大崎一揆最終戦の舞台 宮崎城(宮城県加美町)
(2020/11/29 訪問)
宮崎城は宮城県加美郡加美町宮崎(旧宮崎町)市街の北、田川と烏川が合流する西側の山に位置する中世の山城である。城主は奥州探題大崎氏の臣笠原氏。旧宮崎町史によれば初代重宏が延元4(1339)年に宮崎城を賜るとあり、その歴史は古く、この地方を流れる田川流域には一族の八木沢(柳沢)氏、谷地森氏、米泉氏が拠った中世城館が点在する。
天正18(1590)年、奥州仕置きで大崎氏が小田原不参を理由に改易となり木村吉清・清久父子が入部すると、新領主の圧政に対し大崎氏旧臣による一揆が勃発する。翌天正19 (1591)年6月24日、旧大崎氏領での一揆鎮圧の最終戦はこの宮崎城が舞台となる。当時の笠原宗家の当主は民部隆親、近隣の一族・郎党・領民3,000人が籠城、伊達政宗率いる10,000の軍勢を相手に壮絶な戦いを演じる。籠城軍は初戦で伊達軍の将「知恵伊豆」こと浜田隆景を討ち取るなど攻城軍をおおいに悩ませるが、同25日、伊達軍の総攻撃により落城する。隆親は少数の家臣を従え最上方面に落ち伸びたが、伊達側の古文書によれば「・・・籠城之者共悉討捕之首数註文相添京都へ為差上候・・・」とあり捕虜となった者たちの有様がうかがえる。
一揆終結後この地は伊達領となるが、文禄・慶長の初めまで宮崎城は片平親綱、山岡志摩、石母田宗頼に預けられ交替で管理されたという。その後牧野大蔵家の管理を経て承応1(1652)年に石母田氏が入部して明暦1(1655)年に館を現在の市街地側に移した。その時まで宮崎城が使われていたのだろうか。
城の構造は比高約80mの東西に並ぶ二つの曲輪(東本丸・西本丸)を中心に東側は田川に面した断崖、南側は烏川を外濠とし三重の水壕と数段の帯曲輪、西側と北側は深い空堀で防御する、まさに天然の要害といえる。
現状は城跡全体が杉林となっているが、東本丸跡・西本丸跡も比較的見やすい状態である。大手口は南側であったというが、現在は田圃となった三重堀を超えたところに虎口跡が見られる。小ぶりな桝形であり笠原氏時代の大手口なのかは判然としない。江戸初期の改築の可能性もある。
訪問客用の駐車場は特に無いが、城跡北側を巡る道路脇の案内板付近の路側帯に駐車可能。その場所からは西本丸下の曲輪に近い。
この日は加美郡の別の城館調査後の訪問で遅くなり、主要部はパスしてしまい画像はこれだけ。
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