平山城 (2021/01/24 訪問)

信信秀死後は、家督を継いだ信長が弟の信勝に譲ったが、これもまた次第に確執が深まり対決となったようだ。末盛城は街道筋を見下ろす位置にあり、重要拠点であった事が伺える。
比高は約20mと高くはないが、高低差があり、堀も大きく主郭を大きく二重に取り囲むようにある。ここも小牧・長久手の合戦時に家康が陣を置いたようで、遺構は戦国後期の感じがする。今日は一日雨降りだったが、尾張の平山城巡りは歩きやすくて丁度いい。

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姫街道

「守山崩れ」で有名な城 (2021/01/17 訪問)

家康の祖父にあたる清康が家臣に暗殺された地。享年25歳だったとの事。この清康さんは、武力により三河を掌握した名将で、城巡りしているとあちこちで名前が出てきます。守山崩れが無かったら、、、間違いなく歴史は大きく変わっていたはずで残念。さて、遺構は石碑が立つ場所と宝勝寺の間に大堀切が存在している。また、城の東約150mの箇所に古墳跡地に建てられた白山神社があり。その関係性がどのようだったか、宅地化が進んでいてわからないが、少なくとも出城の機能は有していたと感じた。

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姫街道

信長が攻め落とした城 (2021/01/24 訪問)

三河の松平氏と同じく尾張も織田伊勢守家と織田大和守家(信長の系統)があり、織田伊勢守家が築城した岩倉城であったが尾張統一を目指す信長の攻撃を受けて落城した。
その後、小牧・長久手の合戦時に家康が陣を置いた。よって、規模はかなり大きい。
ただし、現状は地形の高低差などから想像するのみだ。それでも石碑部を含めて所々に石碑や神社仏閣があって城跡散策を楽しめる。

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姫街道

古い感じの土塁と謎の旭城 (2021/01/24 訪問)

近年の変革が大きく、城がどの程度の規模だったのかわかりにくい。本郭があった箇所だろうか土塁が大きく打ってある。公園化しているが、高低差もあり二重土塁だったと思う。
そんな複雑な城の形状ではなく、古城的な雰囲気を感じる。公園駐車場横には旭城がそびえ立っているが、情報通りレストランだ。どうせなら主郭に建てればよかったのにと思うほど、鉄筋コンクリートで立派な建物だ。

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T-Shionoya

岡崎城訪問 (2003/04/27 訪問)

過去のお城巡りを振り返り、ぼちぼちと掲載していきましょう。
今に至るお城巡りのスタートは岡崎城でした。

三河山地と岡崎平野の境の台地上に築かれた城。
東海道の矢作川の渡り場であり、北は信州飯田へ三州街道が走る、古くから陸路と河川交通の要所だったことでしょう。

城主は家康の祖父・松平清康や徳川家康(松平元康)、家康の嫡男・信康、豊臣秀次の家臣・田中吉政、そして本多氏、水野氏など。
田中吉政の時代に江戸期の基盤となる城郭の拡張整備が行われているようですね。

現在の岡崎公園はその本丸周辺曲輪と二ノ丸からなっており、更に東曲輪が駐車場、菅生曲輪がその南の多目的広場。
当時は城郭全体を回ることはなく、天守を中心に2時間ぐらいの滞在だった模様。
写真に堀や石垣を写したものがありませんが、お城EXPO 2020でもらったパンフレットによると、本丸周辺や新しく発掘された菅生川沿いに空堀と石垣がしっかり残っているようですね。
また2010年に東隅櫓が建てられており、いつかそれらを見に再訪問したいものです。

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チェブ

裏切りか?守ったか? (2020/12/26 訪問)

山梨県から東京の端っこに帰る途中に寄った「岩殿山城」で悩みます。
先にお伝えします。毎度の事ですが、話 それていきます(-_-;)
高速道路代をケチッて、山梨県から下道で帰ろうとグーグルをチェックしたら、大月市を通過する事が分かり「岩殿山城」に寄る、と、いつもの行き当たりばったり城攻めです。

築城時期は不明です。北条家から備えの為のお城だったようです。
武田信玄さんの家臣、小山田 信茂さんの「岩殿山城」と言ったら、武田家を滅亡に追い込んだ原因の1つでもある お話は有名です。

甲州街道から国道139号に入ると「岩殿山城」の駐車場がありました。
あった!っと見つけても、スピードを急には落とす事ができず、Uターンして着ました。
駐車場は10台位、大丈夫そうです。暗い時間に攻める方はいないと思いますが、入口に自販機がありました。念のため目印に、、、、。
駐車場から少し歩いて行くと『岩殿城入口』があります。
小山田 信茂さんの裏切りがなくても、ここで退陣します。真っ暗なので。

真っ暗、、、、。
武田 勝頼さんと一緒に落ち延びて来た夫人も、怖かったろうな。山道で足とか傷だらけだったろうに。
それを、入城拒否って!
ちょっと待て、真田さんお勧めの「岩櫃城」でも、長距離を歩く事になるから、やっぱり不安、、、。
遠くに富士山が見えて、悲しくなります。
夫人は、北条家から嫁ぎましたから。
富士山、懐かしいでしょう、、、。

小山田さんっ!!
と、怒って調べてみると大勢の敵軍から逃れて来る、武田 勝頼さんを入城させなかった事で戦火から守られた、とありました。
地元では、悪役ではありません。
小山田 信茂さん、一族の皆様も処刑されてしまいました。
どちらにしても、武田家は残念な結果です。

帰り道、甲州街道を通るはずでした。
ちなみに、小山田 信茂さんが北条家との戦いで八王子方面に抜けた間道が、後の甲州街道の始まりの1つなんだそうです。
確かにこの先の八王子方面に、小山田さんの御先祖様のお城が いくつかあります。
間道、得意だったんでしょうね。

が、ぜんぜん違う山道を走りました。
時間がかかり、グネグネ山道です。
高速道路代は、ケチらず余裕のある お城攻めをお勧めします。

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テテたん

臼杵城跡 (2021/01/24 訪問)

今年初のお城

運動がてら歩きました

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赤い城

久米城 茨城県常陸太田市 (2020/10/04 訪問)

地元の方が10年くらいかけて整備されたとのことです。
駐車場もあります。
鹿島神社が建つ部分が主郭で北と南の尾根にも展開されている。
北尾根は竜貝城と呼ばれ、沢山の堀切が切られています。
元々はここが本城で徐々に拡張されたと思われます。
南城にも多くの堀切がある他、横堀もあります。
佐竹氏北家の城で近くの山入城と睨み合っていたものと思われます。

それにしてもこの城、凄く見応えあるのに城びと未登録。
皆さんにも是非行って欲しい城でした。

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ぶーたろー

この時代には無いはずの石垣を発見! (2020/12/05 訪問)

前編:https://youtu.be/wzi4HnSfR2U  後編:https://youtu.be/-4Fg7B-QHdw
↑この動画が参考になります。南、北曲輪の間にある堀切の底を歩いて南曲輪に回り込みました。南曲輪の足元に石垣が確認できます。
この城は1590年に廃城となったと看板にありました。城の石垣は信長が祖とされておりますが、この石垣は信長以前のものだと思います。一見の価値があると思います。

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橋吉

現在は、豊田市美術館 (2019/08/04 訪問)

現在は、豊田市美術館になっています。
かつて、ここには挙母藩の藩庁が置かれていました。
正式には挙母城ですが、「三河国」「尾張国」「美濃国」「信濃国」「伊賀国」「伊勢国」「近江国」の7つの国が見える高台にあることから、七州城ともよばれたそうです。

隅櫓は、1977(昭和52)年再建されました。

書院「又日亭」(ゆうじつてい)は、明治まで寺部城の城内にありました。
明治年間に千足町の竜寿院に移築され、その後解体される予定ででしたがが、1977年、隅櫓再建とともに、豊田市によって現在地に移築されました。

他に遺構らしいものは見つかりませんでした。

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ヒロケン

中世山城 (2021/01/04 訪問)

白山城は、新羅三郎義光の曾孫武田太郎信義が白山城を築き、武田庄を領土とし勢力を拡大したと云われています。
戦国期には武田氏の領国支配烽火台ネットワークの拠点としての役割も担ったとされています。

遺構としては曲輪・空堀・土塁・土橋等が残り、規模は小さいながらも、中世山城の面影を偲ばせています。
アクセスとしては、韮崎大村美術館を目指し、美術館の横を流れている川に沿って山の方へ2分程進むと防獣柵がありますが、この川沿いにある防獣柵を開け進むのではなく、防獣柵の右横に何らかの施設があり、その施設の奥側に別の防獣柵があり、そこが登城口になります。防獣柵を開け進むと白山神社があり、4~5台程の駐車スペースもあります。

下調べも十分に行い、韮崎大村美術館をナビにセット、迷わず美術館着。川沿いを上流へ進むと、防獣柵があり「はは~ん」「これか~」防獣柵を開け、車ごと中へ進入。調べでは、すぐに神社があり、そこから徒歩にて登城。が、3分程進んでも神社がない((+_+))しかも、かなりの悪路((+_+))「ガガッ」「ゴゴッ」っと車底を擦りながら、進むとついに行き止まり((+_+))防獣柵に熊出没の情報があり、車から降りる勇気もなく、引き返すことに。防獣柵まで引き返し、スマホ検索。登城口を勘違いしていることに気付き無事登城(^O^)/
苦労して辿り着いた白山城は国の史跡に指定されているだけあって、本当にあきらめなくて良かったと思える素晴らしい城跡でした。

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昌官忠

クラブツーリズム「信州桜吹雪」1泊2日⑥ (2017/04/09 訪問)

クラブツーリズム「信州桜吹雪」1泊2日の6城目(ラストです)は高遠城です。春日城からの転戦です。

高遠城は2回攻城しています。
①2017/04/09(今回) クラブツーリズム「信州桜吹雪」ツアーでの攻城
②2018/10/07 100名城スタンプ押印目的の攻城(投稿済)

空堀が素晴らしい城址でした。桜が咲いていたらと思うと残念です。
本当に桜に恵まれないツアーでしたが、観光客は多くてどうしても写真に写り込んでしまいます。
極力人が写っていない写真を選んで投稿しました。攻城時間は70分くらいでした。

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にのまる

新春総構ウォーキング (2021/01/02 訪問)

 今年のお城巡りは小田原城からスタートしました。西側の総構をメインに歩くのは3年ぶりです。
 昨年の籠城企画後から武将の像チェックが欠かせないマイミッションになっているのでまずは西口ロータリーの「火牛の計」の早雲公像へ。そこから八幡山古郭に向かっていると国際医療福祉大学前に三の丸元蔵堀の説明板がありました。それによるとこのあたりに後北条氏の障子堀を大久保氏が改修したと考えられる8メートル級の堀があったそうです。8メートルと言えば現在見られる小峯御鐘の台大堀切と同じくらいの深さです。「ここにあれが?」と考えるだけで楽しくなってきます。
 
 八幡山古郭東曲輪は高台にあり小田原城天守と海を一望できました。天守との距離が近すぎず遠すぎずで、最高のロケーション。お天気にも恵まれ幸運でした。

 つぎに三の丸外郭新堀土塁へ向かったのですが、公園になっているそこはまさかのお正月休み。残念ではありましたが次回のお楽しみができたということで引き返し、競輪場をぐるっとまわって城山公園へ。前を通って写真だけ撮った大久保神社は初代大久保忠世と10代忠真が祀られていて、明治33年までは現在の天守がある天守台にあったのだそうです(小田原市HPより)。こちらも次回改めて寄りたいです。
 
 道すがら旧址の説明や文学碑に触れながらたどり着いた城山公園。「海と港の見える丘」は総構成立以前の小田原城の最西端にあたる重要な場所だったのだそうです。東堀に続くこの公園からも相模湾と天守が望めました。静かでいいところです。

 そしていよいよ東堀散策。堀底道を歩くのってどうしてこんなにわくわくするのでしょう⁉︎(討たれるのに…。)360度の視界を楽しみながら堀の中を行ったり来たりしました。
 大胆に湾曲した堀底に側面から斜めに張り出す大木が覆い被さって作り出された空間は、戦の終焉を見届けた後も自然と人工とが融合し続けてできた唯一無二の異世界。いつか完全に埋まり自然に還る日がきたら、おつかれさまと声をかけそっとしておいてあげたい、そんな思いが湧いてきました。
 
 東堀、中堀でまったりとしたあとは西堀でいにしえの空気に浸り、やめとけばいいのにロープにつかまって稲荷森をのぞき込み、山ノ神堀切は初めて下まで降りて見上げ、道沿いにたわわに実るミカンにこの季節の到来を感謝しつつ小田原駅に戻りました。

 
 西側総構は北原白秋の童謡の散歩道でもあります。訪れた数日後、映画「この道」をAmazonプライムで観ました。北原白秋と山田耕筰の交友と音楽家人生が描かれており、舞台は小田原。「からたちの花の小径」は総構西堀から続いていて、映画の中には二人が小径を歩きながら小田原の町を眺める場面も。
 伝肇寺(でんじょうじ)は北原白秋の旧居址だそうです。小田原文学館・白秋童謡館(2/7迄臨時休館)とあわせて訪ねてみたいです。
 
<つづく>

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昌官忠

クラブツーリズム「信州桜吹雪」1泊2日⑤:春日城(長野県伊那市) (2017/04/09 訪問)

クラブツーリズム「信州桜吹雪」1泊2日の5城目は城びと未登録の春日城です。高島城からの転戦です。
城びとに登録されている春日城は長野県佐久市ですが、攻城したのは長野県伊那市にある春日城です。春日(城址)公園として整備された桜の名所です。

信濃国の滋野氏三家(小太郎・小次郎・三郎)の小次郎根津氏の支族である春日氏が築城したといわれ、戦国時代には伊奈の豪族伊那部大和守重慶の居城だったようです。
本姓は春日氏であり伊那地方の重鎮となりました。重慶の子但馬守重成が継ぎ、更にその長子・左衛門尉重親が後を継ぎました。弟重国を殿島につかわし殿島城を経営させたようです。
弘治二年(1556年)武田信玄のために斬られた郷士の中に春日河内守がいるが、これは重親の子であろうと考えられています。後の城主・春日河内守昌吉は高遠城主・仁科盛信に従いました。
天正十年(1582年)、織田信忠軍の信濃侵攻に伴い春日城は兵火に罹り炎上しました。
昌吉は部下を引き連れ本城の高遠城に参じ、虎口の門を死守したが、盛信と共に討死しました。
以来、再建されることなく廃城となったようです。
長野県佐久市にある春日城とは関係はないようです。

公園です。桜は蕾でした。攻城時間は30分くらいでした。

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昌官忠

クラブツーリズム「信州桜吹雪」1泊2日④ (2017/04/09 訪問)

クラブツーリズム「信州桜吹雪」1泊2日の4城目は高島城です。高田城からの転戦です。

高島城は2回攻城しています。
①2017/04/09(今回) クラブツーリズム「信州桜吹雪」ツアーでの攻城
②2018/10/07 続100名城スタンプ押印目的の攻城(投稿済)

浮城と呼ばれるだけあって、濠越しの天守閣は映えます。
桜を見るツアーですが、桜は咲いていません。団体移動の為、ツアー客がどうしても写真に写り込んでしまいます。
極力人が写っていない写真を選んで投稿しました。攻城時間は30分くらいでした。

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きぬさや

織豊期の石材確保? (2021/01/23 訪問)

豊橋市の国指定史跡、馬越長火塚古墳群で行われた大塚南古墳の発掘調査現場公開へ。石室の範囲範囲確認を目的とした調査を行ったところ、古墳の側壁と呼ばれる石材がほとんど抜き取られていることが確認されました。

遺物が見つかっていないので推測含みながら、地域には「池田輝政が吉田城主となった際に、周辺の古墳から石材を持ち去った」と伝承があるとのこと。興味をそそられます。

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