JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の17城目は田原城です。
高縄城から転戦。田原市博物館駐車場(34.674343、137.269131)に駐車し、桜城門(34.673129、137.269267)に向かいました。
1480年(文明12年)ころに戸田宗光(全久)によって築城され、戸田氏の三河湾支配の拠点となった城です。
16世紀になると近隣の戦国大名の拡大に伴って、はじめは松平氏に属し、さらに今川氏に転じました。
城主が戸田康光のときの1547年(天文16年)に、松平氏から今川氏に人質として送られる嫡男竹千代(のちの徳川家康)を護送する任を受けましたが、敵方の織田家に寝返ったため今川義元の怒りを買い、攻められて落城し城主康光も戦死しました。
ただし、2010年後半になって岡崎城を織田氏に攻め落とされた松平広忠が自ら竹千代を人質に出したとする説が有力となったことで、戸田康光の裏切りそのものが事実として成立しなくなってしまいました。
加えて、田原城周辺の状況から天文16年の田原城攻撃の際には落城には至らず、実際に田原城が落城したのは1550年(天文19年)頃であったと推定されているそうです。
その後今川氏に属する城代が入るが、桶狭間の戦いの後、今川氏から自立した家康によって攻略され、松平氏譜代の本多広孝が城主に入って、東三河の旗頭として吉田城(豊橋市)を与えられた酒井忠次の指揮下に入った。
さらに1590年(天正18年)家康が関東へと移封すると代わって吉田城に入封した池田輝政の持ち城となり、田原城には重臣筆頭の伊木忠次が城主となって田原に在城しました。
江戸時代になると、田原城には三河の他の主な城と同様に譜代大名が置かれ、1万石そこそこと少ないながらも藩を形成しました。
はじめ田原戸田家の支族、戸田尊次が入り、その後1664年(寛文4年)に三宅氏が1万2千石で入封、そのまま明治維新を迎えるまで200年強支配しました。
廃藩置県後の1872年(明治5年)他の多くの城と同様に田原城の建築物も取り壊されました。
城址南の復興桜門や水堀となる袖池と桝池、及び石垣、巴江神社となっている本丸南の空堀、本丸に残る土塁、二の丸には復元櫓等、小規模な城址ながら良い城址だと思います。
攻城時間は20分くらいでした。
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