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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑥:本納城 (2020/01/23 訪問)

大関城から転戦。車で25分くらいでした。
蓮福寺墓前の空スペース(35.483457,140.3004)に駐車して攻城しました。

本納城は室町時代後期、1529年(享禄2年)に構築されたと伝えられており、黒熊大膳亮景吉の居城として知られています。。
永禄の頃、房州里見の支城である本納城は長南武田の進攻に備え、佐矢止砦、壇上砦を強化していたようです。
1564年(永禄7年)の国府台合戦ののち、房州里見氏の傘下を離反した土気城主・酒井胤治の軍勢に急襲され1569年(永禄12年)3月28日落城、城主景吉は切腹したと記録されています。
その後、土気酒井氏方から城代として、板倉右衛門他2名がきて統治したが、1590年(天正18年)小田原落城後徳川幕下の旗本知行地となり廃城となりました。
黒熊大膳亮の菩提を弔うために建てられたといわれる蓮福寺は居館跡だといわれており、そのすぐ裏手の山が城址です。

墓の真ん中の道を進んで主郭、2郭、3郭、4郭の尾根は確認したが、本納小学校裏手にある尾根への道を見つけられずに撤退。
蓮福寺から主郭まではよく整備されており、主郭虎口手前にある袋狭間と呼ばれる堀底道は見事です。
攻城時間は30分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑤:大関城➡城びと未登録(千葉県東金市) (2020/01/23 訪問)

東金城から転戦。車で15分くらいでした。
大関神社前(35.524424,140.3846)に駐車して攻城後、砂古瀬神社への道路側からの侵入口(35.517727,140.382210)に車を進めて駐車しました。

1204年(元久元年)畠山重忠の支族が安房国から上総国に移り、重康によって築かれた城だそうです。
1526年(大永6年)12月に東金城主・酒井隆敏に攻められ落城、重康は上谷常福寺で自決して畠山氏は滅亡しました。
現在城址は大関神社の境内となっており、また東金九十九里自動車道の開通工事により遺構は残っていません。
なお「依古島(よこじま)」の地名のとおり、かつてこの周囲は低湿地帯に囲まれていたそうです。

大関神社前に駐車して案内板の写真を撮り、砂古瀬神社への道路側からの侵入口に車を進めて砂古瀬神社裏側の土塁や堀を確認。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ④:東金城 (2020/01/23 訪問)

田間城から転戦。車で10分くらいでした。
登城口前の空スペース(35.561010,140.356625)に駐車して攻城しました。

東金城は東金酒井氏の居城として知られていますが、築城説には2説あります。
①酒井定隆によって1521年(大永元年)に築かれた説
②室町時代に千葉氏が築いた鴇ケ峯城を起源とする説
酒井氏による築城が有力だそうです。

1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に、酒井氏は北条氏についたため、浅野長政によって接収されました。
その後、徳川家康の関東入封後の1613年(慶長18年)、東金は家康の御鷹場となり宿泊施設として東金御殿が建てられました。
1630年(寛永7年)の徳川秀忠を最後に鷹狩りはおこなわれなくなり、1671年(寛文11年)には東金御殿も取り壊されています。
現在、東金御殿跡には千葉県立東金高等学校があり、同校と本漸寺との間に登城口があります。

登城口前の空スペースに駐車して攻城しましたが、台風による倒木の為、門が閉鎖され中に入れず。登城口前の案内板の写真を撮り撤退。
攻城時間は10分くらいでした。

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赤い城

安房里見氏のルーツ (2021/01/30 訪問)

城山稲荷神社の大鳥居前に空き地があり車を停めました。
少し登ったところに墓地があり、
その先の畑の畦道を進むと本丸があります。
本丸には説明板が立っています。
本丸手前には土橋や堀の跡も残っていました。
二郭、三郭は畑となっているようです。
当然里見氏の岩盤堀切はここでは見ることが出来ません。
武田信玄の箕輪城攻めの際に落城したそうです。

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ぴーかる

宇佐山城 (2020/12/26 訪問)

【宇佐山城】
<駐車場他>豊平稲荷社前に数台分の駐車スペースあり。
<交通手段>車

<見所>竪掘・石垣
<感想>行ってみたかった城跡のひとつ。週末天気がよさそうなので行こうかと思ってた矢先に、ちょうどTV番組で千田・磯田先生と高島礼子さんが登城しておられたので、更に登城意欲が増しましたが混み合うのを避けて朝駆けに。
 先に宇佐八幡宮にお参りして、駐車スペース北側に登山口があるのでそこから登城します。登山道はかつての大手道ではないらしく、大手道は城跡の西方向から伸びていたそうです。登山道は地元小学生の登山者励ましの札がありいい感じです。中腹ほどからTVでも説明があった南北に伸びる大竪掘りが現れます。暫く進み、三の丸南側から東方向に長く落ち込む竪掘りも登山道から逸れて少し山林を分け入ると見ることができるのでお勧めです。登りきると本丸の東側、三の丸方向との分岐に出ます。まず三の丸へ行き、郭を確認。石垣で取巻いていたそうだが今は木々が鬱蒼として確認できない。石垣が見れるのはまず南東隅部の方で、手すりも何もない3m程の斜面を降りなければならず、ここはストック等の道具があった方がいいです。南東面は全面石垣になっていたようですが、今はほとんどが崩れているようです。本丸にはTV塔の施設があり、そこに登る階段のある北東面にも石垣が少し残存している。本丸の西側に仕切門跡があったであろう場所に小石の混ざった土塁があるのでそこは櫓跡だそうです。後で先達の投稿を確認してどうも三の丸の裾の石垣と二の丸に大きく残る石垣は見落としてしまったようだ。ミスった。

<満足度>◆◆◆

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チェブ

あっ、はに丸 と ひんべえ! (2020/12/30 訪問)

習志野市にある「鷺沼城」は鷺沼城公園がお城跡です。
築城時期は不明ですが「鷺沼城」は千葉氏の家臣、鷺沼 光義さんの居城だったようです。

調べてみると、源 頼朝さんが石橋山の戦いで負け、安房国へ落ち延び『鷺沼館』でバラバラになった仲間と合流し再挙兵の準備をしたそうです。
その『鷺沼館』が「鷺沼城」ではないか?という事です。
源 頼朝さんは、船を使って逃げたんだろから『鷺沼館』は良い場所です。
現在「鷺沼城」から海は少し距離がありますが、当時は前が海、台地があって、内陸側に沼があったようです。
あれっ鷺沼氏は、、、?
鷺沼城公園の中に鷺沼氏の大きな石碑があります。
子供達が石碑の下で遊んでたので写真は写してません。
公園の入口がお城跡を意識しているのか、枡形デザインです。
高い場所にある公園で木製の階段があり、切岸っぽい感じがしました。
土塁も確認できます。でも、古墳も二基あるので、土塁=古墳の一部 かもしれません。
人埴輪と馬埴輪が、公園に馴染んでます。
昔、NHKで観ていた『お~いはに丸君』思い出します。

石棺も展示している「鷺沼城」、太古の昔から有力な方々が暮らしてきた土地のようです。

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pascal

赤堀氏は上野にも残っていた (2017/07/08 訪問)

 赤堀城は、伊勢浜田城(現:四日市駅前の鵜森公園)の城主だった赤堀氏の故郷を訪ねる形で登城しました。

 まず歴史民俗資料館を訪ね下調べをしますが、赤堀氏の展示物はおろか資料もありません。
学芸員さんに尋ねても良く判らない様で、しばらく難渋しましたが、過去の『赤堀村史』や『赤堀町史』を出して来て貰い、やっと赤堀氏の動きと伊勢へ移住した一族の存在が見えて来ました。

 赤堀城は資料館から徒歩5分の場所にあり、外郭の大半は失われてはいますが、住宅と畑地の中に明瞭な土塁と堀跡が遺っています。
赤堀氏は鎌倉幕府の御家人として、赤堀の地に根付いていましたが、元弘の乱では新田義貞に敵対し、没落していた様です。
室町初期、観応の擾乱に功の有った赤堀直秀が旧領を回復した事が記されているので、赤堀城はこの時に築城されたのではないでしょうか?
同時に、一族の赤堀三郎左衛門には伊勢鈴鹿郡の野辺御厨地頭の沙汰があり、赴任した様ですね。

 室町~戦国と過酷な上州を生きていた赤堀氏ですが、上杉謙信の元で出陣中に北条氏の小菅摂津守に赤堀城を奪取されてしまいます。
由良氏(金山城)の与力として桐生辺りに居住したと言いますが、次いで北条(きたじょう)高広の与力に配置されました。
その後、北条高広は北条氏に寝返ったので、赤堀氏も自動的に北条傘下に組み入れられて、由良氏の家臣の扱いで秀吉の小田原征伐を迎えます。
(赤堀城に復帰する事はなかった様ですね)

 浪人した赤堀氏は、徳川の成瀬正一に仕官して、江戸時代に入って成瀬氏が尾張犬山城に配されると犬山に移って行きました。
そして成瀬氏が尾張徳川家の付家老になった時点で、尾張藩士として名古屋に移りました。
禄高は300石だったそうです。

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カニカニ

所用にかこつけた城巡り 15城目(最後) (2020/11/24 訪問)

美濃金山城からこのまま浜松へ帰ろうと思ったが、ちょっと寄り道。
以前から行きたかった伊那大島城へ。   この旅、最後の城に決めました。

大島城といえば巨大な馬出しと二重の三日月堀が有名だが、馬出しの中は民家となっており
なるべく写さないようにしようとすると、私のカメラの画角に入れ切れず上手く絵にならない。
気のせいか城内より城外の方が若干高いようにも感じる。
もしそうなら距離を保ち仰俯角を小さくするために大きな二重の三日月堀にしたのだろうか。

本来なら馬出しが大手なのだろうが、駐車場トイレ横から入る道が造られている。
しかし土塁や堀を断ち切ってこの道が伸びているので、どうなっているのかよく分からなかった。
伏兵曲輪ともいわれる馬出しもイメージができない。
駐車場トイレの前に縄張り図が置いてあったので助かった。

三の丸で地元の方々が、なにやらゲームを楽しんでいたので尋ねるとマレットゴルフというらしい。
ゲートボールほど競技性が高くないのでギスギスしなくて良いと仰っていた。
ただ本丸に行って感じたが、土塁などに影響がないようなコース作りに神経を傾けてほしいと思う。  
大きく損なっているわけではないが、城好きとしては残念でならない。

三の丸と二の丸の間の馬出しの三角形の頂点から堀底道へ下りていくと城外へ誘導されてしまった。
ということは、こちらからも攻め込まれるわけだが周囲の曲輪から狙い撃ちされるので大丈夫。
小さな曲輪や土塁が目隠しになって堀底道の何処を歩いているのかよく分からない。 
縄張り図を手に入れておいて良かった。

二の丸櫓台跡は三角形馬出しへ渡る土橋に側射がかかり、伏兵曲輪を突破されてもケアできる
両睨みできる絶妙な位置にある。
二の丸と本丸の間の大きな堀を降りた井戸曲輪は周囲からは見えないように土塁で隠されている。
大島氏の時代からなのだろうか、それとも武田氏の時代からなのだろか?

この城は武田氏によって大修築され現在に至る、とある。
情勢の変化によって戦略的意義も変わり、その都度縄張りが変化したとある。
そして織田軍の侵攻により一戦も交えず自落した経緯を持つが、止むを得ないことだったろう。
いかに堅城を誇っていても、鳥居峠を破られては南北から攻められ敵中に孤立する。
後詰めも期待できないとなれば逃げだして正解だと思う。
ただ、高遠城を置き去りにすることはなかろうに、と思うのだが・・・・。

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ながす

岐阜城 (2021/01/29 訪問)

御城印6つ目は岐阜城!!
天下布武!!

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ③:田間城➡城びと未登録(千葉県東金市) (2020/01/23 訪問)

津辺城から転戦。車で15分くらいでした。
田間神社駐車場(35.571484,140.3698)に駐車して攻城しました。

田間城の詳細は不明ですが、1509年(永正6年)に酒井定隆によって築かれたといわれています。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による「小田原征伐」での東金城の落城とともに廃城となりました。
現在城址には土塁や空堀などの遺構を確認することができます。山麓の田間神社に登城口があります。

田間神社南側の隅あたりから攻城。倒木、折れた竹、枯枝が攻城を阻むが、堀切は見ごたえあり。
攻城時間は40分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ②:津辺城➡城びと未登録(千葉県山武市) (2020/01/23 訪問)

飯櫃城から転戦。車で30分くらいでした。
日吉神社脇(35.614885,140.411041)に駐車し、登城口(35.614915,140.411652)より攻城。

津辺城の歴史は必ずしも明確ではないが、伝承では鎌倉時代に千葉氏の配下だった石井将監の居城だったといいいます。
その当時の居館の在り方からすると津辺城が本拠地ではなく津辺集落のどこかに居館を構えていたものと思われます。
ある程度はっきりしているのは、天正年間に坂田城の城番を務めた井田氏の家臣白桝和泉守が津辺城の城主をつとめていたと伝わっています。
現在城址には主郭部に空堀と、わずかに土塁を確認することができます。
登城口は日吉神社の東にあり、目と鼻の先には成東城があります。

倒木、枯枝が攻城を阻むが、堀は深く、見ごたえがあります。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ①:飯櫃(いびつ)城➡城びと未登録(千葉県芝山町) (2020/01/23 訪問)

高野神社入口(35.730407,140.4228)に駐車して攻城しました。

飯櫃城は山室氏の居城として知られており、天文元年(1532年)に山室常隆によって築かれたと云われています。
常隆のあとは山室氏勝そして山室光勝と三代続いたが、天正18年(1590年)光勝の時、豊臣秀吉の小田原征伐で徳川家康の家臣保科正俊の軍勢によって攻め落とされ、山室氏は滅びました。
現在城址は農地となっていますが、土塁や空堀などの遺構が良好な状態で保存されています。
また城址東端にある高野神社の参道脇に城址碑が建てられています。

高野神社入口に駐車して攻城しましたが、朝早かったので真っ暗。
ヘッドライトをしても、よく見えませんでしたが登城路の切通しは確認できました。
攻城時間は20分くらいでした。

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リトルボブ

臼井城とセットで訪問 (2021/01/31 訪問)

一部削られているところもありますが土塁が良好に残っています。
見晴らしが良く印旛沼が見渡せます。

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リトルボブ

激戦の地 (2021/01/31 訪問)

下総に侵攻してきた上杉軍を撤退させた臼井城の戦いで知られるお城です。
本丸跡に土塁が多く残っています。
わかりにくいですが、堀の一部が駐車場になっています。

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リトルボブ

小さくてかわいい城址 (2021/01/31 訪問)

城址には民家が建っていて、入り口が虎口のように見えます。
虎口を見るとつい突入したくなりますが、地権者が建てたこの先入らないよう書かれた標識があります。
ご迷惑をおかけないよう気を付けましょう。

土塁がどの程度残存しているのか気になりましたが、民家前という事もあり数分の滞在で退散しました。
隣接する藪の中にはだいぶ埋まっていましたが堀も見えました。

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宗春

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその9、その10 増尾城、幸谷城 (2021/01/31 訪問)

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその9、10

近いので2城セットで攻城。(幸谷城はこのサイトに登録されていません)
緊急事態宣言が出されましたが、移動は自家用車、現地は人がほとんどいないので、登城する事にしました。

増尾城は、学校が近くにあるからか、部活の学生らしきランナーがマスクもつけずに走っていました。
城は広く、説明板に描かれた縄張りの外側も含めてお城だったのだと思います。(知らんけど)
御城印が無ければ多分来る事のなかった城址ですが、意外とお城でした。

御城印は、緊急事態宣言発出前に道の駅しょうなんで購入済みの物に日付を記入しました。

一方幸谷城は住宅街の中にあり、入口が分からずウロウロしました。不審者と思われたかも(^^)
郭はあり、「堀」とか「土塁」とか「虎口」などの案内板がありますが、地味、というか、よくわかりません(高低差が小さい)。幸谷城の写真は御城印のみにしました。

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新九郎

土塁が素敵な師戸城 (2021/01/31 訪問)

ここのお城に来て、土塁で出来た城の魅力にはまりそうになっている今日この頃です。城という字は土で成ると書いてあるのが、なるほどと納得することが出来ます。展望台からは印旛沼が良く見えて水運を利用していたのがよく分かります。
印旛沼の向かいには、本家の臼井城が良く見えて、連携playでこの地を抑えていたのも良く分かります。戦国のお城で実際戦ったお城はさほど多くはないので、守りにも長けていることが実感出来ました。

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新九郎

臼井城跡 (2021/01/31 訪問)

北側が印旛沼、東側も昔は沼で、西は湿地と川で南は湿地帯であり、城に登りたくても小高い丘を活かした高低差が半端ない土塁で囲まれていては、これでは、確かに謙信公も苦労して南下したのはいいがこの戦いで敗けた後には千葉には来なくなるのも分かりました。

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姫街道

白富士望む充実の勝間田城 (2021/01/31 訪問)

遠江地方における16世紀の代表的な山城は、武田対徳川で有名な高天神城・諏訪原城。15世紀は今川対横地・勝間田の横地城・勝間田城だ。
その勝間田城だが、今大変革を迎えていると言っていい。全体的に伐採・伐根・草刈り整備が進み、その全貌が現れつつある。特に三の郭周辺は横堀や二重堀切が明確になり、以前より城が大きく感じられるようになった。
勿論名所である東尾根の5重堀切は管理者の熱意が伝わる整備のおかげで圧巻。東尾根の物見台整備も今後期待していいだろう。
築城当時は対今川で北向きの形状で、武田・徳川の高天神城を巡る戦い時に主曲輪や南曲輪の土塁が高天神城に向かって築かれたのではないかと私は想像した。戦国時代初期の連続曲輪に、武田・徳川の技巧的な築城技術によって曲輪が独立的・階層的に残存している。
穴ケ谷城、龍眼山城などの支城と共に巡ると、東西に伸びる支城ネットワークで、侵入してくる敵から領土を守ろうとした勝間田一族の想いが伝わってくる。

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赤い城

藤沢城 栃木県栃木市 (2021/01/23 訪問)

不摩城から見ると川の対岸にあります。
県道沿いに小さな案内板があり、そこから登城。
説明板も立っていました。主郭への道はこの時季でも藪で断念。
遺構がどの程度残っているのかもわかりませんでした。
手作り感のある案内板も立っていますがイマイチよくわかりませんでした。

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