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昌官忠

「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」⑨ (2018/10/22 訪問)

「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」の9城目は人吉城です。
100名城スタンプは「人吉城歴史館」で押しました。

人吉城は相良氏の居城として知られています。幕末に築かれた石垣の一部には「はね出し工法」を応用した「武者返し」と呼ばれる独特の石垣があります。これは防火の為に造られたようです。
この工法は函館五稜郭、江戸湾台場など日本の城で数例見られる西洋式の石垣です。
現在、城跡は人吉城公園として整備され、櫓や塀が復元されています。攻城時間は70分くらいでした。

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takumupapa

石積 (2020/12/06 訪問)

 

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takumupapa

石積 (2020/12/06 訪問)

 

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赤い城

なかなか素敵な土の城 (2020/11/28 訪問)

牛久駅、龍ケ崎市駅からそれぞれ徒歩で30分くらい。
この日は東林寺城から歩き。
主郭への土橋や周囲の堀は深く見応えあります。
腰曲輪にも土塁がよく残っています。
牛久沼を望む位置にあり小田氏一族の岡見氏が築いたとされています。
大体このような城では人に会うことはないですがこの日は私の他に3名様が。
城巡りは何気にブームかも?

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宗春

大桑城 (2020/11/01 訪問)

はじかみ林道登山口から「ゆったりコース」で主郭部まで歩いたのですが、そこそこハードな山道でした。その先の「けんきゃくコース」はどれほどハードなんだろう?

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カズサン

南九州の桶狭間と言われるシラス台地群郭式山城 (2020/11/22 訪問)

 都城を終えて都城ICから宮崎道に乗り九州道えびのICを降りる、今回の鶴丸城御楼門と九州未踏の城廻り第9城目加久藤城を目指す、ナビは宮崎県えびの市大字小田字城内1100-1をGoogleMapで微調整し大手門付近に合わせ走行するがえびの市松原交差点の少し西の路地を北入り集落の加久藤城の指示板に迷うが道なり奥に進む車を停めて徒歩確認を二回ほどして大手門標柱の有る所に到着、標柱は倒れて石垣の下。
 ガイドが城郭放浪記さん古城盛衰記さん余湖図コレクションさんの助けで大手門跡、登り廃屋の有る屋敷に車と停めて車困難な逆クランク登り道を通り(何とか小型車でも通れそうでしたが?)、登城路が本丸神社まで綺麗に清掃されて居ました、何か行事が有ったのでしょうか?徒歩で周辺を探訪、大岩が虎口枡形を形どり、急峻なシラス台地を削ってる、登城路に曲輪群が横矢掛け、城名標柱、案内解説板が立ってる、本丸と二の丸の間を虎口で守る、本丸虎口の後ろに枡形か?神社広場か?、本丸は神社と梅園、二の丸は熊笹の広っぱですが両方とも杉が林立してる。
 都城を過ぎてから雨が降り出し加久藤城では降ったり止んだり傘を差しての探訪、夕刻に近く雨で暗く成り短時間で終了しました、登城路は狭いですがコンクリート舗装、四駆のタイヤ痕が有りましたので車の登り降りは有る様です。

 歴史的には伊東氏の侵食が激しく領主北原氏を転封し永禄7年(1564年)島津義弘が入り久藤城に中城と新城を縄張りに加え加久藤城と名を改める、加久藤城は飯野城の支城。
 「木原崎の戦い」が起き、元亀3年(1572年)6月伊東祐安は加久藤城に3000の兵で攻め掛り、義弘の囮作戦など300の兵で果敢に対応し伊東軍は初戦退敗し、暑さに池尻川で水浴びしてる伊東軍を島津軍が襲い掛かり大激戦、伊東氏の大敗で士分の多くを失いこれが伊東氏の衰退の原因と成って行く、島津軍も8割が討ち死にする激戦であり、少数の兵で大軍を打ち破った事からこの戦いは南九州の桶狭間とも言われてる。

 義弘は30歳から56歳まで加久藤城、本城飯野城で過ごし各地を転戦し九州制覇あと一歩の処まで行く、天正18年(1590年)栗野城に移る、元和の一国一城令で廃城、義弘は元和5年(1619年)加治木館で生涯を終えた享年85歳。

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カルビン

石倉城 [群馬県利根郡みなかみ町石倉1788] (2015/05/23 訪問)

群馬県の厩橋城(前橋城)の利根川を挟んで対岸には城びとに登録されている石倉城がありますが、同じ群馬県のみなかみ町に城びとには登録されていないもう1つの石倉城があります。

上越線上牧駅から約1.5㎞北にありますが、電車の運行本数を考えると車の方がよさそうです。

そもそもこの石倉城、実は新潟県の荒砥城リベンジしに行った際に戻りがてら上毛高原駅傍の小川城に立ち寄ろうと水上ICで降りた際、道案内を偶然発見してそのまま立ち寄った場所になります。

石倉城は上杉vs長尾の上杉側の拠点として設けられた崖端城だったようで、解説によると曲輪の他に堀切が残っているらしいです。
が、現在城址は田畑になっており、この時農家の方が丁度作業していた為に堀切は確認出来ませんでした。

お城の規模としてはそれ程大きく無いので、何かの遠征の際についでに立ち寄る程度で宜しいかと。

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昌官忠

「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」⑧ (2018/10/22 訪問)

「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」の8城目は熊本城です。
100名城スタンプは「城彩苑」で押しました。

攻城したのは2018/10/22なので、いまから2年2か月くらい前です。(城とらさんが攻城された2018/11/02とほぼ同時期になります)
2016年4月に発生した地震から、いまだ大天守は復興中、戌亥櫓の石垣は崩れたままでした。
手元にある「熊本市観光ガイドブック2018 9月号」は被災と復興状況が記載されています。現在、天守は復旧していますが、まだまだ復旧は続くようです。自分も攻城時、復旧・復元へ若干ですが支援の寄付をさせて頂きました。

熊本城へは島原城からの転戦ですが、移動は島原外港から熊本新港までカーフェリーにて有明海を船旅(約30分)でした。天気があまり良くなかったので景色はグットとは言えませんが、以外と近いのには驚きました。

写真は2018/10/22のものなので古いですが、被災および復興途中の状況として投稿します。最新写真は他会員の皆さんの写真を参照願います。攻城時間は60分くらいでした。

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昌官忠

「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」⑦ (2018/10/22 訪問)

「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」の7城目は島原城です。
100名城スタンプは「島原城受付窓口」で押しました。

島原城は江戸時代に松倉重政によって築かれた城です。天草四朗を総大将にする1637年の島原の乱では一揆軍の攻撃を受けましたが、しのぎました。

1618年から7年の歳月をかけて完成した島原城は、層塔風総塗込の五重の天守閣を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配置して、要所を三層櫓で固め、外郭は4キロにわたって矢狭間をもつ錬塀で取り囲んでいたそうです。4万石の大名には過分な城です。
現在は城址公園として整備されており、現在の天守は1964年に復元されています。攻城時間は45分くらいでした

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todo94

雨中の攻城 (2020/11/07 訪問)

午後は雨という天気予報通り、ついに雨が落ちてきてしまいましたが、傘なしでもなんとか耐えられる程度の小降りだったので攻城に踏み切ってしまいました。山頂に立つ櫓風展望台からの眺望はあいにくの天気のため望めませんでしたのでまた機会があったら再訪したいと思います。この日の攻城は此処で切り上げ、この後は麒麟がくる可児大河ドラマ館をたっぷりと楽しませていただきました。前売り券を第4回お城EXPOにて購入してありましたので。

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たまたまのぞいた神社に由緒書きあり (2020/12/05 訪問)

現地の教育委員会設置の説明板は、まーやんさん投稿のように朽ちてしまって読めません。同じく、まーやんさん投稿の2枚目の写真にある、多武木神社をのぞいてみたところ、浅小井まちづくり委員会が作った該神社の説明書に浅小井城と歴代城主についての記載があったのでアップします。多武木神社は、浅小井城の守護神として城の南東角に置かれたのが、始まりと。

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にのまる

その2 (2020/10/16 訪問)

 太田駅からガイダンス施設までは初めて行ったときも相当遠かった記憶がありますが、今回もやっぱり遠かったです。途中、噂に聞く上毛かるたの「お」の札が掲げられた大光院に興味をそそられましたが、一旦寄り道をするとどんどん違う方向に流されてしまう傾向が私にはあるので我慢しました。(帰りにその癖が見事に露呈してしまいましたが。)
 ガイダンス施設の道路を挟んで反対側に大手口石塁の標柱があったので行ってみると、桜の井戸という井戸がひっそりとありました。金山城のシンボル的な丸い石組みの湧水の極小版といった感じです。石塁はさらにその奥でしたがぬかるみ具合が半端なかったので手前で断念。今でも水が湧き出ているということのようです。
 ガイダンス施設からは素直に一般的なハイキングコースを登りました。山頂近くまで来ると眺めのいい場所に懸け造りの展望台。絵になります。
 西城、見附出丸をまわって本丸目指して散策開始。西矢倉台の二本の堀切を上から眺め物見台へ。復元ではないと思われるポツン石や石敷きの露出を見つけると、なでなでしたくなってきます。(していません。)
 晴天で周囲に人がいなかったので物見台からの絶景を存分に堪能しました。その先の石垣群は映えスポットの連続。上毛のマチュピチュ、かっこよいです。でもいちばん印象に残ったのは馬場曲輪の横の大堀切。石に負けないくらいかっこいい土でした。それから馬場下曲輪も惹かれるものがありました。
 南曲輪のスタンプ小屋の前で眼下に広がる景色を眺めていると見知らぬ方から声をかけられ…、でも今回は「タケノコ持って帰って。」ではなくて、「ここで満足して本丸まで行かない人がいるけど行くように。」というお話でした。
そして本丸の新田神社にゴールインしました。
<まだ続く>

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響ちゃん

公園デス (2020/12/05 訪問)

おっきな土塁の上に櫓が二基あるっぽい

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カズサン

シラス台地群郭式山城、大手門が復元されてる (2020/11/22 訪問)

 祝吉御所を終えて南西に5、6km程の都城を目指す、今回の鶴丸城御楼門と九州未踏の城廻り8城目、都城市で3城目、ナビは古城盛衰記さんガイドで宮崎県都城市都島町803に合わせ大手門の駐車場を目指すが高齢者障害者用駐車場にヒット、本丸南西の虎口に在る駐車場を利用、やっと一台確保、トイレは本丸虎口上がった角に有り。
 
 現在公園は本丸(歴史資料館)と大堀切を挟んで西城(狭野神社神武天皇が祀られてる)、本丸北東下に復元大手門を探訪し他の群郭の曲輪城はJR日豊本線を挟んで本丸南側、本丸、西城の西側に曲輪が城という名前で9曲輪城存在してるようですが余りにも広すぎて確認はしていません。

 歴史的には島津氏の一族北郷氏により築城領有し都城盆地を統一し都城は一国一城令で廃城と成るが明治まで都城を都城島津家が4万石で治めていた。(パンフレット抜粋)

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ぎりょう

大崎一揆最終戦の舞台 宮崎城(宮城県加美町) (2020/11/29 訪問)

宮崎城は宮城県加美郡加美町宮崎(旧宮崎町)市街の北、田川と烏川が合流する西側の山に位置する中世の山城である。城主は奥州探題大崎氏の臣笠原氏。旧宮崎町史によれば初代重宏が延元4(1339)年に宮崎城を賜るとあり、その歴史は古く、この地方を流れる田川流域には一族の八木沢(柳沢)氏、谷地森氏、米泉氏が拠った中世城館が点在する。
天正18(1590)年、奥州仕置きで大崎氏が小田原不参を理由に改易となり木村吉清・清久父子が入部すると、新領主の圧政に対し大崎氏旧臣による一揆が勃発する。翌天正19 (1591)年6月24日、旧大崎氏領での一揆鎮圧の最終戦はこの宮崎城が舞台となる。当時の笠原宗家の当主は民部隆親、近隣の一族・郎党・領民3,000人が籠城、伊達政宗率いる10,000の軍勢を相手に壮絶な戦いを演じる。籠城軍は初戦で伊達軍の将「知恵伊豆」こと浜田隆景を討ち取るなど攻城軍をおおいに悩ませるが、同25日、伊達軍の総攻撃により落城する。隆親は少数の家臣を従え最上方面に落ち伸びたが、伊達側の古文書によれば「・・・籠城之者共悉討捕之首数註文相添京都へ為差上候・・・」とあり捕虜となった者たちの有様がうかがえる。
一揆終結後この地は伊達領となるが、文禄・慶長の初めまで宮崎城は片平親綱、山岡志摩、石母田宗頼に預けられ交替で管理されたという。その後牧野大蔵家の管理を経て承応1(1652)年に石母田氏が入部して明暦1(1655)年に館を現在の市街地側に移した。その時まで宮崎城が使われていたのだろうか。

城の構造は比高約80mの東西に並ぶ二つの曲輪(東本丸・西本丸)を中心に東側は田川に面した断崖、南側は烏川を外濠とし三重の水壕と数段の帯曲輪、西側と北側は深い空堀で防御する、まさに天然の要害といえる。

現状は城跡全体が杉林となっているが、東本丸跡・西本丸跡も比較的見やすい状態である。大手口は南側であったというが、現在は田圃となった三重堀を超えたところに虎口跡が見られる。小ぶりな桝形であり笠原氏時代の大手口なのかは判然としない。江戸初期の改築の可能性もある。
訪問客用の駐車場は特に無いが、城跡北側を巡る道路脇の案内板付近の路側帯に駐車可能。その場所からは西本丸下の曲輪に近い。
この日は加美郡の別の城館調査後の訪問で遅くなり、主要部はパスしてしまい画像はこれだけ。

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響ちゃん

鹿島神社で参拝してから探索 (2020/12/05 訪問)

大手門が綺麗ぽい

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響ちゃん

小雨の中、坂道をてくてく登って (2020/12/05 訪問)

二の丸はネギ畑になってるぽい。所々に空堀と土塁の構造を確認出来たっぽい

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カズサン

島津氏発祥の地として大切に保全管理されてます (2020/11/22 訪問)

 月山日和城を終えて地道を南西に約7、8km程の祝吉御所を今回の鶴丸城御楼門と九州未踏の城廻り7城目に初登城、住宅地の中に在りナビは宮崎県都城市郡元町4320に合わせ走行、小公園として綺麗に整備管理されてます、砂利駐車場が数台分あり、トイレ無し。
 時間は余り掛かりませんが歴史を遡り思いにしたるのも一興かも、都城市3城廻りに如何でしょうか?
 
 歴史的には文治元年(1185年)忠久は源頼朝によって領家の島津御荘下司職、同荘八千町の惣地頭職、薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられ、鎌倉より下向して御所を構えた。
 当地は古代・中世において「島津」と呼称され全国有数の荘園として知られ島津御荘の中心であった、忠久は初め惟宗姓を名乗ったが、地名をとって姓を「島津」と称した。
 島津氏は武家の名門であり戦国期には九州をほぼ統一しかけるが秀吉の九州征伐で薩摩・大隅・日向の一部と成るが近代日本の歴史上に大きな足跡を残した。(陶板碑文による)

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小城小次郎

よくぞこれだけ残したものだ (2020/10/17 訪問)

幼稚園の地下に埋もれた(残された)石垣は現地で見ると意外に大きく、地下にあるとは思えない堂々とした佇まい。かつては守護所だったこともある由緒正しき阿波九城。よくぞこれだけ残したものだ。

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上只来バス停より (2020/12/05 訪問)

 場所も明確にわかっていない城址ですが、チャレンジして来ました。上只来のバス停から二俣川にかかる「ただらいばし」を渡り、旧街道の登り口より城址があると思われる峠へ向かいました。登り口はわかりにくく、道も倒木が多く、歩きにくい所も多くありましたが、道は確かにありました。やがてタイヤ痕の残る林道に出ました。本当はこの林道を上って来たかったのですが、登り口がわからず旧街道と思われる道を上がってきました。この城址の位置などを明確に記載した資料を見つけることはできませんでした。場所が明確にわかっていないと思いますが、グーグルマップでは只来城が表示されます。GPSを利用して城址と思われる場所に到達しました。北側から登って来ると峠の左手に削平地が見られ、腰曲輪のような場所がありました。堀切があると書かれたものもありましたが、見つけることはできませんでした。ネット上で訪問された方の写真を見ると、この場所に来られたのではないかと思います。その周辺もしばらく探索しましたが、所々削平地があり城域だったのかもしれないと推察してしました。
参考のしたのは「城びと」のアップされている「カズサン」さん、「姫街道」さんの記事と「武蔵の五遁、あっちへこっちへ」さんのHPです。「カズサン」の記事に「昨年までTVの共同アンテナが山頂に在り麓から有線ケーブルを張ってた」とあり、「武蔵の五遁、あっちへこっちへ」さんの写真ではアンテナが写っている場所があります。今回、同じような場所へ行ったと思うのですがアンテナはありませんでした。
行ったところが本当に城址であったのか確信はありませんが、先に述べたようにグーグルマップの只来城址のある場所には到達したので登録しました。(ときどきグーグルマップは間違っていますけど)帰りはタイヤ痕のある林道を下ってどこから上がれるが確認しようと思いましたが、自分が思っている方向と異なる方向へ伸びていたので来た道を引き返して来ました。

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