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宍粟市の山崎城(山崎陣屋)、ようやく訪れることができました!
『宍粟』と書いて『しそう』と読みます。読めねーよって方もいらっしゃるのではないでしょうか(笑)。
山崎城のルーツは、北側の篠の丸山頂に築かれた山城『篠の丸城』です。
天正八年(1580)羽柴秀吉の宍粟攻めによって落城後、神子田正治、黒田孝高(『軍師官兵衛』でもこのあたりが描かれてましたね)、木下勝俊(長蕭子)が城主となりました。
木下勝俊時代の天正十五年(1587)に篠の丸城の南側の山麓に広がる鹿沢の地に城を移し、宍粟における新たな統治の中心としました。
鹿沢の地は、揖保川と菅野川に挟まれた河岸段丘上にあり、築城に適した土地です。
本格的な築城が始まったのは元和元年(1615)。当時の姫路城主池田輝政の子輝澄が山崎三万八千石で入封した時です。
河岸段丘上の南端に本丸、その東に二の丸、西側に下屋敷、それらの北側に三の丸を設置し、揖保川から水を引いた内堀と中堀が巡らされ、その北側には大手口と武家屋敷街、更に外堀を挟んだ北側には城下町と寺町が形成されました。
しかし幕府の意向もあってか城は未完成のままに終わり、旧本丸に新たに陣屋の設置が許されたのも本多氏が一万石で入封した延宝七年(1679)以降のことだったそうです。
本多氏の治世は九代、明治まで続きました。
廃藩後は二の丸跡に学校が設置され、下屋敷跡に市民会館が建つなど当時の面影を探るのは一見難しいですが、街角の所々に『大手口』や『中堀跡』などの石碑や説明板が建ち、また町割りも当時からそんなに変わっていないために、地図などを片手に当時を想像しながら歩けるように整備されています。
また、本丸跡は本多公園として保存され、幕末期の建築という表門の役割を果たした紙屋門や角櫓台、また北側にも当時のものと思われる石垣や堀の名残である水路が残り、当時の城郭を想像することができます。
城跡だけでなく、寺町や古い町並みも良く残っており、思っていた以上に楽しめました。
マイカーでないとなかなか行けないところですが、こちらもオススメです。
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