ひらまつじょう

平松城

鹿児島県姶良市


旧国名 : 大隅

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①	平松城跡(重富小学校)背後は岩剣山(
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トク

74【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (島津義弘と平松城) (2023/09/25 訪問)

(24人目)「島津義弘」の続き⑤です。
義弘初陣の地で最初に城主となった「平松城」を訪れてきました。

JR鹿児島中央駅から日豊本線で20分「重富駅」で下車、そこから徒歩30分の所にあります。現在は重富小学校になっていました(写真①②)。

重富小学校の校門にはこんな看板がかかげられていました。義弘の心構えが今でも地元の子供たち伝わっているのかと思うと、ちょっと感動しました(笑)(写真③)。また小学校を囲むように野面積の石垣も残っており、それがここに城があった事を今に伝えています(写真⑤⑥)。

1554年18才で、背後の岩剣城の蒲生氏を滅ぼして初陣を飾った義弘にこの地が与えられ、その後その岩剣城を居城とします(写真①の背後に見える山上=写真④)。この戦いの時、日本で初めて鉄砲が使われたそうです。義弘はこの山上の急峻の地は不便なため、麓にこの平松城を築き居城を移しました。そして1564年に飯野城に移るまでの約10年間(19~28才頃)、ここを居城とし大隅を平定していったようです。

私はその岩剣城に登るつもりで来ましたが、この急峻な角度を見て(これは絶対無理!)とあっさり断念しました(笑)。そして駅へ帰ろうと歩き始めた途端、何とバス停を発見! しかも1日5本しかない・・・その内の1本が何と10分後に来る!(写真⑩)。ラッキーこれで30分歩かずに済む、義弘様からのご褒美か?(最初からよく調べればよかった😩)。

次は、加久藤城を経由して義弘が最も長く在籍し、数々の義弘伝説が生まれた飯野城を目指します。
 

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しんしんちゃん

島津義弘のかつての居館跡。石垣はいつの時代のものなのか。 (2023/01/06 訪問)

平松城は現在、重富小学校になっています。天文23年(1554)蒲生方の岩剣城
を落城させたあと、島津義弘が城番となり麓に平時の居館として築かれました。
江戸時代の天文2年(1737)藩主島津継豊は弟、忠期に越前島津家を再興させ
重富郷の領主居館として機能しました。
小学校の周囲は石垣で囲まれ往時をしのばせます。北側から東に移動し
そこから南側に緩い坂を上って石垣が続いていくのですが、周囲にも石垣があり
どこまでかつての遺構なのかはわかりません。

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todo94

門松 (2020/12/29 訪問)

岩剱城在番となった島津義弘が麓に築いた城館です。重富小学校の校門には旧鹿児島県庁正門の門柱が移築されています。年末ということで校門には門松が飾られていました。鹿児島県では普通のようですね。群馬県や長野県では公立学校の校門に門松を見ることはまずありません。

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トーダイ

岩剣山が望めます (2013/02/13 訪問)

天正23年(1554)、岩剣合戦と呼ばれた島津氏と蒲生・祁答院方との激しい攻防は、岩剣城の落城によって終止符を打ちます。この合戦で初陣を飾った島津義弘は、岩剣城に在番することになりました。しかし山頂から麓までの道は大変険しく日常生活には不便でしたので、ふもとのこの地へ館を築いたのが平松城の始まりです。(案内板より)

現在城址は姶良市立重富小学校の敷地となり、正門<31.706312,130.604473>前に標柱と案内板があります。周辺の石垣は、江戸時代中期に整備されたものです。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 島津義弘
築城年 天文23年(1554)
主な城主 島津氏
遺構 曲輪、石垣
指定文化財 市史跡(平松城跡)
住所 鹿児島県姶良市平松字上星原