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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:城びと未登録(静岡県御前崎市)八幡平城 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の21城目は八幡平城です。
横地城から転戦。八幡平城説明板(34.682472、138.130613)に駐車しました。大手道登城口のGPS座標は(34.682196、138.129327)。

八幡平城の詳細は不明ですが、この地の土豪である新野氏の居城だったと推定されています。
新野氏は室町時代中期から後期に舟ケ谷城(新野新城)を築きましたが、その後も詰城として維持されました。このため新野古城とも呼ばれます。
天正年間初期に武田勝頼によって、高天神城への軍道の抑えの城として改修されましたが、1581年(天正9年)に高天神城が落城するとともに廃城になったと考えられます。
現在城址には連続堀切や馬出しなどの遺構が残り、武田氏独特の築城術を確認することができるようです。想慈院の駐車場に説明板が建てられています。

事前調査だと攻城時間は45分くらいかかりそうなのと雨の為、攻城を諦め、説明板の写真のみを撮って撤収しました。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:横地城 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の20城目は横地城です。
斯波武衛邸宅から転戦。千畳敷(34.727308、138.115574)に車を駐車しました。

南北朝時代に10代・横地家長が城を築いたとされます。以後、14代・横地秀国の代に滅ぼされるまで、横地氏の本拠地でした。
1476年(文明8年)今川義忠に焼き討ちされ落城。城主横地秀国は討死しました。現在はわずかな遺構が残るのみです。

千畳敷で雨が止むのを暫く待ちましたが、止む気配はなく、かえって強くなった為、諦めて撤退しました。千畳敷まで車で上がれますが、かなり道が狭いです。
攻城時間は20分くらいでした。(ほとんど雨待ち時間です)

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:城びと未登録(静岡県菊川市)斯波武衛邸宅 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の19城目は斯波武衛邸宅です。
藤丸館から転戦。標柱前(34.725877、138.108782)に路駐しました。

築城年代は定かではないが室町時代中期に横地氏によって築かれたと云われています。
1441年(嘉吉元年)今川氏が遠江国を横領したことによって、遠江国守護の斯波武衛が下向、この時に横地氏が武衛家を向かえた所といわれています。

雨の中、車の中から写真を撮りました。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:城びと未登録(静岡県菊川市)藤丸館 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の18城目は藤丸館です。
黒田代官屋敷から転戦。説明板前(34.724996、138.106370)に路駐しました。途中、横地一族の墓(34.725395、138.105203)があります。

築城年代は定かではないが室町時代中期に横地氏によって築かれたと云われています。
1476年(文明8年)今川義忠よって横地氏・勝間田氏は見付城を攻められ横地秀国は討死します。その遺児が藤丸と伝えられています。

攻城時間は5分くらいでした。

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うっちー幸村

【お城川柳】

想像で ビル街狙って 射撃する

ついつい妄想が進みます。

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うっちー幸村

【お城川柳】

在りし日に 栄華を極めた 天守閣

在りし日の姿を想像し。

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うっちー幸村

【お城川柳】

ゆうゆうと 武骨にそびえる 高石垣

かっこいいですよね。

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朝田 辰兵衛

【お城川柳】オレたちひょ●●ん族 (2021/05/04 訪問)

「アレは何? 鳥だ飛行機だ T●●Eちゃんマンだ!!」

偶然,例の“サタデーナイトフィーバー”画像を3枚も撮っていました。この3枚をスライドかけてみたら「おぉっ」となりました。ぜひ,カルビンさんに評価をいただきたいです。
個人的には,今回の【お城川柳】キャンペーンの最高傑作しれません。

明日からの4連休,お出かけしちゃいます。

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にのまる

【お城川柳】 (2021/07/21 訪問)

いつまでも眺めていたいが暑いのよ🥵💦

 先日朝田さんご投句の牛込見附(飯田橋駅西口)に本日オープンした「史跡眺望テラス 」です。
2階テラス から眺める枡形、牛込濠のプラットホームと行き交う電車。よき眺めです。解説板も充実しています。ここでいちばん好きなのはホームから見る石垣。
 明後日からの大きなイベントが終わって落ち着いたらのんびりと江戸城外堀の史跡めぐりをしたいです。

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肉球

松岡陣屋 福井県永平寺町 (2021/06/24 訪問)

福井藩三代藩主の庶長子松平昌勝が五万石を分知され九頭竜川の南岸の高台に築かれた陣屋です。
昌勝の三男昌平があとを継ぎましたが、その後福井藩の九代目になり廃藩。 
遺構はありませんが昌勝公が植えた言われる椿が案内板の横にあります。

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黒船のペリーは琉球にも来ていた! (2020/11/30 訪問)

1853年ペリー黒船艦隊は日本に向かう途中【琉球】にも寄港しています。

現沖縄島の内陸部を調査するため奥地探検隊を編成して、那覇から中北部まで足を運んでいますが、
道中、中城城跡にも立ち寄っており、その際調査隊の画家「ハイネ」が描いた多くのスケッチが残されています!

中城城跡に入場する際、チケットにハイネが描いた「西の郭」のスケッチがプリントされています。
見学される際には、是非チケットと現在の西の郭を見比べてみてください。

当時と変わらないところ、また変化があるところにはどんな理由があるのか?
など知ることも楽しみの一つでもあります。

他に、ハイネさんが描いた中城城跡のスケッチは4枚(遠景2枚・西の郭・北の郭)です。

(一社)中城村観光協会

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カジ

川柳

好きな城
聞かれてとっさに
名古屋嬢

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カジ

川柳

狭間から 午前の帰宅を 狙い撃ち

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カジ

川柳

我が天守 女城主が 鎮座する

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カジ

川柳

好きな城 聞かれて答える あるま城

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チュン子すずめ

川柳

馴れ初めは君が浴衣の城祭り

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てぬき親父

お城川柳

戦国の 栄華極める 天守閣

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:黒田代官屋敷 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の17城目は黒田代官屋敷です。
高田大屋敷から転戦。屋敷駐車場(34.698703、138.0849961)に駐車しました。

黒田代官屋敷は、永禄年間(1558 - 1569年)に黒田義則によってこの地に館が築かれました。
義則は、当初今川氏に仕えたが、今川氏滅亡後は徳川家康に仕えました。
小笠原長忠の組下として高天神城に籠城するが、武田勝頼に攻められ落城しました。この時、黒田義則は在所に戻りここで没しています。
江戸時代になり、1645年(正保2年)に三河岡崎城主本多利長は、庶兄助久に遠江城東郡内で4560石を分知しました。この時点で黒田氏が旗本本多助久家の代官となりました。

現在の主屋は、安政東海地震(1854年)後に再建されたものであると考えられています。
長屋門は母屋よりもさらに古い、18世紀中頃の建築とみなされています。
当時、一般農家では門を構えること自体許可されておらず、この長屋門の規模は、黒田家が任されていた2000石の格式を示すものといわれています。
 
資料館閉まってました。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:高田大屋敷 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の16城目は高田大屋敷です。
高天神城から転戦。古川神社入口前(34.720952、138.076911)に路駐しました。

高田大屋敷は、鎌倉時代に御家人内田氏によって築かれたと考えられています。

強雨の中の写真です。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:高天神城 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の15城目は高天神城です。
横須賀城から転戦。南口大手門駐車場(34.697036、138.0368)に駐車しました。
続100名城スタンプのある大東北公民館(34.703289、138.0477)から車で4~5分です。

築城年代には諸説あり、平安時代から15世紀終わり頃までの伝承や記載があるとされていますが、確実な例は16世紀初め頃と考えられています。
これは今川氏親の遠江進出に伴う軍事行動の一環であり、16世紀初め頃以降の多くを、国衆の小笠原氏が城主として務めていました。
1560年(永禄3年)には高天神城から城兵が桶狭間へ向けて出陣したことが記録されていますが、今川義元の敗死によって遠江の勢力図は激変します。
1568年(応永11年)には当代城主・小笠原長忠が徳川家康に臣従することを選択します。
1571年(元亀2年)武田信玄率いる2万5000の軍から攻撃を受けるも、小笠原貞頼らが2000の兵で籠城しこれを撃退。高天神城の優れた防御能力を知らしめます。
以降も三方原や諏訪原などの重要戦闘へと当城から兵力が派遣されますが、1574年(天正2年)には武田勝頼の軍によって、信玄も成しえなかった当城の攻略が達成されます。
1580年(天正8年)徳川家康が5000騎で当城を包囲。翌1581年(天正9年)には兵糧攻めで孤立し士気が低下した武田軍が城を打って出て総攻撃を敢行し、敗北。当城は落城し、以降廃城となりました。
ちなみにこの時の高天神城の守備隊長は、旧今川氏家臣の岡部元信でした。
元信は今川義元敗死後も鳴海城に拠って織田軍を撃退し続け、主君の首と引き換えに開城したという猛将でした。70歳に近い高齢ながらも先陣を切って奮戦し、武田氏の将として散ったといいます。

「高天神を制するものは遠州を制する」といわれたそうです。現在はハイキングコースとして整備されています。

追手門側から攻めました。追手門側から二の丸方面へは土砂崩れの為、立入禁止になっていました。
プチハイキンクです。 トイレは駐車場にあります
攻城時間は40分くらいでした。

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