<オススメ>★☆☆☆☆
朝日山城は、少弐盛経の子で朝日氏の祖となる朝日但馬守資法が築き、200年ほど朝日氏の居城となった。その後、大内氏の傘下に入り、筑紫氏が支配する。1586年に、筑紫広門が島津家久に敗れ、廃城となる。佐賀の乱などでは戦いの舞台にもなっている。現在、土塁等が遺されている。
<アクセス>
JR新鳥栖駅 徒歩15分
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2020/11/09 11:46
「朝日山城」 (2020/03/27 訪問)
<オススメ>★☆☆☆☆
朝日山城は、少弐盛経の子で朝日氏の祖となる朝日但馬守資法が築き、200年ほど朝日氏の居城となった。その後、大内氏の傘下に入り、筑紫氏が支配する。1586年に、筑紫広門が島津家久に敗れ、廃城となる。佐賀の乱などでは戦いの舞台にもなっている。現在、土塁等が遺されている。
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JR新鳥栖駅 徒歩15分
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2020/11/09 11:37
2020/11/09 11:19
後三年の役舞台、巡した二重横堀が凄い (2020/10/26 訪問)
横手市の吉田城を早朝に終えて北東に約5、6km程の大鳥井柵を目指す、情報、ガイドは何時もの城郭放浪記さん余湖図コレクションさん、大鳥神社側の東に駐車場が有りナビを合わせ到着、大型駐車場でトイレ完備、大鳥公園、運動場に成ってる。
今回探訪したのは公園南側に杉林の中に残ってる遺跡群、トイレ横に案内指示図が有り横堀、土塁ルートから登り、横堀の長さに驚き、堀、土塁を見ながら大鳥神社やの方向に登って行く、大鳥神社境内、曲輪?から南の横手川を見下ろすと断崖に成ってる、南側は木々が茂って居り神社の尾根筋から見下ろすだけ。
運動公園の東側にも二重掘りが巡らされてる様子なので訪ねるが発掘後埋め戻されてる様子ですが運動公園と東住宅街の間に低地が在りここも堀跡か?良く分かりませんでした、運動公園西側には土塁の様な山手が連なって居り、北側は一段高く成ってる。
神社の有る所が高所に成り主郭と成るのか?、横手城天守が遠望出来ます。兎に角二重の堀土塁が素晴らしい。
歴史的には源氏安倍氏清原氏の前九年後三年役の合戦が有名ですが、ここは次に訪ねる金沢柵と合わせ後三年の役の舞台と成り源義家、清原氏の活躍、清原氏の奥六郡支配の基をつくり、母の再婚で清原清衡は後に奥州三代栄華を極めた藤原清衡となる。
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2020/11/09 08:29
小栗栖城(京都市伏見区小栗栖小坂町) (2020/10/24 訪問)
小栗栖城は飯田氏代々の城で、鎌倉末期に足利尊氏に従って上洛した飯田家秀が築き、土着したもののようです。その後、飯田氏は室町中期まで小栗栖八幡宮の神主を務め、由緒書(写真を撮り忘れました…)によれば、境内にはかつて飯田氏の屋敷があり、現在も石垣が残っているとのこと。ただ、境内の石垣はあまり古くからのもののようにも見えませんが…。
さて、小栗栖と言えば明智光秀終焉の地として知られるところ、小栗栖八幡宮から北東に徒歩3分ほど行くと、山崎の戦いに敗れた光秀が坂本城に落ち延びる途中に落ち武者狩りに遭ったとされる明智薮があり、その少し手前には石碑や説明板が建てられています。一般的には光秀は土民に討たれたとされますが、この地では小栗栖城の飯田一党に討たれたと伝わっているようです。明智薮は現在 西隣の本経寺の寺領となっており、本経寺の境内には光秀の供養塔が建てられています。
さらに、明智薮から北東に約1.2km行った道路沿いには明智光秀胴塚の石碑と説明板があります。明智薮で負傷しながらも何とか逃れてきたが、坂本城まではたどり着けないと悟ってこの地で自刃した、といったところでしょうか。
ところで、小栗栖城について記載された書籍はほとんどなく、ネット情報では(Googleマップでも)小栗栖八幡宮=小栗栖城と紹介されているところも多くあり、また小栗栖八幡宮の由緒書にもそうとも読める記述があるため、そのつもりで訪れたのですが、帰宅してから手持ちで唯一 小栗栖城の記載がある「近畿の城郭Ⅴ」巻末の城郭一覧表を見ると、所在地は「小栗栖小坂町」となっていて小栗栖八幡宮の「小栗栖宮山」と異なっているため、改めてよく調べてみると、やはり小栗栖小坂町にある城山と呼ばれる丘陵地(北麓に明智薮)が小栗栖城跡であり、主郭と副郭で構成され、横堀や土塁、切岸が確認されているようです。
…となると、投稿するなら改めて小栗栖小坂町の小栗栖城跡を訪れてからにしようか、とも思いましたが、城跡は私有地で許可なく立ち入りできないようですし、そもそもは明智薮と胴塚を訪れるのが本来の目的で、小栗栖城はそのついででしたので、わざわざ許可を取ってまで行くほどでもない(その時間があれば他の城に行きたい)との結論に達し、城ではなくても小栗栖八幡宮にも飯田氏の屋敷やその石垣はあったんだろうし、ということで、中途半端ながらこのままで投稿させていただきます。
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2020/11/09 08:28
2020/11/09 08:07
関西/東海/北陸/遠征3泊4日の旅 (2019/02/08 訪問)
足を痛め山崎城攻城を途中撤退し時間が余った為、足に負担をかけない平城の高槻城を攻城することにしました。
山崎城(JR山崎駅)から大山﨑駅(阪急京都本線)まで歩き、そこから高槻市駅に到着。高槻市駅から徒歩15分(足を痛めていた為、予想よりかかってしまいました)で高槻城に着きました。
城址は城跡公園になっており、高山右近像が建っています。また園内に高槻市立歴史民俗資料館があります。
高槻市駅と城跡公園の道すがらに高槻市立しろあと歴史館、高槻天主教会堂跡などを確認することができます。攻城時間は50分くらいでした。(しろあと歴史館と歴史民俗資料館の見学時間を含みます。)
明日は福井城へ向かう予定。痛めた足を休める為、早めにホテルへ向かいました。
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2020/11/09 07:38
関西/東海/北陸/遠征3泊4日の旅 (2019/02/08 訪問)
勝竜寺城から長岡京駅(JR京都線)まで歩き、そこから山崎駅に到着。山崎駅から山崎城に向け歩き始めましたが、足をひねり歩けなくなりました。しばらく休み、足引きずりながらでも歩けるようになりましたが、この状態での山城攻城はムリと判断して撤退することにしました。その為、投稿写真は山崎駅周辺のみです。攻城時間は15分くらいですが、参考になりません。(当初は80分を予定していました)
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2020/11/09 06:50
関西/東海/北陸/遠征3泊4日の旅 (2019/02/08 訪問)
淀古城から徒歩で淀駅に戻り、淀駅前の京阪淀駅バス停(阪急バス)から清水ケ口バス停(阪急バス)へバス移動。そこから勝竜寺城(勝竜寺公園)まで徒歩7~8分で着きました。
「山崎の合戦」で明知光秀がここに本陣を構えました。また、細川忠興・ガラシャ夫妻が新婚時代を過ごした城でもあります。
遺構としては近隣にある神足神社境内に空堀や土塁があるようですが、自分はそちらには行かず、勝竜寺公園内の櫓に模した管理棟や多聞櫓、庭園などを見学して撤退しました。攻城時間は30分くらいでした。
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2020/11/09 06:23
本丸未踏破 (2020/10/03 訪問)
巨海院に移築されている城門だけのチェックです。リサーチ不足で本丸に脚を伸ばさずじまいでした。巨海院総門が三の丸搦手門で、山門が大手門とのことです。
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2020/11/08 21:43
2020/11/08 21:30
石碑があるだけ (2020/11/08 訪問)
遺構は消失して、山県市役所美里会館の中に石碑があるだけですね。
まあ、消失して何もないというのはよくあるのですが、せめて説明の看板ぐらい立ててくれると訪れた甲斐があるのですが…
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2020/11/08 21:14
方形単郭城館土塁、堀が立派に残ってます (2020/10/26 訪問)
横手市のホテルをGoTo割、地域クーポン券を活用して宿泊、朝飯バイキングはコロナ対策バッチリで早々に済ませ南西の方向約6km程の吉田城を目指す、近くに在る西法寺の東側道にナビを合わせ到着、情報、ガイドは何時もの城郭放浪記さん余湖図コレクションさん、駐車場無し、西法寺さん前の邪魔に成らない若干広い路肩にぎりぎり寄せて路駐。
高土塁が目に飛び込んで来る、南の櫓台に案内解説板、土塁堀には草が若干茂ってるが土塁、堀がしっかりと確認できる、北に櫓台的土塁、神社が鎮座、北虎口が有りその北には水堀、余湖図コレクションさん俯瞰図で100m程の方形土塁で囲まれ四隅に櫓台、周囲に水堀、周囲の田圃に囲まれてるので往時は田圃が沼か湿田か?防御に大変効果が有った事でしょう。
現在南の土塁は若干削られ墓地に成ってるがハッキリ土塁跡が分かる、西の土塁は樹木が茂り良く分からないが土塁は分かる、南西角の高土塁櫓台に横矢の土塁構えが残ってる、内部は現在草原、以前は畑だったようです。
良くこの状態で残してくれたと感謝です遠くから訪ねて見学できるのですからこれからもこの状態で保全管理整備をお願いしたい。
歴史的にここも小野寺氏の城、藤原秀郷の流れ名家小野寺氏の兵どもの夢のあと惜しまれます。
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2020/11/08 19:55
独立丘陵の丘城 (2020/10/25 訪問)
湯沢城を終えて北に約5km程城びと登録未踏の城岩崎城にチョット寄りました、ナビは何時もの城郭放浪記さん余湖図コレクションさんの情報、ガイドにより3郭下の帯曲輪、八幡神社の東、駐車場に合わせ走行、直前の村中の道が狭く若干迷いましたが無事同駐車場に到着。
夕暮れ前少し暗く成って来ましたが余湖図コレクションさんの俯瞰図で城域を探訪、3郭、玉子井戸、1郭下帯曲輪から1郭へ藤棚が有る、2郭に降り2郭北の櫓台に神社が鎮座、2郭虎口から3郭へ、薄暗い中での早足探訪、八幡神社の岩崎陣屋の移築唐破風を探訪忘れました。
千年公園として保存整備され大切に管理されています草も刈られ大変探訪しやすい。
歴史的には小野寺氏一族で雄勝郡支配の支城として約300年以上の領地経営していましたが最上氏の抗争で小野寺一族と共に滅亡へ。
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2020/11/08 19:05
2020/11/08 18:39
海に突き出た古風なお城 (2020/11/08 訪問)
三河湾北部、google mapで見ると西浦半島が象の鼻なら、形原城は目の位置だ。海に突き出るように東古城はあった。平山城と言ってよいと思う。北古城箇所から登城するが、残念ながら住宅地化されている。しかしながら、地形や地名から台地から海へ突き出た舌状段丘全体が城だった事が想像出来る。東古城の縄張りは、山頂を主郭とすると、海に向かってニの郭があるだけの古風なお城だ。
歩いてすぐの所に形原大橋がかかっている。
遠景からも城を楽しめる。
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2020/11/08 16:45
浅井三代の巨大な山城 (2020/11/06 訪問)
虎御前山城を下りて当初の目的地である小谷城に向かう。徒歩でさらに15分くらい。小谷山が屋敷や寺院があった清水谷を取り囲むようにそびえており、その尾根筋に曲輪が張り巡らされている。資料館前の追手口から登城。五大山城の一つと言われるだけあって登ってもなかなか曲輪に到達しない。直前に虎御前山城に登った疲れもあってかなり辛かったが最初に着く金吾丸から先は立て続けに曲輪があり飽きさせない。至る所に石垣が用いられており先進的な城だったことが分かる。本丸跡からは湖北の平野と琵琶湖が見渡せる。最後城主である浅井長政がなぜ信長を裏切ったのかはよく分からない。朝倉家との関係性を重視したとか父久政の意向とか色々理由はあるが、北近江の覇者であるというプライドもあったのではないか。本丸からの景色を見ているとそんな気もしてくる。山頂にある大獄まで行った時点で力尽き福寿丸と山崎丸は諦め六坊から清水谷に下山。すべて回るには相当な体力が必要ですが疲労を上回る経験ができるお城です。また来たい。
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2020/11/08 16:27
車で本丸近く熊ベル鳴しドキドキの本丸探訪 (2020/10/25 訪問)
稲庭城を終えて北西方向約12、3km程の湯沢城を目指す、情報、ガイドは何時もの城郭放浪記さん余湖図コレクションさんにより車で行ける本丸近くへ通ずる湯沢高校北の通りに合わせる、県道277号線の湯沢高校北の辺りに湯沢城の標柱在り、さらに進んで山に入る辺りに湯沢城への標柱、そこより舗装林道を1,5km弱に案内看板、林道を幅広くした駐車エリア5、6台は可能。
杉林と陽が傾き薄暗くなり熊注意も不安に成りながら5分から10分ベルを鳴らしながら整備された遊歩道、尾根道を進むと馬場跡と土塁、更に進み本丸手前に櫓台の様な社土壇切岸の様、直ぐに本丸わりと小さい、その先北に馬屋、池、各曲輪群と北端に二の丸が有る様ですが本丸で引き揚げドキドキの20分弱でした、下城して中央公園側に別登城路が有り登城口に佐竹南家の城門が移築されてるとの情報で中央公園駐車場に停めて招魂社の階段を上がり移築城門発見、これで湯沢城終了です。
歴史的には雄勝郡を領有してた小野寺氏の城郭ですが最上氏との抗争で湯沢城は落城、関ヶ原では最上氏との確執で上杉方と成った関ヶ原の結果小野寺氏は改易された、秋田に佐竹氏が入封し湯沢には佐竹南家を置いた一国一城令により廃城。
湯沢市は現在菅総理誕生で整備された市街地に菅総理の誕生を祝う幟旗が連なって立てられています、まだまだ新総理誕生の興奮が充満してました、綺麗な市街地です。
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2020/11/08 16:04
攻め手の臨場感が味わえる城 (2020/11/06 訪問)
河毛駅から徒歩15分くらい。小谷城に向かう途上に登城口があったので軽い気持ちで登る。北側の登城口だったのだが登り始めてしばらく急峻な道が続き安易に立ち寄ったことを後悔しかける。登り切るとなだらかな尾根が続き織田家の名だたる名称の陣跡が見られる。所詮臨時の陣跡と思っていたのだが、至る所に堀切や竪堀があり、陣を張った曲輪には虎口も見られる。目の前は敵の居城である小谷城であり、陣城とはいえ敵襲に備えた堅固な造りになっていたようだ。城攻めの攻め手側の臨場感が味わえるお城です。
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2020/11/08 15:32
中世城郭から近世城郭へ~石垣 (2020/11/07 訪問)
現在は郷土博物館となってますが、展示しているものが少なくて…。
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2020/11/08 15:02
模擬天守の建つ山城 (2020/10/25 訪問)
鮭延城登城断念の後、雨の中国道13号線を北上、山形秋田県境も紅葉で素晴らしい景観です、秋田県に入り雄勝辺りの「道の駅おかち小町の郷」辺りから東方向の山道をうどんで有名な稲庭を目指す、近づくと山の上に天守が紅葉の中に聳えてる、ナビは城郭放浪記さんガイドのスロープカー乗車駐車場に合わせピッタリ到着。
こんな山奥空いてるだろうと思いきや駐車場満杯端の1台空いてる所をゲット、大勢の人で賑わっていました、スロープカー乗車付き稲庭城入館券を430円で購入し初登城。
スロープカーで登り着いた所が二の丸、二の丸に模擬天守が建ってる、天守に登り展示資料を見学、本丸は南東に比高50m程とか遊歩道在り、少し陽が陰りはじめ管理人さんは熊出没も有り奨めない、近場の天守奥の見張り砦、三重堀切、本丸登城口を見て終了。
歴史的には藤原秀郷の流れ小野寺氏の城、奥州合戦の功で出羽雄勝郡の地頭職、稲庭を拠点に一族配し勢力を拡げる、文禄5年(1596年)最上氏に攻められ落城。
土の城山の城で土塁に堀、曲輪、石積ばかりですがたまに模擬天守で見るとなんか落ち着きます、平成に入って稲庭城の模擬天守閣を知りましたが中々地理的に高速道路事情などで寄れませんでしたが認知して数十年振りに寄る事が出来ました。
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