埼玉県金窪城のあるあたりから国道17号線を群馬方面に少し向い、神流川を渡った高崎市の表示が出ているあたりに神流川古戦場碑があります。
神流川古戦場は織田信長急逝に伴い、関東の領地を任されていた滝川一益軍が西方面に逃げ戻ろうとするのに対し、関東の地を支配したい北条氏の北条氏直軍が追いかけた・・・両軍の戦いの地になります。
意外にも当時滝川一益に従っていた関東武士は多く、それ程北条に見方した士族はいなかったとされます。
(恐らく北条氏とそりが合わなかった元山内・扇谷上杉軍関係者が北関東に多かったからと推測され・・・ある意味真田氏もそうだった)
それでも味方の数が北条側に圧倒的に多かった事と、撤退戦だった滝川軍では結果は目に見えていた訳でorz
古戦場としてはマイナーな部類に入る為か、古戦場碑と解説しかそこにはありません。。。が、古戦場碑のある場所から北北東に「軍配山古墳」があるのですが、こちらは当時滝川一益が陣を張った場所とされ、こちらにも解説があります。
周辺は本当に真っ平な地形の為、それほど高く無い軍配山古墳の上からでもかなりの遠望が利いてました。
確かに戦いの指示を出すにはうってつけの場所だったと思われます。
圧倒的不利ではあったものの、北条氏直軍に結構な打撃を与えた様です。。。これは滝川一益が戦上手だったからか、はたまたお坊ちゃま風に見られがちな北条氏直の能力的なものか・・・
(実際北条氏直はかなり有能な人物だったようです。。。が、父親の氏政に権力等々押さえつけられていたのが、当主になった後の小田原の易でも響いた様で・・・orz)
今は緊急事態宣言が出ている為、不要不急である史跡巡りは宣言の出ている都府県在住ですので控えるようにします。。。
その反動で勝手に籠城記事書いている訳ですがw
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