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昌官忠

「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」⑬ (2018/10/23 訪問)

「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」の13城目(ラストです)は府内城です。
100名城スタンプは「大手門」で押しました。このツアーで九州100名城のスタンプは全てゲットしました。

水に浮かぶようにつくられた安土・桃山時代のお城で、1597年(慶長2年)に福原直高が築城しました。
江戸時代になるとすぐ竹中重利が増改築を行い、1602年(慶長7年)に完成しています。
熊本(石工)や大阪(大工)、京都伏見(瓦師)から職人を招き、当時の最新技術で築かれたようです。
以上、府内城ウォーキングマップより転記

遺構としては、本丸跡に人質櫓(二重櫓)、宗門櫓(平櫓:写真は撮りましたが、自撮り棒で撮影したものしか残っておらず、自分が写っているので投稿は控えます)が現存し、現在は「大分城址公園」として整備され、3棟の二重櫓と大手門、土塀、廊下橋が復元されています。攻城時間は45分くらいでした。

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昌官忠

「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」⑫ (2018/10/23 訪問)

「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」の12城目は岡城です。
100名城スタンプは「観覧料発売所」で押しました。

岡城の歴史は古く、平安末期に豊後の地侍である緒方惟栄が、都落ちする源義経を迎える為に城を築いたと伝わっています。
戦国も終わりを告げる頃、この地を領した中川秀成が要害堅固な地形を土台として総石垣造の城郭に大改修を行い、以後、明治の廃城令が出されるまで、岡城は中川氏の居城として利用されたとのことでした。現在は「岡城公園」として整備されています。

~攻城ルート~
駐車場➡観覧料発売所(入城県が巻物になっています)➡かまぼこ石➡大手門跡(立派な石垣)➡御朱印趾➡家老屋敷跡(石垣で区画され、細く直線の通路で区切られていた)➡城代屋敷跡➡籾倉跡(この付近で大手門方向の高石垣を見る:高石垣が素晴らしい)➡三の丸➡二の丸(瀧廉太郎銅像)➡本丸(天満神社:ここで引き返す)➡大手門付近まで戻る➡西の丸(近戸門や西の丸御殿跡を確認)➡角櫓跡➡物見櫓跡➡古大手門跡➡駐車場へ戻る

後で縄張図を確認すると見学したのは、時間の都合上、全体の半分くらいでした。攻城時間は70分くらいでした。

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昌官忠

「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」⑪ (2018/10/23 訪問)

「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」の11城目は飫肥城です。
100名城スタンプは「飫肥城歴史資料館」で押しました。

飫肥城は伊東氏と島津氏により100年以上にわたって激しく領有権を争われた城です。
天正5年(1577)年に島津氏に敗れて、国を失い豊後に落ちた後、伊東氏が大名として復活するのは、豊臣秀吉に仕えた義祐の子・祐兵が天正15年の九州平定で功績をあげ飫肥城を与えられてからである。以降280年余、飫肥藩(五万一千石)を伊藤氏14代で治めた。

~攻城ルート~
飫肥城観光駐車場➡豫章館(よしょうかん:明治2年に旧藩主伊東家が居を移した屋敷)➡大手門(1978年(昭和53年)に復元)➡飫肥城歴史資料館(100名城スタンプ押印)➡松尾の丸(身分の高い武家の生活が体感できる武家屋敷がある)➡旧本丸跡(飫肥杉がびっしりと立ち並ぶ)➡旧本丸を裏門?から出る➡飫肥保育園前を通る➡旧藩校「振徳堂」(天正2年(1831年)飫肥藩13代祐相により開校)➡旧伊東伝左衛門の家(19世紀初めの建築と推定される)➡小村寿太郎生家(明治38年(1905年)日本側全権としてポーツマス条約(日露講和条約)を調印した人。平成16年に復元された)➡再び大手門前➡再び豫章館➡国際交流センター「小林記念館」➡飫肥城観光駐車場に戻る。

飫肥城址北側の主要ヶ所は見ましたが、南側(商家や民家があります)が時間の都合で見学できませんでした。攻城時間は60分くらいでした。

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todo94

危険な城 (2020/11/08 訪問)

明智光秀博覧会の山城コーナーにてDANGERとされていた土田城。土田御前ゆかりの城なのでどうしても攻城したく、朝霧の中無理して朝駆けしてしまいました。渓谷沿いの遊歩道をずっと進み、出丸から主郭を目指します。整備の手は入っていませんでしたが、なんとか主郭とおぼしきあたりにはたどり着くことができました。元来た道を引き返すことなく下山を試みたのが大失敗。途中で道を見失い非常に怖い思いをすることになってしまいました。靴は泥だらけになってしまいましたが、けがをしなかったのが不幸中の幸い。土田御前と吉法師の銅像チェックを失念するという大失態は2021年にリカバリーしたいと思います。

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Mt.stone

山中城 (2020/06/06 訪問)

堀でこんなにも興奮するなんて・・・
恐るべし障子堀。そして、維持管理されている方々に感謝。

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Mt.stone

松江城 (2020/11/05 訪問)

サンライズ出雲の旅、ひとつ目の城。圧巻でした。風格が違う感じ。堀川めぐりもオススメ。のんびり舟旅かと思いきや、船頭さんからのクイズでヒヤヒヤ⁈ でも、楽しかった!

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sakappa

思いのほか行けた (2020/12/05 訪問)

引佐北部少中学校の脇を北に進み、しばらく行くと、Googleマップに道が表示されていない林道の入口があり、そこから登っていきます。
頂上のdocomoの中継所までは約5.4kmです。
いろいろなサイトを見ると、乗用車だと厳しい、落石が、すれ違えなくて危険という意見もありますが、ほぼ舗装されていて、今まで行った山城の中ではそこそこ道も整備されており比較的普通に行くことができました。
(但し、ガードレールもなくて、道の脇は谷底っぽいところもあるので、それはそれで気を付けて。関係者以外立入禁止っぽいです。)
ただ、頂上の城跡には何もありません。
車で行けるのは救いです。
こんな山の頂上にこんなに広い曲輪があるとは思えず、中継所を建てるために平らにしたのでしょうか。

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カズサン

三州統合内城に移るまで島津の本城 (2020/11/23 訪問)

 頴娃城を終えて又指宿スカイラインを戻り今回の鶴丸城御楼門、九州未踏の城廻り第12城目一宇治城を初登城、ナビは城山公園駐車場(鹿児島県日置市伊集院町大田424-1)に合わせる、大型駐車場、トイレ完備公園として機能してる。
 ガイドは何時もの城郭放浪記さん余湖図コレクションさんの俯瞰図です。

 駐車場から直道階段が曲輪三段を越えてメイン周遊通路に繋がってる、案内矢印で本丸である神明城、他の釣瓶城、南ノ城を示してるが本丸神明城を目指す、本丸には櫓風5、6階アスレチックジムの様な構造物が建ち(現在立ち入り禁止)、ザビエル対面記念碑、曲輪群に成って居りシラス台地に切岸城塁が見事に雛壇的に連なってる、中世山城、曲輪が綺麗に整備されており今まで鬱蒼とした杉林の山城でしたので気分さわやかでした、旗日でしたので親子での人出多し、後は伊作城、中平城、井戸跡と歩き、南側は省略、公園として良く整備され大変探訪しやすく簡単に登れるのが大変助かります。

 歴史的には:伊集院氏の築城領有でしたが島津氏に代わり忠良、貴久時代にここを拠点に薩摩を統一、三州薩摩、大隅、日向を支配下に置き天文19年(1550年)貴久は鹿児島の内城を築いて移る。義弘三兄弟はここで育ってる。

 昨日宿泊のGoToクーポン券で買った昼飯を車で食べ肥後水俣城へ、国道3号線の予定。

 

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Mt.stone

備中松山城 (2020/11/06 訪問)

サンライズ出雲の旅、ふたつ目の城。眩しいほどの晴天、ちょうど紅葉。次は是非、雲海に浮かぶ風景を見てみたい。乗合いタクシー、便利でした。

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Mt.stone

岡山城 (2020/11/07 訪問)

サンライズ出雲の旅、最後の城。城内で食べたパフェ、美味い。城と路面電車のある街、結構好き。

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小城小次郎

土佐にも伊予にも讃岐にも阿波にも出られるということは (2020/10/17 訪問)

土佐から見て伊予にも讃岐にも阿波にも出られる便利な立地は逆に言えばどの国の中心からも遠く、実に旅程が組み難かった。宿建設で遺構が消滅した現在、実は対岸から遠望するのが最も城跡を実感できる手段なのかもしれない。

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カニカニ

所用にかこつけた城巡り 3城目 (2020/11/12 訪問)

ガッサン  トダジョウ      この 響き と リズム   かっこいい!!
熊本と、ここだけは今回の計画の中に絶対欠かせない、旅の前半のメイン。

朝8時半に麓の歴史資料館に着いたが、9時開館と思っていたら9時半だった。
資料が手に入らないまま登ることに。  (縄張り図だけはコピーして持ってきていた)

駐車場裏手から入ったのだが、ここが御子守口だとばっかり思っていた。
(御子守口は資料館裏側の方面を少しばかり進んだところだと最後になって知った。)
毛利元就が攻め口を担った場所だと聞いていたのだが、最初からミスをしていた。

でもこの谷あいの道だって両サイドの曲輪から狙われ、攻め上がるのは容易ではなさそうだ。
馬乗馬場や千畳敷を歩くことができたが、太鼓壇ではなにやら作業中だったので未踏。
鹿介像の辺りからみる紅葉に癒されながら奥書院を抜けたところで突然雰囲気が変わった。
花の壇を目の前に切岸が現れ、壇へ登る階段と壇を回り込む細い道に分かれる。
簡単に壇へ登れるようじゃ切岸の意味ないじゃん。
観光客用のサービス路だな、と判断しチョット薄暗い細い道へと回り込んで壇へ入る。
復元建物の前の大堀切を隔てて山中御殿と七曲り、そして月山の威容が目の前に。
そして右手には、なんと駐車場。  ここまで来てしまったんじゃ勿体ないなー。(心の声)

トイレの先に石垣土居。 角部分はかつて登り口だったようで踏み荒らされている。
(すぐ先に階段が設置されており、現在その心配はない)
そして山中御殿が目の前に。
此処だけに注目しても池を前面の堀、周囲を石垣で固めた一つの城郭として成立していると思う。
菅谷口虎口もいいが、坂虎口と蔀をあわせたような、塩谷口の埋門虎口に魅かれる。

ヤットコサで登った西袖ケ平で、自分と同じ匂いのする(歩き回り、写真を撮る)人物に声をかけた。
公共交通利用の香川県の住人で、鉄道の駅からの距離やバスの時間的制約もあり一度に多くは
巡れないので、事前準備をして一か所に時間をかけ見落しの無いように心がけているそうだ。
事前調査もせず行き当たりばったりの車旅をしている私は、少々恥ずかしくなってしまった。

三の丸から二の丸へ続くあたりに数か所、直径1mほどの丸い、ほんの少し浅い窪みがあった。
本丸へ向かう階段を降りると窪みの真下あたりの場所に、なにやら穴があり覗くと水が溜まっている。
さっきの窪みは雨水を集め、この穴に貯めるための漏斗の役割をしているのだろうか?

本丸の神社裏手は二の丸、三の丸、本丸の表側と違い、いかにも山城然とした趣のまま残されていた。
しばし山上で景色を堪能したあと下城。
山中御殿へ降りる合坂は観光客用になのか片側半分が改変されていたので、何度か上り下りをして
歩き具合の違いを試していたら昔のお姉さま方に関西弁で 「何してはるの?」と言われてしまった。

大土塁の近くには、台風被害で幹が裂けたにもかかわらず立派に花を咲かせ続け不撓不屈の精神で
何度も困難に挑戦する鹿介と重なり”鹿介桜”と命名されたヤマザクラがある (案内板説明から抜粋)
大土塁の土橋の先は、少し荒れた畑のような私有地と思しき雰囲気の曲輪だったので退散。

苔むした厳倉寺の階段を気を付けながら降りると赤門と、お子守社があった。
ここにきて御子守口の事を気付いたのだが、すっかり戻る気力を無くしてしまった。
資料館裏側に地形模型も設置されていた。  

バス停に同じ匂いのする香川の人が、2時のバスに乗ろうとしていたので軽く会釈をして別れた。
いつか、どこかの山城で会えることを祈って…。

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ぴーかる

信貴山城 (2020/11/14 訪問)

【信貴山城】
<駐車場他>信貴山駐車場有料を利用
<交通手段>車

<見所>松永屋敷・堀切・曲輪
<感想>信貴山朝護孫子寺より登城した。信貴山城跡へは朝護孫子寺の中心部を抜けて登りますが、階段が入り組んでいてちょっと分かりにくい。お寺の人に聞いて登城口がわかった。空鉢堂という御堂が天守台に建てられているのでそこを目指しましょう。整備された階段の途中に雌嶽の山頂が左手にあり、山頂に曲輪・堀切が見られます。雄嶽山頂が本丸跡になっており、現在は空鉢護法の石灯篭や鳥居で囲まれている。天守台は巨石が組まれた台になっていて現在は石垣のような感じは残っていない。本丸跡手前の城跡碑のある細曲輪が二の丸跡、その手前の松永屋敷・ロープウェイ方面への分岐箇所の削平地が三の丸跡と思われた。
 本丸跡から北方向に下っていくと本丸の腰曲輪が数ヶ所見られる。更に少し下ると整備された立入屋敷跡の曲輪が見えてくる。立入屋敷・松永屋敷跡一帯の曲輪群は非常にきれいに整備されて見やすくなっている。池の水を少し引き込んだ水堀・曲輪間の堀切・虎口遺構の残る曲輪等見応えがありました。保存会・奈良大学の千田先生方々による遺構の説明板も分かりやすかった。現地縄張り図板に曲輪群西側に石垣が書かれていたので、未整備山林をアタックして探しましたが、残念ながら見付けられなかった。
 松永屋敷の曲輪群の西方向のハイキングコースより高安城跡に行き戻り、弁財天の滝を見て、朝護孫子寺の本堂をお参りして信貴山城攻めを終えました。

<満足度>◆◆◆

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Mt.stone

高松城 (2017/08/21 訪問)

サンライズで高松着。高松城でお堀の鯛にエサあげてから絶品朝うどん。四国旅行のルーチンです。このあとは南風で高知に向かいます。城と鉄道の組み合わせタマラナイ。

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Mt.stone

高知城 (2017/08/24 訪問)

いちばん好きな城かも。夏に訪問。アイスクリン美味しかった。

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エグ1394

鴻臚館 (2020/12/06 訪問)

福岡城訪問と同時に鴻臚館も見学しました。
福岡城があった場所は平安時代、「鴻臚館」という外交施設があったとされています。
鴻臚館は平安京、難波、筑紫の三ヵ所に設置されていました。
「古代アジアの玄関口」と称される鴻臚館の名前は、古代中国で外国との交渉を司る「鴻臚寺」に由来し、「鴻」は大きい、「臚」は伝え告げるという意味があるそうです。
「鴻臚」という言葉は外交使節の来訪を告げる声を意味していました。
なかでも筑紫の鴻臚館は、飛鳥・奈良時代には筑紫館(つくしのむろつみ・つくしのたち)と呼ばれ、688年(持統2年)には新羅国使全霜林を筑紫館でもてなしたという『日本書紀』の記述や、736年(天平8年)に筑紫館で遣新羅使が詠んだとされる歌が『万葉集』に収められています。

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エグ1394

福岡城 (2020/12/06 訪問)

2回目の福岡城へ行ってきました。
やたら人が多いと思ったら福岡国際マラソンが開催される予定で福岡城内のグラウンドがスタートでした。
福岡城むかし探訪館で御城印を購入しました。
福岡城は黒田孝高(官兵衛)・長政父子によって築いた城で、江戸時代を通じて福岡藩黒田氏の居城として知られています。城の規模としては九州一の巨城で、築城の名手と謳われる加藤清正もこの城を評価しています。現在、城跡の大半は舞鶴公園として、当時の外堀が大濠公園として整備されています。また、重要文化財に指定されている多聞櫓のほか、祈念櫓や名島門などの遺構が残っており、当時の様子をうかがうことができます。

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Mt.stone

尼崎城 (2020/10/06 訪問)

駅からぶらっと散歩にちょうどいい。出張中の訪問で御城印入手できず。

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いんげん丸虫

音羽野城 滋賀県甲賀市 (2020/11/21 訪問)

甲賀市特有の方形居館です。70m程の方形に土塁、空堀が巡ってます。虎口の開口も明瞭です。庭園の跡らしい石も点在しています。苔むした石、しっかりとした土塁、雰囲気が良かったです。

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カズサン

薩摩半島先端開聞岳池田湖の杉林山中 (2020/11/23 訪問)

 鹿児島市内に3泊し日の出時間を待って今回の主目的、鶴丸城復元御楼門を探訪撮影して朝食後指宿スカイラインを終点頴娃ICを降り鶴丸城御楼門と九州未踏の城廻り11城目の頴娃城を目指す、取り敢えず頴娃小学校を目途にガイドの城郭放浪記さん古城盛衰記さん余湖図コレクションさんの情報でGoogleMap航空写真等微調整して県道236号線沿いの登城口(36°14'21.6"N130°30'59.5"E)にナビを合わせ走行小学校から東に約1.2km程右手に頴娃城入口の白い標柱が有る、それに依ると林道1.6km程と有る最初は舗装されてるが後半砂利道と成る道はそれなりに広い、案内板が左手主郭下虎口に在る。車は林道の幅の広い所に路駐、私は1台分の虎口空堀手前のエリアに停める。
 資料を準備して行きましたが案内板の下に資料箱が有り頴娃城のパンフレットの縄張り図、情報で探訪出来ます。
 案内板の虎口を登って第一曲輪、南、東に大堀、第一曲輪内は広く草は刈られてるが猪の荒らした跡があちこち、城名標柱と石碑、南側と東側に土塁、東側に一部石積土塁が有る、土塁の大きく広い所南東角は櫓台、北に堀切を挟んで第二曲輪、堀切を歩くが第一曲輪の北虎口は有るが第二曲輪への登城口は不明登れず、南北の林道を挟んで小さな第三曲輪と第四曲輪が有る第四曲輪には入れる、それ以外に曲輪が主要曲輪が10以上、他の曲輪が数え切れず20以上と広大な城跡ですが第一曲輪本丸以外は探訪困難シダに草、樹木等に覆われてる、ここも南九州特有のシラス台地を切り刻んだ群郭式の山城です。
 林道がやや広く本丸まで車が通り本丸および周辺の探訪が出来るだけで十分満足です、これからも発掘調査が続くのでしょうが南九州市文化財課の皆さん地域の皆さんのおかげです有難うございました、でも兎に角遠い!

 歴史的には:室町時代に頴娃を治めていた平姓穎娃氏が島津氏に滅ぼされ、その後治めた大隅肝付氏の一族が穎娃氏を名乗り伴姓穎娃氏と呼ばれた、伴姓穎娃氏が領主と成った頃(応永年間)に築城されたと言われる。
 天文15年(1546年)ポルトガルの商人ジョルジュ・アルヴァレスが頴娃城と考えられる城を訪れ、それをフランシスコ・ザビエルに伝えています。頴娃城は日本で最初にヨーロッパに紹介された城に成ります。
 8代領主で伴姓穎娃氏の支配は終わり島津氏が治めるようになり頴娃町郡地区に麓(武家屋敷群)を構え治政の拠点と成る。(パンフレット抜粋)

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