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赤い城

長栄寺の裏に (2021/02/06 訪問)

毛呂駅から徒歩で10分ちょっと。
長栄寺が二郭とされ、裏山のに館跡が主郭のようです。
山門脇に館跡の標柱があり、裏山に回ると毛呂氏の供養塔が。
そのさらに上が館跡への入口となります。
主郭の一部は墓地で山側には高い土塁が、さらに外側に空堀がありました。
空堀は北側に続き、館跡への虎口には小さな土橋がかかっていました。
源頼朝に仕えた毛呂氏は戦国時代は北条氏の家臣でした。
小田原征伐で八王子城を守っていましたが小田原城開城とともに滅んでしまいました。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅲ⑭:佐是城(ラスト) (2019/08/21 訪問)

池和田城から転戦。車で10分くらいで着きました。
主郭の明性院入口らしき付近(35.400115、140.125078)から中に入るが、確信が持てず、内曲輪跡の光福禅寺の駐車場(35.402594、140.125719)に向かいました。

佐是城は、鎌倉時代に、佐是禅師円阿(佐是四郎祥師説もある)が堀の内地籍に「館」を構えたのが始まりといわれています。
主郭や明性院のまわりの地は、館が襲われた時に、一族の身を守る為に造られた砦の役目をした所のようです。
時代が下がり、1550年(天文19年)武田三郎国信が城主に命じられ、国信はこの地に入るとすぐに、 佐是氏の築いた砦を戦国時代に相応しい大規模な城に造り変えたようです。
『武田系譜』によれば、1552年(天文21年)に起きた「椎津合戦」で佐是城主・佐是国信は援軍として里見軍と戦うも討ち死にし、城も落城したそうです。

現在城趾には土塁や空堀などの遺構が残っており、また主郭跡に明性院、内曲輪跡には光福禅寺が建てられています。
主郭の明性院らしき付近に着くが、確信が持てず、内曲輪跡の光福禅寺に向かうが、遺構は見つけられず説明板と内曲輪跡の小さな石碑の写真を撮って撤収。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅲ⑬:池和田城➡城びと未登録(千葉県市原市) (2019/08/21 訪問)

庁南城付近から転戦。車で10分くらいで着きました。
池和田城の城碑がある入口付近(35.381090、140.176864)に路駐して攻城しました。
2郭、3郭に行くには池和田谷公民館の駐車場(35.382060、140.174692)に駐車して攻城してください。

築城年代は定かではありません。 はじめ和田正治の居城で(1394年〜1428年)応永年間頃には里見氏の重臣多賀氏の居城となったようです。
多賀越中守高明が「国府台合戦」で討死したあとは高明の嫡男である蔵人と弟の兵衛が城を守っていましたが、北条氏政が率いる1万の軍勢に攻められ落城しました。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際には内藤大和守が城主でしたが、浅野長政らの軍勢に攻められて落城し、そのまま廃城となりました。

現在城址には本丸跡に天神社が祀られ、背後の堀切は道路になっています。
池和田城の城碑がある登城口からは1郭にしか行けません。
1郭から下にある2郭と3郭の間は比高差がかなりあり下りることができません。
2郭、3郭に行くには、城址標柱のある登城口から車で道なりに進み、池和田谷公民館に出る手前にある小さな入口から入れますが、何も表示がないので、見落としやすいです。
攻城時間は45分くらいでした。

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AJ

虎の血脈 (2020/08/24 訪問)

悲劇の城・新府城の発掘調査に偶然立ち会いました。武田勝頼が城を焼いたという考古学的証拠はこれまでも見つかっていますが、今回新たに北側の門跡の土が熱で変色しているのが分かりました。さらに、焼け落ちた城を臨時補修した痕跡も出てきました。勝頼の自害後、加えて本能寺の変で織田信長が亡くなった直後でもあるこの混乱期、徳川家康は新府に本陣を構え、武田旧領の覇権をかけて北条と争っています(天正壬午の乱)。焼けた土の層のすぐ上に拳大の石を敷き、盛り土をしているのが分かります。現在の地表から1メートルにも満たない深さ。そこに400年以上前のドラマが埋まっていたかと思うと、鳥肌が立ちます。

偉大な父を持つと、息子はそれだけで過小評価されがちです。勝頼もそんな一人で、信玄ブームが起こった江戸時代から、名門家を滅ぼした「凡将」「暗愚の将」などと揶揄されてきました。ところが近年、こうした評価を見直す動きがあります。

実際、武田家は勝頼の時代に最大版図を迎えます。上杉謙信と信長は互いに宛てた書状で、いかに勝頼が優秀で警戒が必要な存在かを記していたそうです。一方、長篠の敗戦を機に武田家の内部崩壊が始まると、生き残った古参武将は次々と離反。信長の甲斐侵攻に備えて急造した新府城をめぐっても家内の意見は割れたといいます。武田流築城術の粋を集めた平山城ですが、そもそも「城を枕に」という発想は従来の家風と馴染まなかったのかもしれません。改革が行き過ぎたのでしょうか。結局、その後も造反が止まらず、勝頼の入城からわずか60日後の1582年3月、自ら火をかけ敗走しています。

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赤い城

わずかに土塁が残っています (2021/02/06 訪問)

東武川角駅から徒歩で30分。
西坂戸運動場の駐車場も利用できます。
主郭には土塁が残っていて南側には枡形の虎口も見られます。
西側の二郭は配水場となっています。
築城主等は不明だが北条氏の城となっていたようです。
南側は崖になっていますががけ崩れのため立入禁止となっていました。

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pascal

羽柴秀吉の兵站基地 (2020/01/08 訪問)

 近江国甲賀郡は甲賀忍者で知られる様に、多くの小土豪が連携して生きていた“惣の郷”でした。
伊賀国と同様で、遺る城郭も小規模なものが多数点在しますが、中には大規模な城址が幾つかあります。

 黒川氏城のある鮎河の郷は、鈴鹿の山並みを背景に割とまとまった平地の有る、明媚な山里です。
野洲川に支流の鮎川が合流する地点にある『うぐい川公園』の駐車場に停めますが、鮎河は桜の名所なので、その時期の休日は避けた方が賢明かも知れません。

 鮎川に架かる橋の南詰めに大きな城址案内看板があるので、まず予習します。
あんれまぁ…、異様にデカイ城だから、これは訳ありですね(^^;
当時の甲賀郡の石高は7万石余りで、そこに甲賀53家と言われる小土豪が割拠していました。
平均すると1千7百石…、兵力にして30~40人というところです。
おのずと城の大きさも限られますね。

 城址は200m南の杉林になった丘の上にあるので、田圃の畦道を通って向かいます。
害獣柵のゲートが2箇所あるので、“あとぜき”忘れずに。
 杉林に入ると、間伐や枝打ちの材が放置されていて、雑然としていますが、郭の土塁のシルエットは判ります。
『デ、デカイ!』、想像以上で、ドアを開けたら目の前に八村塁が立っていた感じかな(^-^;
虎口に石を使い、雁木まで備えた主郭は土塁も高くて堅牢ですが、それよりも驚くのは副郭の大きさで、小学校跡地かな?と思えるほど。

 こんな城を造り、維持できる氏族は甲賀には居ませんし、一時的にかなり大きな兵力の収容を意図した縄張りですね。
そうすると、天正11年(1583)の滝川一益と天正12年の織田信雄を攻めた秀吉の“伊勢侵攻”に使われた…と見るのが妥当です。
この鮎河は、鈴鹿山脈を越えて伊勢に至る街道が集まる場所です。
 この城に集まった秀吉軍は、“鈴鹿越え”で新所城へ、“安楽越え”で亀山城へ、そして“千草越え”で桑名城へと、続々と攻め込み、その兵站もこの黒川氏城が担ったのでしょうね。

 その後、紀州攻めの失策で秀吉に改易された甲賀衆ですが、黒川氏は関ヶ原に徳川方で参戦して功を挙げ、徳川旗本として召し抱えられます。
知行地は鮎河近郷の七ヶ村でしたから、約4千石の高給旗本で地元に帰り咲いた訳ですね。
城址の麓の郭には家来の名前が伝わるものも有る様ですから、この城跡に代官所を置いていたのかも知れません。

 鮎河の郷は鮎河家と大河原家が領していた筈(ひとつ南の谷間が黒川郷で、黒川城も有る)ですから、“黒川氏”の銘々を不思議に思っていましたが、謎が解けました。

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備中の覇者、三村家親 (2021/02/06 訪問)

小城小次郎さんやカズサンさんの投稿を見て、行きたい城にノミネート。三村氏は、備中の覇者でありながら、宇喜多直家の敵役くらいで出てくることが多い。関連の城を廻りつつ、調べてみたい。備前の浦上氏も。
訪れると、山麓の成羽(なりわ)陣屋も良かったです。
中腹の太鼓丸に縄張り図があったのでアップします。
縄張り図では枠外になっている二ノ丸にも行ってみました。登城道が尾根の鞍部に至り、右手が本丸、左手が二ノ丸。左手に100mくらい行くと、小さなピークがあり、石垣を伴う平削地群がありました。石垣にも見える自然岩もあり、石は現地調達できます。
鶴首城から成羽川向こうの景色を添付しました。高梁川やその支流の成羽川沿いは平地が少なく、南斜面の高いところまで家や畑があるのに驚きます。

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益富城 (2021/02/07 訪問)

交通の便もよし、水よし。大昔から人気な城なんだなぁと思った。今はイノシシ多めでニンゲンの方が客人。
水曲輪の他、雨が降れば池になる湿地が多い。
畝状竪堀、空堀、旗を立てた穴、土塁...たくさん残ってる。
益富山の三角点は二の丸跡より北にある。ココも曲輪の跡がいっぱいある。
城に隣接する志祗神社と牛馬神社..地元の方でも詳細不明。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅲ⑫:庁南城 (2019/08/21 訪問)

勝見城から転戦。車で20分くらいで庁南城付近に着きました。
ナビの指示は籔の斜面を上がれ。ちょっと無理なので断念。一応、付近まで行ったので攻城とさせて頂きました。
跡で再調査したところ、ケアハウス「びおとうーふ共生会」の駐車場(35.399468、140.237194)に駐車して妙見神社を目指すようです。
ナビに従うと、自分のように籔の斜面上がれになるので無視してケアハウスから山を目指すようです。
トーダイさんの城メモを参考にしてください。(攻城時の自分は城びと入会前だったので、参考にできませんでした。残念です。)

庁南城は武田信長が真里谷城とともに上総支配の拠点として1456年(康正2年)に築いた城です。
上総国武田氏の武田信長は1456年(康正2年)下総国市河合戦のときに庁南城と真里谷城を築き、庁南城には信長の嫡子武田信高が入り、その子武田道信が庁南武田氏の祖となりました。
庁南武田氏はその後代々続き、真里谷武田氏が衰退した後は池和田城や勝見城を支城として、上総国を代表する勢力となりました。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による「小田原征伐」で北条氏とともに滅亡しました。
最後の当主、武田豊信は武田信玄の三男といわれていますが不明だそうです。

城趾は「長南城太鼓森」として町史跡に指定されており、上総武田氏の菩提寺である大林寺には武田氏累代の墓があるそうです。
攻城時間は15分くらいでした。(投稿できる写真はありません)

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅲ⑪:勝見城➡城びと未登録(千葉県長生郡睦沢町) (2019/08/21 訪問)

一宮陣屋から転戦。車で10分くらいで着きました。
歓喜寺の駐車場(35.380992、140.326672)に駐車して攻城しました。

築城時期は不明だが、鎌倉幕府創立に大きな役割を果たした高藤山城主・上総権介広常の弟で金田郷を支配した金田小太夫頼次の居城と伝わっていますが、金田康常による築城説など諸説あるようです。
1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵の際は、金田頼次は伊豆蛭ヶ小島の頼朝配所に居り、千葉胤頼とともに当初より挙兵に加わり、三浦大介義明の居城、衣笠城の籠城に合流しました。
しかし衣笠城は畠山重忠らによって陥ち、頼朝も石橋山合戦で敗れ安房に逃れました。この時に頼次も衣笠城を落ち勝見城に帰ったと見られます。
1183年(寿永2年)年12月、梶原景時の讒訴により兄の上総広常が謀殺されたとき、頼次も蟄居を命ぜられ病死した、あるいは広常と一緒に殺されたといわれています。
その後、広常の無実が証明されると、金田郷はふたたび頼次の嫡子、康常に安堵されます。
金田康常とは従兄弟にあたる三浦義村が1247年(宝治元年)に起きた「宝治合戦」で滅ぼされると、金田氏も巻き込まれ、所領を失い勝見城は宗家の千葉氏の所領となります。
その後、金田氏は康常の孫にあたる胤泰が叔父・鏑木胤定の家督を継いで鏑木胤泰を名乗り、千葉宗家の重臣となります。
鏑木氏三代の鏑木家胤の弟、常泰は上総蕪木城を築き、金田氏は下総鏑木氏と上総蕪木氏の二家に分かれました。
蕪木氏八代常信は千葉宗家に属して安西氏や里見氏との抗争に軍功があり、金田郷の旧領へ復帰がかなったが、勝見城を居城としたかどうかは明らかではありません。
戦国期には庁南城の武田氏の配下に入っていたと考えられ、大泉伊賀守らが在城しました。
1590年(天正18年)の「小田原合戦」では大泉氏または庁南武田氏の一族が居たと思われるが、戦闘があったかどうかは不明だそうです。
北条氏の滅亡、庁南武田氏の没落とともに廃城となりました。

現在城址は緑地休養施設「やすらぎの森」として整備されており、堀切などの遺構を確認できます。
歓喜寺から1郭の展望台に向かうのに尾根沿いに行こうとしたが、吊り橋が危険(通行止め)状態。この吊り橋下の堀切はなかなかいい。
1郭の展望台へは別ルートから行けます。「やすらぎの森」駐車場から攻城ルートの方が堀切がたくさん見れそうです。
攻城時間は30分くらいでした。

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー33城目 (2021/02/06 訪問)

能見城からあっと言う間にアクセス。駐車場から出構、搦手の枡形から、二の丸、本丸と進みました。本丸北辺の土塁からは八ヶ岳、丸馬出を備える大手枡形からは富士山をきれいに望むことができました。韮崎市民俗資料館にて無事スタンプをゲット。2021年の初スタンプとなりました。

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赤い城

民家の前に説明板 (2021/01/30 訪問)

島名城、阿内城の次もやっぱり畑。
民家の前に説明板と石碑が立っています。
上杉氏と北条氏により争奪戦が繰り広げられた城のようです。
城域は民家と畑で遺稿はなさそうです。

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ぴーかる

岩倉城 (2020/12/26 訪問)

【岩倉城】滋賀県野洲市
<駐車場他>駐車場はなし。小堤城山城投稿と同じ。
<交通手段>車

<見所>桜本池・土塁・石垣
<感想>岩倉城は小堤城山城の数百㍍程東方に位置し、永原氏の小堤城山城築城より前世代に馬淵氏によって築かれた。城びと未登録の城です。登城ルートは中腹の舗装道から単独のルートがあるようですが、北の城跡入口箇所がかなり鬱蒼としていたので途中道が確保されているかどうかわからない。私は小堤城山城の東端の尾根沿いに小道が確保されていたので小堤城山城ついでに寄ってみた。
 城跡は中心に桜本池という不枯の池を中心に大きな削平地の単郭式といってもいい感じの構造となっている。おそらく池の窪地から周辺をどんどん広げていって段をつけたり、削った土で周辺の土塁を盛ったと感じた。城跡の南側は山の尾根を利用した高土塁で曲輪が段構造となっており見応えありです。北側の大手と思われる場所は食違いの土塁や石垣遺構が見られたのでかつては小堤城山城と同じくかなり石垣を多用していたと思われます。

<満足度>◆◆◇

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チェブ

本日、看板びと。 (2021/01/02 訪問)

ずーっと行こうか迷っていた「領ヶ谷城」です。
、、、遺構もない事は、城びと武将の方々の投稿で確認済み。
でも、やっぱり!
2021年一番最初の城攻めは、住宅街のど真ん中にある「領ヶ谷城」からスタートです。

源 頼朝さんが挙兵した際、佐々木 盛綱さんが築城しました。
佐々木 盛綱さん、ある戦中、対岸で敵方から挑発されます。
頭にきた盛綱さん。船を探すが見つからず、そのまま騎馬で海を渡ってしまったんだとか。
この時代、豪快エピソードがたくさん あります。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に盛綱さん出ないかな~と、来年が楽しみです。

「領ヶ谷城」は鰻屋さんです。
お店の看板に『旧領ヶ谷城址』とあります。
この配慮が嬉しいですね。
皆さんの写真を見ると大きなお店です。大通りにあると思いきや住宅街の細い道を通って行きます。
開店前のお店の駐車場に、車を停め写真を写し退陣しました。
、、、本当は、鰻が食べられたらいいんだけど、苦手で。
きっと味は好きな はずなんですが、子供の頃、鰻をさばく時の、目打ちを見てから怖くて食べられません。
そんな私が『討死です!』なんて簡単に書くの、矛盾してますが、、、(笑)

「領ヶ谷城」は近くに川がありました。
佐々木 盛綱さんも栄養補給に鰻を食べたかもしれません。

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pascal

北条vs佐竹 最前線の城 (2018/03/26 訪問)

平成11年に発掘、復元された小坂城。
戦国期に小規模な国人領主が築き、守った、最前線の緊張感が体感できる城址です。

牛久大仏の南西3km、R408沿いの段丘上に城址はあります。
看板を目印に坂を登る形で入って行くと、左手に専用の駐車場があり、道を隔てた東側に、いかにも近年の整備を思わせる立派な登城口があります。

 案内板によると、小坂城は近郷を治めていた岡見氏が築いた城の様です。
岡見氏は南北朝期に筑波の小田氏から分家した家で、家伝によると、小田氏の傘下で1万石程度の領地を支配していたそうです。
岡見氏の城としては、少し西側に大きな『岡見城』や『足高城』が有りますし、『牛久城』も岡見氏の最後の居城と言われていますから、小坂城は東の勢力(佐竹氏?江戸崎土岐氏?)に対して築かれた、最前線の支城…の様に思います。

 “庶民派の氏治”で有名な宗家:小田氏は、永禄年間には佐竹氏によって追われてしまいますが、岡見氏は単独で佐竹氏に立ち向かい、後に北条氏の後援を得て領地を守り抜いたものの、秀吉の小田原征伐でこの地を追われ、小坂城も廃城になったものと思われます。
その後の岡見氏の一族は、結城秀康など進出して来た徳川の大名に仕えたと言います。

 入り口の看板を見て予備知識を入れたら、木製のきれいな階段を登って城址に入って行きます。
城址は概ねフラットで、空堀と掻き揚げ土塁で4つに仕切られていますが、それらが綺麗に復元されていて、当時の城の様子が手に取る様に伝わって来ます。
これは、薄学な私達の縄張り学習には最適、ありがたい城址ですね(^^;

 ただ、永禄年間の築城…という記述がありますが、『縄張りが古い』という印象は否めません。
150m四方ほどの城域を堀で4つの曲輪に仕切っていますから、堀は狭くて浅く、その土砂を盛り上げた土塁は低いものです。
横矢などの仕掛けも、『この距離なら要らんだろ?』みたいな無理矢理感が残りますね。
飛躍して考えると、主郭部は以前から有った城址か居館の跡をそのまま使い、時代に合わせて外郭に手を加えた築城なのかも知れません。
 宅地開発が進んでるこの城の北側には鎌倉街道が通ってるので、たぶんそちらが大手になります。
崖端城ですから、台地続きの大手は大規模な堀切で遮断されてた事は間違いないでしょうが…。

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小春日和の備前、備中山城散策 (2021/02/06 訪問)

備前、備中の山城廻りの一つ目に、城びと未投稿の辛川城へ。
桃太郎が描かれた給水タンクの北側を通り、山陽自動車道のトンネルの上を経て、階段の道にとりつく。
登っていく尾根は比較的なだらかであり、横堀が出迎える。その先は、少し手が込んだ作りで、枡形かも。
土塁で囲った単郭の城。三方の尾根を堀切で遮断している。東側尾根は、竪堀で遮断し、掘り残しを土橋にしている。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅲ⑩:一宮陣屋➡城びと未登録(千葉県長生郡一宮町) (2019/08/21 訪問)

一宮城から転戦。土塁の一部しか遺されていなかった一宮城の跡地に作られたのが一宮陣屋なので、一宮城攻城で自動的に攻城です。
一宮城山公園の駐車場(35.372495、140.361004)に駐車して攻城しました。

一宮陣屋は1826年(文政9年)に伊勢八田より移封された加納久儔によって築かれた陣屋です。
久儔は江戸湾警備の都合から、飛領であった上総に藩庁を移転し、土塁のみが残っていた一宮城跡の一部を整備して陣屋をかまえました。
以降、廃藩置県まで一宮藩の藩庁として機能していましたが、廃藩置県によって廃城となりました。
現在陣屋跡は城山公園となり、土塁の一部が残っています。
また公園入口には模擬の大手門が築かれており、公園内の一角には最後の藩主・加納久宜の墓所があります。

一宮城の入口、大手門横の城山公園になります。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅲ⑨:一宮城 (2019/08/21 訪問)

万木城から転戦。車で20分くらいでした。
一宮城山公園の駐車場(35.372495、140.361004)に駐車して攻城しました。

一宮城の築城時期などは不明ですが、戦国時代は里見氏に属していた正木氏の支配下にあったとされます。
第2次国府台合戦後、正木氏は分裂して、北条氏に内通した正木時忠は、里見氏方の正木憲時方にあった一宮城を攻略、嫡男の正木時通を置きました。
その後も里見氏と北条氏によって攻防が繰り返されます。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際は鶴見氏が守備していましたが、本多忠勝に攻められ落城しました。
徳川家康が関東に入封すると城代が置かれましたが、文禄年間までには廃城となったと思われます。
江戸時代に入り、1826年(文政9年)に加納遠江守久儔によって城址に一宮陣屋が築かれました。

大手門から振武館を見学し、駐車場横の櫓台と空堀を見ようとしましが、藪がすごくて近づけませんでした。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅲ⑧:万木城 (2019/08/21 訪問)

小浜城から転戦。車で20分くらいで着きました。した。
万木城跡公園の駐車場(35.298072、140.325342)に駐車して攻城しました。
駐車場までの路はかなり狭く急坂で軽だとアクセル全開でなんとか着きました。急坂手前に公衆トイレ付駐車場有ります。

伝承では応永年間に摂津国から移った土岐時政が築いたとされています。(戦国時代に美濃国からきた土岐氏によって築かれたとされる説もあり)
だが、上総土岐氏の系譜は不明な点が多く、築城年代および築城者は不明です。
明応年間前後に土岐頼元が活躍し、後に上総土岐氏の菩提寺となる海雄寺を創建したとされています。後年の小田原攻めの際には土岐氏の兵力は1000騎とも1500騎とも伝えられています。
土岐為頼の時代には里見義堯と婚姻関係を結んでいましたが、第二次国府台合戦で里見氏が敗北すると、離反して以後は北条氏に一貫して君従しています。
このため、万喜城周辺はしばしば里見氏や上総武田氏の侵攻を受けました。
特に土岐頼春(為頼の子)の代の1588年(天正16年)から1590年(同18年)にかけて里見氏による3度の攻勢が行われるが、いずれも土岐氏の勝利に終わっています。
1590年(天正18年)の小田原攻めにおいては北条氏に味方したことから、本多忠勝が率いる徳川軍に攻め落とされ、土岐氏は滅亡しました。
その後、徳川家康の関東入封後、忠勝が大多喜城に入る前に一時的に万喜城を居城としていた可能性があるとされています。
現在は万木城跡公園として整備されており、本丸跡に建てられた天守風の展望台からは太平洋が一望できます。
また、毎年5月3日には満開のツツジにあわせて300本の鯉のぼりが雄大に泳ぐ「万木城まつり」が開催されるそうです。

天守風の展望台から妙見台方面に行こうとしましたが、倒木の為、危険でロープが張ってあり通行不可。
南部の尾根や北の郭を確認したかったのですが、今回は時間の都合でパスしました。
攻城時間は30分くらいでした。

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todo94

中央東線穴山駅前 (2021/02/06 訪問)

山頂まで車の通れそうな道が続いていますが、無理をせず登城路の道幅にゆとりのある部分に車を駐め徒歩で登っていきました。雑木が茂っている部分は横堀にも帯郭にも見えないことはありませんでしたが、基本的にめぼしい遺構はなさそうでした。ここから新府城は車ならすぐにアクセスできます。

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