武名が平城跡(ぶながひらじょう跡)は、陣城です。
毛利元就が赤穴瀬戸山城を攻める際に築いたそうです。
赤穴瀬戸山城の東郭郡から、尾根を伝って進みます。
途中、熊,猪、鹿達、城番に陣ぶれを出す必要があります。(2枚目)
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2020/11/09 22:39
2020/11/09 22:08
平泉に移る前の藤原清衡の館 (2020/10/26 訪問)
人首城を終えて西方に約14、5km程の豊田館を目指す、情報とガイドは何時もの城郭放浪記さん余湖図コレクションさん、走行中コンパクトカメラのバッテリーをシガレットソケットに繋ぎ充電するが中々満充電に成らない。
県道8号線を走りながら所々にえさし藤原の郷看板が目に入って来る、ナビを国道465号線と県道156号線の交わる手前の県道156号線約20m北側に公園駐車場に合わせ到着。
5m程の高台に館跡が有り公園化されてる、堂と石碑、案内板、東屋が立ってる、割とこじんまりした館跡。
歴史的には清衡の父藤原経清の館で経清は安倍氏と婚姻関係を結び清衡が生まれる、前九年役で経清は安倍氏と結び源頼義と対抗し捕らえられ殺害される、清衡の母は清原氏と再婚し後の後三年の役後清原氏が奥六郡を治める事に清衡が後を治める事になり横手の館から父の館、豊田館に戻り藤原姓に復した。
この後平泉に館を構えて奥州藤原三代の栄華を極める。
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2020/11/09 20:25
カズサンさん,無事の帰還に安堵しました。 (2019/06/08 訪問)
大葉沢城の最大の見どころへは行けなかったようで残念に思いましたが,無事に帰還されたようで安堵しました。心配されていた国道113号も紅葉を堪能されたようで嬉しく思います。長井に抜けてからもさらに北上されてビックリしました。
さて,出石城ですが,晴れていればJR豊岡駅からレンタサイクルで向かいたかったです…。それでも,たくさんの観光客がいて驚きました。
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2020/11/09 20:24
人首要害として明治まで残る (2020/10/26 訪問)
今回の城廻りの主目的城郭、下越の大葉沢城、出羽清水城、後三年役の金沢柵を終えて秋田横手ICより岩手、宮城未踏の城廻りへ先ずは岩手県奥州市人首城(ヒトカベジョウ)を目指す、秋田岩手の県境紅葉も素晴らしい景観です、東方約100km程ナビは人首城南側の入口辺りに在る県道8号線の米里郵便局より東に入った辺りに目的地を合わせ走行、ナビは何と水沢ICを目指すと思いきや北上JCTを北へ花巻JCT経由釜石道江刺田瀬IC降りて地道山間地を越えて人首城の米里へ、お陰で岩手の山々の紅葉と里山ドライブを楽しみました。
目的地の米里郵便局を確認して人首城の標柱を東に入り200m程の所に人首城白標柱が有りそこを道なりに登って行くと2郭に舗装道終点の駐車エリア車を停めて探訪。
情報とガイドは何時もの城郭放浪記さん余湖図コレクションさん、余湖さんの俯瞰図で探訪、2郭に車を停めて1郭へ招魂社が祀られてる、1郭南西に枡形虎口、高い切岸で囲まれてる、1郭と2郭は若干の高低差、3郭は2郭との間に堀切、3郭が一番高そう、周囲に帯曲輪。
歴史的には築城年代は定かでないが葛西氏の支配地域で秀吉の奥州仕置きで葛西氏改易没落し城主の安蘇氏もこの城を立ち去り、仙台伊達家の北の守り要害の一つとして伊達氏一族沼辺氏が1000石で拝領10代続いて明治を迎える。
撮影中一眼レフカメラが動かなく成り、予備のコンパクトカメラも電池量不足、雨を被った影響かな?結局思うように撮れず残った写真で投稿します。
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2020/11/09 20:20
2020/11/09 19:45
麻生城(羽黒城) [茨城県行方市麻生989] (2015/12/06 訪問)
霞ヶ浦東部沿いを走る国道355線からちょっと入った羽黒山公園内に麻生城があります。
(公園名から羽黒城とも呼ばれるらしいですが、現地解説が麻生城と書いてあったのでこちらで通します)
公園化で削られた為なのかは定かではありませんが、残念ながらお城の遺構が普通に見られるのは公園内のごく一部だけでした。
(もしかしたら多くあった平坦部は帯曲輪や腰曲輪等だった可能性高いですが、そこは定かでは無く・・・)
空堀の奥が竹林になっていて、その奥にも遺構ありそうな雰囲気ではありました・・・が、あれに突っ込めるのはお城好きの方には有名な藪レンジャー様達くらいしか無理なのでは(汗)
公共交通機関では訪問困難な場所ですが、公園の中程に無料駐車場があるので、車で来れれば周辺にもお城が沢山あるので。。。
少ないながらも遺構はしっかりしたものが見られるので、周辺のお城と合わせての訪問推奨です。
すぐ近くには剣聖と呼ばれた塚原卜伝のお墓(とお城(塚原城):お城を示すものが無く、城域も藪の中だったので正直このお城はオススメ出来ずorz)があるので、こちらも欠かさず立ち寄りましょう。
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2020/11/09 18:29
高木古墳の大塚城 (2020/10/25 訪問)
【高木大塚城】
<駐車場他>駐車場はなし。しかし城跡横にちょこっと駐めれます。
<交通手段>車
<感想>三木城攻めの附城の一つ。織田信忠軍が築いたと現地説明板にあるが、織田信忠が築いた城は他にあるのだろうか?初めて見た。城跡は古墳を利用した櫓台を中心に十字状に土塁をめぐらしている。残されている遺構は主郭とこの廻らされた土塁のみで周辺は公団住宅が建ち並んではいるが、土塁は明瞭に残されており見応えがある。これまでに見た陣城とはちょっと違った雰囲気の土塁囲み。
<満足度>◆◆◇
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2020/11/09 17:53
後三年の役の舞台、歴史の重みを感じます (2020/10/26 訪問)
大鳥井柵を終えて北方向約5km程の金沢柵、後三年合戦金沢資料館を目指す、先に資料館に寄り資料の閲覧と資料入手、20分のビデオを視聴する源義家、清原清衡後の藤原清衡が甦ってきました、小学生時代、叔父、兄が使ってた戦前の絵本日本の歴史の前九年後三年の役の場面が今でも脳裏に残って居り大変懐かしく幼い頃を思い出しました、よく武者絵八幡太郎義家を描いたものです。
訪問時私一人でしたので親切に資料入手、説明、解説頂きました、金沢柵へ車での登り道を教えて頂き、すぐ東の山が金沢柵の推定地、まだまだ発掘調査進行中の様です。
車は舗装された林道を登り本丸、二の丸中間地の下に林道を広くして駐車エリアとトイレ完備を利用。
探訪は納豆発祥の碑の横の階段を登り案内指示板完備されており、他に人は居なく私一人熊ベル鳴らし本丸へ、兵糧倉経由本丸へ、戻って北の丸、北の丸の東の崖、北東の曲輪群、北の丸と二の丸の堀切、二の丸に登る、二の丸は上段に金沢八幡神社が神座、下段が境内、曲輪、駐車エリアに戻り南西方向に西の丸ここは覗き込むだけ、各曲輪とも城塁が高く切岸の様で、狭い所は堀切と大木の杉林の中に静まり返ってる。
配布資料に寄れが後三年の役の時代、中世城館時代の南部氏、小野寺氏の改修など歴史が重層して遺物が埋まってるとの事。
また義家の弟義光の子孫佐竹氏が秋田移封され祖先八幡太郎義家、新羅三郎義光の奮闘の地、大木杉林に囲まれた深窓の地金沢柵の金沢八幡神社を庇護し保全管理され長い歴史の因縁を感じられます。
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2020/11/09 13:03
本格的な石垣城郭のはしり (2020/11/08 訪問)
安土駅から徒歩30分くらい。桑実寺から登城。本丸まで1番近そうだからという理由でこのルートを選んでしまったが中々ハード。まず桑実寺まで500段の石段をひたすら登ることになり、そこからさらに険しい山道を登る。足元が悪い上に所々倒木が道を塞ぐ。でも八丁目あたりから石垣が見えてきて気分が上がってくる。本丸は鬱蒼とした森の中に古びた石垣が見えて神秘的。排水設備など実用的な遺構も見える。少し降りたところにある平井丸の石垣は巨石がふんだんに使われていて家内での影響力の大きさが分かる。さらに下ると斜面に大石垣が見えてくる。開けた場所にそびえる石垣は圧巻。観音寺城は石垣を本格的に用いた初期の城で地形も合わさり防御力は申し分ない。にも関わらず六角氏は攻められるとあっさり観音寺城を放棄しゲリラ戦に持ち込むことが多いように感じるが、気のせいだろうか。とにもかくにも五大山城の名に相応しい名城で楽しいです。
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2020/11/09 12:54
2020/11/09 12:49
「元寇防塁」 (2020/03/27 訪問)
<オススメ>★★★★★
元寇防塁は、鎌倉幕府が蒙古襲来に備え博多湾に築いた約20kmの石塁である。幕府は九州御家人に命じて国ごとに区域を定め、武家領や本所一円地を問わずに田1反あたり1寸の割合で石築地役が賦課された。弘安の役までには一部が完成しており、元軍は博多への上陸を断念して、志賀島に船団を停泊させたという。石塁は海側に石を積み上げ、陸側は版築と呼ばれる工法で土と砂を突き固めて構築されている。高さ・幅は平均して約2mあり、築造を担当した国により、構造に違いがある。弘安の役の後も元による再襲来に備えて異国警護体制は継続され、工事や破損箇所の修復が負荷された。異国警護体制は鎌倉幕府滅亡の前年にあたる1332年まで行われている。戦国期に入ると、福岡城を築く際に石材が転用され、石塁の多くが失われた。現在、国指定史跡として石塁が遺されている。
<アクセス>
JR下山門駅 徒歩15分
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2020/11/09 12:47
耶馬溪三大山城の1つ (2020/11/01 訪問)
はくまいと書いてまつたけと呼ぶも、幟には地域の名前、平田となっていて、官兵衛時代の石垣遺構が有ります
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2020/11/09 12:35
2020/11/09 12:34
「名島城」 (2020/03/27 訪問)
<オススメ>★★☆☆☆
名島城は立花城主の立花鑑載が築城したとされる。立花鑑載は大友宗家に背いて吉弘鑑理らに攻められ追放されたがのちに許された。しかし、高橋鑑種に応じて毛利氏と結んで再度謀叛を起こす。戸次鑑連に攻められ立花城から逃亡するが殺害された。その後、九州征伐後に豊臣秀吉が名島城を九州の押さえとするべく、小早川隆景を入れ大改修したとされる。現在、曲輪、土塁、天守台、門3棟(福岡城、崇福寺、宗生寺に移築)、石垣等が遺されている。
<アクセス>
西鉄貝塚線 名島駅 徒歩15分
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2020/11/09 12:24
「須崎台場跡」 (2020/03/27 訪問)
<オススメ>★★☆☆☆
須崎台場は福岡藩が幕末に黒船の来襲に備えるために築かれた砲台跡である。12貫目砲など15門の大砲が備え付けられたとされる。現在、台場周辺は埋め立てられ、わずかに石垣が遺されている。
<アクセス>
福岡市地下鉄空港線 天神駅 徒歩10分
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2020/11/09 12:17
「令和ゆかりの地 大宰府政庁跡」 (2020/03/27 訪問)
<オススメ>★★★★★
7世紀後半から九州全体を治め、防衛と外交の拠点として重要な役割を担った大宰府政庁跡である。その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなものであり、南北22条、東西24坊の都市があったとされる。万葉集には「遠の朝廷」と詠まれ、その規模をしのばせる立派な礎石が残り、往時を偲べる。また、我が国の新元号である「令和」は万葉集巻五 梅花の歌三十二首序文にある『初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす』の文言を引用したものである。現在は、国特別史跡として整備されている。周辺には、水城・基肄城・鞠智城(続日本100名城)・大野城(日本100名城)など関連する史跡が多く、併せて散策することをオススメする。
<アクセス>
西鉄都府楼前 徒歩20分
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2020/11/09 11:53
「鹿島城」 (2020/03/27 訪問)
<オススメ>★★★★★
佐賀藩の支藩である鹿島藩9代・直彝以降の居城とされる。初代からの居城であった「常広城」は古城と呼ばれ、「鹿島城」は新城と呼ばれた。幕末まで佐賀藩と行動し、廃藩置県後に廃城となる。1874年の佐賀の乱で、鹿島城の主要な建物は焼失したが、大手門(県重文)や石垣、武家屋敷が遺されている。現在、城跡地は佐賀県立鹿島高校や旭ヶ岡公園になっているため、見学の際は注意が必要である。
<アクセス>
JR肥前鹿島駅 徒歩20分
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2020/11/09 11:51
「常広城」 (2020/03/27 訪問)
<オススメ>★☆☆☆☆
常広城は、鍋島信房(鍋島直茂の兄)が鹿島地方を治めるために築城したとされる。鍋島信房は鍋島清房の庶子で父と共に龍造寺氏に仕える。1576年、龍造寺隆信の藤津郡横沢城攻めに参陣する。龍造寺隆信の命により常広城を築城する。肥前の覇権が龍造寺氏から鍋島氏に移り、鹿島は佐賀藩の支藩として鍋島忠茂が治めることになる。初代忠茂から9代直彝まで鹿島藩の居城となった。常広城は度々、水害を受けることが多く、幕府と佐賀藩に移転を願い出て、鹿島城へと移る。その後、廃城となったとされる。現在、遺構は消滅している。
<アクセス>
JR肥前鹿島駅 徒歩10分
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2020/11/09 11:49
「玖島城」 (2020/03/27 訪問)
<オススメ>★★★★★
キリシタン大名・大村喜前が築城した。大村喜前は大村純忠の子である。大村純忠は我が国初のキリシタン大名であり、長崎をポルトガルとの貿易港として整備し、1582年には少年使節をローマに派遣するなどした。大村喜前は父より家督を相続し、文禄・慶長の役では1000名を率いて朝鮮に出陣する、1598年に、玖島城を築城し、領内検地、新田開発などを実施する。関ヶ原の戦いでは東軍につき、本領安堵される。幕末まで270年間大村藩の藩庁として機能した。現在、曲輪、石垣、横堀(空堀・水堀)が遺されている。
<アクセス>
JR大村駅 徒歩25分
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2020/11/09 11:47
「水ヶ江城」 (2020/03/27 訪問)
<オススメ>★★☆☆☆
水ヶ江城は1469年頃に龍造寺康家によって築城された。築城時は方形館であったが龍造寺家兼により大改修された。肥前の熊・龍造寺隆信の生誕地とされ、隆信が当主となると、弟の龍造寺長信が城代となる。その後、鍋島氏が佐賀城を築城したため廃城となる。現在、遺構は消滅している。
<アクセス>
JR佐賀駅 徒歩30分
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