どちらが楽なんでしょうか?
石垣あり、曲輪あり、堀切あり。と見ごたえのある山城です。
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2021/01/11 16:17
南側からの登城と北側からの登城 (2021/01/10 訪問)
どちらが楽なんでしょうか?
石垣あり、曲輪あり、堀切あり。と見ごたえのある山城です。
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2021/01/11 16:08
麓の龍野城、山頂の龍野古城 (2021/01/10 訪問)
元々、鷄籠山にあったのが龍野古城。
本丸に僅かに石垣が残るほか曲輪が残る。
山頂の城が廃城となり、江戸時代に麓に建てたのが龍野城。
本丸御殿・埋門・多聞櫓が復元。模擬隅櫓が建つ。
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2021/01/11 15:36
所用にかこつけた城巡り 11城目 (2020/11/21 訪問)
登城口にある案内説明を読んでいると、軽トラに乗ってきた人物が声をかけてきた。
「お城に来ていただいたのですか? 有難うございます」 と いきなりお礼を言われ面食らったが、
伺えば一宮城保存会の会長をされている方で、整備のために来られたそうです。
草刈りはもちろん登山者に安全に快適に登って頂きたいために登城路をコンクリートブロックで
階段状に設置しておられるそうだ。
ただし本丸より先は昔の遍路道でもあるので、あえて過度な整備を行っていないそうである。
また登城者の意見や感想を書いて頂きたく案内板の横にノートを置いているのだが、近ごろは
日付と登城者の名前しか書いて頂けなくて残念だ、と仰っていらした。
登城者の意見や感想が、保存会の皆様のモチベーションアップに繋がっているのだろう。
さて登城を始めてみると、あるある。
10Kg ほどもあるのではないかと思われるコンクリートブロックが、延々と続いている。
一つ一つ運び上げるだけでも、その労力たるや。 ただただ感謝あるのみ。
途中には湧水もあり、おそらくこのような場所があちこちにあるのだろう。
才蔵丸と明神丸を隔てた堀切は竪堀となって南側に落ち込んでいる。
才蔵丸へ登る虎口にもコンクリートブロックの階段が。 こんな山の上まで。 再び感謝。
門跡を抜け180度転回し階段を上がった明神丸からの眺望は、徳島市街はおろか淡路島まで
見渡すことができた。 (かすかに見えた山々が、多分そうだと思う)
本丸はとても荒々しく風雪に耐えた感の、趣きある石垣だった。 (雪は降らない土地だったな)
この虎口にはどんな門が似合うか、想像するのは楽しい。
石垣を一周してみると、北側など特に歩ける幅も狭くギリギリに石垣が立ち上がっている。
小倉丸へ向かう途中には城内最大の堀切もあり、こちら側の防御を重視しているようだ。
途中には石を重ね敷いた箇所がある。 土橋ならぬ、石橋というべきものなのか?
土だと流れ崩れるので、それを防ぐためのものか? 後世の物かもしれない。 わからない。
小倉丸へ行ってみて驚いた。 かなり高い土塁が残っている。 馬踏も広い。
さらに外側の横堀も深く、土塁までの高さは、かなりの物だ。
一宮城は天正年間に阿波に入った蜂須賀家正が阿波支配の拠点として大改修したそうだが、
長宗我部を意識した西側からの防御を念頭に置いた大改修だったのだろう。
小倉丸、椎丸、水の手丸、蔭滝の鎖場を通って、一宮神社裏手に戻ってきた。
保存会会長さんは、あえて整備をしていない、と仰っていたがヤブと化しているわけでもなく
さほど歩きにくいわけでもなかった。 ただし足元の装備だけはしっかりした物が望ましい。
案内板横のノートには、感謝の言葉と感想を書いて帰りました。
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2021/01/11 14:19
2つの山城と1つの平山城 (2021/01/10 訪問)
天神山城を一言で表すとこうなる。
天神山城と太鼓丸城の間はアップダウンが激しく下って登るので比高は約100m。
天瀬ルートにある侍屋敷跡から天神山城へもかなり登るようになる。
全部を堪能しようと思えばかなりの時間を要する。
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2021/01/11 14:09
城郭というより山岳寺院跡なのだが (2020/11/21 訪問)
国史跡・福山城は広島県だけでなく岡山県にもある。足利直義率いる数万の囲みを100騎で突破した大井田氏経とその配下はどんな超人集団だったのやら。遺構は城郭より山岳寺院の色が濃いがそれこそが南北朝の城郭である証なのかも。
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2021/01/11 13:40
有事の際のために残された未完の城 (2013/12/22 訪問)
織田信長の弟である織田長益(有楽斎)が造った城。
もっとも、完成する前に長益の所領が摂津に移ったため、未完の城のまま廃城となりました。
500年以上前に廃城されたため、とっくに荒れ果ててしまうところですが、江戸時代、尾張藩家臣でこの地を領した山澄淡路守は城跡の保存に努めました。
平和な時代となり、新たな築城は御法度となりましたが、万一の有事の際には、再び城として利用しようと考えていたようです。
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2021/01/11 12:54
「安城古城」 (2020/03/28 訪問)
<オススメ>★☆☆☆☆
安城古城は、鎌倉時代に地頭であった安藤氏が居館を築いたとされる。室町時代には、足利幕府の奉公衆であった畠山宗元が代官を命じられ下向する。その後、和田氏を名乗り、和田氏五代の本拠となった。永享の乱の後、新たに安祥城を築城したため廃城となった。現在、遺構は消滅している。
<アクセス>
名古屋鉄道西尾線 南安城駅 徒歩15分
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2021/01/11 12:44
「二連木城」 (2020/03/28 訪問)
<オススメ>★★☆☆☆
二連木城は、今橋城を拠点としていた牧野氏を牽制すべく戸田氏中興の祖である戸田宗光が築城したとされる。戸田宗光の子・重貞は今川氏から離反し、徳川家康につく。1590年、徳川家康の関東移封に伴い、二連木城には池田輝政が入る。池田輝政は吉田城を拠点としたため、二連木城は廃城となったとされる。現在、土塁等が遺されている。
<アクセス>
豊橋鉄道市内線 東田電停 徒歩15分
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2021/01/11 11:25
北国防備の北国はどこ? (2020/12/26 訪問)
山梨県の「浄古寺城」、本丸と二の丸の間をうろうろしてきました。
葡萄と桃の畑が続く、丘の中腹に八幡神社がありました。
山梨県は葡萄のイメージでしたが、桃も収穫量は日本一なんだそうです。ですので、私が『葡萄畑だ~。』
と思っていた場所は桃の畑もあったようです。
八幡神社に車を駐車しました。
と言っても、地元の方が車を駐車していたので入らせていただきましたが、なかったら躊躇する入口でした。
八幡神社に「浄古寺城」の今と昔 周辺図板がありました。
説明では1548年、武田 信玄さんの時代に北国防備のため、大村氏に築城を命じたとありました。
北国?山梨県から北国って?と思い『お城の探す』で北方面を見ると、埼玉県秩父市。信玄さんが恐れる敵がいたのでしょうか?
皆さんの写真に「浄古寺城」の石碑があったので、目指しましたが果樹園の細い道は私道のようで、入りづらい。
少し登って、すぐ退陣しました。
途中、遺構らしい場所があったのですが、遺構か畑のための地形かは、私には分かりません。
帰って来て1548年の武田 信玄さんを調べると、北信濃の村上 義清さんと戦ってます。
村上 義清さん、この何年か後、越後に落ち延びます。
上杉氏VS武田氏=川中島の戦い。
義清さんは原因の1つを作った方です。
北国は北信濃なのかな?
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2021/01/11 11:15
武田勝頼ゆかりの城 (2013/10/06 訪問)
武節城があった愛知県豊田市武節町は、長野県・岐阜県との県境です。
したがって、ここは信濃・美濃の侵攻を防ぐ三河の国境の城だったわけです。
国道153号にある「道の駅 どんぐりの里」北にトンネルがあります。
このトンネルの上に武節城はあります。
山城ではなく、小高い丘に建てられた平山城ですので、5分ほど坂を登れば到着します。それでも、息は切れ切れですが・・・
武節城は3つの曲輪が階段状に作られています。
一番低いところにある三の丸
一段高いところに二の丸があります。
さらに、その上にある本丸
1571(元亀2)年、信長包囲網に呼応した武田信玄は2万5千の大軍を率いて三河侵攻を開始しました。
この際、武節城はなんと戦わずして武田の軍門に下ってしまいました。
しかし、この後信玄は体調を崩したため、退くこととなりあげくのはてに病死してしまいます。
1575(天正3)年、信玄の息子勝頼は三河に侵攻し、徳川・織田連合軍と激突することとなります。長篠の戦いですね。
敗れた勝頼は田峯城主菅沼定忠に伴われ撤退しますが、すでに田峯城では謀反が起こっており入城できず、命からがら武節城にたどり着き、梅酢を飲んで一息ついたとの言い伝えがあります。
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2021/01/11 09:58
佐伯城 (2020/11/28 訪問)
【続百名城46城目】
<駐車場他>佐伯市歴史資料館駐車場
<交通手段>レンタカー
<見所>天守台・石垣・虎口・三の丸櫓門・櫓台
<感想>2泊3日豊後国百・続百名城攻城の旅6城目。朝一行った大分府内城が時短になったので急遽入れ込んで訪城しました。三の丸は歴史資料館駐車場から櫓門が見えているのですぐわかります。三の丸跡は廃文化会館と公園になっているが、階段状に石垣遺構が残る。山頂の本丸を中心に北に北の丸、南西側に二の丸・西の丸を配し、連郭を総石垣で囲んでいる。天守曲輪はほぼ正方形の高石垣で特に見応えがある。二の丸西面の出隅石垣は算木積み未完成の石垣だが3m程あり味がある。各曲輪にある虎口や石敷の櫓台遺構も見応えある。本丸外曲輪北側石垣は三段の高石垣で段の平面部分も石垣で埋めて緩やかな曲線のある全面石垣となっている。圧巻で一番印象に残りました。眺望の佐伯港もまた良し。夕暮れで雄池・雌池の水の手遺構は行けずだったが、再訪したい続百名城マイベストに入る城跡でした。
<満足度>★★★
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2021/01/11 09:28
小学校の後背 (2020/12/29 訪問)
伊佐市立大口小学校の後背に所在する城です。グランドの東側に登城口があります。年末休業中の学校で誰もおらず登城の許可を得ることはできませんでした。申し訳ないと思いつつ、可能な限り学校の外を回りグランド東辺に立ち入らせていただいて登城させていただきました。外から見ただけでは想像がつかない大規模な空堀が巡っていました。展望所が本丸のようで眺望が開けていました。
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2021/01/11 09:27
小倉城 (2013/08/13 訪問)
現在の小倉城は、関ヶ原以降、入領した細川忠興(三斎)によって築城されました。
天守閣は層塔型四層の外観ですが、最上層の五階部分が同層の四階部分よりも突出してます。
南蛮造りと呼ばれるものでめずらしい様式です。
石垣は軟弱な地盤の関係でゆるやかな野面積の直線勾配となっています。
加工した切り石を使わずに自然石のみを集めて築いたというところに細川氏の自負があるといわれています。
1866(慶応2)年の第二次長州征伐では小倉城に熊本、久留米、柳川などの九州諸藩の軍勢が集結、長州進攻の準備につきました。
ところが長州側は先手を打って高杉晋作率いる奇兵隊をはじめとする軍を小倉攻略に向けてきました。
戦闘は熊本藩兵の善戦で一進一退を繰り返しましたが、幕軍指揮官(老中)の脱出を境に諸藩の軍勢も小倉は去ってしまいました。
孤軍となってしまった小倉藩は、城に火を放って退去してしまいました。
幕府のご威光を借りながら、農民・町民混成部隊に負け、城を奪われるという失態は日本史の大きな転換点だと私は思います。
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2021/01/11 07:51
笠間水戸日帰り③ (2018/03/31 訪問)
「笠間水戸日帰り」の3城目(ラストです)は笠間城です。水戸城からの転戦です。
この時は続100名城スタンプを集めていなかったので押していません。
水戸城から水戸駅に戻り、JR常磐線とJR水戸線で笠間駅に着きました。笠間駅前の観光協会でレンタサイクル(電動)を借りて、笠間城を目指しました。
笠間城は2回攻城しています。
①2018/03/31は今回で一人で攻城
②2019/09/13は続100名城スタンプ押印の為
(井筒屋に行ってスタンプ押印しただけなので攻城と言えないですね)
笠間城は鎌倉時代に笠間時朝(1203~1265)が築いてから、約750年間笠間氏の居城となってきました。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に笠間綱家が北条氏についたため、滅亡させられました。
その後、宇都宮氏が支配しましたが、のちに蒲生郷成が入城し、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い後には松井松平家が入りました。
松井松平氏以降も小笠原、戸田松平、永井、浅野、井上、本庄、井上、などの諸氏が入れ替わり城主をつとめ、1747年(延享4年)から廃藩までは、牧野氏代々の居城となりました。
笠間城は関東地方では珍しい本格的な石垣がある城で、石垣以外にも堀などの遺構を確認できます。
建造物の遺構として、本丸八幡台上にあった八幡櫓が真浄寺に移築され現存しています。
また自分は見ていませんが、薬医門形式の城門2棟が、市内の民家に移築され現存しているそうです。
攻城ルートを写真で辿ると、笠間駅でレンタサイクルを借りる➡千人溜➡大手門跡
➡苔むした石垣を横に見る➡本丸跡城碑と説明板➡八幡台櫓碑➡本丸天守曲輪間の竪堀
➡天守曲輪に向かう石段を登る➡天守台横の石段を登る➡佐志能神社への石段を登る
➡佐志能神社(眺望)➡下城開始➡大黒石➡九ちゃんの家➡大石邸址➡八幡台櫓
➡笠間稲荷神社➡笠間駅でレンタサイクル返却➡帰路。
攻城した時は、東日本大震災により天守付近の石垣や石段にシートがかかっていましたが、今はどうでしょうか。
攻城時間は2時間15分 くらいでした。(千人溜から笠間駅まで)
レンタサイクル(電動)の領収書を今も持っていますが、1日500円でした。
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2021/01/11 07:36
笠間水戸日帰り② (2018/03/31 訪問)
「笠間水戸日帰り」の2城目は水戸城です。宍戸城からの転戦です。
100名城スタンプは「弘道館料金所窓口」で押しました。
宍戸城から宍戸駅に戻り、JR水戸線で水戸駅に着きました。水戸駅南口自転車駐車場でレンタサイクルを借りて、弘道館を目指しました。
水戸城は3回攻城しています。
①2018/03/31が今回で100名城スタンプ押印目的
②2019/09/06に妻と二人で袋田の滝見学の帰り
③2020/11/04に妻と二人で大手門見学(投稿済)
攻城ルートを写真で辿ると、水戸駅でレンタサイクルを借りる➡弘道館(スタンプ押印)見学➡三階櫓跡➡見晴台➡杉山門➡二の丸御殿跡➡薬医門➡本丸跡➡柵町坂下門➡仙波湖➡見川城を捜す➡水戸駅でレンタサイクル返却➡黄門神社で終了
水戸駅でレンタサイクルを借りたのは、仙波湖&見川城攻城が目的でしたが、見川城は見つからず(後で確認したら、全然違う場所を探してました)、タイムリミットで笠間城に向かいました。
レンタサイクルの領収書を今も持っていますが、1日500円でした。
攻城したのが桜の時期でしたので、弘道館と仙波湖の桜を堪能しました。攻城時間は見川城探索時間も含め2時間30分くらいでした。
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2021/01/11 07:24
笠間水戸日帰り① (2018/03/31 訪問)
「笠間水戸日帰り」の1城目は宍戸城です。
自宅最寄り駅よりJR宍戸駅に到着。そこから徒歩で宍戸城に着きました。(徒歩で2~3分です)
宍戸陣屋の前身の宍戸城は鎌倉時代初期に八田家政が築いたといわれています。
戦国時代には、八田義利は佐竹氏の軍門に降り、佐竹氏の持城となりました。
1602年(慶長7年)に佐竹氏と入れ替わりで秋田実季が出羽国より5万石で入り、秋田実李の居城となりました。
その後、子の秋田俊季が1645年(正保2年)に三春へ転封されると幕府直轄領となりました。
さらに1682年(天和2年)に水戸藩主・徳川頼房の七男で、徳川光圀の弟である松平頼雄が一万石を与えられると、城を陣屋に改めて支配しました。
以後、水戸徳川家の四支藩(讃岐高松・陸奥守山・常陸府中・常陸宍戸)の一つとして9代頼徳まで続きます。
幕末の1864年(元治元年)、天狗党事件の鎮撫に失敗した9代頼徳は、責任を幕府から問われ切腹し、廃藩となっています。
その後、幕府の代官支配で明治維新を迎えるが、1868年(慶応4年)に朝廷のとりなしで再度立藩することとなりました。
現在城址は市街地化のため遺構もほぼ消滅していますが、土塁が一部だけ残っており、その上に末廣稲荷神社があります。
自分はみていませんが、歴史民俗資料館には宍戸城についての展示があり、岩間町の民家には陣屋の表門が移築されているそうです。
この後、笠間城に行く予定でしたが、笠間駅行の電車まで40分待ちだったので、水戸駅行(5分待ち)に急遽変更し、水戸城に向かいました。
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2021/01/10 22:14
東側から撮影した御三階櫓 (2021/01/10 訪問)
東側の境河岸乗船場から御三階櫓と富士山のコラボは関東の富士見百景に選ばれています。反対の西側から撮影すると筑波山とのコラボでの撮影も出来ます。周囲が江戸川と利根川に挟まれている為、建物も無く非常に映えます。富士山とのコラボは日の出前後、筑波山とのコラボは日没前後がベストです。
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2021/01/10 22:08
水門には山の上からではなく下からのアクセスとなる (2020/11/21 訪問)
鬼ノ城が近くにありながらこちらにも古代山城を築いたのは鬼ノ城が備中、大廻小廻山城が備前であることにも何か関係があるのだろうか。見どころの水門石垣は山の上からではなく下からのアクセスになるのでご注意を。
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2021/01/10 21:31
鉄筋コンクリートによる復興天守 (2013/08/09 訪問)
唐津城は、豊臣秀吉の家臣、寺沢志摩守広高が、名護屋城の解体資材を用いて築城といわれています。
本丸跡地が舞鶴公園として整備されています。
石段が多いので、エレベーター(有料)が用意されています。
このエレベーター斜めに移動するのです。はじめて経験しました。
鉄筋コンクリートによる復興天守
なお、唐津城に天守台はありましたが、天守閣が存在したという記録も絵図も存在しません。
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2021/01/10 21:28
69 (2021/01/10 訪問)
キラキラ光る太平洋(駿河湾)を遠く見て、戦国の世に想いを馳せる。
沼津の長浜城を後にし、次の目的地、興国寺城址はHonda純正のカーナビでは出て来ませんでした。
長浜城より続100名城ということで期待するも、駐車場の案内すらなく、勝手に駐め放題の空き地には「駿州興国寺城」ののぼり旗が一つだけ。正直言ってテンション下がりました。
何となく安土城のような道の両側が段違いな何も建物がない平地を緩く登って行くと神社が見えました。
神社の横にはスタンプが収納されている箱と台があり、興国寺城と北条5代の大河ドラマを誘致しようというパンフレットが置いてありました。
興国寺城は歴代今川、武田、北条、徳川と色々関係しており、先程登城した長浜城の方がよっぽど北条に近いのにこんなのなかったぞとか、城址のパンフレットが同じ沼津市教育委員会なのに大きさやデザインが違うなど疑問に思うながら奥へ進みました。
奥には小さいながらも石垣があり、一段と高い場所に天守台がありました。
天守台からの眺めは遠くにキラキラと反射している太平洋(駿河湾)、そしてその海に向かってはちょうど城を起点として海に向かってまっすぐに延びている道が見えました、(来る時に通って来た興国寺城通り)
城主たちが遠い昔に見た風景や通りの両側にある多種多様な店で賑わう城下町など、しばしロマンに浸っていました。
テンションは急上昇したのは言うまでもありません。
長浜城のような整備ではありません弟子たが、計画はあるようなので、同じ沼津市教育委員会に期待大です。
合わせて大河ドラマも・・・・
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