元々のタイトルは、関ヶ原合戦と岐阜の山城なんですが、中井先生がタイトル変更したので。これで進めます。
中井先生の山城から見た関ヶ原合戦は、新しい見方を示して頂いたと思っております。
松井山城は、曲輪、切岸、土塁、堀切、土の枡形虎口等を有する堅固な山城で単なる小早川秀秋の陣城ではなかったことで有ります。
伊藤盛正が築城したのを小早川秀秋が不法占拠したのだという話も頷けますね。
南宮山の毛利秀元の本陣は完成された陣城であったこと、関ヶ原方面は望むことは出来ないこと、大垣側に設けられた土塁と堅堀から大垣を望むために築かれた陣城で有ること、
このようなことから、西軍の作戦は大垣決戦で、東軍が大垣城を攻め包囲すればその背後を突き、後詰めに持ち込む手筈だった。
また、菩提山城は竹中氏の居城で、巨大な堀切や堅堀、馬出し曲輪、外枡形の虎口等を有し、戦国時代後半の特徴を示している点も興味深い。
この発達した縄張りがいつ構えられたかという点は、浅井長政と織田信長の江濃国境の軍事的緊張により、1570年に竹中重治によって改修されたという見方と1600年8月10日以降に大垣の軍事的緊張により、竹中重門によって改修されたという見方が有ります。
私は、1570年に竹中重治によって改修されたと今のところは見ています。
玉城についてであるが、これは絶対に新発見なんかではありません。
また、巨大な堀切や堅堀に対して土塁や折が認められない点から、関ヶ原合戦よりも古い縄張り構造を示しております。
だから、豊臣秀頼や毛利輝元の為の本陣である筈がないので有ります。
縄張りから見てみると、西側を防御正面としていることから1570年以降に江濃国境を監視し守るために、織田信長によって築かれた山城と見るのが正解に近いと思っております。
そこで、松井山城は国史跡の範囲として追加指定されるべきだと感じました。
中井先生のいう関ヶ原合戦が平和を呼んだのではなく、軍事的緊張を呼んだのだという点も興味深いですね。
さて、にのまるさん
天王寺城に行かれたようですが、あの近くには天王寺七坂という坂があります。
あの付近は寺町で80ぐらいの寺が存在しています。
逢坂を除いて、他の坂は狭く石畳の階段になっています。
上町台地との高低差があり、上町断層も有ります。
ここからが一乗谷クイズです。
1問目は、上城戸と下城戸に囲まれた土地に住んでいる人達はどんな人達だったでしょうか?
2問目は、一乗谷の山城にある千畳敷に建物の礎石が列を成して残っているのですが、何平方メートルの建物があったのでしょうか?
そしてそれはどんな建物だったのでしょうか?
3問目は、何故朝倉氏は福井平野ではなく一乗谷という谷の部分に城下町を造ったのか?
4問目は、何故一乗谷は経済的に繁栄をすることが出来たのか?
5問目は、何故一乗谷の山麓の城塞都市に17つも戦国庭園が造られたのか?
以上が質問です。
宜しくお願い致します。
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