はなぐらじょう

花倉城

静岡県藤枝市

別名 : 葉梨城
旧国名 : 駿河

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本曲輪
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しんちゃん

今川義元の庶兄、玄広恵探が籠った城 (2021/02/27 訪問)

花倉城は今川家の家督争いの際、栴岳承芳(今川義元)と戦い敗れた
庶兄、玄広恵探(今川良真)が籠った城です。
義元の兄が籠ったにしては、いささか小ぶりな城で
堀切や竪堀などの遺構はありますが肝心の曲輪はそれほど
大きくありません。
二の曲輪、本曲輪と見た後は尾根上に続く帯曲輪ぐらいしか確認して
おらず、北の尾根先に残る遺構は確認して無かったと思います。

恵探側についたのは母方の福島氏だけとみられ、最初から
分の悪い争いだったのでしょう。
織田信長や上杉謙信、伊達正宗など有名な武将は皆、親や兄弟と
争い歴史の表舞台に出てきます。
武力を以て己が目的を達成するのが武士の本懐であれば、親族や
主従の間で争いが絶えないのは必然なのかもしれません。

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小城小次郎

駿河今川氏の歴史的転換点 (2021/11/06 訪問)

栴岳承芳が玄広恵探と今川氏の家督を巡って争った花倉の乱の舞台で、花倉は駿河今川氏の初期拠点でもあった。玄広恵探は最後の砦であった花倉城を陥れられて敗北するが、乱に勝利した栴岳承芳こそが後の今川義元その人である。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:花倉城 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の5城目は花倉城です。
諏訪原城から転戦。県道215号線から左側へ(34.915829、138.242582)入り、この付近(34.913383.138.229655)から右折、登城口付近(34.9148966、138.2256611)に駐車しました。

1352~56年(文和年間の間)頃に今川範氏によって築かれた城で、範氏から今川泰範、今川範政と三代にわたる今川氏の居城でした。
今川範国は足利尊氏に従って戦功を挙げ、1336年(延元元年)に遠江守護、次いで駿河守護となりました。
しかし、駿河では南朝方の狩野貞長が安倍城に拠り、北朝方に激しく抵抗していました。
今川範氏が家督を継いだのは1353年(文和2年)で、この頃に花倉城が築かれたと思われます。
1404年(応永11年)今川範政が本拠を駿府へ移しました。
1394~1428年(応永年間の間)頃、今川氏に抵抗していた狩野氏が降伏し、これを機に4代目の駿河守護・今川範政は、駿府に館を築いて移りました。
1536年(天文5年)に当主今川氏輝の急死により勃発した、「花倉の乱」では今川氏の重臣である福島氏が、花倉遍照寺の僧で栴岳承芳(後の今川義元)の異母兄である玄広恵探を擁立して、この城を拠点に抵抗しましたが、栴岳承芳派の総攻撃によって同年に落城。玄広恵探は敗走の後自害し、乱の終結を決定付けました。
この戦い以後、花倉城が史料に登場しないため、この時に廃城になったとみられます。尚、後北条氏で勇名を馳せた北条綱成は、この福島氏の出身のようです。

高速は通行止め。迂回した国道1号は大渋滞。予定移動時間を35分もオーバして到着しました。
たくさん写真を撮りましたが、強雨の為、ピンぼけとほとんどの写真に大きな雨粒が写り込んでしまい投稿できません。(ピンぼけな物もありますが、ご容赦願います)
攻城時間は35分くらいでした。

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花倉の乱 (2020/12/10 訪問)

 本曲輪および二の曲輪を中心に東西南北に細い曲輪などが展開している縄張りとなっています。東から登城になりますが、すぐに土橋があり、そこを過ぎると上り坂となります。本曲輪近郊には堀切や竪堀があり楽しく散策できます。北側は土橋のように細い尾根ですが、先には曲輪と思われる跡があります。堀切もあったようですが、そこまで行っていないかもしれません。南側は比較的広い曲輪があり下りて行くと右手に堀切を認めます。西側は階段状に曲輪が展開しています。下山後、縄張り図を見ると井戸跡があったようですが確認できていません。よく手入れされていて標識もあり比較的歩きやすい城址です。
登城口までは舗装された農道があり車でも行けますが、もよりのバス停から歩くと登城口まで1時間近くかかると思います。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 今川範氏
築城年 文和年間(1352〜1356)
主な城主 今川氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 市史跡(花倉城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 静岡県藤枝市花倉
問い合わせ先 藤枝市市民文化部文化財課
問い合わせ先電話番号 054-645-1100