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姫街道

桶狭間急襲前に信長が兵を集めた砦 (2021/01/09 訪問)

信長が善照寺砦に兵を集め、鳴海城へ兵を送ると共に本人は2,000騎連れて中島砦に向かった判断が、義元を討ち取った要因の一つと言えるだろう。砦は階層的に曲輪が存在していたと考えられる。かなりの兵を収容できる広さがあったと思われ、古くから砦の北を通る鎌倉往還を抑えていたのであろう。
「たられば」になるが、信長が善照寺砦に来ていた事は承知していたと言われる義元が、沓掛城を出て清洲への最短ルートである鎌倉往還を進んで善照寺砦を目指していれば、大雨に降られたとしても、討ち取られまではしなかったのではないかと感じた。

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姫街道

個人の住宅跡地にあった石碑 (2021/01/09 訪問)

二城五砦の最後に行った。中島砦跡地。
街道と河川が四方から入り組む非常に混雑した箇所で、堤防沿いの住宅街の一区画に砦跡地を見つける事が出来てホッとした。この石碑、個人邸の庭に昭和2年に建てられたと言うからそれもまた驚きだ。瑞雲寺から中島橋を渡って、運河沿いを歩くとある。
大雨の中、「信長が善照寺砦から今川方重臣の岡部元信が守る鳴海城を攻めていた」と思い込んで桶狭間山で陣を張っていた義元を目掛け、大雨前に川を渡った織田軍2,000騎が桶狭間山目掛けて東海道を駆け上がるように出陣した砦だ。
川を渡り背後の鳴海城からは私の好きな猛将岡部氏が大雨による増水で援軍を出来ない状況で、大高城と鷲津・丸根は南の山を越えた向こう側。
松平信康が中島砦を襲撃してればまた違っただろうが、鷲津砦の際まで海岸線があった当時、鷲津・丸根砦の織田ラインをを超えてまでは行けなかったのだろう。
大雨が無ければ歴史は変わってたかもしれないが、、、織田信長の作成勝ちだったのがこの地に立って感じた。

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赤い城

落合館 神奈川県綾瀬市 (2020/12/26 訪問)

綾南公園に駐車し、隣接するキツツキの森を越えると稲著社があります。
この周辺が跡地とのこと。
遺構はなさそうですがキツツキの森は何か雰囲気を感じました。
落合重貞の館があったとされています。

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小城小次郎

この小さな丘の上で備前の戦国史は躍動した (2020/11/21 訪問)

「沼」であり「浮田」であるこの地は宇喜多(浮田)氏の本拠地だった頃の景観を色濃く残すようだ。この小さな丘の上で備前の戦国史は躍動し、備中高松城攻めの前後に秀吉が立ち寄ったことで日本の歴史にも大きく関わることになった。

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昌官忠

唐沢山城・佐野城日帰り③ (2018/05/04 訪問)

「唐沢山城・佐野城日帰り」の3城目(ラストです)は前橋城です。佐野城からの転戦です。
佐野駅からJR両毛線で前橋駅に到着。そこから徒歩で前橋城を目指しました。
今では笑い話ですが、Yahooナビで「前橋城」と入力したら群馬県庁近くのそば屋?に誘導されました。

前橋城は酒井重忠の居城として知られています。古くは厩橋城と呼ばれ、関東七名城のひとつです。
(残りは河越城、忍城、唐沢山城、金山城、宇都宮城、常陸太田城)
暴れ川として知られ「坂東太郎」の異名を持つ利根川に悩まされつづけた城で、江戸時代中期に起きた洪水の被害で一旦は廃城となっています。その後、領民の希望もあり再築されることになりますが、これは江戸幕府が最後に出した築城許可といわれています。しかしすぐに大政奉還となり、築城わずか4年でふたたび廃城となりました。
遺構はほとんど残っていませんが、当時最新式であった日本式城郭の土塁がわずかに残っています。

現在は城址の一部が前橋公園として整備されており、隣接する「臨江閣」には前橋城の模型や年表などの資料が展示されています。
攻城時間は30分くらいでした。

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昌官忠

唐沢山城・佐野城日帰り② (2018/05/04 訪問)

「唐沢山城・佐野城日帰り」の2城目は佐野城です。唐沢山城からの転戦です。
唐沢山城から佐野駅南口に戻り、レンタサイクルを返却した後、佐野駅城山公園口に移動して佐野城に着きました。

佐野城は「関ケ原の戦い」後に佐野信吉が唐沢山城を廃して山麓に新たに築いた城です。
唐沢山城の廃止理由としては、江戸大火展望説、山城禁令説、豊家縁故説などが出されています。
理由は明らかではないものの、徳川政権の本拠地である江戸の近くに豊臣氏に近い大名が山城を持つことが徳川氏にとって不都合であったことが推定されているそうです。

現在は佐野城山公園となっており、築城によって移転を命じられた惣宗寺は今日でも「佐野厄除け大師」の愛称で広く知られており、その山門は佐野城の城門を移築したものと伝わっています

三の丸➡二の丸➡本丸➡北出丸と空堀で区切られた曲輪を見て奥に進み、佐野駅に戻ってきたら電車の時間になってしまい、楽しみにしていた「佐野ラーメン」を食することができませんでした。
攻城時間は30分くらいでした。

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昌官忠

唐沢山城・佐野城日帰り① (2018/05/04 訪問)

会員なりたての2020/07/29 に投稿していますが、中身がないので再投稿します。

「唐沢山城・佐野城日帰り」の1城目は唐沢山城です。続100名城スタンプは「唐沢山神社社務所」で押しました。
初めての続100名城スタンプはここで押しました。

自宅の最寄り駅から佐野駅に到着。佐野駅南口のセブンイレブン裏にある「レンタサイクル」で自転車を借りて、約7Km先の唐沢山城を目指しました。
栃本公園付近までは平坦な道で良かったのですが、そこから「唐沢山のレストハウス」までの残り約1.5Kmは地獄でした。登りの坂道をひたすら自転車を押して登りました。

唐沢山城は佐野氏の居城として知られており、関東七名城のひとつです。
関東地方の古城には珍しく高い石垣が築かれているのが特徴です。

ここの見所は、やはり本丸下の高石垣だと思いますが、個人的に犬派の自分でも城址に住み着いてる猫には癒されました。攻城時間は80分くらいでした。
帰りは第二駐車場方面に南下し佐野駅に向かいました。下り坂は楽ちんでした。

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todo94

鹿児島空港 (2020/12/29 訪問)

城びと登録城郭の中では鹿児島空港に最も近い物件ではないでしょうか。登城口に標柱と説明板はありますが、整備の手は入っていません。無理矢理曲輪とおぼしき高台に踏み入ってしまいました。滑落しかかりました。

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小城小次郎

大洪水に街ごと呑まれたお城 (2020/11/21 訪問)

一遍上人絵伝にも登場する福岡市(いち)があった場所で「福岡千軒」とも呼ばれた大都会だったが大洪水による吉井川の流路変更でお城もろとも川の底に消えた。調査されれば草戸千軒に匹敵するすごい街並みが出てくるのだろう。

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昌官忠

宇都宮/小山/古河日帰り遠征⑥ (2018/05/12 訪問)

「宇都宮/小山/古河日帰り遠征」の6城目(ラストです)は足利政氏館です。古河公方館からの転戦です。
古河城/古河公方館見学後、古河駅に向かいレンタサイクルを返却し、古河駅からJR宇都宮線で久喜駅下車。そこから徒歩で甘棠院(足利政氏館)を目指しました。

足利政氏館は埼玉県久喜市にあった城館。築城年代は明らかではないが、初代古河公方の足利成氏、あるいは彼の家臣が太田荘を防衛するために築いたと考えられています。成氏死後の1496年に、第2代の古河公方に就任した成氏の嫡男・政氏の居館です。
政氏は嫡男・高基と対立し、小山城、岩槻城と逃れた末に、最終的には政氏は隠居を余儀なくされ、この館へ移ったとされます。その後、政氏と高基は和解し、1519年(永正16年)に甘棠院(かんとういん)が建立され、現在も甘棠院の境内となっています。山門脇に石碑と案内板が設置されています。
攻城時間は古河城込みで90分くらいでした。

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昌官忠

宇都宮/小山/古河日帰り遠征⑤ (2018/05/12 訪問)

「宇都宮/小山/古河日帰り遠征」の5城目は古河公方館です。古河城からの転戦です。
古河駅前で借りたレンタサイクルで古河城を見学した後、古河総合公園(古河公方館)を目指しました。

古河公方館は古河公方・足利成氏により築城された古河城の別館で鴻ノ巣御所とも呼ばれています。
1590年には豊臣秀吉の関東征伐の際に最後の古河公方・足利義光の娘である氏姫(氏女)の居館となり、氏姫の孫にあたる尊信が下野国の喜連川に移ったのちは廃城となり、時宗十念寺の寺域となったそうです。

現在は「古河総合公園」として整備されており、城址碑が建てられています。また公園内には茨城県の伝統的な住宅である飛田家と中山家の住宅があります。
攻城時間は古河城込みで90分くらいでした。

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昌官忠

宇都宮/小山/古河日帰り遠征④ (2018/05/12 訪問)

「宇都宮/小山/古河日帰り遠征」の4城目は古河城です。小山城からの転戦です。
小山城から小山駅に向かい小山駅からJR宇都宮線で古河駅に到着。古河駅前の「わんぱくステーション」で無料のレンタサイクルを借りて、古河城を目指しました。

古河城の期限は、平安時代末期あるいは鎌倉時代初期に、下河辺行平(下河辺氏は藤原秀郷の子孫である下野国小山氏の一門で、行平は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。「吾妻鏡」に記述があるそうです)が、古河の立崎に築いた城館とされている。
室町時代には、古河公方・足利成氏が本拠とし、以後、戦国時代の関東における中心の一つでした。江戸時代には、多くの譜代大名が入れ替わりで城主を務め、近代城郭として整備されました。
古河藩庁が置かれ、行政機能を担うとともに、将軍の日光社参時の宿として、あるいは江戸城の北方の守りとして機能したそうです。

攻城ルートを写真から辿ると、古河駅➡頼政神社➡船渡門跡石碑➡追手門跡石碑➡獅子ヶ崎➡桜門跡石碑➡歴史博物館➡福法寺(乾門)➡坂長➡御馳走番所跡➡御茶屋口跡石碑➡ここから古河公方館(古河総合公園)を見学➡古河公方館見学後、渡良瀬川沿いの本丸跡碑確認➡古河駅に戻り、レンタサイクル返却。
石碑巡り中心の攻城でした。攻城時間は古河公方館込みで90分くらいでした。

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todo94

惟新公邸址之碑 (2020/12/29 訪問)

高麗稲荷神社がその故地となっています。立派な惟新公邸址之碑が建っていて、石碑の近くに大手門跡があります。なかなか立派な石垣が取り巻いていました。隣接地には花園寺跡があり、庭園や門などが公園として整備されています。ここには駐車場も完備しています。

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スティクラ

石垣好きでなくても必見。高取城。 (2020/12/27 訪問)

2020年最後の城巡りは高取城。

今回は壺阪山駅から壺阪寺経由で高取城跡へ。
壺阪寺から登ると五百羅漢を見ることができるが、自分的にはあまり魅力的でなかったので、城跡のみを目的にする人は大手道から行った方が時間と体力を節約できます。

壺阪寺から高取城の大手門跡までは30~40分程度。ハイキングに慣れている人にとってはそれほど苦ではないと思います。

高取城跡は、大手門跡→二ノ丸跡→本丸跡→天守跡と進んでいくとともに石垣の迫力に圧され感動の連続。本丸跡からの景色もきれいだが、自分は石垣を見ながら1時間ほど散策していました。(さーっと見るだけなら20分くらいでまわれます)

帰りは大手道から。途中にある国見櫓跡から景色は見ごたえがあるので、オススメです。分岐から5分もかかりません。

下り終わった後、石畳の道にある案内所「夢創館」で御城印と名城スタンプをゲット。名城スタンプは案内所が休館の時でも外に置いてくださっているそうです。

紅葉の時期が一番の見所らしいので、次回は秋を目標に。もちろん紅葉の季節以外でも見る価値のある城跡だと思います。

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日本最大の十一面観音坐像がある櫟野寺の川向かい (2021/01/04 訪問)

城びと先達のレポートによると、けっこうな藪とのことにつき、冬季に訪問しました。
北側の土塁の中央辺りの一部を削って山の神が祀ってあり、その辺りとそこまでの道は草刈りがされていました。
櫟野川に削られて、北側は、高さはそれほどではないものの急斜面です。尾根続きとなる南はとても高い土塁とその向こうに深く広い堀切を設けています。
谷間を挟んですぐ西に滝川西城があり、そちらも行ってみました。西側道沿いに笹を刈り取ったところがあり、そこから進入。こちらも尾根続きとなる南に高い土塁。滝川城と滝川西城に共通して、郭内南側土塁の下に四角い池がありました。
川向かいには、日本最大の十一面観音坐像の他、平安時代の仏像が多数ある櫟野寺があります。延暦寺建設などの都の建材の供給地としてひらけていたようです。また、近くには、甲賀武士団の団結の象徴でもあった油日神社もあります。滝川城からも御神体の油日岳が見えます。

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KKRht熊本まっち

熊本城大天守小天守 (2020/01/07 訪問)

熊本地震での修理の為に組まれていた足場が取れて大天守小天守が美しく観えます。

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昌官忠

宇都宮/小山/古河日帰り遠征③ (2018/05/12 訪問)

「宇都宮/小山/古河日帰り遠征」の3城目は小山城です。宇都宮城からの転戦です。
宇都宮城から宇都宮駅に向かい、レンタサイクルを返却。宇都宮駅からJR宇都宮線で小山駅下車。そこから徒歩で小山城(祇園城)を目指しました。

小山城築城の年代や築城者は明らかではありませんが、藤原秀郷の子孫・太田正光が1148年に小山市を名のり、この城を築いたのが始まりだと言われています。
代々、小山氏の居城でしたが、小山秀綱の代に北条氏に降伏して北条氏の北関東攻略の拠点となるが、1590年の豊臣秀吉「小田原征伐」により小山氏は領地を没収され小山氏は滅亡しました。
「関ケ原の戦い」ののち、本多正純が城主となり近世城郭に改修しましたが、正純が宇都宮に移封となった際に廃城となりました。
この城は「関ケ原の戦い」直前、徳川家康が諸大名を集めて行った「小山評定」を行った城として有名です。

現在、城址は「小山城址公園」として整備されており、空堀や土塁の跡が残されています。攻城時間は35分くらいでした。

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昌官忠

宇都宮/小山/古河日帰り遠征② (2018/05/12 訪問)

「宇都宮/小山/古河日帰り遠征」の2城目は宇都宮城です。飛山城からの転戦です。
飛山城からレンタサイクルで、宇都宮城まで8.5Kmの距離を目指しました。

宇都宮城は関東七名城のひとつです。(残りは河越城、忍城、前橋城、金山城、唐沢山城、常陸太田城)
平安時代後期に築かれたと言われています。鎌倉時代以後は宇都宮氏の居城でしたが、500年間宇都宮を支配した宇都宮氏は豊臣秀吉に滅ぼされました
江戸時代には譜代大名の居城となりましたが、その中でも本多正純は、城と城下町を作りかえを行い、現在の宇都宮市中心部の骨格はこのとき作られたと言われています。
宇都宮城主・本多正純と言えば「釣天井事件:日光社参から帰る将軍をからくり仕掛けの天井を作って暗殺しようとした事件」が有名ですが、事実ではないようです。正純が突然、宇都宮城を取り上げられて出羽(秋田県)へ流されたことから生まれた創作のようです。

現在、城址は「宇都宮城址公園」として整備されており、本丸の土塁と堀が外観復元、建物(清明台、富士見櫓、土塀)が木造で復元されています。攻城時間は30分くらいでした。

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昌官忠

宇都宮/小山/古河日帰り遠征① (2018/05/12 訪問)

「宇都宮/小山/古河日帰り遠征」の1城目は飛山城です。
自宅の最寄り駅から、宇都宮駅に到着。「宇都宮駅第2駐輪場」でレンタサイクルを借りて、飛山城まで8Kmの距離を目指しました。

当時、ナビ(車ルート:これが失敗だった)で示されたのは飛山城西側(鬼怒川沿い)からの登城だったのですが、どこから登城すればよいかわからず、しばらくウロウロした後、近所の方に南側の6号堀(外堀)からの入城口を教えてもらいました。
自転車押しての登城だったので大変でした。➡後からわかりましたが、飛山城の東側に「宇都宮市とびやま歴史体験館」があり、ここからの登城が正式ルートです。
飛山城付近をうろうろしたので10Km近くは自転車で走っていると思います。事前にちゃんと調査すればよかったと、この時は思いました。

飛山城は、鎌倉時代の後半に芳賀高俊によって築かれたと伝えられ、豊臣秀吉の命(小田原征伐後の「宇都宮仕置」)で破却されるまで、芳賀氏の重要な拠点として機能していました。
現在、城址は「飛山城史跡公園」として整備されており、土塁や空堀などの遺構が残り、大手口には木橋が復元されています。
また、公園には堀立柱建物や竪穴建物、古代竪穴建物などが復元されています。攻城時間は80分くらいでした。

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todo94

島津義弘 (2020/12/29 訪問)

岩剱合戦で初陣を飾った島津義弘が在番となった城です。麓の岩剱神社に説明板があり登城口には標柱も立っています。平松城から見た岩剱城はものすごく急峻な山に見えますが、登城路は裏手側なのでそこまで急峻ではありません。本丸の表示がある曲輪には石垣も見られます。曲輪10が展望スポットとなっており、こちらの方が本丸というテイストを持っているようにも感じました。土塁や堀切などの遺構もあり、登城路の足元はあまりよくはないのですがなかなか楽しめるお薦めの山城かと思います。

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