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ながす

浜松城 (2020/10/17 訪問)

御城印3つ目は浜松城!
我が出身地の遠江国!!

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ながす

岡崎城 (2020/10/03 訪問)

御城印2つ目は岡崎城!
神君出生の地!!
家康公の銅像がカッコいい!!

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ながす

名古屋城 (2020/09/26 訪問)

御城印集めスタート!
1つ目は名古屋城!
天守閣はまた今度、、、、

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赤い城

公園の外に良好な遺構 (2021/01/23 訪問)

公民館の駐車場に車を停めることができます。
城址入口にパンフレットもあり、公園として整備されています。
駐車場からいきなり竪堀、通路を進むと西の虎口、下に下りると堀も素敵でした。
西から北にかけてゴルフ場と隣接しています。
北側には竪堀や曲輪群も残っています。
主郭部は整備されていて見晴らしもよい!
この日は雨だったのでイマイチでしたが。
東側にも堀や土塁、土橋もあり整備されていないところにも見どころ充分!
法螺貝城ところ呼ばれていることにも納得できる素敵な城でした。

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小城小次郎

よくも悪くも、今も昔も印象は変わらない (2020/11/27 訪問)

「城をやる」の掲載が始まったばかりの2001年以来の訪問だったが、当時も今も印象はほとんど変わらない。国史跡のはずだが岐阜城が目立ちすぎるせいかここに城があることそのものが忘れ去られてしまっているかのよう。

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キンヤ

武田流の築城技術が詰まった勝頼の城 (2019/04/21 訪問)

NHK 先人たちの底力 知恵泉 選「武田勝頼(前編)」を見まして、勝頼の新府城を思い出されましたので投稿させて頂きます。
もしかすると次の後編で紹介されるかもしれませんね。

長篠の戦いで負けた後に、立て直しを図る為、躑躅ヶ崎館から本拠を移した城とされます。

城の完成前に織田信長軍に侵攻され、勝頼は城に火を放って落ち延びたといわれます。

出構、枡形虎口、丸馬出など素晴らしい遺構が残り、武田流の築城技術が詰まった凄い城だと思います。
もし、信長軍に攻められることが、もう少し遅くて完成していたら、勝頼はこの城で立て籠もったのかとか、丸馬出の三日月堀はもっと深かったのかと思いにふけました。

行った時は、本丸でお祭りがされており沢山の人が来ていて、地元の人に親しまれている城で良いなと思いました。

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ひろ

飯野陣屋 (2021/01/27 訪問)

御城印もらいました。

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カニカニ

所用にかこつけた城巡り 13城目+α (2020/11/23 訪問)

昨日、明るいうちに神戸大阪京都を越えようと明石海峡大橋を走っていたら、事故渋滞の案内が・・・。
若狭経由で北陸へと、ルート変更。

旗日の今日は、県庁はじめ官公庁が休みなので絶好の登城日和(?)。 

藩主が御座所の西三の丸から本丸へと入るのに使われた廊下橋が復元されている。
ある研究によると、いまは消滅した橋や城も含む数だが、かつて18か所もの廊下橋があったそうな。
復元ながら高松城・府内城・和歌山城などは、ちゃんと屋根もある廊下橋である。
その他は屋根なども無く普通の橋になっているが、絵図や記録には残っているそうだ。
「エッ! あの城の、あの橋も廊下橋だったのか!」。
そういえば今回の旅、5城目の佐伯城にも廊下橋があった。(ちょっとイメージとは違ったが・・・)

天守曲輪から眺めると、復元された廊下橋や外枡形の様子がよくわかる。
しかし過去に起きた福井地震のせいなのか、それとも別の原因なのかは分からないが、
この天守曲輪の足元の石垣が大きく孕んでいるのがとても気にかかる。

天守台はどうかといえば、液状化で陥没したのか中央はへこみ、石垣は大きくうねっている。
天守曲輪には控天守台というものがあり、これも大きく損壊している。
それにしてもこの控天守台とは、何?   小天守台なのか?
建物が建っていたのか?   いずれ建てるつもりで準備して造ったのか?

本丸内部四方すべてに長い雁木が取囲んでいて、これほど大規模に造られた雁木を初めて見た。 
復元図によれば四方すべての雁木の上部は、多門櫓や土塀で全面を固めている。
さすが越前宰相の城。   

大手門傍の雁木と石垣の接合面も、隙間を小さい石で埋めるのではなくちゃんと一体加工していた。
(写真のナメクジが這っている石はヒビが入っているが、その下は無傷)

さて、北の庄城址まで歩き発掘された石垣を見てきた。
この場所は勝家が自害した北の庄城の、どの部分にあたる場所なのだろうか?
北の庄城の石は福井城に再利用されたらしいが、見てきた福井城はほとんど切り込み接ぎ。
目の前の石たちは、自然石。
ほとんどは外堀などの石垣に姿を変えたのだろうが、いまはそれも埋め立てられ道路や住宅の下に。
もし本丸に使われたことがあっても、表に出ない土台に使われたのだろう。

「いまは地中深くに埋もれておるが、いつか姿を見せるぞ。待っておれ。」 と思っていてくれればいいが。

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ぶーたろー

市民の森として整備されてるよ!

https://youtu.be/9Yj3KzyHLpY
↑この動画が参考になります。国道246号のすぐそばに深見城はあります。市民の森として整備されていて攻略しやすいお城です。反面城ファンには物足りないかも。

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イオ

土井城(和歌山県西牟婁郡白浜町田野井) (2021/01/10 訪問)

# 土井城は安宅本城とともに国史跡「安宅氏城館跡」を構成する城であり、安宅本城の支城と考えられるため、安宅本城で投稿します。

史料の裏付けはないものの、江戸期に書かれた軍記物「安宅一乱記」によれば、土井城は安宅氏当主・安宅安定の弟で土井氏の家督を継いだ安宅基定が拠った城で、兄を滅ぼして当主の座を得ようと挙兵した際に戦場となったとされます。その真偽はともかく、安宅一族が城主を務める支城だった可能性はありそうです。

土井城は天徳寺の裏山に築かれた城で、天徳寺の駐車場に駐めさせてもらい、墓地の奥の登城口から防獣柵を開けて5分ほど登っていくと、水道施設らしき建物の奥に横堀がある……はずですが、シダの藪と化していて何も見えません。少し行くと今度はシダが土塁と横堀の形に盛り上がり窪んでいました。さらに登った先にある虎口の手前と奥には石垣が設けられ、虎口から西にのびる横堀の土塁内側にも石積みが見られます。虎口を抜けると南の曲輪に至り、南東部に櫓台状の土壇、西辺から南西辺にかけて石塁があります。南の曲輪の一段上が主郭で、北端の櫓台(大日如来の石塔が祀られています)の北下では大堀切が北尾根を断ち切っています。

大堀切の先の北の曲輪に足を踏み入れたあたりから、シダの繁茂がさらに激しくなって顔の高さまで伸び盛り、足元も見えなくなってきましたが、もう少し行けば土井城最大の見どころである連続堀切群があるはず! と勇を鼓してシダをかき分けふみ分け何とか進んでみましたが……連続堀切群はシダの藪に沈んでいて何が何やら全くわかりませんでした。

横堀と竪堀を組み合わせ、虎口の導線に折れを設け、連続堀切群で尾根筋を遮断するなど、安宅氏城館跡の他の城に比べて技巧的な縄張で、大いに見応えがあるはずなんですが、シダのせいでその半分も目にすることができないというのは何とももったいないことですね。
 

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昌官忠

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」⑦ (2017/02/18 訪問)

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」の7城目は高松城です。丸亀城からの転戦です。
高松城は2回攻城しています。(3回目を2020/11に攻城予定でしたが、新型コロナの影響でキャンセル)
①2017/02/18(今回) 次男と二人でクラブツーリズムのツアーで攻城 
②2019/11/10 一人でレンタカーを借りて蛸橋目当ての攻城(投稿済)

1588年(天正16年)生駒親正により高松城築城開始
1640年(寛永17年)7月生駒高俊が生駒騒動により出羽矢島1万石に転封
1642年(寛永19年)2月松平頼重に東讃12万石が与えられ城内の改修を行う
1670年(寛文10年)8月小倉城天守を模した天守完成
1671年(寛文11年)東ノ丸・北ノ丸を新造開始
1677年(延宝5年)5月艮櫓完成
1868年(慶応4年)1月官軍に高松城開城
1884年(明治17年)老朽化により解体
現在城跡は「玉藻公園」として整備されており、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存します。
また、高松城の天守は小倉城や岩国城の天守のように「唐造り」でしたが、1884年(明治17年)に老朽化により解体されたため現存していません。

日本三大海城の一つ、お堀が海水なので鯛への餌やりができます。(自分が攻城した時は100円でした)
高松城と一緒に栗林公園にもいきましたが、近くに室山城があることは知りませんでした。知っていてもツアーなので行けなかったと思いますが。
撮った写真は高松城と栗林公園で併せて112枚。この中から選んだ10枚を投稿します。
攻城時間は180分くらいでした。

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昌官忠

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」⑥ (2017/02/18 訪問)

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」の6城目は丸亀城です。今治城からの転戦です。
丸亀城は2回攻城しています。(3回目を2020/11に攻城予定でしたが、新型コロナの影響でキャンセル)
①2017/02/18(今回) 次男と二人でクラブツーリズムのツアーで攻城 
②2019/11/10 一人でレンタカーを借りての攻城(投稿済)

1597年(慶長2年)生駒親正・一正父子が丸亀城築城に着手します。
1602年(慶長7年)生駒一正、丸亀城から高松城へ移り、丸亀城には城代を置きます。
1615年(元和元年)一国一城令で丸亀城は廃城となります。
1640年(寛永17年)生駒氏所領没収、出羽国由利郡矢島に転封後、1641年(寛永18年)天草郡、富岡城主山崎家治が領主となります。
1649年(慶安2年)幕府、山崎氏の丸亀城修復、普請等の指示を出します。
1657年(明暦3年)山崎氏絶家後、1658年(万治元年)京極高和が丸亀藩主となります。
1660年(万治3年)丸亀城天守が完成します。
1869年(明治2年)京極郎徹が版籍を奉還します。

石垣の美しいお城です。野面積み/打込みハギ/切込ハギの石垣、刻印も確認できます。
ただ、天守への上り坂は結構きついですね。また、天守内の階段も結構急なので注意が必要です
攻城時間は120分くらいでした。

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カズサン

【遠江・野地城】静岡県浜松市 佐久城の北800m程半島城 (2021/01/26 訪問)

 城びとに登録の無い野地城を佐久城を終えて平成27年6月以来同じく冬枯れの時期は如何にと探訪しました。
 地理案内と歴史案内は前回投稿2020/7/28登城日2015/06/25をお読みください。
 駐車場は無く野地城手前200m程の湖岸ウォーキング道始めに路駐、前回は車で野地城まで行けそうと書き込みましたが車走行禁止で停止柱で防いでます。
 湖岸ウォーキング道を徒歩200m程、本曲輪の西から登城出来ます、北側からは車走行禁止柱は無くまた本曲輪はグランドゴルフ場にも成ってる様で地元の方々の車利用が予想されます?

 本曲輪の西端に神社が在りますが現在は閉鎖され立入禁止状態、西から東に本曲輪は運動場、二の曲輪と三の曲輪はミカン畑で私有地、本曲輪の北西側に南北の空堀が確認、堀もミカン畑、三の曲輪から城域の南側の城塁を眺めるが樹木、笹竹が茂り良く見えない、本曲輪と二の曲輪南側の城塁に堀と堀の間を出構えにした遺構辺りに土塁と、堀、下に腰巻石垣のような石垣がミカン畑の隙間から見え近くで観察、当時の石垣か?戻って三の曲輪東北に堀が有り水が溜まってる、水堀か? 解説と案内図が欲しいが私有地に付き無理かな?
 私有地ですのでマナーを守って荒らさない様な見学を心がけましょう。
 案内、解説も無く良く分かりません浜松市文化財課で2017年3月発行してる「浜松の城跡 見どころマップ」には名前が載るのみで詳細は掲載されてません、佐久城の欄に佐久城と野地城が地図掲載されてます。
 投稿写真は前回と被らない様にと選びました。

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ぴーかる

長水城 (2020/12/13 訪問)

【長水城】
<駐車場他>城跡駐車場<35.043377, 134.533631>4台分程あり。
<交通手段>車

<見所>石垣
<感想>日帰り宍粟市攻城の旅2城目。長水城は南北朝時代、赤松則祐が築城、四男の広瀬師頼が城を受けぐ。広瀬氏が4代続き、その後宇野氏に受け継ぎ5代続く。1580年秀吉の長水城攻めにより落城した。
 駐車場からは約1㎞の登山です。道は整備されておりストックは不要かと思います。手前200㍍程に井戸跡があります。山頂部に主郭、主郭部分は信徳寺というお寺さんになっています。東面には見事な石垣が見られますが現地案内板によると後世の積み直しのようです(私には感状山城の南曲輪群の石垣と積み方・雰囲気が似ていると思いましたが・・)。南側尾根沿いに二の丸があります。さらにその南に三の丸があるようだがそこも行かず。東側には階段状の曲輪がありますが、上部に民家がありますので曲輪側面の石垣を見て終了した。ここの階段状の石垣も見事です。民家を通り抜け、主郭北側にも階段状の曲輪、姫の郭というのがあるみたいだが遠慮しておきました。

<満足度>◆◆◇

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カズサン

【遠江・佐久城】静岡県浜松市 浜名湖内湖猪鼻湖に突き出た半島城 (2021/01/26 訪問)

 城びとに登録されてない遠江・佐久城と遠江・野地城に夏の草の茂ってる平成27年6月以来振り、冬枯れ時期は如何にと探訪しました、地理案内と歴史案内は前回投稿2020/07/28登城日2015/06/25をお読み下さい。
 今回は前回投稿して無かった点を主に投稿したいと思います。
 駐車場は登城口に詰めて2~3台有り。
 登城ルートは登城口、馬出登り階段、角馬出、土橋、両サイドの空堀、二重空堀、本曲輪枡形虎口、本曲輪、井戸、雑兵建物跡、館跡、搦手虎口、搦手道の石垣残渣、本曲輪土塁、南曲輪を30分廻りました、草が刈られ枯れて搦手側は初探訪、前回気付かなかった本丸桝形虎口も観察、本曲輪南側大空堀が二重空堀に成ってる事を初観察、南曲輪と角馬出間の大堀切から前面の本曲輪南面の堀土塁は見上げる様に威圧を感じます。
 佐久城の見所は本曲輪手前の角馬出、土橋、左右の空堀ですが今回写真投稿は無く前回をご覧ください。
 2回目と成ると良く見えてくるものです冬時期の晴れた日は探訪日和です。

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じゅんじん

竹藪 (2021/01/02 訪問)

堀、曲輪はわかりますが竹藪で・・・。途中で撤退しました。

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じゅんじん

新宮城 (2021/01/02 訪問)

支城の谷を越えた北側にあります。写真じゃうまく表現できませんが土塁が素晴らしいです。

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小城小次郎

繁栄を極めた面影も今はなく (2020/11/27 訪問)

学校敷地なので不審者にならぬよう気を使って早朝散歩で見学したら、部活の朝練と重なり却って不審に見えたようだ(汗)。土岐氏守護所として西の大内と並び賞されるほどに栄えた面影は今はなく、ただ土塁の残欠が残るばかり。

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じゅんじん

支城でも高い土塁 (2021/01/02 訪問)

特有の高い土塁単郭方形城でした。

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イオ

中山城(和歌山県西牟婁郡白浜町田野井) (2021/01/10 訪問)

# 中山城は安宅本城とともに国史跡「安宅氏城館跡」を構成する城であり、安宅本城の支城にあたるため、安宅本城で投稿します。

中山城は室町期に榎本直光によって築かれたとされ、後に地名から田井(たのい)氏を名乗りましたが、安宅氏に攻められ被官となった後は安宅本城の支城として機能したようです。

中山城は田野井地区の小高い独立丘に築かれた館城で、北麓の登城口には説明板が建てられ、その前に車1台(縦になら3台ほど)駐められるスペースがあります。登城口から5分ほど登ると副郭北下の二重横堀(外側)に至り、内側の横堀を越えて少し登ったところが副郭です。副郭は北辺と西辺に土塁をめぐらせ、土塁の内周と外周には部分的に石積みが見られます。副郭南側の一段高くなったところが主郭で、西辺と南辺に土塁がめぐっていますが、発掘調査でも主郭の土塁には石積みは確認されなかったようです。

方形の曲輪を二つ並べて土塁で囲み、その周囲(東側を除く)に二重横堀をめぐらせた、構造としてはシンプルな館城ですが、堀幅は広く、切岸は高く、土塁は分厚く、重厚な迫力のある城でした。ただ、藪化していてよく見えないところも多く、もう少し整備されればさらに見応えが増すと思うんですけどね。
 

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