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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目:深草城 (2021/06/27 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目の9城目は深草城です。
谷戸城から転戦。田んぼ付近の空スペース(35.846535、138.3830)に駐車しました。

深草城は平安時代末期に逸見氏が築いたという伝承が残っているが、確かなのは戦国時代に武田氏の家臣である堀内氏が居城としていたことで今も末裔の人たちが暮らしているそうです。
八ヶ岳の南西にある丘陵地帯に築かれた丘城で、谷戸城の支城であったと考えられています。
堀内下総守とその子である堀内主税助が城主をつとめていたとあり、主税助のときに落城しました。
その後、武田氏滅亡後に起きた「天正壬午の乱」では北条氏が利用しましたが、撤退後に廃城となりました。
現在城址には土塁や堀切などの遺構を確認することができるようです。

丸太橋を渡り内部に進入。想像していたより広かった。
北と南に分かれた曲輪は土塁に囲まれており、特に北東側が良く残っている。城の周りは川に囲まれていた。
攻城時間は10分くらいでした。

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くっしー

住宅街にこじんまりとしたお城 (2021/07/03 訪問)

小さなお城ですが、

土塁がしっこり残っていて、

その周りにお堀があって、

高台という立地もお城らしさがあっていいいですね。

土塁の中は公園になっているので、自分が行ったときは誰もいませんでしたが、

天気の良い土日などは地域の憩いの場としても素晴らしい場所なんだろうなと思います。

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くっしー

少し静かすぎるかな。 (2021/07/03 訪問)

コロナの影響があるにしても、全く人がいなくてびっくりしました。

桜の時期に来ると綺麗なんだろうなとは思います。

とても大きなお城で、広いのに建物がほとんど残っていないので見学していてちょっと間延びしてしまいますね。

しかし、お堀は素晴らしい。深いですね。

大手門のところに少しだけ石垣が残っていましたが、あそこの枡形がしっかりと残っていれば見栄えするのになぁ~と…

もっと面白い見せ方はあると思うんですよね。

例えばVRで建物を再現するとか。

少し批判的な内容を書いたので、気分を害された方がいたら申し訳ありません。

ただ、ポテンシャルはもっとあるはずの城だと思いますよ!!



隣接する高遠町歴史資料館は面白かったですね。

特に大奥最大のスキャンダル“絵島・生島事件”の絵島の流された場所ということで、絵島囲屋敷が復元されていたのは面白かったです。

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肉球

吉江陣屋 福井県鯖江市 (2021/06/23 訪問)

福井藩の分家筋の陣屋跡です。
結城秀康の孫、松平昌親が25,000石を与えられこの地で陣屋を築きました。
この昌親公に近松門左衛門の父親が仕えていたようで
この地で生まれたとされる説もあるようです。
跡地に遺構はなく石碑のみですが
浅水川を渡ったところに七曲通りとよばれている
メインストリートがあり古い町屋や長屋門が残っています。
また少し離れた西光寺には陣屋表門が移築されています。

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小城小次郎

ダブル・ダブル本城 (2021/04/24 訪問)

同じ三浦市内の新井城も三崎城と呼ばれ、同時期に二つの三崎城が三浦氏の「ダブル本城」として存在していたらしい。後北条氏の時代には韮山城主の北条氏規が三崎城主も兼ねていて、これまた「ダブル本城」だったらしい。
城域内の公共施設がほぼ引き払った今、ぜひともお城再建にまい進してほしいところ。

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にのまる

【お城川柳】 (2021/04/18 訪問)

東国の毛細血管の如く生く

供養塔の碑文を読んで浮かびました。

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朝田 辰兵衛

【お城川柳】薩摩といえば… (2020/12/05 訪問)

「西郷どんを 見守り続ける 桜島」

主役を桜島にシフトしてみました。

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くっしー

ちょうど城の真ん中を道が横断 (2021/07/03 訪問)

くねくねと曲がりくねる坂道を走っていたら、突如「赤須城跡」という標柱が現れてびっくりしました。

どこに車をとめようかと思っていると、さらに標柱と説明看板。さらに100mほど行くとトイレと駐車場を見つけることができました。

城跡はこの市道が横断していますが、空堀をいくつか確認することができました。お城は舌状台地に築かれていおり、地形を活かした守りになっています。

本郭や外郭は木が茂っていて全体像を見るのは困難ですね。

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くっしー

行ったけど閉館中だった( ;∀;) (2021/07/03 訪問)

下調べしてなかった自分が悪いのです。

まあ、この日のお目当ての城ではなくて、ついでに寄った城だったのでこんなことになったんですが…

にしても、木・金曜日と第2・4土曜日しか開いてないって、少なすぎませんか?

これもコロナの影響ですね。悲しい限りです。

というわけで、どんな施設なのかということは他の人の投稿を読んでください。

ちなみに、駐車場は町営のものを利用できました。

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くっしー

看板の縄張図が優秀 (2021/07/03 訪問)

本丸周辺は公園として整備され、さらにその周りは耕作地や住宅地になっているので、何も知らないと本丸以外城に見えないのですが、説明看板のとこに描かれている縄張図を見ながら踏査すると、当時の姿が鮮明に見えてきます。

本丸の西側が谷になっていて南に向かって道が続いているのですが、これはかなり大きな空堀ですね。その西側にあるニの郭とを隔てる重要な城の防御施設です。


その谷を南に進むと段々上に平坦面が続いていきますが、これは出丸のような機能を持つ場所でしょうね。

そういった目で見ていくと二の郭の西にも堀がありますね。

次に別の城に行く予定があったので、30分程度で切り上げてしまいましたが、この縄張図をもって一日かけて踏査すればなかなか面白いお城だと思います。

看板の縄張図の下には「下伊那農業高校社会研究班作成」と書かれていました。ということは、高校生が書いた縄張図ということでしょうか?高校生でこんなきれいな縄張図が書けるなんて凄いですね!!

公園なので駐車場もトイレも設置されているので、訪問しやすいお城です。

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にのまる

【お城川柳】

高虎も積んでいたのねハート石

カワ(・∀・)イイ!!

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atsufumi

市民に寄り添うお城 (2021/07/05 訪問)

みんなに触れ合いに来てくれた金鯱ご夫婦。

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肉球

高森陣屋 福井県越前市 (2021/06/23 訪問)

紀州徳川光貞の三男頼職が30,000石ほど分知され立藩 
越前市高森に陣屋を築きました。
跡地は住宅街になっていますが公園に陣屋案内図があり
それにより表門や堀跡の場所を確認することが出来ます。

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カズサン

【お城川柳】やっとの初登城時を詠んでみました (2020/11/24 訪問)

 ・ 大隅の シラス台地に 肝付の城

 ・ 静寂の 大隅やまじろ 自顕のさと

 鹿児島市内に泊まって桜島フェリー経由台地を昇り降り約2時間半の道中を経て到着、閑散とした静けさ登城者は私一人だけ、シラス台地を刻み曲輪が夫々、大木の杉が林立してる、公民館駐車場付近には自顕流発祥の地の看板が立てました。
 示現流と自顕流をネットで調べましたが同じ読みで「ジゲンリュウ」ですが別流の様で、幕末に薩摩武士が多く使ったのは野太刀自顕流の方と有りましたが良く調べ切れてませんのでお調べください。

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カズサン

【お城川柳】天守台眺望と有名な城下かれいで一句

 ・ 天守より 城下かれい 透けて見え

 日出城天守台からの別府湾眺望と眼下の海で獲れる城下かれいが有名です、食した城下かれいの薄作りと透き通った海を掛け合わせてみました。(残念ながら城下かれいの料理を食した写真は撮って居ませんでした)

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イオ

【お城川柳】腹が減っては戦ができぬ

ことわざを 身をもって知る お昼抜き

佐柿国吉城に登城した際に、本丸で眺望を楽しみながら食べようと考えていた昼食のおにぎりを買いそびれ、空腹を抱えたまま歩き回った結果、気力も体力も尽き果てて、まだ午後1時台ながら後の予定を切り上げて帰宅したことがありました。まさに「腹が減っては戦(城攻め)ができぬ」を身をもって知りました…。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目:谷戸城 (2021/06/27 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目の8城目は谷戸城です。
古宮城から転戦。北杜市考古資料館駐車場(35.858053、138.385640)に駐車しました。

谷戸城は逸見清光の居城と伝わり、江戸時代に成立した『甲斐国志』によれば、清光は1199年(正治元年)に当地において死去したといいます。
平安時代後期には治承・寿永の乱において甲斐源氏の一族が活躍します。
『吾妻鏡』によれば、1180年(治承4年)8月24日には石橋山の戦いにおいて伊豆国の源頼朝が敗北し、翌8月24日には北条時政・義時親子が甲斐国入国を試みたといいます。
9月10日には甲斐源氏の武田信義らが信濃国へ出兵して平家方と戦い、9月15日には甲斐へ帰還し、武田信義・一条忠頼ら甲斐源氏一党は「逸見山」に集結したそうです。
甲斐源氏の一族は「逸見山」において頼朝の使者である北条時政を迎えたといいます。「逸見山」の比定地は北杜市域に複数候補地があり、当地もそのひとつとされるそうです。

戦国時代には武田晴信(信玄)期に信濃侵攻を開始します。
『高白斎記』の1548年10月7日(天文17年9月6日)に拠れば、晴信は信濃国佐久郡の前山城攻略のため出陣し、「矢戸御陣所」において宿泊したことを記しているが、これが谷戸城を指しているかは不明だそうです。
晴信は9月7日に海野口に、9月9日には宮之上に到着し、9月11日には前山城を攻略しました。

また、『国志』によれば1582年(天正10年)3月の武田氏滅亡後、同年6月の本能寺の変により「天正壬午の乱」が発生します。
天正壬午の乱において甲斐は三河国の徳川家康と相模国の北条氏直が争奪し、家康が新府城を本陣に七里岩台上の城砦に布陣したのに対し、後北条氏は若神子城を本陣に、周辺の城砦に布陣しました。
この時、後北条氏は谷戸城へも布陣していたといいます。

谷戸城はこの戦いで北条氏方の城となり、その際に北条氏によって改修されたと考えられています。

北杜市考古館が史跡公園に併設されてます。
整備状態は申し分なく、説明板も非常に解りやすいです。 二の郭の外周をほぼ一周している横堀がよかったです。
攻城時間は30分くらいでした。

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todo94

西超勝寺 (2021/06/05 訪問)

西超勝寺が藤島城なのですが、こんなに巨大な寺院がカーナビで引っかからないとはどういうことなのでしょう。立派な城址碑と説明板のほか、本堂の裏手にわずかながら土塁の遺構が残っています。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目:古宮城 (2021/06/27 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目の7城目は古宮城です。
獅子吼城から転戦。津金明治学校駐車場(35.850749、138.445012)に駐車しました。

古宮城は、室町時代に津金氏によって築かれました。
文明年間(1469~87年)常陸佐竹氏の一族薩摩守胤義と子・美濃守胤秀が武田信昌を慕って甲州に来て、津金郷に封ぜられ、姓を佐竹より津金と改めたそうです。
津金氏は津金衆惣領家として武士団を率い、武田氏に従って国境警護を任されていました。
武田氏滅亡後に起きた「天正壬午の乱」では津金衆は徳川家康に与し、徳川方の先峰として北条方の獅子吼城を攻略するなどの活躍をしています。
江戸時代には望まれて尾州藩に仕え、その後、廃城となったようです。城跡と古宮の社は地域守護の要の地霊社として、氏子が維持しているそうです。
明治の学制の頒布に伴い、明治8年(1875年)古宮城跡に藤村式校舎が完成し、現在に至っているそうです。

須玉町歴史資料館の背後にある諏訪神社一帯が城址で、境内の本殿西側に土塁と空堀の一部が残っています。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目:獅子吼城 (2021/06/27 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目の6城目は獅子吼城です。
若神子城から転戦。登城口付近空スペース(35.818320、138.467284)に路駐しました。
路駐場所から徒歩1分/150mの説明板前登城口(35.818644、138.467759)から登城しました。

最初の築城は不明ですが、平安時代には馬の産地であり、朝廷直轄の牧があったとも言われています。
鎌倉時代の末期である1320年に、信田小右衛門実正と、信田小太郎実高の父子が、家来と共に討死したと言う記録が地元の見性寺に記録としてあるそうです。
1394年~1428年には、江草信泰(江草兵庫助信泰)が、獅子吼城主として見受けられます。
この江草氏は、甲斐の武田一族で、江草家の初代・江草信景は、武田信重や武田信長の弟です。
その後、高白斎記によると、永正6年(1509年)10月23日に、小尾弥十郎なる武将が、獅子吼城(江草城)を乗っ取ったとあります。
乗っ取りですので、合戦があったとは限りませんが、巨摩郡の豪族である小尾氏から江草家の養子になり、事実上、乗っ取ったと言うことなのかも知れません。
戦国時代に小尾氏の小尾党は、信州峠の川上口の警固を行っています。
1530年前後の獅子吼城主は、今井信是・今井信元の親子で、諏訪頼満や、大井氏・栗原氏と協力して、武田信虎と敵対しています。
しかし、今諏訪の戦いで武田信虎に大敗を喫します。
今井信元は浦の城(獅子吼城)にて籠城したようですが、1532年9月に降伏し、これにより、武田信虎の甲斐統一となりました。

武田信玄の時代には、烽火ネットワークの中継基地として、重要な場所であったと考えられています。
武田氏滅亡後に起きた「天正壬午の乱」では、北条軍が占拠しましたが、服部半蔵が率いる伊賀組、武田氏遺臣の津金衆・小尾衆らが夜襲をかけて落城させました。
その後、和睦が成立し、甲斐が徳川領となると廃城となりました。
現在城址では大規模な石塁の遺構を見ることができるそうです。

目指した登城口は途中から私有地で通行止めの説明があったので、本丸まで行かず途中で引き返しました。
それでも石積と竪堀は確認できました。
攻城時間は20分くらいでした。

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