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pascal

まぼろしの七ッ池発見! (2020/03/11 訪問)

 福井城の前身の北ノ庄城ではなく、近江の北乃庄城です。
豊臣秀次の八幡山城の北の峰続きの岩崎山にあるこの城は、築城時期も古く歴史の舞台にも登場しない“謎の城”で、日本城郭体系にも詳細は収録されていません。
 しかし、山城愛好家には割と名の知れた“マニアックな城”で、そんな謎に満ちた部分がかえって興味をそそるのかも知れませんね。

…と、いう事で、八幡山城の北の丸を起点に訪城します。
尾根筋にはトレッキングの遊歩道があって、利用者が多いのか良く踏み固められているので、迷う事も無く歩けます。
多少のアップダウンはありますが、30分も歩くと城址看板がありました。
縄張り図で見る限り、意外に本格的な城ですよ…。

 さらに進むと、土橋の有る堀切と土塁が明瞭に現れました。此処から城内ですね。
城内も尾根(土塁上)を歩くのですが、城址としての整備はされてなく、カメラに撮った縄張り図を呼び出して確認しながらの難行です(^^;
下には曲輪の平場がある筈ですが、草木が繁って、わずかなフラット感しか判りません。
 さらに進んで行くと、拓けた高台に出て、琵琶湖の景色が一望できます。
『あぁ~、なるほどね!』

 謎の城と聞くと謎解きしたくなるのが人情で、歩きながらもずっとその事を考えていましたが、眼下に見える長命寺の湊と水茎岡山城を見て、繋がりました。
永正17年(1520)、六角定頼は水茎岡山城に籠る守護代の伊庭貞隆を攻め、滅ぼしていますが、“島城”だったので長命寺湊から安宅船を出して攻めています。
この城はたぶんその際の指揮所ですね。

 三日ぶりにシャンプーしたみたいにスッキリした頭で、最後にこの城の名物の七ッ池を探します。
水の手に掘られた小さな溜池なのですが、近年はなかなか見つけにくい様です。
該当地あたりに着きましたが、果たして、一面が笹竹に覆われて手強い藪になっています(-_-;)
それでも、笹の上面を透かして見ていると、かすかな凹みが有るのが判ります。
『あれだ!』と、藪コギで強引に分け入って見ると、ありました♪



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砥上山城 (2021/02/05 訪問)

秋月二十四城のひとつ。秋月氏の持ち城とされる。城主は不明。
大山祇神社がある坂根登山口からスタート。堀切のあととピーク付近の南北に広い曲輪が印象的。主郭からは古処山系、耳納連山、遠くに由布岳も見えた。

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赤い城

堀が廻る土の名城 (2021/01/30 訪問)

高崎市の箕郷地区にあり搦手口に大きな駐車場があります。
登っていくといきなり大堀切、整備されています。
一旦、大手尾根口まで降り、再度登城しました。
郭馬出の手前にも空堀、復元された西虎口門が青空に映えます。
さらに土橋を経て二の丸、本丸へと進みます。
本丸は結構広く、ここに石碑が立っています 
本丸西虎口には木橋が復元されています。
本丸を囲む空堀も深い!御前曲輪には石垣も。
三の丸、鍛冶曲輪にも石垣がありますが大半は土でできています。
長野氏の居城で堅固な城でしたが武田信玄の猛攻により落城。その後も北条や徳川も利用した城。
高崎城が整備されたことで廃城となりました。

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カルビン

勝手に第二次籠城企画 [三増古戦場] (2014/09/06 訪問)

三国同盟破棄後に武田晴信が無謀ともされていた小田原城攻略を試みましたが、落とせるハズもなく武田軍は撤退。

勿論北条軍は追撃したわけですが、実はこれが武田晴信の仕掛けた罠で、三増峠で北条氏康・氏政軍を徹底的に叩いて動けなくし、駿河侵略する事が本命だったとされています。

北条氏康に気付かれて北条軍の本体は無事だったものの、北条軍2万のうち1万を撃退した武田軍の快勝だった戦が三増峠の戦いです。


神奈川県愛甲郡愛川町の、その名も「三増合戦みち」という道沿いに三増古戦場碑と解説があり、近辺の道路沿いには合戦に関わる首塚や胴塚がありました。
近場には田代城や細野城もあり、この合戦に何らか関わっていたと思われます。

ただ古戦場としてはそれだけで訪問するのは勿体ない気がしますが、この古戦場碑があるところから北にある東名厚木カントリー倶楽部のコース内に、合戦時に武田晴信が陣を敷いていたとされる場所があり、「信玄旗立松」の史跡が存在しております。

既にその時の松の木は火災(落雷の為?)により焼失してしまった様ですが、解説と石碑(これも上部が欠けていた)がありました。
ゴルフコース内にある山林なのでちょっとした登りの地にあったので、戦いの指揮を取るには丁度良い場所だったと推測されます。


この戦いで武田軍の損失といえば譜代家老衆だった浅利信種が鉄砲の流れ弾で討たれた事。。。この方の菩提かどうかは定かではありませんが、この方に関係の深いお寺の墓地に自分の祖父母が眠っており、毎年新年にお墓詣りしていたのですが・・・コロナの為に昨年・今年と行けて無いんです。。。早くコロナが片付くといいな(ー人ー)

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チェブ

援軍は高校生。 (2020/12/30 訪問)

東京湾アクアラインを降り国道16号を千葉市方面に向かうと「椎津城」があります。

築城時期や築城者は不明です。
いくつか説がありますが、「椎津城」の名前から千葉氏一族の椎津 三郎さんの居城説に一票とします。
説明板にも記載されているように、真里谷武田家、北条家、里見家の拠点戦いがあったようです。
現在は埋め立て地化されてしまいましたが、「椎津城」は海沿いの高い場所に構えていた事は想像できます。

※まさか同じ日に昌官忠さんと投稿がかぶるとは(笑)「椎津城」のいくつかの築城説、戦い等は昌官忠さんの投稿を御参照ください( *´艸`)

秀吉さんの北条征伐は浅野 長政さんが「椎津城」攻めしてます。埼玉県でも長政さんの攻略した、お城がたくさん ありました。
長政さん、五奉行の役職ですが北条征伐は広範囲の攻略を任されてます。

今まで千葉県に来る事が、あまり なかったので、地理的感覚がいつも以上に鈍く車の運転が大変です。
住宅地の道が、大きな道路に繋がっているか分からず前進したら間違え、バックで回避したりしました。
「椎津城」駐車場はありません。道幅も狭いので、車を停る場所探しに困りました。

住宅の脇道を入ると「椎津城」の幟が見えてきます。
更に進むと説明板がありました。
虎口や土塁も見られます。
ただ、お城攻めした日が雨。奥までは進みません。
途中に私有地の為、通れない所もありました。案内板があるので確認が必要です。

「椎津城」を調べると、標柱や看板をプレゼントしてくれたのは、姉崎高校の学生と有志の方々でした。
お城の遺構も、もちろんですが、標柱や石碑、説明板を見つけると、私はテンションが上がります。
ありがとうございます。
地元の方々が大切にしている「椎津城」。
侵略して良い場所を先にチェックしてマナーの良い城攻めをお願いします。

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pascal

北条氏照は巨城マニア? (2014/11/29 訪問)

 個人的に関東でイチオシの城、北条氏照の滝山城です。
南(甲州街道)向きの郭はどれも巨大で土塁も高く、広い馬出しを備えています。
そこから張り出す両翼の尾根には狙撃の曲輪が配されて、攻め込んだ敵は全滅しかねない、とても危険な“攻め”の城です。
また、外郭から本丸までの郭の重ね方は、捨て曲輪を作らず、後退~逆襲が最小被害で円滑に行える様に配置されています。
北条流築城術の粋を見る様な完成された見事な縄張りですね。

 小田原城で買った、北条氏の発給文書を記した本によると、永禄12年(1569)に武田信玄に攻められて落城寸前まで追い込まれた氏照は、その冬から滝山城の大改造に掛かった事が判ります。
相手が信玄だろうと謙信だろうと、“もう二度と負けない城”がコンセプトだったのか、完成したのはとんでもない巨大な城でした。

 これでひと安心…の氏照でしたが、仮想敵が信長、秀吉に替わると、予想される侵攻兵力は10万単位に膨れ上がります。
北条氏として決定した対抗策は、主力を小田原城に集めての籠城戦法で、大堀切(惣構え)の築造が始まります。
残念ながら万余の守備兵を集められない滝山城では、迎え撃つ機会は有りませんでした。
これに伴って氏照に課せられたのは、甲州街道の閉鎖・迎撃=少人数でも守れる山城:八王子城の築城であり、武田氏滅亡と同時に開始されていますね。

 北条氏の中では北部方面の軍団長として房総、常陸、下野で戦った氏照。
彼の歩いた跡には、その場の勢力地図に似つかわしくないミステリアスな巨城が遺っています。
茨城の牛久城や木原城、栃木の西方城などがそうですが、99%氏照の遺産と見て良いと思います(^^;

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キンヤ

荒々しくカッコいい野面積の石垣 (2016/11/20 訪問)

赤井氏の居城でしたが、明智光秀に攻められ丹波平定後、石垣は斎藤利三や堀尾吉晴時代の改修によるものともいわれます。

2016年の秋に行った時の投稿で申し訳ございませんが、私はこの荒々しくカッコいい野面積の石垣を見て感動しました。

再訪したくても、コロナでなかなか行くことができていません。
麒麟がくるの紀行で黒井城は登場するか楽しみでしたが、結局は紹介されませんでしたね。

皆様の投稿を拝見させて頂くと、現在は麒麟がくるで注目され登山客が増えた為か、遺構保護でアルミ製階段や、本丸・二ノ丸の間にある曲輪の南西側の石垣は崩壊防止の為に網が張られているようで少しショックを受けました。

でも、遺構保護の為には、是非に及ばず かもしれません。

本丸・二ノ丸の間にある曲輪の石垣は、幅が長く高さもあり角は算木積で1番の見所であり、麓からも見えるので、網が張られてるのは残念です。
今はその代わりに東曲輪の石垣が1番の見所かもしれません。

大規模な城で石垣以外にも見所は沢山ありますし、階段や網があっても見応えある城ですので、コロナが収束したら、ぜひ再訪したいと思います。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅲ③:椎津城 (2019/08/21 訪問)

鶴牧城から転戦。車で5分くらいで着きました。
城址入口への侵入口(35.471521、140.036496)から入り、城址入口付近に駐車して攻城しました。
城址への案内板があり、迷うことなく着きますが、道は狭く駐車スペースが見つからず、入口付近に停めてしまいました。

築城には下記の通り諸説あるそうです。
①千葉氏の一族、椎名胤仲が1325年頃の元応から元徳年間に椎津に居して椎津三郎と称して居城
②1335年(建武2年)三浦高継が椎津を所領し、1467-69年(応仁年間)に三浦定勝が築城
③1492-1501年(明応年間)に甲斐武田氏の一族、房総武田氏(真里谷氏)が上総の北方の備えとして築城

いずれにしても、1456年(康正2年)に甲斐武田氏の一族、武田信長(房総武田氏・真里谷氏の祖)が上総に上陸し、木更津市の真里谷城に本拠を構えてから、真里谷城を本拠とする武田信長の支配下にあったようです。
この地は武蔵・下総から上総・安房の房総に通じる房総往還道や久留里街道西往還、また椎津湊を抑える水陸交通の要衝であったことから何度も攻防戦が繰り広げられています。
1552年(天文21年)には里見義堯、義弘が攻略して武田信政は自刃しました。
その後は里見氏と北条氏によって争奪されましたが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による「小田原征伐」において北条方の白幡六郎が守備する城を浅野長政が攻め落としました。

現在城址周辺は宅地化されており遺構はほぼ消滅していますが、八坂神社の裏にある城山と呼ばれる本丸跡に土塁が残っており標柱もあります(ただし私有地に隣接しているため見学ルートは現地標識に従ってください)。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅲ②:鶴牧城➡城びと未登録(千葉県市原市) (2019/08/21 訪問)

姉ヶ崎陣屋から転戦。車で2~3分くらいで着きました。
姉ヶ崎小学校の校門前(35.473354、140.040378)に路駐して攻城しました。

鶴牧城は1825年(文政8年)に城主格に昇進した水野忠韶が鶴牧藩の藩庁として築いた城です。
陣屋ではあったものの城主格であったため鶴牧城と呼ばれていました。
鶴牧藩は忠韶のあと、酒井忠徳の次男で養嗣子となった水野忠実、忠順とつづいて明治を迎えました。
現在城址は市原市立姉崎小学校となっており遺構はありませんが、正門を入ったところに城址標柱が建てられています。

夏休みでしたが、校門があいていたので、ちょっとだけ入って城址碑の写真を撮って撤収です。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅲ①:姉ヶ崎陣屋➡城びと未登録(千葉県市原市) (2019/08/21 訪問)

ファミリーマートの駐車場(35.476362、140.041174)に駐車して攻城しました。

1607年(慶長12年)11月、徳川家康の次男・結城秀康の次男・松平忠昌(当時は虎松丸)が姉ヶ崎に1万石を与えられたことにより、姉ヶ崎藩が立藩&築かれた陣屋です。
忠昌は1615年(元和元年)11月、下妻藩主であった松平頼房の水戸転封を受けて、跡の常陸国下妻藩3万石に加増移封され、これにより姉ヶ崎藩は廃藩となりました。
しかし1619年(元和5年)12月、忠昌の弟・松平直政に1万石が与えられて、再び姉ヶ崎藩が立藩しました(直政は越前国大野藩にすでに1万石を領していたため、これにより合計2万石の大名となりました)。
1624年(寛永元年)6月、直政は(姉ヶ崎周辺の領地は収公。それとは別に)越前大野藩5万石に加増されたため、再び姉ヶ崎藩は廃藩となりました。
現在は住宅地となっており遺構はありませんが、陣屋跡に稲荷神社があります。

路地裏の道沿いに稲荷神社(35.475093、140.040846)、県道287号線沿いに民家の立派な門(35.475632、140.040365)がありました。
攻城時間は10分くらいでした。

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pascal

お奨めは月所丸 (2020/10/16 訪問)

 有名な小谷城、多分すでに訪城した方が大半ではないかと思うので、ポイントを絞って投稿します。
毎日多くの訪問者で賑わう小谷城ですが、各々限られた時間での探訪でスルーされやすいのが少し離れた月所丸です。
しかし巧妙に築造され、なお且つ戦国の城としての雰囲気をそのまま残している郭は、実は月所丸が一番なのです。

 全山峻険な小谷山ですから、攻め口は4条の尾根筋しかありませんが、北東の尾根を押さえているのがこの月所丸です。
東尾根最高所の山王丸から北へ降り、六坊を過ぎると道は清水谷への下りと大嶽への登りに分かれますが、大嶽方面を選ぶとすぐに右への分岐道があり、月所丸へと続いています。

 郭は尾根上に大きく2つの曲輪を繋げて造ってあり、それぞれ東端には高土塁を積み上げています。
最後は土塁下に深い2条の堀切があって尾根を遮断しており、誰も来ない静寂も相俟って臨場感は満点ですね。
すると、時折吹く風に揺れる木々のざわめきが兵士の喧騒に聴こえたり、守備兵の気分になって土塁上に伏せて堀の向こうを窺っていると、敵影が見えて来る気にもなってしまいます(^^;

 マニアックに過ぎるかも知れませんが、時空を超えた探訪を味わいたい方には是非お奨めしたい月所丸です。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑭:小篠塚城(ラスト) (2020/01/23 訪問)

岩富城から転戦。車で10分くらいでした。
雨でドロドロになった小篠塚駐車場(35.6782149,140.2229868)に駐車して攻城しました。

小篠塚城の歴史については不詳ですが現地の解説板によると1471年(文明3年)に古河公方・足利成氏が古河を追われ千葉氏を頼った際に小篠塚城に滞在したとの事です。
翌年、成氏は古河城に帰還しますが、成氏の死後、千葉氏の家中で内紛がつづき古河公方と対立するようになります。
その為、千葉氏討伐のため2代目古河公方となった足利政氏が嫡子である高基とともに1502年(明応11年)〜1504年(永正元念)の間に小篠塚城に在城したとの事です。
現在城址は正慧寺の境内となっていますが「小篠塚城址園」として整備されており、遊歩道も設けられ、土塁や空堀などの遺構を確認することができます。

駐車場からの近道の登城路は倒木が邪魔するが、先に進むと主郭に着きます。
そこから各郭を回って正慧寺前を通って駐車場に戻れます。(正慧寺からのルートは舗装されていますので倒木はありませんでした)
攻城時間は30分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑬:岩富城 (2020/01/23 訪問)

中野城から転戦。車で20分くらいでした。
セブンイレブンの駐車場(35.656917,140.236216)に駐車して攻城しました。もちろんセブンイレブンでは買い物しました。

この地域は、古くは千葉氏一族の白井氏が支配していましたが、1455年(康正元年)の享徳の乱以後、原氏が進出しました。
岩富城は、1472年(文明4年)に原景広が築城したと言われ、景広の子・胤行らが城主でした。この系統の原氏を「弥富原氏」と呼んでいます。
1590年(天正18年)豊臣秀吉による「小田原征伐」で原氏が千葉氏とともに滅び、徳川家康が関東に入封すると、その家臣となった北条氏勝が入城しました。
その後、1614年(慶長19)年に養子の北条氏重が下野国(栃木県)の富田に転封されたため、そのまま廃城となりました。
現在城址には本丸跡に浅間神社が祀られており、周辺に土塁や空堀などの遺構を確認することができます。

セブン駐車場より徒歩4分位で浅間神社鳥居前(35.655506,140.2369)に到着し攻城。
土塁、堀を確認したが、雨が強くなってきたので早めに撤退。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑫:中野城 (2020/01/23 訪問)

犬成向山城から転戦。車で35分くらいでした。
本城寺駐車場(35.582132,140.265664)に駐車し攻城しました。

中野城は酒井定隆が築いたとされますが詳細は不明です。
定隆は、当初はこの城を本拠としていましたが、1488年(長享2年)に土気城に移り、廃城となりました。
跡地に本城寺が建てられ、現存しています。現在も寺域(曲輪跡)を囲むように土塁と空堀が残っています。

本城寺の周りを土塁が囲んでいます。堀らしきものも確認しました。
攻城時間は20分くらいでした。

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みかわのひで

形原松平氏発祥の地で松平水軍の拠点 (2021/01/10 訪問)

城跡は古城稲荷になっており、主に曲輪が2つほど。所要時間は約20分もあれば十分かと。そのほか周辺に城郭関連地名が残っています。

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新九郎

山城の最高峰 杉山城 (2021/02/04 訪問)

平地の駐車場から中学校もある意味曲輪と数えると、凄い山城です。昔の侍は、こんな城に攻め込まなければならないと思うと同情を禁じ得ません。
ここまで竪堀、横堀などあって迷路のような通路となっていて主郭までも地図を見て行っても迷ってしまいます!
近所には店や自販機などもないので、飲料水などは持参した方がいいですね。城という字が土で成ると書く意味がここに来ると分かります。超お薦めです。

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pascal

伊賀忍者の首領は百地丹波守だけだった? (2018/10/03 訪問)

伊賀の上忍(首領)三家のひとつ、百地丹波守の居城です。

 伊賀忍者は文書を残さないので、史実は不明な部分が殆どなのですが、百地丹波の城だろうと言われています。
駐車場は永保寺の参拝用をお借りします。
本堂の右手に城址看板があるので、石仏が並ぶ小径を5分ほど散歩して城址に辿り着きました。

 城は主郭を中心に幾つかの副郭が守る、伊賀の城ではレベルの高い縄張りです。
おそらく、隣接する寺院や墓地も防御の一翼をになっていたのでしょうね。
 主郭は300坪の方形で、三方を高い土塁で囲まれています。
段差のある西側は土塁が低くなって、城域が見渡せる様になっており、実用重視です。
虎口は南北に2箇所ですが、南虎口が大手の様に見えます。
郭内には若干高くなった住居跡の土盛りも遺っていて、より当時の様子が想像できます。
 
 説明看板は3枚掲げられていますが、意外に突っ込んだ記述内容に深く興味を惹かれます。
上忍三家とは、服部、藤林、そして百地家なのですが、
服部家は半蔵保長という名が出て来るものの、半蔵正成が徳川に仕官して以降振るわず、実質は分家の百地家が面倒見ていた…という話は他で聴きました。
此処には、もうひとつの『藤林長門守も、過去帳からどうやら百地丹波と同一人物らしい』と書かれてあります。

 忍者が次々に名を変え、別人に成りすますのは有り得る事と思いますが、百地丹波守は織田信長に独りで立ち向かった…となると、がぜんその人物像に興味が湧いてきます。
天正伊賀の乱では、最後の柏原城で降伏開城後に忽然と姿を消した百地丹波守。
何処で誰になって何をしたのでしょうね?
史実は不明ゆえ、なおさら浪漫を掻き立てられる城です。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑪:犬成向山城➡(千葉県市原市) (2020/01/23 訪問)

犬成城から転戦。(車は市津学園の駐車場(35.488381,140.190074)に駐車したまま徒歩で攻城しました)
登城口(35.488028、140.190931)を森に向かってひたすら進んでください。

犬成向山城の詳細は不明ですが、犬成城を補完する役割を持っていたと考えられています。
犬成向山城については城郭と認められるかどうか否定的な意見もあるようです。
現在城址には土塁や空堀と思われる遺構を確認することができます。

犬成城から徒歩で攻城。倒木が道を塞ぐが、ひたすら進むと立派な堀を発見。ただし堀の中は倒木だらけでした。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑩:犬成城 (2020/01/23 訪問)

立山城から転戦。車で20分くらいでした。
市津学園の駐車場(35.488381,140.190074)に駐車して攻城しました。

犬成城の歴史は何も伝わっていませんが、築城説には2説あるようです。
①土気酒井氏が市原方面に進出するために築いた土気城の出城説
②八幡から茂原に抜ける茂原街道をおさえるために北条氏が築いた城という説
①の説が有力のようです。
城跡に建つ安立寺は法華宗の寺院であることも酒井氏の支配地であったことを裏付けているようです。
酒井氏は古河公方に従っていたが戦国時代末期には北条氏に従属しています。
犬成城が築かれた時代は不明だが伝承などが残らないことから北条氏に従い里見氏の侵攻に備えた頃ではないかと思われるようです。
現在城址には土塁や空堀などの遺構を確認することができます。

安立寺から攻城しようとしたが道が険しくて、市津学園駐車場裏の平地を歩きまわり、2郭への入口(35.489703,140.1909)を発見。
そこから倒木等はあるが、2郭虎口➡2郭➡1郭への土橋➡1郭虎口➡1郭へと進めます。虎口、土塁、堀切は見ごたえあります。
攻城時間は40分くらいでした。

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にのまる

佃島砲台&越中島砲台 (2021/01/03 訪問)

 昨年末から年始にかけて東京駅のKITTEで開催されていた「麒麟がくる展」に行ってきました。実際に使用された衣装や甲冑、小道具などが展示されていました。
 印象的な派手な衣装、双六、蘭奢待など、「あー、これこれ!」と思うものがずらりと並んでいて、早くも懐かしい気分に浸ってしまいました。(ほとんど撮影可でした。)
 時代考証の小和田先生の特別解説「『敵は本能寺にあり』光秀の決心と葛藤」(ビデオ上映)は4本立てで、全部で1時間近くありました。テレビでは「名前にバッテン」されて終わった勝頼くんのことも、最終回で出てくる??長宗我部元親関与説もしっかりと聴いてきました。
 限定グッズ目当てに<雲丹ラーメンとパフェ>という信じられない組み合わせを食してしまったので消化せずには帰れません。江戸城一周が近くてちょうどよさげでしたが一般参賀もなく東御苑も閉園していたので、佃島砲台跡と越中島砲台跡までお散歩してきました。(どちらも城びと未登録。ニッポン城めぐりサイトの城攻め地図に載っていました。)
 東京駅から3kmくらい。佃島砲台には解説板が設置されていたのですっきりとゴールインできました。ありがたいです。越中島砲台は川の向こうの東京海洋大学の中、あのあたりだろうなあ、と眺めてきました。埋め立て地であるこのあたりの景色はおそらく目まぐるしく変わってきたのではないかと思います。50年後、100年後はきっとまた全然違った様子になるのだろうなあ。。。

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