旧思川を天然の要害とした城で今は田畑の中にある平城です。
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2021/05/30 17:24
自宅から近い城址 (2021/05/30 訪問)
旧思川を天然の要害とした城で今は田畑の中にある平城です。
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2021/05/30 17:02
5月30日は ご(5)さ(3)まる(0)の日\(^o^)/ (2021/05/30 訪問)
世界遺産中城城跡は緊急事態宣言発令に伴い、残念ながら当面の間閉園中ですm(__)m
そんな中城城(なかぐすくグスク)の最後の城主であった護佐丸をモデルに誕生した中城村の公式マスコット「護佐丸」くん。
中城村で本日5月30日は「ごさまるの日」に制定されています(そう、ごさまる530 頃呂合わせです!)
ごさまるの日は、
先人達が残した豊かな歴史と文化、自然に対する関心と理解を深め、もって次世代への伝統文化の継承と、村民の郷土を愛する心を育むことを目的として平成21年3月31日中城村が条例で定めた日です。
地元の英雄である護佐丸と中城城跡の魅力をより多くの人に知って、一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです!!
ゆたさるぐとぅ うにげーさびら!(宜しくお願いいたします)
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2021/05/30 16:42
遺構が極端に薄いのは (2021/02/27 訪問)
中峠(なかびょう)は難読だが荘園境界を示す「びょう」(固定された目印)が転じて地名となったらしい。相模出身の河村氏代々の拠点だが遺構が極端に薄いのは長く耕作地にでもなっていたせいなのだろうか。
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2021/05/30 16:12
「ごさまるの日」記念限定武将印!! (2021/05/30 訪問)
◆5月30日「ごさまるの日」記念◆
中城村は、地元にある世界遺産 中城城(なかぐすくグスク)の最後の城主「護佐丸」をもっと身近に感じてもらおうと、5月30日を「ご(5)さ(3)まる(0)の日」に制定しています。
中城村の英雄「護佐丸」と中城城跡の魅力を多くの方に知っていただくきっかけとなることを願い「ごさまるの日」記念限定武将印を制作いたしました。
筆耕は中城村在住の県内外で活躍する書道家 新里利浩さんに描いていただいた文字です。
使用している紙は、琉球王国時代から受け継がれている伝統技法を唯一継承する、手漉琉球紙工房 蕉紙菴の安慶名清さんが手漉きで造った琉球紙のひとつ「三椏(みつまた)紙」です。
琉球紙は、需要の減少や後継者不足などから技術の継承が懸念されていますが、貴重な紙を皆さんに知ってもらいたい、又、後世にも伝えたい想いで使わせていただきました。職人さんの人柄まで伝わるような手間ひまかけた琉球三椏紙の手触りもお楽しみください。
発行枚数:300枚 ※なくなり次第終了
販売所:
中城村観光協会 9:00~17:00 (5/30以外土日休)
※お電話/FAX/メールでのお申込可
沖縄県中城村字当間176番地1
098-975-5309
当協会HP→https://nakagusukukk.com
当協会ネットストアーズ「なかぐすく商店」
https://nakakanko.stores.jp
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2021/05/30 15:57
北の防御は厳重だ⁉ 北側の堀編 (2013/03/29 訪問)
新府城の北側は山裾に東西に細長く帯曲輪、土塁を配し水堀と湿地帯で防いで居る、更に二ヶ所の東出構、西出構で横矢が掛かり縦横な銃撃戦が想定されてる構えです、西は七里岩岸壁で鉄壁の守り、東は山裾に水濠を数段に構え、織田軍を待ち受ける体制でした?が高遠城の奮戦虚しく落城を契機に応戦する事無く新府城を焼き捨てた事は歴史ですが、一回は北の防御ラインを試して欲しかった城好きです。
大変惜しまれる遺構で新府城の特徴の「出構」です、当時発掘調査、修復されて間がない時のようでした、調査では北側の堀は逆台形の箱堀と解説されてました。一部水堀は残され発掘調査はして無く樹木を一部間引き伐採し景観を揃えたと有りました。
また更に北は丘陵が続き現在果樹園と成って居り桃の栽培がされてます、登城当時まだ桃の花は咲いてませんでしたが咲いた時はさぞ綺麗な事で桃源郷を見てる様だと思います。勝頼公諸将も見てる事でしょう。
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2021/05/30 09:58
一津屋城 (2021/05/29 訪問)
【一津屋城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>バイク
<感想>バイクでちょこ城巡りのツーリング、大阪府内限定第3弾1城目。一津屋城は現地の縁起板によると、ここは一津屋古墳という古墳で、南北朝時代に楠木氏の一族和田氏の砦として機能していた。戦国時代には三好氏の出城としていたらしい。
現在は厳島神社となっており、後円部に本殿、その裏手に周濠の一部が残っていてその他はほとんど宅地化されていて城の痕跡はおろか古墳跡も僅かに残るだけとなっている。所在地は松原市だがほぼ古市古墳群エリアにあり、城びと登録のある高屋城や小山城等の古墳を利用した城だったのあろう。
<満足度>◆◇◇
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2021/05/29 23:52
検定問題集ですと⁉︎
吉田城検定問題集。無料配布が
来週
6月1日火曜日から
本丸跡、黒鉄櫓にてあるそうです
絶対手に入れたい!
豊橋市役所家観光振興課、やるな\(//∇//)\
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2021/05/29 22:30
勝頼公慰霊の本丸、本丸編 (2013/03/29 訪問)
本丸は結構広い、周囲に土塁が囲み、蔀の構、馬出虎口で守りは十分、立地は釜無川の東側の七里岩岸壁上の丘陵台地で西側は完璧な守り、南には大型の大手馬出、三日月掘りで守り、北側は濠と湿地帯、東側も水堀が守り南大手側までを護ってます。
本丸内部には現在、新府藤武神社が鎮座、その北の土塁基壇上に勝頼公の石祠、木製の墓標勝頼公霊位の社に成っている、両脇には木製の墓標が13武将の霊位を祀ってる。
案内説明板には勝頼公が天目山で嫡男、夫人と自刃し武田源氏は命脈を断ち、後に地元民が国主の恩徳を追慕し新府城守護神・藤武神社北西の地に石祠を建立し貞享・元禄の頃(1684年)、勝頼公の心霊を納め之を祀り勝頼神社と称し、毎年卒去の当日に慰霊祭を執り行ってるとあります。
長篠合戦の敗北後天正9年(1581年)新府城を築き数か月居城して織田軍の侵攻に火を放って天正10年(1582年)初めに退去、小山田氏の岩殿城に退き小山田信茂に裏切られ自刃しますが、これを真田昌幸の進言で岩櫃城に籠り真田軍とのゲリラ戦で3ヶ月耐えたら本能寺の変も無かったかもしれないし、武田家も存続の道が有ったのではないでしょうか?
また新府城での攻防戦も見たかった、守りはどうだったのか?と興味の有る所です。
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2021/05/29 20:25
肝心の丸馬出見忘れ、登城路編 (2013/03/29 訪問)
県境を越えての城探訪が憚られる昨今です、暫く過去の登城編でご勘弁ください。平成25年3月末の桜の甲府城復元鉄門探訪を終えて韮崎市の新府城へ初登城です。
駐車場:新府城北側東の専用駐車場、道沿いに在ります、砂利舗装、台数には余裕有。
探訪ルート:専用駐車場⇒東出構目視⇒本丸登城階段(登らず見るだけ)⇒帯曲輪登城路⇒大手門⇒三の丸⇒二の丸馬出⇒本丸、藤武神社、本丸土塁、蔀の構、勝頼公墓標石祠、北側の眺望、八ヶ岳⇒二の丸⇒北側の東、西出構、東堀、中堀、湿地帯、西堀⇒北側の土塁、帯曲輪⇒搦手口、枡形、七里岩岸壁を望む。
概要、感想:駐車場からはすぐ近くに東出構に目に入りここも特徴の一つ、本丸階段は私には厳しいので、帯曲輪登城路を登る、新府城の縄張図をよく認識理解して無かったので、新府城の一番の見所、大手丸馬出、三日月堀を登城路そのままの登った為見逃して仕舞い残念でなりません、南大手門の看板だけしか写してません、造りが大きく見応えも有りますが遺構と自然の境が登城路を歩いてるだけでは良く分かりません、標識看板だけで無く、遺構毎に解説板を備えて頂ければありがたい、また推薦登城探訪ルートの案内図も有ればありがたい。
甲府に比べ標高が高いのか桜は甲府は満開、新府城はまだちらほら咲、桃の花もまだまだ、桃源郷はもう少し時期は先の様でした。
登城路編は登城路と本丸手前までの写真を投稿します。
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2021/05/29 19:05
説明板の立ち位置がおかしい (2021/05/22 訪問)
東武大平下駅から徒歩で30分。
民家の脇に石碑と説明板がありました。
が、説明板の真ん前に石碑という。
説明読むのにも微妙な感じです。
石碑の側から空堀があり、奥には土塁も残っています。
ほとんどが宅地と農耕地になっていて歩き回るのには気が引けました。
小山宗長が築城、小山城の支城とされています。
戦国期には皆川氏、佐野氏、北条氏、結城氏の拠点となりました。
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2021/05/29 17:13
久松山山頂の山上ノ丸の石垣 (2016/07/17 訪問)
コロナで県外の城に行く事ができておらず、過去のもので失礼します。
山麓の山下ノ丸の投稿が多いですが、山頂の山上ノ丸も素晴らしいと思いますので投稿させて頂きます。
中坂ルートで登りましたが、急な坂道で夏でしたし、かなりきつかったです。
本丸周りの石垣が、よく残っていました。
本丸の直ぐ南下の石垣は修復されているようにも見えましたが、腰曲輪や天守台の周りの石垣は当時のままのように思え見応えがありました。
本丸からは秀吉が鳥取城攻めの際に本陣とした太閤ヶ平が見えました。
天守台からは、鳥取砂丘と日本海まで見えて絶景でした。
一番東側の十神砦まで行くと、石垣と堀切で組み合わされた枡形虎口のような珍しい防御施設が見られました。
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2021/05/29 16:55
2021/05/29 15:22
2021/05/29 10:18
伊豆に残る北条の土の造形 (2021/05/03 訪問)
伊豆半島の付け根に広がる田方平野。
その南東部にちょこっと突き出た天ヶ岳の北尾根が韮山城。
天城から北上する狩野川が沼津へ流れ、下田街道が平野部から山道に切り替わる伊豆の入口的な要衝。
室町中期には、狩野川の対岸に鎌倉公方の後釜として堀越公方が設立されたエリアでした。
その堀越公方の時代から砦があったのかもしれませんが、韮山城を築いたのは足利茶々丸を攻め伊豆を平定した北条早雲こと伊勢宗瑞。
本拠が小田原へ移った後も北条氏の主要拠点の1つとなり続け、秀吉の小田原攻めでは山中城が早々に落城したのに対し、天ヶ岳の各尾根に築いた砦群と連携し3か月間持ちこたえた城でした。
さて訪問時は午前に伊豆パノラマパークのロープウェイから天ヶ岳を確認し、午後から韮山城へ。
現在の韮山城は半分が高校となっており、城池側から入城。三ノ丸と権現曲輪の土塁は高く見応えがあり。
三・二・本の曲輪は1階ずつ階層が上がるつくりで、物見台のような本丸からは愛鷹山と箱根が見渡せました。
ここから城主氏規は秀吉の大軍(織田信雄、蒲生氏郷、細川忠興など)が迫ってくるのを確認したのでしょうか。
一旦、入城口を出て城池沿いを南へ歩くと、立派な堀切があるので必見。
お城巡りの106城目となった韮山城。
個人的には静岡東部で最も満足感の高いお城かな。
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2021/05/28 23:50
お堀だけでもう幸せ (2021/05/18 訪問)
家康公出生でおなじみの岡崎城🏯
有名なのが青海堀ですが石垣が湾曲していてかなり特徴的です🙆♀️(いつか降りてみたい)
岡崎城は天守閣(中は博物館のような感じ)もありますが、個人的にはお堀や石垣だけでもじゅうぶん楽しめます(笑)
敷地内には家康公産湯の井戸もあります👶🏻
隣接する龍城神社では御籤も引けますし、三河武士のやかた家康館は関ヶ原の戦いがジオラマで見れたり、今は期間限定で浮世絵展やってるのでオススメです👌
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2021/05/28 22:40
2021/05/28 17:38
2021/05/28 16:44
2021/05/28 16:30
丁子屋 (2021/05/28 訪問)
他の方も投稿されていますが、丸子宿といえばとろろ汁が有名です。丁子屋さんは丸子城近くにある江戸時代初期(慶長元年創業)から400年以上続く、静岡で最古のとろろ汁の店です。広重の東海道五十三次、芭蕉の俳句、十返舎一九の東海道中膝栗毛にも登場する、丸子宿のとろろ汁。近くに行く機会があれば立ち寄ってみてください。丁子屋の前には徳川家康が駿府城築城のときに石垣を作るために、この周辺から切り出したと伝わる辰石があります。「東海道中膝栗毛」では丸子のとろろ茶屋で夫婦げんかに巻き込まれて、とろろを食べそこねた弥次さん、喜多さんのエピソードが書かれていますが、自分は食事はしましたが、料理の写真を撮ることを忘れました。
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2021/05/28 01:19
光秀の法要
明智城跡の麓の天龍寺で光秀の命日、6月13日に法要が予定されています。
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