まりやつじょう

真里谷城

千葉県木更津市

別名 : 真地野城
旧国名 : 上総

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主郭背後の大土塁より
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しんしんちゃん

主郭背後の高土塁が見事。 (2023/05/06 訪問)

真里谷城周辺は木更津市立少年自然の家キャンプ場になっています。
鶴舞馬来田(下)戦(県道168号)を北上し、脇道を左に入り、
さらにキャンプ場の方向に車を進めると駐車場にたどり着きます。
時期によって封鎖されているようですが、幸い管理人が
いらしたので、問題なく散策することが出来ました。
城山神社のすぐ近くに駐車場があり、北側に主郭が隣接しています。
主郭は自由広場になっており、西側背後にかなり高い土塁が
そびえ立っています。土塁の上まで遊歩道が続いており、上部は
帯廓のように兵を駐屯できるほどのスペースがあります。
主郭周囲にも郭が配され、南東側の二の丸を見た後は、
林道を南下して三の丸周辺を散策しました。
キャンプ場になっていますが、多くの遺構が残る、すばらしい
山城です。主要部をかいつまんで見るようなかたちになりましたが
十分、山城の遺構を堪能できたと思います。
真里谷城は武田氏の築いた城で、三代信興のころから真里谷氏を名乗ったそうです。
四代信勝は足利成氏の孫の義明を擁立し、義明は里見氏、真里谷氏の援護で
小弓城の原氏を破り、小弓御所と呼ばれるようになり、信勝は房総管領に
任じられ、これが真里谷氏の全盛期とされています。
天文21年(1552ごろ)椎津城にいた真里谷信政は里見氏に城を攻め落とされ
このころから真里谷氏は衰退していったものと思われます。

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赤い城

冬はキャンプ場閉鎖中 (2023/02/12 訪問)

木更津市立少年自然の家(キャンプ場)が主郭になるがこの時季は閉鎖中。
入口の道路に車を停めて歩きました。
左手に四郭の標柱がありますが帰りに寄ろうと思い上に。
しばらく登ると右手に三の郭の標柱。
進んで見ました。
ほぼ藪ですが堀を確認しました。
さらに登ると右手に二の郭。
ここも奥に進んで見ました。
藪の先には土塁も。
二の郭と腰曲輪の間は堀切で通路となっています。
主郭はキャンプ場ですが冬季は閉鎖中。
入口は閉まっていますが脇から入り説明板だけ見て戻りました。
帰りは尾根道を下って行きましたがこれが判断ミス!
不覚にも迷ってしまいました。
携帯の電波も微妙、藪を掻き分けて進んで行きました。
登城路に出たり迷ったり。
いっぱい水にもたどり着いたのにまた迷う。
倒竹や藪を掻き分けて何とか麓まで降りることができました

で、真里谷城で千葉県の城びと登録城コンプリートとなりました。
印象深いのは造海城、万喜城、千本城、桜井城、佐貫城、森山城、久留里城(模擬天守より先の尾根)など。
房総の特徴である岩盤堀切は迫力ありますね。
冬季には是非とも房総の城を。

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まーやん

城行った‼️とは言えないな。 (2022/12/18 訪問)

お城エキスポを一日で切り上げ、日曜日は朝から房総の城廻りを計画。
前夜からの雨模様で怪しい雰囲気。
友人の父ちゃんから「今はキャンプ場になってるけど軽トラなら行けるよ」なんて情報をいただいていたが、道には軽く車止めが。あれ?一応車はやめとこうか。
仕方なく歩いて上がったが、アスファルトの道には本格的なゲートが‼️こ、拒まれている!
右に逸れて三の郭から山道を進み堀切を見た辺りからズリズリ滑りまくる。これ以上行軍不可能!そこに見えてるのに(;゜0゜)
武田氏の居城について詳しく見てみたかったが招かれざる客であることを理解し断念。
以前、友達が大多喜への道中に案内を申し出てくれていたのに、100名城スタンプ以外目もくれなかったあの夏の日の自分を悔いるのであった⤵️

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅲ④:真里谷城 (2019/08/21 訪問)

椎津城から転戦。車で35分くらいで着きました。
真里谷城跡入口(35.347768、140.108880)から入り、真里谷城の駐車場(35.344330、140.111526)に駐車して攻城しました。

1456年(康正2年)当時上総国は上杉政憲の支配地であったとされ、これを敵視する古河公方足利成氏の命を受けた武田信長が上総国に進出します。
信長は上総国進出の足がかりとして真里谷城と庁南城と併せて築城し、その後は真里谷武田氏(その後の真里谷氏)の居城となりました。
その後、武田信長の孫の中でも真里谷城に本拠地を構える武田信興から姓を「真里谷」に改めます。
真里谷氏は真里谷信興から信勝、信清の3代の間に最盛期を迎え、真里谷信清(入道恕鑑)の代には対立する原氏が拠る小弓城を攻略し、足利義明を迎えて(小弓公方)、信清自身は「房総管領」を称するようになります。
真里谷信興から数えて4代目真里谷信隆の代に異母弟真里谷信応との間で内争が発生します。
信隆の父である信清から家督を継いだのは庶子の信隆であったのだが、それからまもなく信清の正室が信応を生んだことにより家臣を巻き込んだ後継者問題です。
「嫡子である信応が家督を継ぐのが正当である」と考えた信応派の家臣は足利義明、一族の有力者である真里谷全方の支持を得て、信隆から家督を奪う事に成功し、真里谷城に入城します。
家督を奪われた信隆は北条氏綱庇護の下、椎津城に逃れた後、武蔵国金沢に逃れます。
1538年(天文7年)の第一次国府台合戦の結果、小弓公方方は敗北したことにより信応は失脚し信隆がふたたび真里谷氏当主に返り咲くが、一族の争乱を収める事が出来ず北条氏に臣従するような状況となり、真里谷氏は上総地方の支配力を失います。
この一連の事件を契機に真里谷氏の拠点が真里谷城から椎津城に移ったとされています。以降、この地は北条氏と里見氏の係争地となりました。。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に落城し、そのまま廃城となりました。
現在城址はキャンプ場になっており、本丸跡まで登山道が整備されています。

駐車場前に概念図があり、城山神社➡主郭(千畳敷)➡駐車場➡二の郭➡三の郭➡四の郭➡一杯水➡駐車場と回ってきました。素晴らしい城跡です。
攻城時間は45分くらいでした。

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城郭情報

分類・構造 丘城
天守構造 不明
築城主 武田信長
築城年 康正2年(1456)
主な城主 真里谷武田氏
廃城年 天正18年(1590)
遺構 曲輪、土塁、堀切、虎口
再建造物 説明板
住所 千葉県木更津市真里谷字真地