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ぶーたろー

市民の森として整備されてるよ!

https://youtu.be/9Yj3KzyHLpY
↑この動画が参考になります。国道246号のすぐそばに深見城はあります。市民の森として整備されていて攻略しやすいお城です。反面城ファンには物足りないかも。

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イオ

土井城(和歌山県西牟婁郡白浜町田野井) (2021/01/10 訪問)

# 土井城は安宅本城とともに国史跡「安宅氏城館跡」を構成する城であり、安宅本城の支城と考えられるため、安宅本城で投稿します。

史料の裏付けはないものの、江戸期に書かれた軍記物「安宅一乱記」によれば、土井城は安宅氏当主・安宅安定の弟で土井氏の家督を継いだ安宅基定が拠った城で、兄を滅ぼして当主の座を得ようと挙兵した際に戦場となったとされます。その真偽はともかく、安宅一族が城主を務める支城だった可能性はありそうです。

土井城は天徳寺の裏山に築かれた城で、天徳寺の駐車場に駐めさせてもらい、墓地の奥の登城口から防獣柵を開けて5分ほど登っていくと、水道施設らしき建物の奥に横堀がある……はずですが、シダの藪と化していて何も見えません。少し行くと今度はシダが土塁と横堀の形に盛り上がり窪んでいました。さらに登った先にある虎口の手前と奥には石垣が設けられ、虎口から西にのびる横堀の土塁内側にも石積みが見られます。虎口を抜けると南の曲輪に至り、南東部に櫓台状の土壇、西辺から南西辺にかけて石塁があります。南の曲輪の一段上が主郭で、北端の櫓台(大日如来の石塔が祀られています)の北下では大堀切が北尾根を断ち切っています。

大堀切の先の北の曲輪に足を踏み入れたあたりから、シダの繁茂がさらに激しくなって顔の高さまで伸び盛り、足元も見えなくなってきましたが、もう少し行けば土井城最大の見どころである連続堀切群があるはず! と勇を鼓してシダをかき分けふみ分け何とか進んでみましたが……連続堀切群はシダの藪に沈んでいて何が何やら全くわかりませんでした。

横堀と竪堀を組み合わせ、虎口の導線に折れを設け、連続堀切群で尾根筋を遮断するなど、安宅氏城館跡の他の城に比べて技巧的な縄張で、大いに見応えがあるはずなんですが、シダのせいでその半分も目にすることができないというのは何とももったいないことですね。
 

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昌官忠

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」⑦ (2017/02/18 訪問)

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」の7城目は高松城です。丸亀城からの転戦です。
高松城は2回攻城しています。(3回目を2020/11に攻城予定でしたが、新型コロナの影響でキャンセル)
①2017/02/18(今回) 次男と二人でクラブツーリズムのツアーで攻城 
②2019/11/10 一人でレンタカーを借りて蛸橋目当ての攻城(投稿済)

1588年(天正16年)生駒親正により高松城築城開始
1640年(寛永17年)7月生駒高俊が生駒騒動により出羽矢島1万石に転封
1642年(寛永19年)2月松平頼重に東讃12万石が与えられ城内の改修を行う
1670年(寛文10年)8月小倉城天守を模した天守完成
1671年(寛文11年)東ノ丸・北ノ丸を新造開始
1677年(延宝5年)5月艮櫓完成
1868年(慶応4年)1月官軍に高松城開城
1884年(明治17年)老朽化により解体
現在城跡は「玉藻公園」として整備されており、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存します。
また、高松城の天守は小倉城や岩国城の天守のように「唐造り」でしたが、1884年(明治17年)に老朽化により解体されたため現存していません。

日本三大海城の一つ、お堀が海水なので鯛への餌やりができます。(自分が攻城した時は100円でした)
高松城と一緒に栗林公園にもいきましたが、近くに室山城があることは知りませんでした。知っていてもツアーなので行けなかったと思いますが。
撮った写真は高松城と栗林公園で併せて112枚。この中から選んだ10枚を投稿します。
攻城時間は180分くらいでした。

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昌官忠

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」⑥ (2017/02/18 訪問)

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」の6城目は丸亀城です。今治城からの転戦です。
丸亀城は2回攻城しています。(3回目を2020/11に攻城予定でしたが、新型コロナの影響でキャンセル)
①2017/02/18(今回) 次男と二人でクラブツーリズムのツアーで攻城 
②2019/11/10 一人でレンタカーを借りての攻城(投稿済)

1597年(慶長2年)生駒親正・一正父子が丸亀城築城に着手します。
1602年(慶長7年)生駒一正、丸亀城から高松城へ移り、丸亀城には城代を置きます。
1615年(元和元年)一国一城令で丸亀城は廃城となります。
1640年(寛永17年)生駒氏所領没収、出羽国由利郡矢島に転封後、1641年(寛永18年)天草郡、富岡城主山崎家治が領主となります。
1649年(慶安2年)幕府、山崎氏の丸亀城修復、普請等の指示を出します。
1657年(明暦3年)山崎氏絶家後、1658年(万治元年)京極高和が丸亀藩主となります。
1660年(万治3年)丸亀城天守が完成します。
1869年(明治2年)京極郎徹が版籍を奉還します。

石垣の美しいお城です。野面積み/打込みハギ/切込ハギの石垣、刻印も確認できます。
ただ、天守への上り坂は結構きついですね。また、天守内の階段も結構急なので注意が必要です
攻城時間は120分くらいでした。

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カズサン

【遠江・野地城】静岡県浜松市 佐久城の北800m程半島城 (2021/01/26 訪問)

 城びとに登録の無い野地城を佐久城を終えて平成27年6月以来同じく冬枯れの時期は如何にと探訪しました。
 地理案内と歴史案内は前回投稿2020/7/28登城日2015/06/25をお読みください。
 駐車場は無く野地城手前200m程の湖岸ウォーキング道始めに路駐、前回は車で野地城まで行けそうと書き込みましたが車走行禁止で停止柱で防いでます。
 湖岸ウォーキング道を徒歩200m程、本曲輪の西から登城出来ます、北側からは車走行禁止柱は無くまた本曲輪はグランドゴルフ場にも成ってる様で地元の方々の車利用が予想されます?

 本曲輪の西端に神社が在りますが現在は閉鎖され立入禁止状態、西から東に本曲輪は運動場、二の曲輪と三の曲輪はミカン畑で私有地、本曲輪の北西側に南北の空堀が確認、堀もミカン畑、三の曲輪から城域の南側の城塁を眺めるが樹木、笹竹が茂り良く見えない、本曲輪と二の曲輪南側の城塁に堀と堀の間を出構えにした遺構辺りに土塁と、堀、下に腰巻石垣のような石垣がミカン畑の隙間から見え近くで観察、当時の石垣か?戻って三の曲輪東北に堀が有り水が溜まってる、水堀か? 解説と案内図が欲しいが私有地に付き無理かな?
 私有地ですのでマナーを守って荒らさない様な見学を心がけましょう。
 案内、解説も無く良く分かりません浜松市文化財課で2017年3月発行してる「浜松の城跡 見どころマップ」には名前が載るのみで詳細は掲載されてません、佐久城の欄に佐久城と野地城が地図掲載されてます。
 投稿写真は前回と被らない様にと選びました。

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ぴーかる

長水城 (2020/12/13 訪問)

【長水城】
<駐車場他>城跡駐車場<35.043377, 134.533631>4台分程あり。
<交通手段>車

<見所>石垣
<感想>日帰り宍粟市攻城の旅2城目。長水城は南北朝時代、赤松則祐が築城、四男の広瀬師頼が城を受けぐ。広瀬氏が4代続き、その後宇野氏に受け継ぎ5代続く。1580年秀吉の長水城攻めにより落城した。
 駐車場からは約1㎞の登山です。道は整備されておりストックは不要かと思います。手前200㍍程に井戸跡があります。山頂部に主郭、主郭部分は信徳寺というお寺さんになっています。東面には見事な石垣が見られますが現地案内板によると後世の積み直しのようです(私には感状山城の南曲輪群の石垣と積み方・雰囲気が似ていると思いましたが・・)。南側尾根沿いに二の丸があります。さらにその南に三の丸があるようだがそこも行かず。東側には階段状の曲輪がありますが、上部に民家がありますので曲輪側面の石垣を見て終了した。ここの階段状の石垣も見事です。民家を通り抜け、主郭北側にも階段状の曲輪、姫の郭というのがあるみたいだが遠慮しておきました。

<満足度>◆◆◇

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カズサン

【遠江・佐久城】静岡県浜松市 浜名湖内湖猪鼻湖に突き出た半島城 (2021/01/26 訪問)

 城びとに登録されてない遠江・佐久城と遠江・野地城に夏の草の茂ってる平成27年6月以来振り、冬枯れ時期は如何にと探訪しました、地理案内と歴史案内は前回投稿2020/07/28登城日2015/06/25をお読み下さい。
 今回は前回投稿して無かった点を主に投稿したいと思います。
 駐車場は登城口に詰めて2~3台有り。
 登城ルートは登城口、馬出登り階段、角馬出、土橋、両サイドの空堀、二重空堀、本曲輪枡形虎口、本曲輪、井戸、雑兵建物跡、館跡、搦手虎口、搦手道の石垣残渣、本曲輪土塁、南曲輪を30分廻りました、草が刈られ枯れて搦手側は初探訪、前回気付かなかった本丸桝形虎口も観察、本曲輪南側大空堀が二重空堀に成ってる事を初観察、南曲輪と角馬出間の大堀切から前面の本曲輪南面の堀土塁は見上げる様に威圧を感じます。
 佐久城の見所は本曲輪手前の角馬出、土橋、左右の空堀ですが今回写真投稿は無く前回をご覧ください。
 2回目と成ると良く見えてくるものです冬時期の晴れた日は探訪日和です。

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じゅんじん

竹藪 (2021/01/02 訪問)

堀、曲輪はわかりますが竹藪で・・・。途中で撤退しました。

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じゅんじん

新宮城 (2021/01/02 訪問)

支城の谷を越えた北側にあります。写真じゃうまく表現できませんが土塁が素晴らしいです。

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小城小次郎

繁栄を極めた面影も今はなく (2020/11/27 訪問)

学校敷地なので不審者にならぬよう気を使って早朝散歩で見学したら、部活の朝練と重なり却って不審に見えたようだ(汗)。土岐氏守護所として西の大内と並び賞されるほどに栄えた面影は今はなく、ただ土塁の残欠が残るばかり。

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じゅんじん

支城でも高い土塁 (2021/01/02 訪問)

特有の高い土塁単郭方形城でした。

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イオ

中山城(和歌山県西牟婁郡白浜町田野井) (2021/01/10 訪問)

# 中山城は安宅本城とともに国史跡「安宅氏城館跡」を構成する城であり、安宅本城の支城にあたるため、安宅本城で投稿します。

中山城は室町期に榎本直光によって築かれたとされ、後に地名から田井(たのい)氏を名乗りましたが、安宅氏に攻められ被官となった後は安宅本城の支城として機能したようです。

中山城は田野井地区の小高い独立丘に築かれた館城で、北麓の登城口には説明板が建てられ、その前に車1台(縦になら3台ほど)駐められるスペースがあります。登城口から5分ほど登ると副郭北下の二重横堀(外側)に至り、内側の横堀を越えて少し登ったところが副郭です。副郭は北辺と西辺に土塁をめぐらせ、土塁の内周と外周には部分的に石積みが見られます。副郭南側の一段高くなったところが主郭で、西辺と南辺に土塁がめぐっていますが、発掘調査でも主郭の土塁には石積みは確認されなかったようです。

方形の曲輪を二つ並べて土塁で囲み、その周囲(東側を除く)に二重横堀をめぐらせた、構造としてはシンプルな館城ですが、堀幅は広く、切岸は高く、土塁は分厚く、重厚な迫力のある城でした。ただ、藪化していてよく見えないところも多く、もう少し整備されればさらに見応えが増すと思うんですけどね。
 

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昌官忠

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」⑤ (2017/02/17 訪問)

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」の5城目は今治城です。湯築城からの転戦です。
今治城は2回攻城しています。(3回目を2020/11に攻城予定でしたが、新型コロナの影響でキャンセル)
①2017/02/17(今回) 次男と二人でクラブツーリズムのツアーで攻城 
②2019/11/09 一人でレンタカーを借りての攻城(投稿済)

慶長7年(1602年)藤堂高虎により築城が開始。
慶長9年(1604年)今治城が一応完成。
慶長13年(1608年)今治城のすべて完成に伴い、高虎が伊勢・伊賀へ移封。高虎の養子・高吉が城主となる。
寛永12年(1635年)高吉も伊賀・名張へ転封となり、代わって久松松平氏定房が入城、以後、松平(久松)氏が廃藩置県まで10代230年余りにわたって今治を統治します。

水堀は鉄砲が届かないような幅を取り、石垣は高くして侵入を許さないような造りになっています.
遺構は堀と石垣だけですが、その美しさと存在感に感動します。
天守閣は美しくて立派ですがRC造の模擬天守で内部は資料館になっています.
写真は石垣を除き、少し退いたものを選んで投稿しました。攻城時間は120分くらいでした。

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昌官忠

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」④ (2017/02/17 訪問)

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」の4城目は湯築城です。松山城からの転戦です。
2回目の攻城を2020/11に攻城予定でしたが、新型コロナの影響でキャンセルしました。

湯築城は、中世の伊予国の守護であった河野氏が南北朝期から戦国期(14世紀前半〜16世紀末)まで、約250年間にわたって居城としていました。
源平合戦(1180〜1185年)で、河野通信が源氏方として功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり伊予国の統率権を得たようです。
承久の乱(1221年)で没落するものの、通信のひ孫通有が元冠(1281年)で活躍し、一族の力が復活した南北朝期の通盛の時(1335年前後)に河野郷からこの湯築城へ本拠を移したようです。
その後、有力守護細川氏の介入や一族間の内紛がありましたが、足利将軍家と結びつき近隣の大内・大友・毛利氏などと同盟や縁威関係を持ちつつ、伊予の守護としての地位を確立したようです。
庶子家との争いも克服し、通直(弾正少弼)は、湯築城の外堀を築き(1535年頃)娘婿の村上海賊衆(来島通康)との関係を強化しましたが、後に離反し、一族の力は徐々に衰えていきました。
最後の当主通直(牛福丸)は、全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにより小早川隆景に湯築城を明け渡します。
平安時代末期から戦国期(12世紀末〜16世紀末)までの、実に400年の長きにわたる河野氏の伊予支配に終止符が打たれました。
天正15年(1587年)、福島正則が城主となるが、程なく国分山城に居城を移したため、廃城となりました。
慶長7年(1602年)、勝山(城山)に松山城の築城が開始され、以降加藤氏(のち蒲生氏、松平(久松)氏)が伊予国松山藩主となります。
建築にあたっては、湯築城の瓦等の建材が流用されたことが発掘調査により判明しています。

道後温泉街近くにある道後公園で、お散歩を楽しんでいる方などもいました。
資料館で「おかご(御駕)」の折り紙をもらいました。いまも持っています。
攻城時間は75分くらいでした。

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昌官忠

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」③ (2017/02/17 訪問)

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」の3城目は松山城です。大洲城からの転戦です。
2回目の攻城を2020/11に攻城予定でしたが、新型コロナの影響でキャンセルしました。

1602年(慶長7年)伊予国正木城(松前)城主10万石の大名であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、平山城の築城に着手しました。
1603年(慶長8年)10月に嘉明が、この地を「松山」と呼ぶこととし、松前城より移ります。
1627年(寛永4年)嘉明は、松山城の完成前に会津藩へ転封となり、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が、出羽上山城より移封、24万石の松山藩主になります。
1634年(寛永11年)8月に忠知が参勤交代の途中に死去し、蒲生家が断絶します。そのため大洲藩主、加藤泰興が松山城を預かります(松山城在番)。
1635年(寛永12年)7月に松平定行が伊勢桑名より転封。15万石の藩主となり、松山城に居城。
1869年(明治2年)版籍奉還。松平勝成が松山藩知事に任ぜられ、三之丸を藩庁とします。

ロープウェイを使って上がりました。降りてから少し歩きますが、天守まで見所がたくさんあり、重要文化財も多いので見学には多く時間を要します。
新型コロナで2回目(2020/11)をキャンセルしなければ、「登り石垣」の見学とライトアップ見学を予定していました。
2021年末までには実現したいのですが…。攻城時間は3時間くらいでした。

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イオ

大野城(和歌山県西牟婁郡白浜町大古) (2021/01/10 訪問)

# 大野城は安宅本城の支城にあたるため、安宅本城で投稿します。

詳細は不明ながら、大野城は熊野水軍・安宅氏の執事を務めた大野氏の居城と伝わり、日置川の河川交通を監視する役割を担っていたと考えられます。

安宅本城から安宅橋を渡ってすぐの春日神社の裏山が大野城の城域で、春日神社の駐車場(2~3台)に車を駐めて境内に上っていくと、境内の南西部に登城口の案内があります。登城口からは2分もかからず南の曲輪南下の横堀に行き当たります。南の曲輪は東辺から南辺にかけて土塁がめぐり、北側の主郭との間は堀切で遮断されています。堀底からは主郭南端の土塁外周にわずかな石積みがあることが確認できます。主郭の西下と北下には帯曲輪が設けられ、さらに北に続く尾根にも曲輪があったようですが、北尾根は昭和期に土取り工事で大きく削り取られてしまい、見る影もありません。

ひと通り見ても30分かからない小規模な城ですが、横堀に土塁に堀切にと見どころは豊富ですので、安宅本城や八幡山城を訪れる際には、徒歩圏内の大野城もあわせてどうぞ。
 

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昌官忠

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日」② (2017/02/16 訪問)

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」の2城目は大洲城です。宇和島城からの転戦です。
2回目の攻城を2020/11に攻城予定でしたが、新型コロナの影響でキャンセルしました。

元弘元年(1331) 宇都宮豊房が地蔵ケ岳に城を築きます。
永禄11年(1568)宇都宮は河野・毛利連合軍に敗れ、城は河野の武将大野直昌が預かるところとなりました。
天正13年(1585) 羽柴秀吉の四国平定後、道後湯築城を本拠とする小早川隆景の枝城となります。
天正15年(1587)隆景が九州に転封となった際、 戸田勝隆が16万石で大洲に入城。
文禄3年(1594)朝鮮で病死した勝隆の後を受け、文禄4年(1595) 藤堂高虎7万石で板島に入城。大洲は蔵入り地となり高虎が代官となるが、すぐに大洲を居城とします。
慶長14年(1609) 脇坂安治が洲本より大洲に入城。
元和3年(1617) 加藤貞泰が米子より大洲に入城。版籍奉還まで加藤氏の治世が続きます。

時間はあったのに、苧綿櫓(二の丸)には近づけず、南隅櫓(三の丸)は見落とし。
心残りばかりの攻城でした。もう一度チャレンジしたい。攻城時間は90分くらいでした。

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昌官忠

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」① (2017/02/16 訪問)

次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」の1城目は宇和島城です。
自分の100名城巡りの原点は、このツアーから始まりました。
会員なりたての2020/07/29に投稿していますが、内容がないので再投稿します。(攻城日も誤っているので訂正します。2017/02/19➡2017/02/16)
2回目の攻城を2020/11に攻城予定でしたが、新型コロナの影響でキャンセルしました。

1595年(文禄4年)藤堂高虎は伊予国宇和郡に7万石で封じられると、翌1596年(慶長元年)から築城がはじまり、160年(慶長6年)には天守が完成しています。
1608年(慶長13年)今治に転封となった高虎に代わり伊勢国から富田信高が入ります。
1613年(慶長18年)に信高が改易されると、1年間は天領となります。
1614年(慶長19年)伊達政宗の庶嫡子秀宗が10万石で入封します。
1664年(寛文4年)二代藩主の宗利が全体の改修開始(完了まで約7年かかりました)。現在残る天守も、このときに造られたもののようです。
その後は明治を迎えるまで、9代(3代宗贇、4代村年、5代村候、6代村寿、7代宗紀、8代宗城、9代宗徳)にわたって、宇和島伊達家の居城としてあり続けます。

北側の登城口から登り、郷土資料館から本丸に向かいました。
石垣は見ごたえがあります。三重三階天守の唐破風造の玄関、懸魚の写真を撮りました。
心残りは搦手門口にある「上り立ち門」を見学できなかったことです。攻城時間は50分くらいでした。

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ぶーたろー

天気が良い日、お散歩に行こう! (2020/12/05 訪問)

前編:https://youtu.be/Fm-eFtbWTQo  後編:https://youtu.be/iKM5e3Cl-uM
↑この動画が参考になります。山頂は公園として整備されていて、展望台がありました。登城口も整備されていて、歩きやすいよ!

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姫街道

信長の父である織田信秀築城の堅固な平山城 (2021/01/24 訪問)

信信秀死後は、家督を継いだ信長が弟の信勝に譲ったが、これもまた次第に確執が深まり対決となったようだ。末盛城は街道筋を見下ろす位置にあり、重要拠点であった事が伺える。
比高は約20mと高くはないが、高低差があり、堀も大きく主郭を大きく二重に取り囲むようにある。ここも小牧・長久手の合戦時に家康が陣を置いたようで、遺構は戦国後期の感じがする。今日は一日雨降りだったが、尾張の平山城巡りは歩きやすくて丁度いい。

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