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にのまる

猿が密 (2020/12/31 訪問)

<続き>
 旧道経由の本丸が思ったより楽だったのでそのまま詰城に向かったのですが、井戸の少し先まで進んだところで(あー待てよ、それより太鼓曲輪の偵察に行こうっと!)と思い立ち方向転換、下山しました。
 以前、詰城から富士見台まで行ったときに太鼓曲輪尾根伝いに御主殿まで下山できたはずなのですが、その時は下調べをしておらず来た道を引き返してしまっていました。今思えば少し残念なことなのですが、麓の大手道から少し踏み込んでみることはできるのではないかと思ったのです。

 本丸からの下りは新道を通りました。旧道から見上げた杉の倒木と石垣が見えないものかと左側を覗き込みながら下ったのですがさっぱりわかりませんでした。次回は松竹(心源院)方面から行こうと思っているので、次々回もう一度旧道から登って場所の確認をしたいと思うのですが、想像するに結構な高さがあるのでここから石礫攻撃を仕掛ければ相当なダメージを与えられるのではないかと…。よい子はマネをしないでね♪

 そして太鼓曲輪の方に向かっていると、まさにそちらの方から動物の鳴き声のようなものが聞こえてきました。
 何かいる?とじっと目を凝らしてみていると、ガサガサ、ドサドサ…、そしてドドーっとお猿さんの群れがこっちに向かってくるではないですかΣ(゚д゚lll)
 地を這い枝を伝い、あっちこっちから湧いてくる‼︎
 ちょっと待って、怖い~😭
…と、走って逃げたのが御主殿方面。
しまった、逆だった。こっちに逃げたら帰れないΣ(-᷅_-᷄๑)
 仕方がないのでお猿さんたちがどこかに行ってくれるまで時間つぶしです。せっかくなので御主殿の石垣をじっくり観察しました。そして適当な時間が過ぎたところで古道の方から戻ってみると、お猿さんたち、山に帰らずにそのへんで遊んでいました。
 かなり密状態ですが、何だか楽しそう。フィジカルディスタンスを保って猿の群れを眺める、そんな私の2020年大みそか。。。
 浄福寺城でも遭遇しているのでこのあたりに生息していることはわかっていたのですが、八王子城で猿の襲撃に遭う(←襲われてはいない)って、430年前の再現のようです。
 そういうわけで太鼓曲輪偵察は取りやめ、今後踏み込む気もすっかり失せてしまいました。
<おわり>

☆最近、動物遭遇系のご投稿をよくお見かけします。熊でなくて何より♪

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Mt.stone

松本城 (2020/12/16 訪問)

雪がチラつく中の訪問。生憎、工事箇所がありましたが、人も少なくゆっくりと満喫できました。何度来ても美しいと思う。クツ脱ぐから足の裏が冷たい!冬は極厚の靴下必須です。次回は雪の北アルプスとのコラボが見たい。あっ、あと山賊焼も。

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Maturibaka

高見城

高見城
高見山(標高485m/比高約360m)山頂の主郭

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城好きのメガネ

「本證寺」 (2020/03/28 訪問)

<オススメ>★★★★★
1206年頃、慶円上人が創建したとされる。三河一向一揆では、上宮寺・勝鬘寺とともに三河三ヶ寺として徳川家康と対立した。諸説あるが家康配下の侍が寺内の不入権を侵したことが発端となり起こったとされる。一向門徒であった家康の家臣の一部が離反し、寺院に籠城した。門徒連判状に武士門徒115名が署名するなど、徳川家康側は苦戦したとされる。1564年、小川の戦いで門徒側は敗走し、空誓上人が逃走し、一時廃寺となった。江戸時代になると、徳川家綱の将軍就任にあわせて拝謁。以降、江戸幕府と尾張徳川家の代替わりごとに拝謁を行っていたことから、他の三か寺と同様に両家と密接な関係を持っていた。本證寺の 境内は国指定史跡となっており、二重の堀と土塁に囲まれるなど城郭的防備に主眼を置いた伽藍配置になっており、横堀(水堀)や鐘楼等が遺されている。

<アクセス>
名鉄西尾線 南桜井駅 徒歩20分

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カズサン

薬医門続板塀?復元工事中、壮大空横堀が絶品 (2021/01/14 訪問)

 冬枯れ時期の長大な空横堀、三日月堀を観察探訪したいと自宅から40km程約1時間超掛け山越え1号線BP経由東行し半年振り登城しました。
 先ずは諏訪原城ビジターセンターにより担当の方に挨拶若干会話し、資料確認入手、何回となく登城してるのですが初めて「案内します」と言われ二の曲輪大手馬出手前まで案内頂きました、よく来てますとも言えずそのままに感謝です。
 1時間半掛けてゆっくりと廻りました、大手南外堀、二の曲輪大手馬出三日月堀、外堀ここで一番長い横堀、二の丸土橋を眺める、外堀は草刈りと草枯れて堀底まではっきりと観察できる、冬成ればこそ感嘆です、大手北外堀、二の曲輪中馬出、同三日月掘り、板塀復元工事中で中馬出土橋より北は現在立入禁止。
 近くで見たいと二の曲輪土塁北側より西に向かって観察と望遠撮影、板塀復元は二の曲輪北馬出に復元されて薬医門の南側続きで約10メートル程か? 現在は中芯鉄骨基礎が立ち上部に屋根の基礎が架かっており鉄骨が赤く塗られてる、チョット興醒めますが復元完成時は板張り?で隠される事でしょう、(白土塀とは成らないでしょうから) 完成は3月末との事、楽しみが増えました。
 二の曲輪、二の曲輪仕切り土塁、内堀、本曲輪土橋、本曲輪土塁、本曲輪虎口、本曲輪発掘階段(埋め戻し)、本曲輪内部、本曲輪より東下の内堀、土塁(16号掘り)を眺める、草刈りされてたので意を決して搦手口より崖状の搦手道を降りる、内堀(16号堀)の底と同土塁を観察、笹竹、ブッシュが刈られてるが刈った残渣がツンツンして少し危険で歩きにくい、本曲輪の高切岸?崖?かを始めて堪能する、東側から見ると諏訪原城は山城です。
 本曲輪に登り東側下内堀を眺めるとそこにカモシカが歩いてるカメラを望遠操作をしてる間に下麓に降り見失い撮影出来ず、本曲輪から内堀底に降りカンカン井戸、水の手曲輪を眺め、二の曲輪に上がる、二の曲輪土塁、二の曲輪東内東馬出、二の曲輪南馬出、同三日月堀、二の曲輪大手馬出三日月堀外からビジターセンターへ戻る。
 担当の方にカモシカの遭遇を報告、また若干会話し、冬枯れのこの時期長大壮大な外堀底から眺めて堀の大きさを実感したいので仮設の堀底見学階段を設けて欲しい旨をお願いしたがどうかな? 下草刈りの斜め道が在るがチョット危険な感じがして挑戦して無い。

 薬医門続板塀?が復元されたら駆け付けたいと思って居ります。桜の頃がベストです❣

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城好きのメガネ

「西尾城」 (2020/03/28 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
西尾城は、鎌倉時代初期に足利義康の孫である義氏が九条家領吉良荘地頭として城を築いたことが始まりとされる。その後、西条吉良氏と東条吉良氏に分かれ、東条吉良氏の義安は織田氏に内応したため今川氏から城を追われたため、西条吉良氏が東西を兼ねた。1561年、吉良義昭は酒井正親に城を奪われ、三河一向一揆の主将となり近江へ逃れた。以降、城主は牧野成定、田中吉政と入れ代わり、城郭も改修が行われた。1601年、譜代の本多康俊が入府し、西尾藩を立藩する。7家が目まぐるしく入れ替わったが、江戸中期に松平乗佑が入府し、明治まで5代続いた。松平乗全の治世では藩校を建設するなど人材育成に力を入れた。明治維新を迎えると城は天守閣を始め、ほとんどが取り壊された。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
名鉄西尾線 西尾駅 徒歩15分

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チェブ

八田御朱印公園 (2020/12/26 訪問)

果樹園畑が広がる甲州市から笛吹市に移動し「八田家御朱印屋敷」に向かいました。

JR中央東線の石和温泉駅近くを通ると観光客や地元の方で賑わってました。
『GO TOトラベル、延期!!』の報道が出た後だったので、感染大丈夫かな?という思いと、たくさんの温泉施設やホテルがあり、働く方々は がっかりしてるだろうな、という思いがグルグルしました。
コロナが、早く終息しますように!

「八田家御朱印屋敷」は整備された公園です。
今回 訪れた山梨県の屋敷跡・館跡、どの お宅もトイレがキレイでした。
整備が行き届いてます。

武田家の御蔵前衆、八田さんの館です。
御蔵前衆は財政管理。八田さんは商人でもあったようです。
1582年、武田家滅亡時、織田軍により館は焼失しましたが、すぐに徳川 家康さんの用材で「八田御朱印屋敷」再構築します。
1601年、書院を築きます。

公園には駐車場がありました。
石和陣屋から移築した門があり、そちら側からお邪魔しました。
茅葺き屋根の書院があり、庭園を散歩して公園側へ。
なにやら石のオブジェがありました。写真⑤⑥です。
残念な事に芸術的センスが欠けている私、、、。
なので武田家っぽい二枚を写しました。
石和キッズが遊んでいたので、端から端までは歩いてませんが、石和の歴史と風土をモチーフにしてる公園なんだそうです。
こんなにキレイに管理されていて、お金かけてるんだなと、嬉しく思いました。
ちなみに、
トイレがキレイ=金運アップ!です。
財政管理していた八田さんとトイレの金運アップ。
「八田家御朱印屋敷」はいつまでも、大切に管理されていく事、間違えないでしょう。

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小城小次郎

石垣の大半を失っても (2020/11/22 訪問)

恐らくは福山城築城時に石垣の大半を失い、昭和になって公園としての改変も受けながら、今もなお城内には瓦片が点在し、礎石も石垣の残欠も残る。何より曲輪と切岸が織りなす塁線が美しい。まさに通好みの名城と言える。

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きぬさや

樹木伐採で景観が復活 (2021/01/16 訪問)

初詣を兼ねて末森城へ。神社境内地の安全管理のために、鬱蒼と繁茂していた樹木の伐採が進められていました。

空堀を中心とした遺構が見やすくなり、更には東山丘陵までを広く見渡せるようになりました。

また、視界が開けたことで、土砂の流出箇所など、潜在的な危険も把握しやすくなっています。

豊橋市の吉田城に行った時も思いましたが、やはりお城の整備は、樹木伐採が重要だと感じます。

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ぴーかる

岡城 (2020/11/29 訪問)

【百名城56城目】
<駐車場他>入城入口受付前無料Pあり
<交通手段>レンタカー

<見所>全部
<感想>2泊3日豊後国百・続百名城攻城の旅7城目。岡城は3回目の訪城。今回はスタンプ押印、じっくり堪能、写真を沢山撮影するのを目的に来ました。が、なんと登城口手前の階段前でカメラが突然の故障(T_T)完全停止してどうにもならなくなったので、仕方なしに急遽スマホのカメラで凌いだのでバッテリーの関係もあり思う存分撮影できなかった。画質も落ちるし、無念・・・・。
 また更に受付で頂ける栞が以前は巻物だったのですが、2020年7月頃より普通の冊子に変更されていました。コストがかかるそうで変更されたそうです。城の中で一番好きな栞だったのに残念なことです。

 岡城の1回目の訪城が2002年頃で、その時、今から30年近く前の学生時に初めて行った安土城跡に続き、改めて石垣のみが残る山城・平山城の魅力を感じたお城巡りを増やす起点となった思い入れが深い城跡です。2回目の訪城2012年より雑草の整備や石垣から生えた出ていた木・郭内の木が伐採されていて石垣遺構がよく観察できるようになっていました。知識も多少増え、遺構の新たな「気づき」もあって何度でも何時間でも楽しめる、荒城どころか自分の中では大名城、大好きな城のひとつ。

<満足度>★★★★★

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橋吉

田原城 (2015/06/13 訪問)

田原城は、三河国渥美郡田原(現在の愛知県田原市田原町)にありました。

1480(文明12)年ころに戸田宗光(全久)によって築城されましたが、その後、今川氏
に支配された後、松平氏譜代の本多広孝、池田輝政の重臣である伊木忠次と城主が入れ替わりました。
江戸時代には田原藩1万2千石となり、譜代大名が置かれました。

二の丸に田原市博物館がつくられており、その駐車場を利用しました。
大手門に相当する桜門は再建されたものです。

堀のほとんどは埋められており、桜門の脇に池となって残っているのみです。

三ノ丸は護国神社となっています。

本丸跡は巴江神社が置かれています。

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昌官忠

クラブツーリズム「女城主井伊直虎ゆかりの浜松と静岡100名城めぐり2日間」⑥ (2017/12/17 訪問)

「柴咲コウ」さんが演じられていた大河ドラマ(おんな城主 直虎)ゆかりの城巡りに次男と二人で参加しました。
クラブツーリズム「女城主井伊直虎ゆかりの浜松と静岡100名城めぐり2日間」の6城目(ラストです)は山中城です。駿府城からの転戦です。
100名城スタンプは「山中城跡売店前」で押しました。

山中城は、戦国時代末期の天文年間から永禄年間(1530~1560年頃)、小田原城の支城として北条氏康によって番城(城主を置かない城)として築城されたようです。
天正年間、全国制覇をめざす豊臣秀吉が小田原攻めに着手すると、山中城は韮山城、足柄城とともに最前線の軍事拠点として重要視され、堀や出丸などの大改修が行われました。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に、豊臣秀次率いる7万の軍勢に攻撃され、4千の北条勢は必死に防戦しましたが、鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。
現在も当時の畝堀や障子堀の構造がきれいに保存整備されており、型くずれ防止のために芝生が張られていますが、本来はローム層(赤土)がそのまま露出し、滑りやすく、登り難い造りになっています。
また、三ノ丸にある宗閑寺境内には城主松田康長以下、敵味方の武将の墓がひっそりと苔むして並んでいます。

攻城時は粉雪が舞う寒い時期でしたが、沈みゆく夕陽とともに見学できました。攻城時間は75分くらいでした。

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昌官忠

クラブツーリズム「女城主井伊直虎ゆかりの浜松と静岡100名城めぐり2日間」⑤ (2017/12/17 訪問)

「柴咲コウ」さんが演じられていた大河ドラマ(おんな城主 直虎)ゆかりの城巡りに次男と二人で参加しました。
クラブツーリズム「女城主井伊直虎ゆかりの浜松と静岡100名城めぐり2日間」の5城目は駿府城です。掛川城からの転戦です。
100名城スタンプは「東御門券売所」で押しました。

駿府城は、1589年(天正17年)、駿河を領国とした徳川家康が今川氏の居館があったとされる場所に築城したのがはじまりとされています(駿府は徳川家康が幼少のとき今川氏の人質になっていたところ)。
豊臣秀吉により家康が関東に移封された後は、秀吉の家臣中村一氏が駿府城主となりました。
関ヶ原合戦後に家康は将軍職を秀忠に譲り、駿府城を隠居のための城として天下普請によって修築を行い、城郭史上最大の天守台が築きました。
江戸時代には度重なる火災・地震に見舞われたが、その度に修築が行われたが、明治維新に伴い明治3年(1870)に廃城となりました。

現在、中堀の内側にある旧二の丸と本丸が「駿府城公園」として整備されており、石垣や堀を見ることができます。
また巽櫓と東御門、坤櫓が復元されて資料館として公開されています。

攻城時間は50分くらいでした。

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昌官忠

クラブツーリズム「女城主井伊直虎ゆかりの浜松と静岡100名城めぐり2日間」④ (2017/12/17 訪問)

「柴咲コウ」さんが演じられていた大河ドラマ(おんな城主 直虎)ゆかりの城巡りに次男と二人で参加しました。
クラブツーリズム「女城主井伊直虎ゆかりの浜松と静岡100名城めぐり2日間」の4城目は掛川城です。浜松城からの転戦です。
100名城スタンプは「掛川城二の丸御殿」で押しました。

掛川城は、室町時代に駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが始まりだそうです。
1568年、武田信玄に追われて掛川城に逃げ込んだ今川氏真を徳川家康が攻め、半年に渡る激しい攻防戦の結果、家康は掛川城を手に入れます。
1590年、豊臣秀吉の命により、掛川城には「内助の功」で有名な山内一豊が入城します。
これも、2006年(もう15年も前なんですね)の大河ドラマになりました。確か、山内一豊が上川隆也さん、妻・千代が仲間由紀恵さんでした。
「関ケ原の戦い」の際に一豊が徳川家康に掛川城の提供を申し出た逸話は有名ですね。
江戸時代になると、掛川城には徳川の譜代大名数氏が城主を引き継ぎ、最終的には太田氏(太田道灌の子孫)の居城となり、明治維新まで続いたそうです。
1854年の嘉永の大地震により天守が倒壊し、その後しばらくは再建が行われることはなかったそうです。
明治以降は、廃城令によってほとんどの建物が撤去されましたが、1994年(平成6年)に日本初の本格木造天守閣として天守が再建されました。
天守閣の再建にあたっては、山内一豊が築城した高知城を参考に、残された図面に基づき、樹齢300年を越える厳選された青森ヒバを用いて、「東海の名城」とうたわれた往時の美しさを忠実に復元したそうです。
重要文化財にも指定されている二の丸御殿は二条城などと並んで全国でも数少ない完存御殿建築遺構だそうです。

攻城時間は75分くらいでした。

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刑部

自粛の中近場で (2021/01/10 訪問)

緊急事態宣言で自粛しなければなりません、私の県は大丈夫ですが他県への移動は避けながら地元で散策。散歩や自転車での移動で今回は栗橋城、結構空堀・土塁が遺ってます。

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赤い城

遊歩道だけでは良さがわからない (2020/01/09 訪問)

桜川駐車場から橋を2つ渡ると階段があり、左右に遊歩道があります。
遊歩道から適当な切岸から中に入って行くと主郭周りの空堀に降りることができます。
恐らく夏は藪ですがこの時季はなんとか歩くことができます。
北側に虎口があり、さらに堀底を進んでいくと西側は折れもあります。
主郭にもかなり高い土塁が残っていました。
この時季でも主郭は結構な藪でした。
堀底を南側に回ると竹林、というか竹藪。
こちらは二重の堀となっていました。
江戸氏、佐竹氏の城の特徴がわかる素敵な城。
遊歩道と石碑ではもったいない。
もう少し整備されたら良いですね。

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カズサン

見える化伐採中、本来の大手虎口、横堀確認出来ました (2021/01/14 訪問)

 先の投稿の続きです。
 東曲輪、5連続堀切、南曲輪、一騎駆けを堪能した後、メインの本曲輪、北尾根曲輪Ⅰ、北尾根曲輪Ⅱ、北尾根曲輪Ⅱと二の曲輪間の大堀切、二の曲輪西虎口、二の曲輪建物跡地表展示、二の曲輪高土塁、同虎口、西三の曲輪、三の曲輪と巡り5年前に探訪した遺構を再確認。
 現在三の曲輪北面の景観整備に伴う立木、灌木を伐採し勝間田城跡の土塁が重層的に見えるようにと整備工事中です、三の曲輪土塁、二の曲輪土塁、東曲輪土塁城塁が見える化されれば遠望にて城跡の存在を認識でき観光に大いに期待される事でしょう。

 工事の伐採を近くで見てましたら三の曲輪土塁に虎口の遺構発見、その北側に横堀が長く伸び虎口を防御している、5年前に探訪したときは茶畑を過ぎ出曲輪を越えた辺りより杉林、灌木で新虎口まで鬱蒼として見つける事は出来ませんでした、見える化工事のお陰です。
 三の曲輪の馬洗場池跡か?、本来の虎口を降りて三の曲輪土塁北側下に長く伸びてる横堀、まだ不十分ですが灌木、草木が刈られてました、三の曲輪土塁を北下から眺める事も出来ました、私的には新しい発見です当日の探訪十分満足、皆さんに感謝です。
 下って茶畑に成ってる出曲輪、狭い出曲輪馬出?を確認して駐車場へ。

 麓の駐車場から登る時、景観整備工事作業の方に声かけられ小型トラック荷台に便乗させてもらいました三の曲輪直通でした感謝です。
 伐採が終わって見える化景観整備完成の3月末頃には一段と変わった勝間田城が出現する事でしょう、楽しみです。

 歴史的、構造的内容は初登城投稿済みにて省略します。

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退会済み
ユーザー

神明宮 (2021/01/15 訪問)

日没後に到着…。栃木県道174号線沿いの神明宮に案内板あり。

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小城小次郎

見事な石垣は、素戔嗚神社に守られた (2021/11/22 訪問)

佐敷城、あるいは津和野城をも彷彿とさせる見事な石垣は、関ヶ原直後に廃城となったとは到底思えない素晴らしさ。城域がまるごと素戔嗚神社の管理下にあったことが、結果的に城を守ることになったのだそうだ。

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城好きのメガネ

「桜井城」 (2020/03/28 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
桜井城は、安城松平長親の子・信定が入り、桜井松平初代となった。松平信定は、松平清康に属して牧野氏の吉田城や織田氏の岩崎城、品野城攻めで活躍した。1530年、宇利城攻めで清康の不興を買う。1535年、守山城攻めで清康の指図に従わず疎遠となる。清康の死後、織田氏に内通し、松平広忠を岡崎城から追放するなどし、念願の惣領の座についた。岡崎城を追われた広忠は今川義元に支援を求め、今川を後盾にした広忠が岡崎城に戻ると、以前まで従っていた家臣たちは次々と離反し、信定は岡崎城から追われた。その後、広忠に謝罪し、和解する。以降約70年間、6代にわたり桜井松平氏の居城となった。1590年、桜井松平氏は家康の関東移封に従ってこの地を離れ、廃城になったとされる。その後、桜井松平氏は、江戸時代に大名として各地を転じ、摂津国尼崎藩で幕末を迎えた。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
名鉄西尾線 桜井駅 徒歩15分

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