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ぴーかる

見応えある放射状連続竪掘 (2021/03/14 訪問)

【中荒城】島根県鹿足郡津和野町
<駐車場他>津和野城と同じまたは鷲原八幡宮
<交通手段>車

<見所>畝状竪掘り群・石垣
<感想>1泊2日中国地方西部の旅2日目7城目。城びと未登録の中荒城は津和野城跡南出丸の南端から数百㍍南へまたは鷲原八幡宮より北へ行った所にあります。津和野城のある霊亀山は南北に中国自然歩道という遊歩道が貫いているので城跡までは難なく行けます。
 中荒城は現地説明板の通り、能登から地頭入りした吉見頼行によって1295年に築城を開始した。この山地に最初にここに築城し、北にある三本松城(津和野城)はのちに築城されたそうです。現在の強固な縄張りは戦国時代に陶氏との戦いによって造られ津和野山地北から南まで全体が城の要塞になっていたようです。
 城跡へは鷲原八幡宮から北へ進み城跡の南側の切岸からロープつたいに登るルートと津和野城から南に下り中国自然歩道から東に尾根つたいに主郭に行くルートがあります。前者は登りにくいのでやめたほうがいいです。私は津和野城から来たので後者で行った。城跡の東端の曲輪が自然歩道のそばにあり、立て看板から進むとすぐに削平地が現れます。尾根道を少し進み、堀切を渡ると主郭に着きます。縄張りはほぼ単郭式で北側に小さい腰曲輪と歩道そばの東の曲輪からなっています。主郭は段構造で2段目辺りの北側に石垣が残っています。主郭平地部分にも石列が見られます。最大の見所は主郭を取巻く放射状の竪掘りでなんと18条もあります。私、数えてみたんですが16条しか分かりませんでした。竪掘り群へは主郭の南側からロープ伝いに中段まで降りると右手に見えてきます。ストックはあった方がいいです。主郭の横堀も残っているので横堀道を半周してそこから伸びる竪掘りを堪能できます。これだけの数の竪掘りを見るのも初めてだし、遺構が明確に残っているのも素晴らしく見応え十分、竪掘りマイベストランクに入るいい城跡でした。お勧めですので津和野城登城の際には是非とも。

 これにて中国地方西部の旅終了。13時頃から津和野城登城して下山したのが夕刻だったので全部攻めるには半日はかかりますね。津和野城織部丸が整備完了すれば尚更ですので時間のご参考に。時間がなく賀年城へは行けませんでした。御城印を購入し、津和野の銘菓をお土産購入し凱旋した。全走行距離1050㎞無事走破。

<満足度>◆◆◆

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イオ

一日まるごと小谷城(山麓~中腹) (2021/03/14 訪問)

戦国中期に浅井氏初代・亮政が築いた城で、三代・長政は織田信長の妹・お市を妻に迎え縁戚関係を結ぶも、信長が亮政以来の同盟関係にあった朝倉氏を攻めるに際して信長から離反、以降3年に及ぶ織田軍との攻防の末、朝倉氏が滅んで孤立無援となったところに総攻撃を受け、羽柴秀吉が京極丸を急襲して主郭部を寸断、二代・久政、次いで長政が自刃し浅井氏は滅亡しました。その功により小谷城には秀吉が入りましたが、長浜城に居城を移したことにより廃城となりました。

小谷山全域に曲輪を設けた巨大山城で、築城時は山頂部の大嶽が本丸でしたが、浅井氏の勢力拡大に伴って南東尾根に曲輪群を連ねて本丸を移し、南西尾根には福寿丸と山崎丸、北東尾根の付け根には月所丸を配し、南側両尾根の間の清水谷には浅井氏や重臣の居館が設けられています。

さて、小谷城は前々から行きたいと思いつつも、熊に遭遇するのは避けたいので時季は限られ、さりとて真冬は雪に閉ざされることから、なかなか行くタイミングがつかめませんでしたが、ようやく訪れることができました。せっかく来たからには本丸や山王丸などの主郭部だけでなく、大嶽から山崎丸を経て下山する小谷城一周コースに挑戦したいと思います。

山崎丸から下りてきた後、100名城のスタンプを押して帰る予定なので、小谷城戦国歴史資料館の駐車場に車を駐めて、追手道から登城開始。獣害防止用の門扉を開けて歩き始めて5分ほどで舗装道にいったん合流。舗装道を少し下ると出丸があるようなので行ってみると、上下二段で構成される曲輪の先端側をコの字型の土塁で囲み、切岸も急でなかなか見応えがあります。出丸ひとつをとってもこの見応え。これは期待できそうです。

合流点に戻って追手道の登城路を登って行くと間柄峠の標柱と説明板があり、六角氏の攻撃を受けた小谷城を来援した朝倉教景に従って来た真柄備中守が守備にあたったことから間(真)柄峠と呼ばれるようになったんだとか。朝倉方の真柄氏というと姉川の戦いで壮絶な最期を遂げた真柄直隆の家系なのかな…などと考えながら歩くと、単調な登城路も退屈しないで済むのでありがたいですね。
望笙峠から浅井氏も信仰した竹生島を望んだりしながら登って行き、金吾丸へ。間柄峠と同じく、朝倉「金吾」教景が布陣したことからその名が付いているようですが、一帯は灌木が生い茂り、土塁と言われれば土塁かなぁ、と思える土盛りが見られるくらいでした。

金吾丸から少し下ると番所に到着。番所に目立った遺構は見られませんが、周辺には多くの腰曲輪が設けられていて、普段ならちょっと下りて行ってみるところですが、数え切れないほどの腰曲輪や帯曲輪を擁する小谷城でそんなことをしていては時間がいくらあっても足りないので、我慢して次へ。
御茶屋の手前の展望台から望む眼下には虎御前山城が広がっています。小谷城攻略のための信長の陣城ということは知っていましたが、こんなに目の前だったとは…。それも清水谷の出口の真ん前に立ちふさがる信長としては絶好の、浅井氏としては最悪の立地です。この地に陣城が築かれ、信長はじめ織田軍の名だたる諸将が布陣し、しかも朝倉氏の後詰はもう無い……想像するだけでも絶望的な気分になりました。
気を取り直して御茶屋へ。ここからが主郭部となります。低い土塁で区切られた曲輪の内側西奥には苔むした石が散在し、庭園の面影を残しています。御茶屋の上の御馬屋は三方を分厚く高い土塁で囲まれていて、御馬屋の北東部には馬洗池と呼ばれる石組みの貯水施設があり、水の手とも水堀とも言われています。

馬洗池から少し行くと、浅井亮政が敵に内通した家臣を謀殺し、その首をさらしたと伝わる首据石があり、そこから黒金門に向かう前に右手にそれて赤尾屋敷へ。落城直前、最後の攻撃に打って出た浅井長政は本丸に戻れなくなりこの地で自刃したとされ、浅井長政公自刃之地の石碑が建てられています。赤尾屋敷は三段の曲輪で構成され、石碑のある上段からのぞき込むと下方に曲輪があるのが見えますが、切岸は急で下りていく道は見当たりません。それでも立木とストックを頼りに下りてみると、半ば崩れた石垣が! 下調べでも赤尾屋敷に石垣があるとは知らなかったので、不意打ちの喜びでした。調子に乗って、三段の曲輪ということはもう一段下があるはず(石垣もあるかも)、と思ってさらに下りてみましたが、明瞭な曲輪は見つけられませんでした…。

寄り道はこれくらいにして、元の登城路に戻って主郭の主要部に向かいます。(続く)
 

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カズサン

景観復元土塁も圧巻、桜も佳麗に装って居ました (2021/03/31 訪問)

 三の曲輪北側の土塁に鬱蒼と茂ってた樹木、下草が景観整備の基伐採、刈られ本来の三の曲輪土塁が谷底からすっきりと構造を露にされました、先に三の曲輪土塁中心に写真投稿しましたが、城内の桜、山桜、ミツバツツジが例年の如く佳麗にそっと城内構造物と自然と一体に成った様に咲き誇って居ました、撮影した写真の土塁だけでは趣が有りませんので咲き誇ってた花を投稿掲載させて頂きます、春の一時の姿を観て頂ければ幸甚です。

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ぶーたろー

本丸の先は黄色いロープがあり、進軍できませんでした! (2021/04/03 訪問)

https://youtu.be/kpixdxM7RQk
↑この動画が参考になります。
宇利城に行ってきました!その道中をノリノリの音楽で紹介しまーす!
<説明>
宇利城は三河統一を目指す松平清康によって攻められた「宇利城の戦い」の舞台として知られているよ!今川氏に属していた城主・熊谷実長はこの戦いに敗れ、功績のあった近藤満用に城が与えられた。その後、清康が「森山崩れ」で暗殺されると、近藤氏は今川氏に降りるけど、さらに1568年(永禄11年)に徳川家康が遠江侵攻を開始すると徳川方に帰参しちゃう。

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昌官忠

東京近郊11城巡り⑧:世田谷城 (2021/04/01 訪問)

東京近郊11城巡り8城目は世田谷城です。
赤堤砦より徒歩15分ちょっとで城址公園案内板前(35.646091、139.646976)に着きました。

1366年(貞治5年)吉良治家が世田谷郷を与えられます。
1394年 - 1426年(応永年間)頃、居館として整備されたと考えられています。
吉良成高の頃、城郭として修築されたものと考えられています。
吉良氏8代、二百数十年の間、栄えましたが、1590年(天正18年)、吉良氏朝の代に豊臣秀吉の小田原征伐が行なわれ、豊臣方に接収され廃城となりました。
世田谷城の石材は江戸城改修に使用されたそうです。
現在、城址は開発が進んでいますが、豪徳寺付近に本丸を置き、世田谷城址公園付近まで城域が拡がっていたと考えられています。
世田谷城址公園内から北に向けて延びる、空堀と土塁が現存しています。

公園内の短いながら堀跡を歩いてみました。豪徳寺も近くにあります。
比較的大きな土塁はフェンスに囲われていました。説明板もトイレもあります。
攻城時間は20分くらいでした。

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昌官忠

東京近郊11城巡り⑦:赤堤砦 (2021/04/01 訪問)

東京近郊11城巡り7城目は赤堤砦です。
松原駅より徒歩3~4分くらいで六所神社鳥居前(35.657913、139.643392)に着き、その後、善性寺地蔵堂前(35.655746、139.646769)に向かいました。

築城年代は明らかではないが、世田谷城の北方を守る支城として、吉良氏により築かれたとされます。
その位置については善性寺、または北にある六所神社付近ともいわれているが、明らかでないようです。
善性寺がある付近はその昔、北・東・南三方を水田に囲まれた半島状台地で「砦山」と呼ばれていたそうです。
その後、砦址西側台地に服部貞信が小さな陣屋を構えたそうです。

遺構は残っていないので、想像の中で当時を偲びます。
攻城時間は20分くらいでした。

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ぴちょまる

関宿城(博物館) (2021/04/03 訪問)

チーバくんの鼻の先にある関宿城。
千葉県民であっても、一度埼玉県の東武動物公園駅に行ってからバスで向かった方が便が良いという場所。
そして、富士山と模擬櫓を一緒に納める有名撮影スポットは、利根川を渡った茨城県。
利根川と江戸川に挟まれた重要拠点であったことは地図からでも想像に難くない。
但し、河川工事により遺構は殆ど残っておらず、模擬櫓の関宿城博物館は、本来の城跡から少し離れた北側にある。

運が良ければ、菜の花と桜、富士山を見ることができる。

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Nabeppu

この季節ならではの三色コントラスト (2021/03/27 訪問)

この時期の桜と菜の花と櫓を同画面に綺麗に収めて撮影出来るのは、やはり東側からが一番ですね。

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ダイエティシャン

石見城Ⅱ (2021/03/25 訪問)

案内板はありましたが、登城口からは、道標や道を見つける事が出来ず、攻城を断念。
石垣(8枚目)は、民家跡らしいです。

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ダイエティシャン

石見城Ⅰ 遠景 登城口 (2021/02/25 訪問)

石見銀山遺跡である【石見城】を目指しましたが、攻城出来ず。
石見城遠景(1枚目)案内看板()3;4;5枚目
バス停から左折し、コンクリート道を進み、民家の倉庫の浦に山に登る草の山道あり、登城口です。

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姫街道

藤堂高虎の高石垣 (2021/04/03 訪問)

徳川家康の家臣となった藤堂氏が、豊臣方に備えて大改修を行った伊賀上野城。よって西側への防御を厚くするのはわかりますが、高さ30mに及ぶ石垣を目の当たりにすると本当に驚きます。時はまだ家康の天下統一前。この時期の日本の築城技術の飛躍的発達は、産業革命と呼んでも過言ではないと感じます。
 築城もさる事ながら、いったいどうやって保存しているか調べてみると、自衛隊に訓練兼ねて保存整備に協力してもらう事もあるとか。
 ところで、尊敬する同郷の大先輩「カズサン」の写真には、地元浜松城は勿論の事、日本各地の桜が綺麗なお城がよく登場する。私もいずれ各地を訪れてみたいと楽しく拝見させて頂いている。桜とお城は本当によく似合う。

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ダイエティシャン

鶴ヶ城(田儀城)Ⅳ〜平沙戌 (2021/03/25 訪問)

主郭(1枚目)の他に、平沙戌(2と3枚目)にも、東屋があります。
平沙戌は、出雲国と石見国の国境になり、天平時代には、狼煙台が築かれていたそうです。
ここも残念ながら、羨望は良くないです。

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ダイエティシャン

鶴ヶ城(田儀城)Ⅲ〜主郭、馬場跡 (2021/03/25 訪問)


主郭?と思いきや、下に道が続いていました。(2枚目)
その後数分で、主郭(1枚目)に到着。
他の方が書かれた通り、看板(4枚目)は倒れていました。
主郭(5〜7枚目)は木々に覆われ、羨望は良くないです。
更に下に続く道が(8枚目)があり、すぐに馬場跡(二の平)の到着(9枚目)
土塁(10枚目)らしいのも発見。

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ダイエティシャン

鶴ヶ城(田儀城)Ⅱ〜城平側登城道、郭 (2021/03/25 訪問)

主郭(1枚目)へは、駐車場から約20分で到着。
途中、郭っぽい削平地(2、3枚目)も見られます。
山桜(5枚目)も見事です
道標(4;7;9枚目)も随所に設置。
30℃位の傾斜を登り続けると、15分程で平坦な道(8枚目)になり、やがて、ベンチの削平地(10枚目)に到着。主郭?やけに狭いなと思いました。が。
続く

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ダイエティシャン

鶴ヶ城(田儀城)Ⅰ〜駐車場、城平側登城道、源蔵塚 (2021/03/25 訪問)

主郭(1枚目)へは、駐車場(5枚目)から約20分程で到着。
登城口は3ヶ所位ある様子。今回は城平側→源蔵塚→平沙戌→主郭→ニの平(馬場跡)で攻城。
途中、道標や案内板(2'〜4枚目)があり
遊歩道も整備されており、攻城しやすいです。
駐車場から見える日本海(5枚目)もキレイです。
途中の【源蔵塚】(8枚目)は罪人を匿い、罪に問われた源蔵夫婦を偲ぶ場所だそうです。
整備された広い遊歩道(9、10枚目)を登ります。

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ぴーかる

津和野城南出丸 (2021/03/14 訪問)

【津和野城南出丸】
<見所>曲輪・堀切・土橋
<感想>津和野城跡の続き。近世城郭の津和野城の投稿では載せたい写真が10枚以上になる為別途投稿いたします。南出丸は吉見氏時代の遺構がそのまま残っており、おそらく土で造った曲輪群かと思われます。津和野城南門跡から南に少し下った所に添付写真の案内板と木の立て札があるのですぐ分かると思います。立て札から南出丸の主郭部までは切岸になっていて木の丸太階段が朽ちて無くなっているのでストック要です。主郭部は一部土塁が残っており、中心部に巨石が散乱している。南出丸の南方向には2重堀切になっており南側は土橋があります。案内板の東側にも南北に曲輪群があります。
 土橋から数百㍍南に行った所に吉見氏時代の中荒城(城びと未登録)があります。この次に投稿致します。

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イシテル

壮大な一乗谷山城 (2021/03/26 訪問)

麓の朝倉氏遺跡を2018年7月に訪れ100名城のスタンプも押していましたが、一乗谷山城を巡っていないことが心の中で残っており、登城しました。
管理棟で地図をいただき、「下城戸」、「馬出」、「英林塚」の3コースがあるとの説明を受け、所要時間が約60分の「馬出コース」での登城を決めました。
管理棟前の道路を「馬出コース」のある八幡神社を目指して歩き、目印の八幡神社を左に見ながら進むと登城道入口の看板。これに従って入って行くと、右側に侍屋敷跡と思われる幾つかの広い敷地があり、石垣や石塁の遺構も見られます。
小見放城跡を過ぎると登城道の傾斜も少しきつくなり、ゆっくりと60分程登ると山城の様相に変わってきます。城域入口にある不動清水は、不動明王石仏の下から泉が流れ出ており、唯一の水源と説明があります。そこから上がると千畳敷跡に入り広い郭跡となっています。古絵図には「万畳敷跡」との記載もあると説明があり、次の観音屋敷跡、宿直跡も広く、広大な中心地の郭を形成し、観音屋敷跡と宿直跡の間には土塁で造られた虎口も綺麗に残っています。
ここを過ぎて登って行くと一の丸の表示があり、その先は尾根筋に二の丸、三の丸と続き、それぞれが堀切で区切られていて、堅い防御を備えていたことが伺えます。
大規模な郭と数々の切岸、堀切で構成された要塞、久しぶりに広大な山城を巡り感動しました。麓の朝倉氏遺跡だけでなく、足に自信のある方(翌日、足の疲れが....)は、是非とも一乗谷山城も巡っていただきたいと思います。

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カズサン

天守台石垣修復され天守閣復元が待たれます (2014/05/20 訪問)

 7年前の5月下旬JRフルムーンパスを利用した兄弟旅行で三朝温泉、松江城、玉造温泉を終えて岡山に上り、後の旅行日程は兄弟別行動、私達夫婦は瀬戸大橋線で高松へ高松駅から徒歩で高松城探訪へ、小学校の修学旅行が最初でもう50年以上も経っており、その間何回かプライバート、出張中の時間を割いて訪ねて居ります。
 今回は登城の前年H25年3月(2013年)にH18年からの天守台修復工事が竣工し一般公開に成って居ましたので是非見学観察したいと南九州旅行の途中に半日入れ込みました。

 天守台には以前高松松平氏初代頼重を祀った玉藻神社が鎮座してましたが移設され天守台の大修理、石垣の積直し立派に修復復元しました、地階の穴倉も有り、礎石、天守台虎口入口、天守台天端部を登って回れるように登り階段が付き、天守台上部からの眺めは絶景です、案内説明板も完備、天守閣復元を期待してる説明板、復元CG写真、図面で溢れてます。
 後に鞘橋を通って、月見櫓、水手御門、渡櫓、披雲閣庭園、披雲閣陳列館見学高松城天守閣の模型も見学、桜御門跡ここも復元計画が有るそうです、桜馬場、大手門枡形、艮櫓、旭門、旭橋、中堀越しに艮櫓を見学眺望し満足の探訪でした、是非天守閣の復元を望んでおります。
 展望車両のある特急で瀬戸大橋、瀬戸内海を眺め城と海を堪能し岡山駅へ新幹線さくらで鹿児島へ、南九州の旅へ出発。


 

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小城小次郎

行くたびに新たな魅力が見つかるお城だろう (2020/12/31 訪問)

二度目の訪問で初回訪問時に見落としていたところを眺めてきたが、このお城はなにしろでっかいので、訪ねる度に恐らく新しい発見があるのではなかろうかと思う。大手道のガイドツアーもいつかは体験してみたい。

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T-Shionoya

石垣山城訪問 (2004/05/22 訪問)

過去のお城巡りの振り返り、第7段は石垣山城。
秀吉が小田原城攻めのために築いた陣城です。

小田原城の中心部まで早川を挟み約3kmの、箱根外輪山の尾根の上。もともとは笠懸山と呼ばれた場所。
戦国期の箱根越えは湯坂道が主要道でしたが、秀吉軍はほぼ現在のターンパイクを通り、小田原を見渡せるこの地に陣を張ったのだとか。
一夜城伝説が有名ですが、実際は約80日でつくられた模様。完成まで秀吉軍は早雲寺に陣を敷いていました。

現在は石垣山一夜城公園となっており、広場の周囲に大きめの石が転がっていたというのが訪問当時の印象。
今回投稿するにあたり、先週再訪問してきました。
以前より石垣が見やすくなっている印象で、南曲輪や井戸曲輪の野面積み石垣は見応えあり。
南曲輪中門と本丸北虎口では、石垣が行く手を邪魔するように崩れてますが、枡形を確認できます。

井戸曲輪は城の北東部を守る堀のようでもあり、急斜面な城の北西部は箱根路の監視も可能。
関東から西への関所にする計画もあったのではないかと思える城でした。

※写真は先週撮影したもので、案内図と井戸のみ2004年のもの

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