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平塚神社 (2020/01/31 訪問)

 上中里駅の前にある平塚神社が平塚城伝承地です。案内板を捜して境内を徘徊してしまいました。入口の平塚神社の石碑の横にありました。

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金剛寺 (2020/01/31 訪問)

王子駅より徒歩にて登城しました。金剛寺付近が城址です。源頼朝の布陣伝承地の案内板はありますが、滝野川城の案内板はありません。

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光照寺 (2020/01/30 訪問)

光照寺が跡地とのことです。遺構はありません。

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築土八幡神社の横の道にて (2020/01/30 訪問)

遺構はありません。皆さんに倣って「御殿坂」の標柱を撮影しました。

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飯田橋駅から (2020/01/30 訪問)

築土八幡神社が城址です。案内板等はありません。飯田橋駅から登城しました。

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勝野武士

本年初登城は光秀の城から! (2020/01/26 訪問)

今回、突然思い立って行ってみたのは、本年初登城となります福知山城です。
個人的には三度目ぐらいの訪問となります。

今年の大河ドラマの主人公であり、福知山の町の基礎を築いた明智光秀のお城ですからね、幟がいっぱい!流石になかなかの盛況振りです。観光バスも何台か見かけました。何度となく福知山城に来ておりますが、やはり一番賑やかな気がします。
『福知山光秀ミュージアム』が開催されているとのことで、迷わず天守(歴史資料館)とのセット券を購入。
光秀や秀満の書状などが展示されており、また光秀の肖像画の原本も期間限定で公開されるとのことです(普段は複製)。とても見応えがありました。

そしていよいよ天守へ。
現在の経路は当時のものではなく明治になってから。往時の経路は二ノ丸からなのですが、二ノ丸のあった丘陵地は廃城後にそのものが削り取られ、本来の導線が永遠に失われてしまったことは誠に惜しまれます。
本丸の一部も削られたり改変されたりしているようで、当時を偲ぶことができるのは天守台と天守曲輪、そして本丸の一部と伯耆丸のみとなっております。
しかしそんな中でも建造物が現存しています。二ノ丸に通じる正門であった銅門の番所が本丸に移築され現存しています。旧城内で唯一現存する建造物ですので、必見ですね。
その他には、市内に城門も移築されているようです。
また、転用石の多さも見どころの一つで、本丸以内だけで500以上もあったそうです。石材も非常に多彩なように見受けられます。如何に光秀が石材集めに苦労したかがわかりますね。

と、世間は光秀一色で皆様ご存知の通りなので、あえてその流れに逆らって、歴代城主の中でも稲葉淡路守紀通を取り上げてみます。
素行不良で評判もよろしくなかったという彼の治世は24年。元々水害が多く収穫高が上がらなかった福知山において重い年貢を課し、農民に対して「農民のせいで狩りの獲物が穫れない」と理不尽な理由で村民を虐殺したりと、まさに暴君による苛政。福知山における暗黒の時代だったように思います。
そんな彼が「家臣と寒鰤で酒が呑みたいから、寒鰤100本ほど融通してほしい」と隣国の丹後宮津藩の京極高広(この人もアレな殿様でしたが…)に書状を送りました。高広は「幕府への賄賂に利用されてはたまらぬ」と、寒鰤の頭を全て切り落として送りました。
その寒鰤を見た紀通は激怒!寒鰤を踏み潰して捨てた後、「丹後から入ってきた者は皆殺せ!」と命じて実行してしまいます。
驚いた高広は直ちに幕府に報告。さらに他藩からの飛脚を殺してしまったことで事が露見し、幕府は追討令を出して福知山城を包囲する事態に発展しました。
紀通は何を思ったか先祖代々からの甲冑を身につけ天守に立てこもり火縄銃を城下に向けて乱射!最期はそのまま拳銃自殺を遂げたそうです。
いやはや、福知山にとっては本当の黒歴史ですね。

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しーげ

迫力満点 (2020/02/01 訪問)

石積、空堀、堀切、すべて見ごたえ充分です。ただ、2018年の西日本豪雨で通常ルートの橋が無くなっているので注意が必要です。

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勝野武士

【百済寺城】地上の天国、一千坊の跡。 (2019/11/30 訪問)

2019年最後の登城となったのはこちら『百済寺城』です。
滋賀県東近江市、湖東三山の一つである百済寺の境内全域(旧境内含む)を指します。

…いやいや、寺だろ?城じゃあねぇだろ?っていうツッコミもあろうかと思います。確かにその通り。
しかしながら永正十五年(1518)から大永三年(1523)の足掛け5年間かけて、近江南部を支配していた佐々木六角氏が家臣の進藤賢盛に命じて石垣などで大規模に防備を固めたため『百済寺城』と呼ばれるようになったのです。当然、相当数の僧兵もいたことでしょう。よって湖東地域最大の『寺』であり総石垣の『城』でもあったのです。

戦国時代の百済寺の様子ですが、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの日記によると『百済寺と称する大学には、相互に独立した多数の僧院、座敷、池泉と庭園を備えた坊舎1000坊が立ち並び、まさに地上の天国』の様相だったといい、さらに室町時代から僧坊で醸造されていたという清酒『百済寺樽』は当時の都の評判になっていたといいますから、その繁栄振りがよくわかります(この百済寺樽は近年復刻され数量限定で販売されております)。

鎌倉時代から六角氏と縁の深かった百済寺でしたが、永禄十一年(1568)六角義賢の居城である観音寺城を攻略した織田信長より禁制が送られ(半ば一方的に)、そして信長の祈願所となりました。
六角義賢、義治親子が近隣の鯰江城に籠城して徹底抗戦の構えを見せると、信長は自らの祈願所たる百済寺に陣を構えます。
しかしその数日後、百済寺が六角氏の女子供を匿い、なおかつ鯰江城に密かに兵糧を送っていたことが発覚し、信長はついに激怒!
かくして元亀四年(1578)信長は百済寺の焼き討ちを敢行し、必死の抵抗も虚しく全山焼失の憂き目に遭いました。

なお、湖東三山(百済寺、金剛輪寺、西明寺)を含む天台宗の寺院は悉く焼き討ちに遭いました。
焼き討ち後の百済寺の石垣は、安土城を築城する際に持ち去られたそうです。
まさに、信長の百済寺に対する愛憎渦巻くエピソード。

今回の百済寺ですが、湖東三山は紅葉の名所として有名で、ついに念願叶っての訪問となりました。
広大なる境内に累々と連なる僧坊跡の石垣と紅葉のコラボは、美しくもどこか儚さを感じさせます。
そして、本堂の傍らにある『千年菩提樹』は文字通り樹齢千年を超えるといわれますが、信長による焼き討ちで根元を残して焼損。しかし根に熱が入っていなかったために蘇生し、根元から新たな幹を伸ばして現在に至っています。

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むうさん

福知山城 (2020/01/26 訪問)

大河ドラマが始まったので行ってみました。
優雅な雰囲気の天守です。

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むうさん

篠山城 (2020/01/26 訪問)

元々天守の無い城。
石垣がしっかりしてました。

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todo94

荒崎小学校 (2020/01/18 訪問)

南宮大社、真禅院から大垣城に向かう途中に立ち寄りました。遺構は残っていませんが、荒崎小学校の校門脇に立派な城址碑と説明板が立っていました。

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カズサン

弘前城移築前の津軽為信の本城 (2016/10/03 訪問)

 平成28年10月黒石陣屋を終えて弘前城を横目で見ながら大浦城を探訪して堀越城へ北側の神社鳥居から堀前の駐車エリアに停めて初探訪。
 発掘調査後復元整備進行中、国道7号線沿いに駐車場、休憩エリア等の開発計画が在る様子。
 本丸(熊野神社が鎮座)、本丸堀、二の丸、堀、三の丸エリアの復元、木橋、館跡、東門跡の地表展示が行われてる、堀は水掘りの様に伺ってたが作り立てか工事中か水無く空堀状、探訪は3年前ですので令和2年は相当完成してる事でしょう。

 文禄3年(1594年)豊臣秀吉から四万五千石の所領を安堵されると大浦城から堀越城に居城を移し慶長12年(1609年)二代藩主津軽信牧が弘前城を築いて移るまでの本城。(城郭放浪記さんより)

 桜の頃は城址の桜と岩木山の遠望と素晴らしい景観と思われます。

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カズサン

黒石陣屋は公園に南裏に堀跡 (2016/10/03 訪問)

 浪岡城から黒石陣屋へ初登城、陣屋跡は公園に陣屋跡石碑(黒石城)と陣屋絵図が立って居り同地には御幸公園の石碑も立って居り広場公園に成ってます、石碑南側には堀跡が残ってます。
 黒石陣屋は津軽藩二代津軽信牧の二男信英が五千石を分与され旗本となり陣屋を築いたのが始まりとの事。(城郭放浪記さんより)

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にのまる

信玄堤 (2020/01/18 訪問)

 昨年の台風19号でも決壊しなかったという信玄堤。この日、午後から甲府で講座があったので、その前の時間を利用して行ってみました。竜王駅から徒歩です。
 信玄堤がなぜスゴイのか?資料を読んでも全然理解できなかったので実際に行ってみたのですが、ここの景色を見ても説明を読んでも、理系の思考が欠落しすぎの私には理解不能でした(ToT)
 でも、信玄さんが20年かけて完成させた堤防が400年後の領民も守ってくれたというだけでじーんときます。復元された聖牛もよかったです。(←流れを弱めるとか、ピンチに自壊するとか、実は理解できていません。)
 たくさんの桜の木もお花見のためだけではなくて、重要な役割があるそうです。(理解できていませんが^_^;)
 甲府市の「史跡学習公園」に信玄堤のミニチュアがあるそうなので、次に甲府に行ったら学習してこようと思います_φ(・_・

最後の写真は、甲府駅北口のお父さんと南口の息子さんです。(二度と父子喧嘩をしないように離して建てられているのだそうです。)

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まっつん

何がなんだかわかりませんでした。 (2020/01/19 訪問)

戦国時代の安芸国の有力な国衆だった平賀弘保が築いた山城。交通の便が良い白市の町を見渡せる白山に築かれ、経済的には有利な立地だったものの、防御力が不十分なため、平賀弘保はここから北に約4kmの標高504mの頭崎山の山頂に頭崎城を築き、本拠地を移すこととなる。
このたび白山城跡に行ってみて、城跡を誰でも見れる状態に維持するのって大変なことなんだと痛感しました。全国各地の城跡を整備してくださっている皆様に感謝!

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姫街道

井伊氏の居城井伊谷城と、分家の城 (2020/01/26 訪問)

浜松市みおつくし文化センターで、「井伊氏の城と館」を見てからまずは井伊谷城に登城。ジオラマ通り、山頂にぐるっと土塁がある程度でシンプルな山城だ。曲輪や堀切などを作る時代の前に廃城になってしまったらしい。井伊領にある城の特徴として、居宅の裏手山側に城を構えており、井伊谷城の麓には井伊家の居宅があった。井伊谷城からは、井伊家の本城である三岳城が、北東高くに見てとれる。
次に分家である奥山家の奥山館と伊平家の伊平城に行った。
両家とも居宅があり裏山に城がある井伊家のパターンだが、奥山城は遺構が残ってないようだ。ただ、奥山館は当時の姿を残している。分家の中でも奥山氏は特に力があったようだ。

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姫街道

今川の家臣が、徳川に対抗すべく建てた城 (2020/01/26 訪問)

宇津山城は、今川氏の家臣が築城した城。舟運と遠州地方を収めるべく、浜名湖に突き出た半島全てを城とした。曲輪群が東西南北に伸びていたようだが、現在はお墓になっている箇所が多いようだ。浜名湖を広範囲に見渡せるため、要所であった事は間違いない。
 佐久城は地元の豪族である浜名氏が築城し、徳川家臣によって増築されて今の形になったようだ。馬出や堀や虎口、土塁などしっかり残っており、浜名湖水系の名所と言える。
 野地城は、徳川の家臣が築城した城。佐久城がある岬のすぐ北東にある岬に築城。佐久城を廃城にして野地城へ移動したようだが、現状は何も確認出来ず野球グランドになっているだけのため、どうして移ってきたかは理解出来ない。そのくらい佐久城の保存状態が良い。
浜名湖沿岸の城でも、今川系の刑部・堀川・宇津山城と、
徳川系の佐久・野地城と、築城元が分かれていて面白い。

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カズサン

浪岡川丘陵地に築城の北畠中世城館 (2016/10/03 訪問)

 平成28年の10月孫の運動会をカメラ、ビデオで撮影見学後、夜駆けSA車中泊し津軽の城廻りへ、浪岡ICを降りて7号線を若干南下情報案内は何時もの城郭放浪記さん、余湖図コレクションさんに頼る。
 青森市中世の館から2,300m程北東に走り県道146号線沿い少し奥に浪岡城の標柱、そこを入り駐車場を探すうち浪岡川北側内館前の駐車エリアに車を停める。
 内館南の虎口より登城草深く昨夜の雨で水を多く含んでる、案内所、専用駐車場の在る東館南に移動して、猿楽館、東館、北館周辺土塁を通り木橋、北館虎口、ここに来ると岩木山が見えてくる、北館内部の復元住居跡、西館、周辺土塁を通り木橋を渡って内館西虎口、内館内部ここが本丸城主館跡。
 訪問日が月曜でしたので案内所、青森市中世の館は休館日、黒石に向かう途中に浪岡支所が有り寄って浪岡城の資料、パンフレットを頂く。
 浪岡城は浪岡御所とも呼ばれる南朝方で活躍した名門北畠顕家の末裔、約200年さかえ大浦(津軽)為信に攻められ滅亡。
 皆さんの投稿を見れば5月の連休頃の桜の時期が城跡の見学には最適で桜と岩木山が圧巻の様です。

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イオ

明知陣屋跡と明智光秀ゆかりの地 (2020/01/19 訪問)

明知陣屋は、一国一城令により明知城が廃城となったのに伴って、2代領主の遠山方景が大手門近くに構えた陣屋で、明知遠山氏が江戸定府になった後も、村上氏を代官として廃藩置県まで存続しました。

大手門跡の両脇に水堀が残るほか、陣屋跡には代官を務めた村上氏の屋敷と土蔵がありますが、住宅地となっているため、通り抜ける程度で散策は(写真撮影も)ちょっと憚られました。また、陣屋北部には馬場跡(現況は畑)が広がっています。

明知陣屋から北に徒歩4分の龍護寺は明知遠山氏の菩提寺で、累代の墓所があります。説明板によれば、方景の孫の分家筋には遠山の金さんで知られる北町奉行(後に大目付、南町奉行も)遠山景元がいたり、11代領主の遠山景高はペリー来航時に浦賀奉行を務めていたり、歴史に名を残すなかなかの名族ですね。

その龍護寺には明智光秀公御霊廟もありますが、光秀は土岐明智氏であるとすると、何故に明知遠山氏の菩提寺に霊廟が? と思いきや、霊廟近くの説明板の系譜によれば、初代領主の遠山利景の父・遠山景行と光秀の叔父・明智光安は同一人物とあり、その説に基づくとこの地が光秀生誕の地であり、若い頃を過ごしたゆかりの地ということになるようです。

実際、周辺にゆかりの地は多く、龍護寺の西隣の八王子神社には、光秀が柿本人麻呂を祀った社と社前に手植えしたと伝わる楓があります。なお、同社の唐門は明知城の城門を移築したものだそうです(写真を撮りそびれました…)。旧三宅家脇からの登城路沿いにある天神神社と学問所は、光秀が京都から学僧を招いて学問に精進したと伝わり、明知城の南東には非業の死を遂げた光秀の母・於牧の方の墓所があり、その名にちなんで樹齢400年超の高野槇と江戸中期建立の石塔が祀られています。

また、来年1月まで大正ロマン館内に大河ドラマ館が開館しており、せっかくなので行ってみましたが……うん、物語が進展すれば展示物もきっと増える…よね? という感じでした。それよりも、大河ドラマ館の隣室で同時期開催の「明智光秀が生きた時代の東美濃戦国史-山城を巡る攻防」と題した特別展(無料)の、武田氏と織田氏の戦いの舞台となった山城の縄張図付きでの紹介と、岐阜県内の明智光秀ゆかりの地の案内のほうが見応えがありました。
 

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テツ

麒麟ゆかりの地巡り (2019/01/19 訪問)

二度目の登城でしたが、景観を保存するために構造物が…残念ですね

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