登城口にある案内説明を読んでいると、軽トラに乗ってきた人物が声をかけてきた。
「お城に来ていただいたのですか? 有難うございます」 と いきなりお礼を言われ面食らったが、
伺えば一宮城保存会の会長をされている方で、整備のために来られたそうです。
草刈りはもちろん登山者に安全に快適に登って頂きたいために登城路をコンクリートブロックで
階段状に設置しておられるそうだ。
ただし本丸より先は昔の遍路道でもあるので、あえて過度な整備を行っていないそうである。
また登城者の意見や感想を書いて頂きたく案内板の横にノートを置いているのだが、近ごろは
日付と登城者の名前しか書いて頂けなくて残念だ、と仰っていらした。
登城者の意見や感想が、保存会の皆様のモチベーションアップに繋がっているのだろう。
さて登城を始めてみると、あるある。
10Kg ほどもあるのではないかと思われるコンクリートブロックが、延々と続いている。
一つ一つ運び上げるだけでも、その労力たるや。 ただただ感謝あるのみ。
途中には湧水もあり、おそらくこのような場所があちこちにあるのだろう。
才蔵丸と明神丸を隔てた堀切は竪堀となって南側に落ち込んでいる。
才蔵丸へ登る虎口にもコンクリートブロックの階段が。 こんな山の上まで。 再び感謝。
門跡を抜け180度転回し階段を上がった明神丸からの眺望は、徳島市街はおろか淡路島まで
見渡すことができた。 (かすかに見えた山々が、多分そうだと思う)
本丸はとても荒々しく風雪に耐えた感の、趣きある石垣だった。 (雪は降らない土地だったな)
この虎口にはどんな門が似合うか、想像するのは楽しい。
石垣を一周してみると、北側など特に歩ける幅も狭くギリギリに石垣が立ち上がっている。
小倉丸へ向かう途中には城内最大の堀切もあり、こちら側の防御を重視しているようだ。
途中には石を重ね敷いた箇所がある。 土橋ならぬ、石橋というべきものなのか?
土だと流れ崩れるので、それを防ぐためのものか? 後世の物かもしれない。 わからない。
小倉丸へ行ってみて驚いた。 かなり高い土塁が残っている。 馬踏も広い。
さらに外側の横堀も深く、土塁までの高さは、かなりの物だ。
一宮城は天正年間に阿波に入った蜂須賀家正が阿波支配の拠点として大改修したそうだが、
長宗我部を意識した西側からの防御を念頭に置いた大改修だったのだろう。
小倉丸、椎丸、水の手丸、蔭滝の鎖場を通って、一宮神社裏手に戻ってきた。
保存会会長さんは、あえて整備をしていない、と仰っていたがヤブと化しているわけでもなく
さほど歩きにくいわけでもなかった。 ただし足元の装備だけはしっかりした物が望ましい。
案内板横のノートには、感謝の言葉と感想を書いて帰りました。
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