日本三大湖城の膳所城を訪問しました。
車で行ったので、道路を挟んで反対側にある公園の駐車場に駐車して城内を散策しました。
湖城ということもあり、高石垣はありませんが、天守台の付近などに少し低層の石垣が残されています。
往時を偲ぶことは難しいかもしれませんが、石垣の端が琵琶湖に浸されているのを見ると、それなりに楽しめるように思います。
最初の写真は「膳所城址」の石碑ですが、一寸解読が難しいですね(写真を大写しにすると解ります)。
攻城時間は30分ほどでした。
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2021/01/28 19:27
湖城のある公園 (2020/12/27 訪問)
日本三大湖城の膳所城を訪問しました。
車で行ったので、道路を挟んで反対側にある公園の駐車場に駐車して城内を散策しました。
湖城ということもあり、高石垣はありませんが、天守台の付近などに少し低層の石垣が残されています。
往時を偲ぶことは難しいかもしれませんが、石垣の端が琵琶湖に浸されているのを見ると、それなりに楽しめるように思います。
最初の写真は「膳所城址」の石碑ですが、一寸解読が難しいですね(写真を大写しにすると解ります)。
攻城時間は30分ほどでした。
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2021/01/28 19:27
篠の丸城 (2020/12/13 訪問)
【篠の丸城】
<駐車場他>城跡駐車場<35.010142, 134.538046>7台分程あり。
<交通手段>車
<見所>堀切・曲輪
<感想>日帰り宍粟市攻城の旅3城目。パンフレットによるとこの城は南北朝時代、赤松貞範の子顕則によって築城されたと伝えられており、その後守護代宇野氏の拠点となった。長水城と同じように1580年秀吉の播磨攻めによって落城し、ご存じの黒田官兵衛が1584年改易された神子田正治の宍粟郡5万石をあたえられこの地の領主となっているが、官兵衛がこの城を居城としたかどうかは定かではない。元領主宇野氏所縁のものは黒田氏に仕官して福岡藩士として明治まで続いている。
登城口からの登山道(800㍍程か)は整備されストック等は不必要だが、城跡内の北側や西側の曲輪群下段の方まで降りて見る方は必須です。城跡は広い主郭の西側に横堀を備えている。主郭南西側から西に二の丸が伸びていて、更に二の丸の西側に3重堀切(ちょっと薄くなっている)がある。二の丸北側と主郭北西側にかけて畝状竪掘り群が広がっているらしく降りてみたが、落葉の堆積で私の目では全くわからなかった。主郭北側から5段程の階段状の曲輪が連郭していて、段差も明確で攻め応えあります。この城跡からは石垣遺構が出ていないので、私見では官兵衛は宍粟在地3年間しかなく、島津攻めやらこの時期全然ここにいなかったので、この城はあまり重きを置いていなかったように感じた。
<満足度>◆◆◇
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2021/01/28 13:25
麓に敦賀運河遺構 (2021/01/23 訪問)
琵琶湖東岸を北上する国道8号線と西岸を北上する161号線が合流する地点で、昔からの交通の要所にある。敦賀は日本海側の良港である。8号線や161号線を走り、敦賀には何度となく行ったが、国道を逸れて疋田の町並みに入るのは初めて。
雪が残っているなか登城。街道側は笙の川が削った急斜面、反対側の今は北陸本線側は、堀で守っている
本丸登り口脇に手作りのポストあり。登城メモや敦賀周辺の城の紹介パンフが備えられていた。パウチされた地形、遺構図が置いてあったので参考になった。
疋壇城下の街道沿いに、敦賀運河の遺構が整備されて残っていた。これも初めて知った。運河沿いの道も石畳ふうにして整備されている。
古来、敦賀港から、京都、大阪に物資が大量に運ばれ、琵琶湖と淀川の水運が活躍していた。敦賀と琵琶湖の間の山は300〜400mと比較的低く、平清盛の時代から、ここに運河を通す構想が何度もあり、着工されたものもある。敦賀運河遺構は、黒船襲来の時代のもの。日本海から、標高70mの疋田まで運河を作り、人が綱で引いたり、竿で押したりして平底舟を引き上げたと。説明板の写真を添付したので詳しくはそちらをどうぞ。
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2021/01/28 07:38
次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」⑨ (2017/02/19 訪問)
次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」の9城目は高知城(ラスト)です。徳島城からの転戦です。
2回目の攻城を2020/11に攻城予定でしたが、新型コロナの影響でキャンセルしました。
1601年(慶長6年)山内一豊土佐国に入国し、築城着工
1603年(慶長8年)本丸と二ノ丸の石垣工事が完成。本丸・詰門・廊下門・太鼓櫓が竣工。初代藩主山内一豊が入城
1611年(慶長16年)三ノ丸が完成し、着工以来10年目にしてほぼ全城郭が整う
1664年(寛文4年)追手門を再建
1727年(享保12年)城下町の大火で追手門を残し天守はじめほとんどの建物を焼失
1729年(享保14年)再建に着手
1746年(延享3年)本丸の再建着手
1749年(寛延2年)天守が完成、現在の天守はこの時のもの
1753年(宝暦3年)三ノ丸完成し、着手以来25年目にしてほぼすべての建物が整う
1801年(享和元年)追手門の大修理を行う
1846年(弘化3年)天守の修理を行う
1873年(明治6年)廃城令により天守等の本丸周辺建造物と追手門を残し城郭建造物がとり払われた
現在、高知公園として整備されています。
追手門から天守閣が見えますが、追手門から天守閣まで石段登りが結構大変かも。
天守閣の忍び返しは、ここだけにしか残っていないとのこと。
天守最上階からの眺めは最高です。撮った写真は115枚。この中から選んだ10枚を投稿します。
攻城時間は120分くらいでした。
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2021/01/28 07:29
次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」⑧ (2017/02/19 訪問)
次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」の8城目は徳島城です。高松城からの転戦です。
2回目の攻城を2020/11に攻城予定でしたが、新型コロナの影響でキャンセルしました。
1585年(天正13年)蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波1国18万6000石で入封し築造開始。
1586年(天正14年)完成。以後、大坂の陣の戦功等により淡路7万1千石の加増がされ、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万石7千石の居城となり、明治維新を迎えます。
創建当時の天守は元和年間(1615年–1624年)に取り壊されたといわれており、まもなく、城山の中腹にある東二の丸に天守代用の御三階櫓が構えられます。
東二の丸天守は、天守破却後に天守の代用として建てられ、当時は御三階櫓と呼ばれていたものです。
1873年(明治6年)廃城令により存城処分となります。
1875年(明治8年)には鷲之門を除く御三階櫓以下、城内のすべての建築物が撤去されました。
現在は徳島中央公園として整備されており、太平洋戦争中で焼失した鷲之門が復元されています。
また、公園内には蜂須賀家政の銅像も建てられています。
国の名勝に指定された表御殿庭園に隣接する徳島城博物館では徳島藩と蜂須賀家の歴史資料が常設展示されています。
建物は残っていませんが、独特の石垣が楽しめます。御殿の庭園の美しさも必見です。
攻城時間は120分くらいでした。
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2021/01/27 23:41
愛してやまない松山城 (2020/01/02 訪問)
僕が愛してやまない松山城を紹介します。
写真は、たったの10枚。毎日のように通ってる松山城の写真はまだまだ有るのですが…
賤ヶ岳の七本槍で有名な加藤嘉明が築きました。
松山城には、全国的に珍しい登り石垣が良好に残っています。県庁裏の登城ルートから良く見えるので、お勧めのコースです。
そして20メートルほどの高石垣に現存天守。床はピカピカです。
重要文化財の数は21棟あり、姫路城に次いで2位です。日本3大連立式天守の一つでもあり、日本3大平山城でもあります。
まるで、迷路のように寄手を惑わせます。
なんと言っても、本丸からの景観は圧巻です。
360度、松山市の街並みが見渡せます。遠くには瀬戸内海もご覧頂けます。
ほぼ毎日登城してますが、飽きる事はありません。
体力に自信がない方は、ロープウェイかリフトを利用すると良いでしょう。
場内にトイレや自販機は多数あります。
御城印は300円、御城印帳は2700円、天守入り口切符売り場にて販売されています。
僕が愛してやまない松山城。またまだ、見どころは満載です。
是非、ご来城し、その後は道後温泉で、温まってください。
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2021/01/27 23:27
2021/01/27 23:20
2021/01/27 23:17
早川口遺構など (2021/01/02 訪問)
<続き>
城山公園メインの総構ウォーキングから一旦小田原駅に戻り、二宮神社の土塁と伝・障子堀をチラ見して早川口遺構に行きました。その途中にあったのが<秋山真之終焉の地>の案内板と記念碑。年末に3年にわたって放映されたNHKの「坂の上の雲」を思い出しました。もう10年も前だ…。
早川口遺構は公園になっていて、どっしりとした土塁を見ることができました。説明板には明治以降この場所は別荘地などとして使われたとあります。現在見られる玉石垣や枯山水庭園にありそうな大きな石、礎石のように地面に埋まっている石もかつては虎口を固めていたものかもしれないと思うと、石は歴史の生き証人だ…という思いを強くします。
けっこう歩いたのでそろそろ帰ろうと思ったのですが、せっかくなので御幸の浜に出てみました。ちょうど日没の時間で夕日が石垣山にかかり、空をオレンジ色に染めていきます。美しいです。あそこからここまで…歩いてみたい(*゚▽゚)ノ
帰りは幸田口門土塁を通り抜けました。この土塁は私の小田原巡りの定番経路になりつつあります。先月駅前にオープンした「小田原城下町」。今回は寄りませんでしたが、いつかゆっくり見てみたいです。
総延長9㎞の総構の中に点在する遺構をひとつひとつ探して歩くのは宝探しのようで楽しいです。町全体がお城ってほんとにすごい。テーマパークのような町です。まだ見ていない現存土塁も何か所かあるので制覇したいです。
⭐︎写真⑩は籠城生活の友です\(^o^)/
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2021/01/27 23:13
2021/01/27 23:07
2021/01/27 23:01
2021/01/27 22:55
2021/01/27 22:44
2021/01/27 22:39
2021/01/27 21:30
公園の外に良好な遺構 (2021/01/23 訪問)
公民館の駐車場に車を停めることができます。
城址入口にパンフレットもあり、公園として整備されています。
駐車場からいきなり竪堀、通路を進むと西の虎口、下に下りると堀も素敵でした。
西から北にかけてゴルフ場と隣接しています。
北側には竪堀や曲輪群も残っています。
主郭部は整備されていて見晴らしもよい!
この日は雨だったのでイマイチでしたが。
東側にも堀や土塁、土橋もあり整備されていないところにも見どころ充分!
法螺貝城ところ呼ばれていることにも納得できる素敵な城でした。
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2021/01/27 21:30
よくも悪くも、今も昔も印象は変わらない (2020/11/27 訪問)
「城をやる」の掲載が始まったばかりの2001年以来の訪問だったが、当時も今も印象はほとんど変わらない。国史跡のはずだが岐阜城が目立ちすぎるせいかここに城があることそのものが忘れ去られてしまっているかのよう。
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2021/01/27 20:03
武田流の築城技術が詰まった勝頼の城 (2019/04/21 訪問)
NHK 先人たちの底力 知恵泉 選「武田勝頼(前編)」を見まして、勝頼の新府城を思い出されましたので投稿させて頂きます。
もしかすると次の後編で紹介されるかもしれませんね。
長篠の戦いで負けた後に、立て直しを図る為、躑躅ヶ崎館から本拠を移した城とされます。
城の完成前に織田信長軍に侵攻され、勝頼は城に火を放って落ち延びたといわれます。
出構、枡形虎口、丸馬出など素晴らしい遺構が残り、武田流の築城技術が詰まった凄い城だと思います。
もし、信長軍に攻められることが、もう少し遅くて完成していたら、勝頼はこの城で立て籠もったのかとか、丸馬出の三日月堀はもっと深かったのかと思いにふけました。
行った時は、本丸でお祭りがされており沢山の人が来ていて、地元の人に親しまれている城で良いなと思いました。
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2021/01/27 18:49
飯野陣屋 (2021/01/27 訪問)
御城印もらいました。
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2021/01/27 14:30
所用にかこつけた城巡り 13城目+α (2020/11/23 訪問)
昨日、明るいうちに神戸大阪京都を越えようと明石海峡大橋を走っていたら、事故渋滞の案内が・・・。
若狭経由で北陸へと、ルート変更。
旗日の今日は、県庁はじめ官公庁が休みなので絶好の登城日和(?)。
藩主が御座所の西三の丸から本丸へと入るのに使われた廊下橋が復元されている。
ある研究によると、いまは消滅した橋や城も含む数だが、かつて18か所もの廊下橋があったそうな。
復元ながら高松城・府内城・和歌山城などは、ちゃんと屋根もある廊下橋である。
その他は屋根なども無く普通の橋になっているが、絵図や記録には残っているそうだ。
「エッ! あの城の、あの橋も廊下橋だったのか!」。
そういえば今回の旅、5城目の佐伯城にも廊下橋があった。(ちょっとイメージとは違ったが・・・)
天守曲輪から眺めると、復元された廊下橋や外枡形の様子がよくわかる。
しかし過去に起きた福井地震のせいなのか、それとも別の原因なのかは分からないが、
この天守曲輪の足元の石垣が大きく孕んでいるのがとても気にかかる。
天守台はどうかといえば、液状化で陥没したのか中央はへこみ、石垣は大きくうねっている。
天守曲輪には控天守台というものがあり、これも大きく損壊している。
それにしてもこの控天守台とは、何? 小天守台なのか?
建物が建っていたのか? いずれ建てるつもりで準備して造ったのか?
本丸内部四方すべてに長い雁木が取囲んでいて、これほど大規模に造られた雁木を初めて見た。
復元図によれば四方すべての雁木の上部は、多門櫓や土塀で全面を固めている。
さすが越前宰相の城。
大手門傍の雁木と石垣の接合面も、隙間を小さい石で埋めるのではなくちゃんと一体加工していた。
(写真のナメクジが這っている石はヒビが入っているが、その下は無傷)
さて、北の庄城址まで歩き発掘された石垣を見てきた。
この場所は勝家が自害した北の庄城の、どの部分にあたる場所なのだろうか?
北の庄城の石は福井城に再利用されたらしいが、見てきた福井城はほとんど切り込み接ぎ。
目の前の石たちは、自然石。
ほとんどは外堀などの石垣に姿を変えたのだろうが、いまはそれも埋め立てられ道路や住宅の下に。
もし本丸に使われたことがあっても、表に出ない土台に使われたのだろう。
「いまは地中深くに埋もれておるが、いつか姿を見せるぞ。待っておれ。」 と思っていてくれればいいが。
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