先般、地元栗原市の鶴丸城を投稿した際、帰り道に九戸政実首級清めの池があった。日本戦国時代の最終戦「九戸一揆」において奥羽再仕置き軍6万をわずか5千の兵で迎え撃ち、難攻不落の城に苦戦した鎮圧軍は謀略を巡らせ、政実に家来・婦女子の助命と引き換えに開城を勧め、開門するや城内に放火、城内の者を撫で斬りにした。政実以下重臣7名が仕置き軍総大将豊臣秀次の本陣三ノ迫(宮城県栗原市)に護送されそこで斬首された。
これは九戸城跡を見に行かねばならぬとの思いが募り、7月の4連休2日目の早朝、東北自動車道を北上していた。八戸自動車道一戸ICで高速を降り二戸市を目指し午前10時に九戸城跡ガイドハウスに到着できた。そこで九戸城跡案内図(周辺地図に城の鳥瞰図、一揆の際に攻城軍が陣取った方角を記載したものでなかなか見やすい)を頂いて攻城を開始する。
ガイドハウスの有る旧三ノ丸跡地から城内に。本丸の切岸を西から北に廻り、二ノ丸と石沢館(外館)の間の堀切を通り二ノ丸搦手門跡から二ノ丸へ。夏場とあって草深く外曲輪のイメージがつかめない。城は九戸一揆終結後に蒲生氏郷により本丸南側、東側に石垣を伴った直線的な堀や、食違い虎口に改修され、南部信直が福岡城と改名して、寛永10年(1633)の盛岡城築城まで本拠地としたという。
九戸一揆時代の中世城館のイメージは西方に位置する石沢館や若狭館、二ノ丸南側の切岸、深田堀などに見ることができる。本丸、二ノ丸、他これまで数度にわたり発掘調査がされており、今後さらに観やすく整備されることと思う。
ガイドハウスのある九戸城エントランス広場に駐車可能。
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