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姫街道

信長が攻め落とした城 (2021/01/24 訪問)

三河の松平氏と同じく尾張も織田伊勢守家と織田大和守家(信長の系統)があり、織田伊勢守家が築城した岩倉城であったが尾張統一を目指す信長の攻撃を受けて落城した。
その後、小牧・長久手の合戦時に家康が陣を置いた。よって、規模はかなり大きい。
ただし、現状は地形の高低差などから想像するのみだ。それでも石碑部を含めて所々に石碑や神社仏閣があって城跡散策を楽しめる。

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姫街道

古い感じの土塁と謎の旭城 (2021/01/24 訪問)

近年の変革が大きく、城がどの程度の規模だったのかわかりにくい。本郭があった箇所だろうか土塁が大きく打ってある。公園化しているが、高低差もあり二重土塁だったと思う。
そんな複雑な城の形状ではなく、古城的な雰囲気を感じる。公園駐車場横には旭城がそびえ立っているが、情報通りレストランだ。どうせなら主郭に建てればよかったのにと思うほど、鉄筋コンクリートで立派な建物だ。

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T-Shionoya

岡崎城訪問 (2003/04/27 訪問)

過去のお城巡りを振り返り、ぼちぼちと掲載していきましょう。
今に至るお城巡りのスタートは岡崎城でした。

三河山地と岡崎平野の境の台地上に築かれた城。
東海道の矢作川の渡り場であり、北は信州飯田へ三州街道が走る、古くから陸路と河川交通の要所だったことでしょう。

城主は家康の祖父・松平清康や徳川家康(松平元康)、家康の嫡男・信康、豊臣秀次の家臣・田中吉政、そして本多氏、水野氏など。
田中吉政の時代に江戸期の基盤となる城郭の拡張整備が行われているようですね。

現在の岡崎公園はその本丸周辺曲輪と二ノ丸からなっており、更に東曲輪が駐車場、菅生曲輪がその南の多目的広場。
当時は城郭全体を回ることはなく、天守を中心に2時間ぐらいの滞在だった模様。
写真に堀や石垣を写したものがありませんが、お城EXPO 2020でもらったパンフレットによると、本丸周辺や新しく発掘された菅生川沿いに空堀と石垣がしっかり残っているようですね。
また2010年に東隅櫓が建てられており、いつかそれらを見に再訪問したいものです。

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チェブ

裏切りか?守ったか? (2020/12/26 訪問)

山梨県から東京の端っこに帰る途中に寄った「岩殿山城」で悩みます。
先にお伝えします。毎度の事ですが、話 それていきます(-_-;)
高速道路代をケチッて、山梨県から下道で帰ろうとグーグルをチェックしたら、大月市を通過する事が分かり「岩殿山城」に寄る、と、いつもの行き当たりばったり城攻めです。

築城時期は不明です。北条家から備えの為のお城だったようです。
武田信玄さんの家臣、小山田 信茂さんの「岩殿山城」と言ったら、武田家を滅亡に追い込んだ原因の1つでもある お話は有名です。

甲州街道から国道139号に入ると「岩殿山城」の駐車場がありました。
あった!っと見つけても、スピードを急には落とす事ができず、Uターンして着ました。
駐車場は10台位、大丈夫そうです。暗い時間に攻める方はいないと思いますが、入口に自販機がありました。念のため目印に、、、、。
駐車場から少し歩いて行くと『岩殿城入口』があります。
小山田 信茂さんの裏切りがなくても、ここで退陣します。真っ暗なので。

真っ暗、、、、。
武田 勝頼さんと一緒に落ち延びて来た夫人も、怖かったろうな。山道で足とか傷だらけだったろうに。
それを、入城拒否って!
ちょっと待て、真田さんお勧めの「岩櫃城」でも、長距離を歩く事になるから、やっぱり不安、、、。
遠くに富士山が見えて、悲しくなります。
夫人は、北条家から嫁ぎましたから。
富士山、懐かしいでしょう、、、。

小山田さんっ!!
と、怒って調べてみると大勢の敵軍から逃れて来る、武田 勝頼さんを入城させなかった事で戦火から守られた、とありました。
地元では、悪役ではありません。
小山田 信茂さん、一族の皆様も処刑されてしまいました。
どちらにしても、武田家は残念な結果です。

帰り道、甲州街道を通るはずでした。
ちなみに、小山田 信茂さんが北条家との戦いで八王子方面に抜けた間道が、後の甲州街道の始まりの1つなんだそうです。
確かにこの先の八王子方面に、小山田さんの御先祖様のお城が いくつかあります。
間道、得意だったんでしょうね。

が、ぜんぜん違う山道を走りました。
時間がかかり、グネグネ山道です。
高速道路代は、ケチらず余裕のある お城攻めをお勧めします。

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テテたん

臼杵城跡 (2021/01/24 訪問)

今年初のお城

運動がてら歩きました

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赤い城

久米城 茨城県常陸太田市 (2020/10/04 訪問)

地元の方が10年くらいかけて整備されたとのことです。
駐車場もあります。
鹿島神社が建つ部分が主郭で北と南の尾根にも展開されている。
北尾根は竜貝城と呼ばれ、沢山の堀切が切られています。
元々はここが本城で徐々に拡張されたと思われます。
南城にも多くの堀切がある他、横堀もあります。
佐竹氏北家の城で近くの山入城と睨み合っていたものと思われます。

それにしてもこの城、凄く見応えあるのに城びと未登録。
皆さんにも是非行って欲しい城でした。

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ぶーたろー

この時代には無いはずの石垣を発見! (2020/12/05 訪問)

前編:https://youtu.be/wzi4HnSfR2U  後編:https://youtu.be/-4Fg7B-QHdw
↑この動画が参考になります。南、北曲輪の間にある堀切の底を歩いて南曲輪に回り込みました。南曲輪の足元に石垣が確認できます。
この城は1590年に廃城となったと看板にありました。城の石垣は信長が祖とされておりますが、この石垣は信長以前のものだと思います。一見の価値があると思います。

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橋吉

現在は、豊田市美術館 (2019/08/04 訪問)

現在は、豊田市美術館になっています。
かつて、ここには挙母藩の藩庁が置かれていました。
正式には挙母城ですが、「三河国」「尾張国」「美濃国」「信濃国」「伊賀国」「伊勢国」「近江国」の7つの国が見える高台にあることから、七州城ともよばれたそうです。

隅櫓は、1977(昭和52)年再建されました。

書院「又日亭」(ゆうじつてい)は、明治まで寺部城の城内にありました。
明治年間に千足町の竜寿院に移築され、その後解体される予定ででしたがが、1977年、隅櫓再建とともに、豊田市によって現在地に移築されました。

他に遺構らしいものは見つかりませんでした。

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ヒロケン

中世山城 (2021/01/04 訪問)

白山城は、新羅三郎義光の曾孫武田太郎信義が白山城を築き、武田庄を領土とし勢力を拡大したと云われています。
戦国期には武田氏の領国支配烽火台ネットワークの拠点としての役割も担ったとされています。

遺構としては曲輪・空堀・土塁・土橋等が残り、規模は小さいながらも、中世山城の面影を偲ばせています。
アクセスとしては、韮崎大村美術館を目指し、美術館の横を流れている川に沿って山の方へ2分程進むと防獣柵がありますが、この川沿いにある防獣柵を開け進むのではなく、防獣柵の右横に何らかの施設があり、その施設の奥側に別の防獣柵があり、そこが登城口になります。防獣柵を開け進むと白山神社があり、4~5台程の駐車スペースもあります。

下調べも十分に行い、韮崎大村美術館をナビにセット、迷わず美術館着。川沿いを上流へ進むと、防獣柵があり「はは~ん」「これか~」防獣柵を開け、車ごと中へ進入。調べでは、すぐに神社があり、そこから徒歩にて登城。が、3分程進んでも神社がない((+_+))しかも、かなりの悪路((+_+))「ガガッ」「ゴゴッ」っと車底を擦りながら、進むとついに行き止まり((+_+))防獣柵に熊出没の情報があり、車から降りる勇気もなく、引き返すことに。防獣柵まで引き返し、スマホ検索。登城口を勘違いしていることに気付き無事登城(^O^)/
苦労して辿り着いた白山城は国の史跡に指定されているだけあって、本当にあきらめなくて良かったと思える素晴らしい城跡でした。

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昌官忠

クラブツーリズム「信州桜吹雪」1泊2日⑥ (2017/04/09 訪問)

クラブツーリズム「信州桜吹雪」1泊2日の6城目(ラストです)は高遠城です。春日城からの転戦です。

高遠城は2回攻城しています。
①2017/04/09(今回) クラブツーリズム「信州桜吹雪」ツアーでの攻城
②2018/10/07 100名城スタンプ押印目的の攻城(投稿済)

空堀が素晴らしい城址でした。桜が咲いていたらと思うと残念です。
本当に桜に恵まれないツアーでしたが、観光客は多くてどうしても写真に写り込んでしまいます。
極力人が写っていない写真を選んで投稿しました。攻城時間は70分くらいでした。

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にのまる

新春総構ウォーキング (2021/01/02 訪問)

 今年のお城巡りは小田原城からスタートしました。西側の総構をメインに歩くのは3年ぶりです。
 昨年の籠城企画後から武将の像チェックが欠かせないマイミッションになっているのでまずは西口ロータリーの「火牛の計」の早雲公像へ。そこから八幡山古郭に向かっていると国際医療福祉大学前に三の丸元蔵堀の説明板がありました。それによるとこのあたりに後北条氏の障子堀を大久保氏が改修したと考えられる8メートル級の堀があったそうです。8メートルと言えば現在見られる小峯御鐘の台大堀切と同じくらいの深さです。「ここにあれが?」と考えるだけで楽しくなってきます。
 
 八幡山古郭東曲輪は高台にあり小田原城天守と海を一望できました。天守との距離が近すぎず遠すぎずで、最高のロケーション。お天気にも恵まれ幸運でした。

 つぎに三の丸外郭新堀土塁へ向かったのですが、公園になっているそこはまさかのお正月休み。残念ではありましたが次回のお楽しみができたということで引き返し、競輪場をぐるっとまわって城山公園へ。前を通って写真だけ撮った大久保神社は初代大久保忠世と10代忠真が祀られていて、明治33年までは現在の天守がある天守台にあったのだそうです(小田原市HPより)。こちらも次回改めて寄りたいです。
 
 道すがら旧址の説明や文学碑に触れながらたどり着いた城山公園。「海と港の見える丘」は総構成立以前の小田原城の最西端にあたる重要な場所だったのだそうです。東堀に続くこの公園からも相模湾と天守が望めました。静かでいいところです。

 そしていよいよ東堀散策。堀底道を歩くのってどうしてこんなにわくわくするのでしょう⁉︎(討たれるのに…。)360度の視界を楽しみながら堀の中を行ったり来たりしました。
 大胆に湾曲した堀底に側面から斜めに張り出す大木が覆い被さって作り出された空間は、戦の終焉を見届けた後も自然と人工とが融合し続けてできた唯一無二の異世界。いつか完全に埋まり自然に還る日がきたら、おつかれさまと声をかけそっとしておいてあげたい、そんな思いが湧いてきました。
 
 東堀、中堀でまったりとしたあとは西堀でいにしえの空気に浸り、やめとけばいいのにロープにつかまって稲荷森をのぞき込み、山ノ神堀切は初めて下まで降りて見上げ、道沿いにたわわに実るミカンにこの季節の到来を感謝しつつ小田原駅に戻りました。

 
 西側総構は北原白秋の童謡の散歩道でもあります。訪れた数日後、映画「この道」をAmazonプライムで観ました。北原白秋と山田耕筰の交友と音楽家人生が描かれており、舞台は小田原。「からたちの花の小径」は総構西堀から続いていて、映画の中には二人が小径を歩きながら小田原の町を眺める場面も。
 伝肇寺(でんじょうじ)は北原白秋の旧居址だそうです。小田原文学館・白秋童謡館(2/7迄臨時休館)とあわせて訪ねてみたいです。
 
<つづく>

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昌官忠

クラブツーリズム「信州桜吹雪」1泊2日⑤:春日城(長野県伊那市) (2017/04/09 訪問)

クラブツーリズム「信州桜吹雪」1泊2日の5城目は城びと未登録の春日城です。高島城からの転戦です。
城びとに登録されている春日城は長野県佐久市ですが、攻城したのは長野県伊那市にある春日城です。春日(城址)公園として整備された桜の名所です。

信濃国の滋野氏三家(小太郎・小次郎・三郎)の小次郎根津氏の支族である春日氏が築城したといわれ、戦国時代には伊奈の豪族伊那部大和守重慶の居城だったようです。
本姓は春日氏であり伊那地方の重鎮となりました。重慶の子但馬守重成が継ぎ、更にその長子・左衛門尉重親が後を継ぎました。弟重国を殿島につかわし殿島城を経営させたようです。
弘治二年(1556年)武田信玄のために斬られた郷士の中に春日河内守がいるが、これは重親の子であろうと考えられています。後の城主・春日河内守昌吉は高遠城主・仁科盛信に従いました。
天正十年(1582年)、織田信忠軍の信濃侵攻に伴い春日城は兵火に罹り炎上しました。
昌吉は部下を引き連れ本城の高遠城に参じ、虎口の門を死守したが、盛信と共に討死しました。
以来、再建されることなく廃城となったようです。
長野県佐久市にある春日城とは関係はないようです。

公園です。桜は蕾でした。攻城時間は30分くらいでした。

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昌官忠

クラブツーリズム「信州桜吹雪」1泊2日④ (2017/04/09 訪問)

クラブツーリズム「信州桜吹雪」1泊2日の4城目は高島城です。高田城からの転戦です。

高島城は2回攻城しています。
①2017/04/09(今回) クラブツーリズム「信州桜吹雪」ツアーでの攻城
②2018/10/07 続100名城スタンプ押印目的の攻城(投稿済)

浮城と呼ばれるだけあって、濠越しの天守閣は映えます。
桜を見るツアーですが、桜は咲いていません。団体移動の為、ツアー客がどうしても写真に写り込んでしまいます。
極力人が写っていない写真を選んで投稿しました。攻城時間は30分くらいでした。

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きぬさや

織豊期の石材確保? (2021/01/23 訪問)

豊橋市の国指定史跡、馬越長火塚古墳群で行われた大塚南古墳の発掘調査現場公開へ。石室の範囲範囲確認を目的とした調査を行ったところ、古墳の側壁と呼ばれる石材がほとんど抜き取られていることが確認されました。

遺物が見つかっていないので推測含みながら、地域には「池田輝政が吉田城主となった際に、周辺の古墳から石材を持ち去った」と伝承があるとのこと。興味をそそられます。

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朝田 辰兵衛

足軽長屋の茅葺屋根破損! (2021/01/23 訪問)

1月14日に破損し,1月18日の県内ニュースで報じられました。その後も悪条件が続いたため,本日ようやく散策するにいたりました。新発田城からは少し離れていることと,公共交通事情がいまだ不完全ですので,足軽長屋だけの散策にとどめました。
破損原因は,屋根に積もった雪の上に雨が降り,屋根雪の重さが増したことと考えられています。
足軽長屋は,1842(天保13)年築。藩政時代の足軽が住んだ茅葺き平屋建ての八軒長屋で,長さ約50m,奥行約7m。堀を挟んで清水園に隣接しています。
清水園の屋根の雪下ろし作業はこの案件を受けて,大学生のボランティアで実施しておりますが,足軽長屋については(復元も考え)慎重に判断しているものと思われます。
これをネタに木久扇師匠は「せーのっ!」と振るのかな…?
その性根が「やーねぇー」。

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チェブ

土塁と飛行機雲。 (2020/12/26 訪問)

ナビ頼りに運転していると『信玄のみち』という看板がありました。
だいたい、JR中央本線 塩山駅近くから恵林寺までの道のようです。
恵林寺といったら快川和尚の『心頭を滅却すれば火も自ら涼し』のセリフは有名です。
では、寄り道。
恵林寺は武田 信玄さんが眠る墓所があります。他にも重要文化財の赤門、武田不動尊、庭園、うぐいす廊下などがあり良い寄り道でした。
ちょっと残念だったのは、武田信玄公宝物館はお休みだった事です。
日曜日でしたが、コロナの影響でしょうか?

恵林寺から車で10分位の場所に「連方屋敷」があります。
武田家の蔵前衆、古屋氏の屋敷のようです。
でも、発掘調査で出土した物は、古い青磁の製品や土器。
南北朝時代には「連方屋敷」は存在していたようです。
ちょっとした住宅街に、長い土塁があります。
広い、お屋敷です。
四角いのでグランドに見えます。キャッチボールやサッカーができそうです。
きっと御近所さんは、そのような使い方をしてるに違いない、と思いました。
広いな~と、眺めてたら土塁に平行して飛行機雲。
写真、写真!と慌てて写したら写真⑤、指が入ってしまいました。
心頭滅却、私には必要かもしれません。

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みつるん

伊賀上野城 (2021/01/17 訪問)

夕刻に近いこともあり、貸し切り状態でゆっくりと堪能できました。
個人的には、御城印1枚目の記念すべき城になりました。

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橋吉

小倉公園 (2018/11/30 訪問)

美濃金山城から足を伸ばして、小倉山城に寄ってみました。

1605(慶長10)年、飛騨高山藩主であった金森長近は、養子の可重に高山城を譲り隠居しました。
小倉山城は、長近の隠居城として築城された城で、別名「小倉居館」とも呼ばれていました。
その後、可重より長近の実子長光に2万石が分知され美濃国に上有知藩が成立しましたが、長光は嗣子無く没し1611(慶長16)年改易、廃藩となり、小倉山城も廃城になりました。

現在は、小倉公園として整備されているようです。

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ぴーかる

城域はどこまで? (2020/12/13 訪問)

【波賀城】
<駐車場他>波賀城史蹟公園駐車場<35.160795, 134.554398>
<交通手段>車

<見所>石垣・模擬櫓
<感想>日帰り宍粟市攻城の旅1城目。波賀城の城域は一体どこまでなのだろうか。城の主要部だったところは本当は違う場所ではなかったのではなかろうか。自分が行って見て来た疑問に明瞭に解決するものが見つからなかったので、今回の私の投稿が的外れなものでしたらすみません。またこの疑問に対する答えを御存じの方おられましたら教えて下さい。かなりの長文になりますが次に見て来た事実を記述します。

 史蹟公園駐車場の手前数百㍍手前から山の斜面に登り石垣のような石積み(これはGoogleのストリートビューでも見れます)が見られます。駐車場は山の塁線を広く削った弓状になっていて、南側下は崖になっていますが、そこの斜面に遠くからですが石垣が見られます。疑問点は駐車場の北側上方で山の斜面に巨石が広大に散乱、小さめの石であちこちに石垣が見られます。そこに「この付近は城山です」「この付近は馬隠しです」と書かれた小さな看板があるだけでここには他に特に案内図や説明板もなにも無く一旦あとにして、城に向かいます。「馬隠し」というのは、波賀城跡説明板によると、〚この地は十一世紀初め頃には伯可荘という石清水八幡宮の荘園となっていました。築城者と推測される芳賀氏の芳賀七郎という武士が有名な名馬を飼っており、都からその名馬を献上せよとの命令が下されましたが、芳賀七郎はそれに従わず合戦になりました。その時「馬隠しの穴」に名馬を隠しましたが力尽き戦死していまいました。〛とありますが、その看板の付近に特に穴は見当たらなかったのでよくわかりませんでした。

 駐車場から車1台通れる林道を100㍍ほど南西方向に進むと2股に道が分かれています(ここもストリートビューで見れます)。分岐に林道の案内板と杉板の販売の看板があります。分岐の左手斜面には曲輪と石垣が僅かにあります。右手斜面は私には畝状竪掘り跡のように見えました。分岐の片方北方向の道へ散策するのもあと回しにしてまずは南西方向の波賀城跡に向かいます。
 
 分岐から緩やかな下り坂になっていて、200㍍程先に城跡入口の冠木門があります。分岐から冠木門入口までの道両脇の山の平地には石が散乱し、堡塁のような小山が数個あります。石垣巻きの堡塁から石垣が全て落ちてしまった転落石に見えなくもないです。
 
 冠木門から中は波賀城の城跡公園になっているので皆さんの投稿の通りなので割愛します。少し所見を記述すると、冠木門を入って進むと、主要部の小山脇に横堀跡が見られますが、ここにも石が溜まっているので、これは絶対主要部小山斜面の石垣であった転落石だろうと思われた(写真9枚目・ストリートビューで見れます)。結局、波賀城跡公園の主郭部分はこの一帯山系の下った南西崖先端の小山山頂にあり、標高では車を駐車した駐車場の位置とほぼ同じだろうと感じた。調べてはいないが、ここ周辺の山系の一番高いところは駐車場北東側にある広大な巨石敷きの斜面を登った先の山が高いように見えました。

 城跡公園を見終わったあと、先程の林道の案内板のある分岐の道を北上しました。右手は山で、左手は谷になっていますが、ここも大竪掘りと舌状の曲輪に見えなくもないのがあります。200㍍程進むと「此の道は二百米先で行止まりです・・・」の看板と銘の無い石碑と諸々があります。その手前斜面が窪地(曲輪に見える)になっていて、巨石、道斜面に巨石の石垣に見えなくもない(写真8枚目)のがあります。

 駐車場に戻り、いよいよ謎に思った「城山です」「馬隠しです」の山を攻めました。駐車場のすぐそばに半円形に組まれた石垣があり(写真5・6枚目)駐車場からでも見えます。曲輪か塹壕跡のようにも見えます。またここの斜面が巨石の滝(写真7枚目)のようになっています。この光景は赤松氏の白旗城「谷落としの岩」と感状山城の大手門跡手前の大手道の巨石の散乱具合と非常に良く似ている。この光景も駐車場から見えますので、来られたら見て下さい。巨石敷きの薄い場所を登って中腹に虎口跡のような石垣(写真1枚目)と小さめの石を集めた何か施設のような石垣(写真2枚目)があります。更に少し登ると大きく平地になっている場所が何箇所かあります。石が堆積しています。山頂に向かう上方の平地(曲輪?)の輪郭に沿って長い石垣があります(写真3・4枚目)杉の落葉の堆積と石垣が崩れていて低くなってはいますが、元々は相当高く積まれていたように見えます。この石垣は山頂の方まで伸びているように見えました。山頂まではまだ数百㍍ほど登らなければならない感じで、あとで後悔したのですがここで山を降りました。

 波賀城跡公園となっている面積よりはるかに広く、高い山頂の方にあり、後世に積まれたものとは思えない石垣遺構を見てこの場所は城跡かという謎と城跡ならば何故広く説明されていないのかの疑問が深まる所、自分が見た感じではすごい所に見えました。

<満足度>◆◆◆

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カルビン

勝手に第二次籠城企画 [三方ヶ原古戦場~犀ヶ崖古戦場]  (2016/07/02 訪問)

上洛を開始した武田信玄軍に対し、素通りされるのを放置せずに出陣た徳川家康軍が、三方ヶ原で返討にあって命からがら浜松城に逃げ戻った三方ヶ原合戦はエピソードはお城好き含め戦国ファンの方々には有名なお話。

そんな家康が逃げ戻った後、鉄砲による夜襲でちょっと仕返しした犀ヶ崖夜戦は比較的知られていないかと。

ここ数年の夏季の猛暑でお城巡りが辛かった時期、こういう散策なら出来るだろうと行って来た2ヶ所の古戦場。


浜松駅からバスで「三方原霊園」停留所で降りると目の前に解説と石碑がありました。

ただ、丘の頂上が攻防の要であったとされますが現地にそれらしき地形は見られませんでした。。。勿論遺構もありません。


それだけの為に訪問するには勿体ないですが、浜松駅へ戻るバスの路線上「犀ヶ崖」停留所で下車し、今度は犀ヶ崖古戦場を見学。

現地には徳川軍が鉄砲夜襲で騎馬隊を追い込んだとされる崖が残っており、更に小さな無料資料館、三方ヶ原ー犀ヶ崖の合戦で亡くなった本多忠真(忠勝の叔父)のお墓、家康の身代わりとなった夏目吉信碑と解説(道を挟んで反対側)、更に何の関係か解りませんがねずみ小僧治郎吉のお墓もありました。

犀ヶ崖からは浜松城までちょっと距離ありますが徒歩圏内だったので、浜松駅周辺にある家康に纏わる史跡とセットでこの古戦場巡りされると効率は良さそうです。



このご時世なのに年明けから忙しく投稿が出来てませんでした。。。
ようやく勝手に第二次籠城企画としてこんな記事掲げてみました(ー∀ー)

次があるかどうかは全く解りませんwww

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