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昌官忠

クラブツーリズム「太田金山城/箕輪城/高崎城」日帰り③ (2017/11/23 訪問)

クラブツーリズム「太田金山城/箕輪城/高崎城」日帰りの3城目(ラスト)は高崎城です。箕輪城からの転戦です。

高崎城は1598年(慶長3年)、箕輪城の城主井伊直政が主君である徳川家康の命により和田城跡に移り改めて築城した城郭です。
和田城は鎌倉時代初期、和田正信が築いた城郭で小規模ながら堅城としても知られ、度々上杉軍の侵攻を食い止めています。
和田氏はその後、小田原北条氏に属した為、1590年(天正18年)の小田原の役で前田利家や上杉景勝などの大軍に包囲され落城、北条家が滅亡すると廃城になりました。
関東入封した徳川家康が中仙道や三国街道を抑える要衝であることから直政に築かせたと考えられています。江戸時代には譜代大名が城主を務めています。

現在は高崎城址公園として整備されており、民間に払い下げられていた乾櫓と東門が移築復元されています。
東門の写真を撮りましたが、ブレブレで投稿できません。
投稿枚数に余裕があるので、公園での絵画展、途中に寄った生品神社の新田義貞公像とツアーでの昼食の写真を投稿します。
攻城時間は20分くらいでした。

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昌官忠

クラブツーリズム「太田金山城/箕輪城/高崎城」日帰り② (2017/11/23 訪問)

クラブツーリズム「太田金山城/箕輪城/高崎城」日帰りの2城目は箕輪城です。太田金山城(新田金山城)からの転戦です。
100名城スタンプは「高崎市箕郷支所」で押しました。休日だったので、裏口から入った記憶があります。

箕輪城は在原業平の子孫とされている長野業尚によって築かれ、以降、長野氏4代の拠点となった城です。
長野氏は3代 長野業政 の時代に全盛期を迎え、武田信玄の度重なる侵攻を防ぎました。
しかし子の業盛 の代となって次々と要所を落とされ、1566年(永禄9年)、ついに箕輪城は陥落。
武田氏に奪われてからは有力家臣である甘利昌忠、真田幸隆や内藤昌豊らが城主を務めました。
武田氏滅亡後には織田家臣 滝川一益が入城しましたが、本能寺の変が勃発し北条氏の城となりました。
豊臣秀吉の小田原征伐により小田原北条氏が滅亡すると、箕輪城は徳川家臣の井伊直正に与えられました。
直政は箕輪城を近代城郭に改造したものの、1598年(慶長3年)井伊直正が高崎へ城を移すと、わずか8年で廃城となりました。

自分が攻城した時には「郭馬出西虎口門(櫓門)」が復元されていました。屋根は瓦でなく板葺でした。
堀(堀切)好きな自分が投稿する写真は堀(堀切)が多くなりますが、石垣や土塁等も確認できます。
攻城時間は75分くらいでした。

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昌官忠

クラブツーリズム「太田金山城/箕輪城/高崎城」日帰り① (2017/11/23 訪問)

クラブツーリズム「太田金山城/箕輪城/高崎城」日帰りの1城目は太田金山城(新田金山城)です。
100名城スタンプは「南曲輪の休憩所」で押しました。

1469年に新田一族の岩松家純によって築城され、下剋上により城主となった由良氏の時代に全盛を迎えたとされます。
「上杉謙信」や「武田勝頼」などの近隣の有力戦国大名から10数回に及ぶ攻撃を受けるも、金山城は一度も落城することなく、まさに難攻不落の名城でした。
しかし、小田原北条氏の謀略に落ち支配下となっていた1590年、「豊臣秀吉」の北条氏征伐により金山城は廃城となりました。

攻城当日は雨と霧で視界が悪かったですが、逆に幻想的な写真が撮れました。眺望が見れなかったのは、ちょっと残念ですが。
関東では珍しい石垣のお城として有名ですが、個人的には堀切の素晴らしさに感動しました。攻城時間は2時間くらいでした。

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橋吉

日本三大水城の一つ (2015/08/10 訪問)

中津城は、黒田官兵衛(如水・孝高)が築城しました。
中津川の河口に築城され、堀には海水が引き込まれているため、水城ともされ、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられています。

官兵衛は瀬戸内海に待機させた舟をリレーすることにより、ここに居ながら上方の情報をわずか3日で得ていたそうです。
城内には黒田官兵衛資料館が設けられていました。

不思議なことに、事前に見た中津城公式ホームページには、江戸時代の大半ここを治めた奥平氏のことばかり記されて、官兵衛のことは載っていません。
中津城模擬天守は1964(昭和39)年、奥平家歴史資料館として奥平氏子孫が表取締役を務める中津勧業によって建てられました。
しかし、維持するのが大変となり、自治体か民間企業に売却する話しが出ているそうですが、上手く進んでいないようです。
このことが影響しているのでしょうか。

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個人投資家

100名城巡り (2019/10/24 訪問)

過去に行きました。

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個人投資家

地元の城巡り (2019/12/19 訪問)

長野の龍岡城を思い出しました。

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個人投資家

地元の城巡り (2019/12/19 訪問)

大給城とセットで巡りました。

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個人投資家

地元の城巡り (2020/01/22 訪問)

乏しい想像力を補完してくれる、味のある復元建物群でした。

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個人投資家

地元の城巡り (2020/01/22 訪問)

足助城とセットで巡りました。竪堀がはっきりと確認できました。

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松永秀久絡み (2021/01/16 訪問)

松永秀久傘下に入った、豊田氏の豊田城は、松永秀久の指導で防御性も規模もアップしたと。
県道51号線脇に登山道の標識があるが、山裾を行く、東海自然歩道にも立派な表示がある。登山道が頂きの平坦部に至るまでは、東海自然歩道同等の草刈りがされているが、そこから先は、城びとの先達のレポートのように、しばらく手入れされてない感じ。とは言え、副郭と堀底・法面は、藪になっておらず、見ごたえがある。副郭の南の「コ」の字型凹部とその前面の馬だしを認識できた。

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小城小次郎

伊勢盛時(北条早雲)生誕の地として (2020/11/22 訪問)

伊勢盛時(北条早雲)生誕の地との説が定着し地元の「早雲の里」にかける熱量は半端なものではないが、実際に「北条五代」が大河ドラマになれば大河の舞台として大きな注目が集まるのだろう(行くなら今だ。コロナだけど)。

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いんげん丸虫

上山田付城 静岡県伊豆の国市 (2020/12/27 訪問)

小田原の役で韮山城攻めのため豊臣軍が築いた陣城の一つ。写真ではほとんどわからないですが枡形虎口、折れのある土塁など土の城の縄張りを堪能できます。看板等は無く直登、藪漕ぎと訪城しずらいですが、よく遺構が残ってます。

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チェブ

果樹園と農道。 (2020/12/26 訪問)

たくさん「勝山城」がありますが、甲府市の「勝山城」、農道をダッシュで攻めてきました。
車を駐車する場所がありません。路駐してダッシュです。

武田家支流の油川 信恵さんのお城です。
油川?もしや、武田 信玄さんの側室に油川夫人という方がいらっしゃったような気がして調べてみると、油川夫人のおじいちゃんが、油川 信恵さんのようです。
諸説あるので 絶対とは言えませんが『油川』なんて、珍しいお名前だったので、、、。『油川』を調べると青森がルーツのようです。
だんだん話が飛んでしまうので「勝山城」に戻します。
武田家滅亡、本能寺の変と続き、この辺りは北条家に侵攻されます。そこで徳川 家康さんが服部 半蔵さんに「勝山城」の修築を命じたそうです。
元武田家領土、北条家も徳川家も欲しい場所です。

緩やかに登る農道を進むと石碑がありました。
『沼田めぐり 攻めるにかたし 勝山城』
と、刻まれてます。
ゆっくり攻めたら、何か発見できたかもしれませんが路駐が心配で退陣です。

武田家の内紛により油川 信恵さんは討死しました。
油川夫人は、どのような気持ちで信玄さんに嫁いだか、複雑です。
戦国の女性には現在の女性、どのように映ってるのでしょうか?
とりあえず、私のダッシュは見られたくないかな。

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橋吉

島原の乱 (2015/08/09 訪問)

島原半島を南下して、島原の乱の舞台となった原城へ向かいました。
まずは、有馬キリシタン遺産記念館で予習。
              
島原半島には、早くから、キリスト教信者がたくさんいました。
やがて、江戸時代になりキリスト教が禁じられると、島原の領主でありキリシタン大名であった有馬直純は改宗し、領内のキリシタンを迫害することを余儀なくされます。
しかし、良心の呵責に耐えかね、幕府に転封を願い出て、日向延岡転封されることとなります。
後任の桝倉重政はやり手だったようで、江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、島原城を新築したりしました。
しかし、そのたびに領民から年貢を過重に取り立てます。

もともと、島原は海が迫り山が多くて耕作地が多い上、火山灰が滞積したやせた土地でした。
さらに、天候の加減で不作が続いていたのですが、新領主は、年貢をまけてくれません。

しかし前任者の轍を踏まないと思ったのか、重政は、キリスト教徒の弾圧に一層力を入れます。
これ見よがしに、残虐な仕打ちをし、農民たちから深い恨みをかうことになりました。

隣の天草も同じ状況でした。
ついに1637(寛永14)年、積もり積もった重いが爆発し、島原・天草の農民たちが立ち上がったわけです。

原城跡は、有馬キリシタン遺産記念館から車で5分ほどです。
島原の乱当時、すでに原城は廃城になっていましたが、そこに3万7千人が籠城しました。
対する幕府軍は12万5千人でした。

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赤い城

湿地帯に築かれた要害 (2020/01/09 訪問)

主郭部は河和田小学校、中城幼稚園の辺りですが周辺に遺構は多く残っています。
報仏寺の山門前に石碑があり、墓地の奥に堀が残っています。
進むと途中から泥濘み、水堀へと繋がっていました。
天徳寺の山門前の堀も進んでいくと湿地になっています。
墓地の裏手辺りは二重に。
他にも遺構は在るのですが多くが私有地で入れません。
平地に深い堀と湿地、現在は市街地となっている場所にこのような要害、驚きです。

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昌官忠

八王子城/小田原城/江戸城スタンプ押印日帰りの旅③ (2017/12/09 訪問)

「八王子城/小田原城/江戸城スタンプ押印日帰りの旅」の3城目は江戸城(ラストです)です。小田原城からの転戦です。
100名城スタンプは「和田倉休憩所」で押しました。

小田原城から小田原駅に戻り、東海道新幹線で東京駅に到着。そこから徒歩で江戸城を目指します。

江戸城は2回攻城しています。
①2017/03/04に一人でじっくり2時間30分かけて見学
②2017/12/09の今回、八王子城を攻城した際に100名城スタンプを押すためだけに攻城

攻城目的がスタンプ押印なので、和田倉休憩所で押印後は5分で撤退。

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昌官忠

八王子城/小田原城/江戸城スタンプ押印日帰りの旅② (2017/12/09 訪問)

「八王子城/小田原城/江戸城スタンプ押印日帰りの旅」の2城目は小田原城です。八王子城からの転戦です。
100名城スタンプは「天守1F」で押しました。
八王子城から高尾駅に戻り、JR中央線で八王子駅に向かい、JR横浜線で町田駅に到着。町田駅から小田急特急で小田原駅。そこから徒歩で小田原城を目指しました。

小田原城は3回攻城しています。
①2016/11/05に次男と二人で攻城(天守内も見学)
②2017/12/09の今回、八王子城を攻城した際に100名城スタンプを押すためだけに攻城
③2018/09/17に小峯御鐘ノ台の大堀切が見たくて攻城(投稿済)

攻城目的がスタンプ押印なので、天守1Fで押印後は5分で撤退。

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昌官忠

八王子城/小田原城/江戸城スタンプ押印日帰りの旅① (2017/12/09 訪問)

「八王子城/小田原城/江戸城スタンプ押印日帰りの旅」の1城目は八王子城です。
自宅最寄り駅よりJR高尾駅に到着。高尾駅北口から西東京バスで八王子城跡下車し、そこから徒歩で八王子城に着きました。
八王子城跡行のバスは土休日のみだと思います。平日は霊園前までだと思います(そこからだと徒歩で20分くらいかかると思います)
100名城スタンプは「管理棟」で押しました。

小田原に本拠をおいた小田原北条氏の三代目、氏康の三男、北条氏照が築いた山城です。
築城の時期ははっきりしませんが、天正年間に築城が開始され、氏照が滝山城から移ったのは1584年(天正12年)から1587年(天正15年)の間とする説が有力だそうです。
築城の際には、織田信長の安土城を参考にしたともいわれています。小田原城の支城であり、北条氏最大の支城でした。
1590年(天正18年)6月23日、豊臣秀吉の関東制圧の一環で、前田利家・上杉景勝・真田昌幸軍に攻められて落城しました。
この、八王子城落城が決め手となって籠城を続けていた小田原城は開城、北条氏は滅亡しました。
氏照はこの時、小田原に籠城中で、開城後、兄の氏政とともに城下で切腹しました。

3年以上前の攻城ですが、麓にある御主殿跡の見学後、本丸までの登城路がきつかったのは覚えています。
きつかった分、眺望は良かったです。攻城時間は2時間30分くらいでした。

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ブレンダ

愛知の古城、史跡めぐり(織田信長の居城・小牧山城) (2021/01/16 訪問)

愛知の古城、史跡めぐり(織田信長の居城・小牧山城)マクさん、菜千花さん

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朝田 辰兵衛

掛川古城(静岡県掛川市) (2020/12/19 訪問)

掛川城より北東約400m先に掛川古城があります。1568年,掛川城に逃げ込んだ今川氏真を攻めるため,徳川家康がここに本陣を置いたと伝わります。
本丸~二の丸間の空堀が見どころかと思います。

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