続日本100名城認定の新高山城跡(にいたかやま)
案内板などしっかり整備されてます
駐車場には地図付きパンフレットもあり
※令和3年7月8日の大雨により、登山道が崩れて
当面の間、登山禁止
駐車場から徒歩5分程のところです
4枚目の写真
それ以降の写真は前回撮ったものです
御城印は三原駅の「うきしろロビー」にて購入
参考までに三原城跡の御城印もこちらで購入可能
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2021/08/26 22:54
小早川氏城跡、新高山城 (2021/08/16 訪問)
続日本100名城認定の新高山城跡(にいたかやま)
案内板などしっかり整備されてます
駐車場には地図付きパンフレットもあり
※令和3年7月8日の大雨により、登山道が崩れて
当面の間、登山禁止
駐車場から徒歩5分程のところです
4枚目の写真
それ以降の写真は前回撮ったものです
御城印は三原駅の「うきしろロビー」にて購入
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2021/08/26 22:34
お城川柳
アンバサダー特別賞受賞しました。
模擬天守について改めて考える機会があり何気なく読んだ句でしたが、このような評価をいただきありがとうございました。
とてもうれしく、そしてびっくりしました。
新型コロナウィルス感染症拡大のため城めぐりへ行けていませんが、健康に気をつけながら秋の中旬には遠征にいけることを信じて妄想をめぐらしながら準備をする今日この頃です。
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2021/08/26 22:32
2021/08/26 17:42
石倉城に行ってきました (2021/08/25 訪問)
石倉城に行ってきました
注意書き
・ここの石倉城二の丸公園(石碑があるところ)は
地蜂らしきものがいます。地面にあるあなは巣なので
そこはふまず、さらに公園に近寄るのは避けてほしいです
ここは1485年に長尾憲景が築城しました。
堀は利根川の水を久留間川を利していれていたといわれている
その城主長尾憲景が総社長尾氏と白井長尾氏と長野氏との戦いの
新井城の戦いで戦死し、三男の長景が城主となったが
石倉城が関東要衛であるため信玄に攻められ落城し、
内藤修理亮政豊及び外記親子が城主となりました
ですが内藤修理亮政豊が長篠で戦死すると外記は
厩橋城代北条高広の軍門に降り北条家臣寺井左馬助が守りました
この間80年間は度重なる攻防凄惨な流血を繰り返して
1590年に德川進行により寺井左馬助が
松平康国との井野川の戦いで奮戦したが負け、石倉城に退きました
ですが一応松平康国は戦死、勝った理由は弟が1000騎馬で攻めまくり、
勝ったと言われている。そして負けた左馬助は城に火を放ち自害し
石倉は廃城となった
〔城情報〕
・築城年代 1485年
・形体 平城
・築城者 長尾憲景
・主要城主 長尾氏、内藤氏、寺井氏
・主な遺構 消滅
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2021/08/26 12:49
蒼海城に行ってきました (2021/08/25 訪問)
蒼海城に行ってきました
総社神社に地図がある蒼海城。
地図を見ると本丸を中心にたくさんの郭があり
結構大きな城だったのかと思います。
豊後、讃岐、出雲、松本など地名のつく郭があり
たいへん面白いです。
〔城情報〕
・平城
・築城年代 永享元年(1429年 )
・築城者 総社長尾氏
・主な城主 総社長尾氏、諏訪氏、秋本氏
・主な遺構 土塁
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2021/08/26 10:44
2021/08/26 09:54
栄華を極めた遺跡だけでなく、詰めの山城も (2020/09/27 訪問)
一乗谷の東側に連なる山稜に広大な山城があった。
比高差のある山稜に土木工事を施した山城だが、広大な縄張り、畝状竪堀など一見の価値は十分ある。
朝倉義景が織田勢の追討に命からがら一乗谷の巨石城門にたどりついた時、従う家臣は100名にも満たなかったという。これだけの詰めの城がありながら一乗谷に立て籠ることもできず、さらに山深く落ち延びざるを得なかった義景の心境やいかに。
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2021/08/26 00:46
ありがとうございますm(__)m
お城川柳キャンペーンでは1ヶ月以上楽しませていただいた上、賞までいただきありがとうございます。
朝田さんのお声がけがなければ参戦していたかどうか…。
【お城川柳122】
城川柳続けてみようか1,000句まで
川柳だけに1,000柳。
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2021/08/25 21:38
今川方の進軍目的はどこにあり、織田方は何を狙ったのか (2021/05/29 訪問)
見つけにくいが案内看板もちゃんとある。大高・鳴海両城と周辺の五砦を見てみたが集積度が高くて今見ても緊迫感がある。今川は何よりもまずこの五砦を除いて二城を救うことが主目的だったのだろうと現地を見て思うようになった。
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2021/08/25 21:04
2021/08/25 16:41
越前朝倉氏の末路 (2020/09/26 訪問)
朝倉氏が若狭武田氏を侵略する際の拠点となった城。本丸を固める堀、石垣は見事だ。
しかし、訪問した目的は朝倉氏が滅亡した道をたどるため。
小谷城救援の第二回目の派兵では信長に奇襲され朝倉義景は戦線離脱を決意して一乗谷へと帰路をとる。が、刀根坂で信長の軍勢に追いつかれ大敗北、義景は命からがらこの疋田城に駈込み一夜を明かしたという。
この城を訪れ、この時の義景に思いを馳せた。この後、義景が一乗谷へ帰国するため越えた木ノ芽峠へも足を運ぶ。峠をはさんで複数の砦もあったが、すでにわずかの兵しかなく帰路を急ぐ他しかなかったようだ。
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2021/08/25 13:04
■黒田官兵衛(如水)が築き、家康の末裔が引き継いだ「中津城」 (2021/06/23 訪問)
「官兵衛は中津城を手掛けるものの、完成させることなく慶長5(1600)年、黒田家は筑前、つまり福岡に転封(てんぽう)、国替えになります。
築城、修復を繰り返しながら形を整え、徳川家とゆかりの深い奥平家が維新までの約150年、中津藩主とこの地を納めました。
堀には海水が引き込まれているため、水城(海城)ともされ、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられるそう!
本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、黒田家の石垣に細川家が石垣を継いだ境が見られます!
黒田は戦乱の時代に本丸にふさわしい堅固な石垣(右)を組んだのに対し、
細川は平和時に加工していない自然石(左)を使い合理的に石組みを行った。
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2021/08/25 12:26
鶴が羽を広げたように見える優美な唐津城(からつじょう) (2021/06/25 訪問)
東西に伸びる松原が両翼を広げた鶴のように見えることから、別名「舞鶴城」と呼ばれています。
唐津城は、豊臣秀吉の家臣“寺沢志摩守広高”が慶長7年(1602年)から7ヶ年の歳月を費やして完成したと伝えられています。
現在の天守閣は昭和41年に完成したものです。
*海沿いの石垣「唐津城」 海から直接そびえる石垣
*虹の松原と海のコントラスト!国の特別名勝で、「日本三大松原」の一つ。(静岡:三保の松原、福井:気比の松原)
長さ約4.5km、幅約500mの松原が虹のように弧を描く!江戸時代のはじめ、初代の唐津藩主であった寺沢広高が防砂や防風のために、 植林をしたのがはじまりだそう。
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2021/08/25 12:01
城びと川柳
今回の城びと川柳で、作った川柳の一作が入賞に選ばれました😊
とても嬉しいです🥰
有難う御座いました🙇
次回開催も楽しみにしております。
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2021/08/25 08:40
博労淵砦(大阪市西区立売堀) (2021/08/15 訪問)
博労淵砦(城びと未登録・伯楽淵砦とも)は、大坂冬の陣において豊臣方により築かれた砦で、守将として薄田兼相が置かれましたが、蜂須賀至鎮、石川忠総らの攻撃を受け、陥落しました。
木津川の中州(伯楽島)に築かれたとされますが、遺構はもとより石碑も説明板も何もありません。ただ、木津川沿いに建つ朝日プラザ長堀西のあたりは周囲より一段高くなっていて、この辺りにあったものと思われます。その他、朝日プラザ長堀西から南に徒歩5分の伯楽橋にその名の名残を感じられるくらいです。
…ということで、所用で近くに来たついでの大坂の陣史跡めぐり(第12回)です。
冬の陣の博労淵の戦いは、守将の薄田兼相が女郎屋に泊まり込んでいて不在だったため、博労淵砦はあっさりと陥落し、薄田兼相は「橙武者」(見た目は立派だが飾り物にしかならない)と誹られることになりますが、その汚名返上の思いが夏の陣の道明寺の戦い(勇戦するも討死)につながっていったのかなぁ、とも。
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2021/08/25 06:47
日本遺産「村上海賊」 (2021/07/22 訪問)
能島城から松山市に向かう途中、撮影してみました。国道196号の両側に駐車スペースがあるので車でのアプローチが便利ですが、撮影スポットまでは予讃線伊予亀岡駅から1km程度なので徒歩でのアプローチも難しくはありません。島に渡るにはチャーター船を使うしかないので、遠望しただけですが、攻城と云うことにさせてください。日本遺産「村上海賊」の構成資産なので、いつか上陸ツアーなんか催されることを期待しておきたいと思います。
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2021/08/24 22:19
「青天を衝け」にも登場 (2021/08/22 訪問)
岡部駅から徒歩で20分弱。
住宅地と畑の中に石碑が立っています。
石碑の隣には3台駐めれる駐車場が出来ていました。
この石碑、砲術家の高島秋帆が幽閉された地として立っています。
ここから北側に陣屋があったとされています。
ちょうど石碑の前は名物深谷ネギ畑。
美味しそうでした。。。
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2021/08/24 21:50
ちょっとしたスーパースター対決だ (2021/05/29 訪問)
織田を見限って今川についた山口教継が今川に粛清された後、鳴海城に入ったのは後に高天神城でその名を馳せる岡部元信。目と鼻の先の善照寺城にいた佐久間信盛との対峙は、なんだかスーパースター対決みたいではないか。
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2021/08/24 18:50
井田城のデジャブ。 (2021/05/02 訪問)
昨日、投稿した「井田城」と同じく公園をウロウロして、学校の回りをグルグルした「蒔田城」です。
足利将軍家の分家、エリートクラス吉良 頼康さんの「蒔田城」です。
頼康さんは、北条 氏綱さんの娘と結婚しました。
北条家の家臣と言うより食客の扱いだったようです。
エリートですから、、、。
『蒔田殿』なんて呼ばれていたんだそうです。
「蒔田城」は蒔田の森公園に馬場があるそうで、まずは公園を目指しました。
と、これは帰ってきて気がついたのですが、私が行ったのは『蒔田公園』。
『蒔田の森公園』が正解です。
蒔田公園はきれいな花壇とカラフルな遊具があり、たくさんの親子連れが遊んでました。
遺構を探しても見つからなかったのは当然です。
その後、高台にある女子高を目指しましたが、お城跡は確認できませんでした。
またしても退陣。
吉良氏も呆れたにちがいない「蒔田城」攻めでした。
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2021/08/23 23:36
砦の跡は、今でも砦なのだ (2021/05/29 訪問)
今川方の手に落ちた鳴海城への備えとして築かれた三砦の中では最も鳴海城に近く、守将も佐久間信盛とエース級だった。跡地は現在「砦公園」となり、住所は名古屋市緑区鳴海町「砦」。これだけでわくわくするではないか。
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