みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

Nabeppu

東側から撮影した御三階櫓 (2021/01/10 訪問)

東側の境河岸乗船場から御三階櫓と富士山のコラボは関東の富士見百景に選ばれています。反対の西側から撮影すると筑波山とのコラボでの撮影も出来ます。周囲が江戸川と利根川に挟まれている為、建物も無く非常に映えます。富士山とのコラボは日の出前後、筑波山とのコラボは日没前後がベストです。

+ 続きを読む

小城小次郎

水門には山の上からではなく下からのアクセスとなる (2020/11/21 訪問)

鬼ノ城が近くにありながらこちらにも古代山城を築いたのは鬼ノ城が備中、大廻小廻山城が備前であることにも何か関係があるのだろうか。見どころの水門石垣は山の上からではなく下からのアクセスになるのでご注意を。

+ 続きを読む

橋吉

鉄筋コンクリートによる復興天守 (2013/08/09 訪問)

唐津城は、豊臣秀吉の家臣、寺沢志摩守広高が、名護屋城の解体資材を用いて築城といわれています。
本丸跡地が舞鶴公園として整備されています。

石段が多いので、エレベーター(有料)が用意されています。
このエレベーター斜めに移動するのです。はじめて経験しました。

鉄筋コンクリートによる復興天守
なお、唐津城に天守台はありましたが、天守閣が存在したという記録も絵図も存在しません。

+ 続きを読む

たつのり

69 (2021/01/10 訪問)

キラキラ光る太平洋(駿河湾)を遠く見て、戦国の世に想いを馳せる。



沼津の長浜城を後にし、次の目的地、興国寺城址はHonda純正のカーナビでは出て来ませんでした。

長浜城より続100名城ということで期待するも、駐車場の案内すらなく、勝手に駐め放題の空き地には「駿州興国寺城」ののぼり旗が一つだけ。正直言ってテンション下がりました。

何となく安土城のような道の両側が段違いな何も建物がない平地を緩く登って行くと神社が見えました。

神社の横にはスタンプが収納されている箱と台があり、興国寺城と北条5代の大河ドラマを誘致しようというパンフレットが置いてありました。

興国寺城は歴代今川、武田、北条、徳川と色々関係しており、先程登城した長浜城の方がよっぽど北条に近いのにこんなのなかったぞとか、城址のパンフレットが同じ沼津市教育委員会なのに大きさやデザインが違うなど疑問に思うながら奥へ進みました。

奥には小さいながらも石垣があり、一段と高い場所に天守台がありました。

天守台からの眺めは遠くにキラキラと反射している太平洋(駿河湾)、そしてその海に向かってはちょうど城を起点として海に向かってまっすぐに延びている道が見えました、(来る時に通って来た興国寺城通り)

城主たちが遠い昔に見た風景や通りの両側にある多種多様な店で賑わう城下町など、しばしロマンに浸っていました。

テンションは急上昇したのは言うまでもありません。

長浜城のような整備ではありません弟子たが、計画はあるようなので、同じ沼津市教育委員会に期待大です。

合わせて大河ドラマも・・・・

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

太陽光発電設備の先に (2021/01/09 訪問)

平安後期の築城とされ、入口の石碑には興味深い説明が書いてあります。
石碑から砂利道を進みますが左手に太陽光発電設備。
その先に土塁が残ります。
一番奥まで進むと民家があり、この辺りが主郭。
周囲は土塁で守られています。
主郭手前の堀を進んでいくと横矢がかかる折れもありました。
住宅地なのであまりうろうろ出来ませんが結構な城でした。
尚、駐車場はなく、近くに路駐かコンビニ駐車場をお借りするかとなります。

+ 続きを読む

たつのり

75 (2021/01/10 訪問)

富士山が最も綺麗に見える城址。
第一曲輪から、段々畑のように曲輪が連なっており、一番低い部分は海へ降りられます。(足元危険なので注意)
ちいさな神社もあり、沼津市教育委員会の説明書きも随所にあり丁寧でした。
城址とは思えない、富士山と駿河湾が綺麗な名所です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

橋吉

堀尾忠晴の大チョンボ?大芝居? (2013/07/23 訪問)

多聞櫓が残されています。

実は、ここには天守閣があったのです。
ところが1633(寛永9)年のこと、幕府は堀尾忠晴に亀山城修築を命じ、天守を解体してしまったのです。
しかも、幕府の命令はここ伊勢亀山城ではなく丹波亀山城であったことが後に発覚します。
つまり間違いで破壊されてしまったのです。
なんとか再建の申請はするのですが認められず代わりに多聞櫓を建てたのでした。

堀尾忠晴は後世にも残る大チョンボをやらかしたといわれいますが、果たしてそうでしょうか。
亀山城の敷地は結構広いです。
1万2000石の小大名としては不相応です。
なおかつ、東海道直近であり、嫌が上でも威圧感を感じさせられます。
当時、参勤交代の大名は、亀山の宿に泊まるのを嫌がったそうです。
ですから、幕府は適当な難癖をつけて取り壊したかった。でも、理由が見つけられなかったので一世一代の大芝居を打ったのではと予想します。

+ 続きを読む

橋吉

刑部城 (2013/03/25 訪問)

阿王山紫城とも称される刑部城は、堀川城とともに家康への備えとして、地元の豪族らによって築かれました。
しかし、家康側の猛攻の前にひとたまりもなく落城したそうです。
刑部城はその後、家康公の家臣・菅沼氏が守ったそうです。
なお、1572(元亀 3)年、三方ヶ原において徳川軍を壊滅させた武田軍は、この刑部の地で越年しました。

現在、県道261号線(姫街道)によって、城跡は分断されています

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ヒロケン

甲州における戦国時代最後の合戦 (2021/01/04 訪問)

獅子吼城の始まりは、鎌倉時代末期とされています。武田信玄の時代には、烽火通信の重要な場所であったと云われ甲信国境の信州峠、西方は能見城・新府城まで遠望できるとのこと。(自分が登城した時は、方角が分からず、説明板等なくさっぱり分かりませんでした)
 1582年9月に武田氏が滅亡。さらに、織田信長も本能寺の変で明智光秀の謀反により命を落とすことになり、甲斐国は、北条氏と徳川氏の係争の地となり、獅子吼城は北条方の守備するところとなりましたが、徳川方の服部半蔵率いる伊賀組と武田遺臣とが、獅子吼城に夜襲をかけ落城させた。この戦いが、甲州における戦国時代最後の合戦だと云われています。

現在、獅子吼城は、石垣、曲輪、土塁、空堀、竪堀が残っています。アクセスとしては、北杜市須玉町江草にある根古屋神社を目指すと城跡の案内板があり、迷うことはありません。ただ、駐車場・トイレは無く、峠にある登城口50m程手前に1台ほど駐車できるスペースがあり駐車しました。

どの方の投稿を拝見しても、「猿の群れ」の記述がありますが、本当にいます。"(-""-)" さらには、主郭部付近で「キツネ」を見ました。「きっ、キツネ~」と訝しる方もいるかと思いますが、本当にいました。自分も北海道と動物園以外で見たのは初めてです。
驚きとびびったのとで画像がないのが残念です。どなたか、見られた方はいませんか?投稿をお待ちしています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅④ (2018/04/29 訪問)

「クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅」の4城目(ラストです)は根城です。弘前城からの転戦です。
100名城スタンプは「八戸市博物館」で押しました。

根城は1334年南部師行によって築かれたと言われ、代々、南部氏の居城として利用されました。
現在は「史跡 根城の広場」として整備されており、遺構として館跡の礎石、曲輪、空堀、土塁が確認できます。
本丸には主殿・中馬屋・工房・鍛冶工房・板倉・納屋・東門が復元されています。

広々とした台地に御殿や馬屋が復元されていて、いい雰囲気です。攻城時間は60分くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅③-2 (2018/04/29 訪問)

「クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅」の3城目=弘前城、前夜に続いて2回目の攻城です。
100名城スタンプは「弘前城天守」で押しました。

2回目の攻城を撮影した写真から辿ると、
津軽南ねぶた村の駐車場➡弘前中央高校口から三の丸へ入城➡日本一(世界一?)太いソメイヨシノ➡
二の丸(日本一(世界一?)古いソメイヨシノ)➡東内門➡下乗橋を渡って本丸へ➡
天守(100名城スタンプ押印)➡本丸内を散策➡鷹丘橋を渡って北の郭へ➡北の郭内散策➡
波祢橋を渡る➡春暘橋を横に見ながら桜のトンネルを歩く➡埋門跡から西の郭へ➡
西の郭散策➡二の丸へ入り、未申櫓見学➡南内門➡杉の大橋を渡る➡中濠越しに辰巳櫓を確認➡
追手門から一旦退城➡外濠沿いを歩➡三の丸東門から三の丸へ入城➡
中濠越しに丑寅櫓を確認➡弘前中央高校口から下城➡津軽南ねぶた村の駐車場へ。
公園案内図を確認すると四の丸と植物園を見学していませんが、時間の都合上、あきらめました。

桜筏を前日夜間と昼間見れたこと、天守と隅櫓を確認できたので満足です。攻城時間は2時間くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅③-1 (2018/04/28 訪問)

「クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅」の3城目は弘前城です。久保田城からの転戦です。

弘前城は現存12天守としては最北の城です。津軽氏の居城でした。津軽信枚によって築城された当初は「鷹岡城」と呼ばれていましたが、南光坊天海のアドバイスにしたがって地名を「弘前」に改称し、城名も弘前城となりました。現存12天守に数えられてはいますが、築城当初の5層5階の天守は焼失しており、現在残っているのは後に建てられた御三階櫓です。
江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し国の重要文化財に指定されています。城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された梯郭式平山城です。

弘前城は2018/04/28と04/29の2日間連続して攻城しており、投稿写真の都合上、2回に分けて投稿します。
まずは1回目(2018/04/28)、ツアーでは翌日に攻城する予定でしたが、夜桜を見学したくて、宿泊ホテルから20分強歩いて攻城しました。

夜間撮影技術が稚拙で、写真がボケまくりですが、なんとか見れそうなものを投稿します。攻城時間は90分くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅② (2018/04/28 訪問)

「クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅」の2城目は久保田城です。盛岡城からの転戦です。
100名城スタンプは「久保田城御隅櫓」で押しました。

久保田城は、慶長七年(1602)に出羽国へ国替えとなった佐竹氏二十万五千八百石の居城であり、複数の廓を備えた平山城です。
築城は慶長八年(1603)年五月に開始され、翌年の八月には初代藩主佐竹義宣が久保田城に入り、旧領主秋田氏の居城であった湊城は破棄されました。
しかし、義宣が湊城から居を移した後も城普請は続けられ、完成したのは寛永八年(1631)頃といわれています。
久保田城の特徴は、石垣がほとんどなく堀と土塁を巡らした城であることと、天守閣をはじめから造らなかったことが挙げられます。
天守閣を造らなかったのは、国替えによる財政事情や幕府への軍役奉仕、徳川幕府への遠慮などが原因であると考えられています
現在は「千秋公園」として整備されており、桜の名所としても親しまれています。建造物としては、物頭御番所が現存し、市政100周年を記念して御隅櫓が復元されています。
以上、秋田市公式サイトから抜粋しました。

見所は、復元された御隅櫓(鉄筋コンクリート造りはちょっとだけ残念)と表門、現存する物頭御番所(久保田城内の二ノ門の開閉管理と城下の警備、火災の消火等を担当していた物頭(足軽の組頭)の詰所)です。
攻城時は桜が綺麗でした。攻城時間は80分くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅① (2018/04/28 訪問)

「クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅」の1城目は盛岡城です。
100名城スタンプは「もりおか歴史文化館」で押しました。

盛岡城は南部氏の居城として知られています。土塁の多い東北地方の城郭の中では珍しく、白い花崗岩で石垣が組まれており、東北三名城のひとつに数えられています。
現在は岩手公園(愛称:盛岡城跡公園)として整備され、自分は見てはいませんが、芝生広場の南側に宮沢賢治の詩碑、二の丸に石川啄木の歌碑などが建てられているようです。

見所は、やはり石垣ですね。石垣の素材の石は遠方から運ぶことなく、全て近隣産の花崗岩を用いているそうです。
加工は野面積・打込接・切込接の三種類確認でき、石垣の角には算木積・笑い積や盛岡城にしか見られない三角錐の角石があります。また、はばき石垣(石垣の崩壊を防ぐ石積み)も確認できます。
写真をうまく映せませんでしたので投稿できませんが、場所は二の丸の東側に笑い積とはばき石垣、本丸の西側に三角錐の角石がありますので、石垣好きな方は確認して見て下さい。
攻城時は桜が綺麗でした。攻城時間は70分くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

姫街道

鎌倉時代築城の古城 (2021/01/09 訪問)

鎌倉時代に築城し、一旦廃城。戦国期にまた再活用した模様。笠寺小学校付近との事。
笠寺小学校近郊に神社があり、石碑が立つ。
笠寺小学校と並ぶようにある神社も急傾斜地。一体として城を構築していたか、出丸か。いずれにしろ城だったであろう。小学校を眺めても仕方ないので、神社周辺を散策。
城跡地の雰囲気を感じ、それなりに楽しめた。
とにかく、この付近は道が狭くて駐車場が無い。神社から南区役所方向へ少し行った所に名鉄協商パーキングを見つけて停めた。
城は、小高い丘にある丘城で、小学校と二郭一城だったか。
二城五砦の訪問ついでに登城。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

姫街道

大高兵糧入れ (2021/01/09 訪問)

桶狭間の戦いで有名な二城五砦をまわった。
まずは、「大高兵糧入れ」で有名な大高城。
この城は桶狭間以前からの重要な城であったが、織田対今川・松平の勢力争いの中、前線で揺れ動いた城である。幕末まで機能した城で、城下町には古い屋敷や酒蔵などがあり、徒歩で歴史散策を楽しんだ。
さて縄張りは、主曲輪を囲むように階層的に曲輪が配置されていた。腰曲輪も現在では幅が広くなってしまい要塞の雰囲気が無いが、戦後期には城のすぐ近くまで海岸線が来ていて、桶狭間の戦いでは松平元康が織田方の砦と激しく戦った要塞の城だったのは間違いない。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

姫街道

炎上した鷲津砦 (2021/01/09 訪問)

清洲から熱田神宮で参拝した信長は、鷲津砦と丸根砦の炎上を横目に桶狭間山に走ったとあるが、、、砦は山の山頂から南面に大高城を向いて築かれており、直接は見えなかったのではと感じた。
さて、砦は大高城に向かって横堀や土塁らしき遺構があり、砦東側には長寿寺もある事から、根古屋城だったと言われてもおかしくない。
清洲同盟以降は使われなくなったとあるが、それにしては保存状態が良く、大高城と鳴海城の中間点として役目があったとしても不思議ではない。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

姫街道

大高城を睨む砦 (2021/01/09 訪問)

大高城・鷲津砦と共にセットで国指定を受けている砦らしい砦だ。砦中腹には案内板があり、宅地化が進んだとは言え当時の眺望を推測出来るが、木々を少し伐採して山頂から見えるようにして欲かった。
現在は周辺には大高緑地が広がるが、保存会の方が作成して頂いたCGにより、当時の状況がよくわかる。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

姫街道

東西に長い城 (2021/01/09 訪問)

「東西75間半、南北34間」と言われている。
城跡地は、東海道を挟んで西側の鳴海城跡公園から東側の石碑がある天神社のあたり。
また、別名を根古屋城と言われているように、城の周りにはいくつもの寺や神社が今でも残る。この城も勿論古いし、海岸線・川・東海道の全てを抑える重要な城だ。織田対今川の勢力争い時には、今川方は後に第二次高天神城の戦いで勝頼方として最期を遂げた猛将岡部元信を城主として配置。「こんな前線の不利な所で、よくも戦ったものだ」と感じた。結果的に、義元は岡部元信への絶対的信頼からか信長は善照寺砦にいると判断したのかもしれない。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

姫街道

対鳴海城の砦 (2021/01/09 訪問)

光明寺の裏をブラブラと探していたら、何と個人宅の中に「丹下砦跡」の案内看板を発見。そのお宅の際には、曲輪の外構え跡らしき遺構が見えた。地形的にアップダウンの急な箇所で、海岸線際にあった崖地のような立地だったのではなかろか。
丹下砦の際まで海岸の入江が来ていたと思われ、入江向こうには猛将岡部氏が籠る鳴海城が見えて、桶狭間の戦い前夜の緊張感を狭い路地を歩いていると感じる。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ1127