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岐阜城 (2019/12/23 訪問)

日本百名城

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松江城 (2019/12/21 訪問)

日本百名城
現存12天守

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅳ④:佐貫城 (2019/06/26 訪問)

飯野陣屋から転戦。車で20分くらいで着きました。
南側城址入口の駐車場(35.263682、139.896085)に駐車して攻城しました。

佐貫城は真里谷武田氏が最初に築いた城です(文安年間に関東管領上杉氏の家宰・長尾氏によって築かれていた説もあり)。
浦賀水道を挟んで三浦半島に臨むという交通の要衝であることから、里見氏と北条氏の間で激しい争奪戦が繰り広げられました。
1537年(天文6年)以降のある時期に安房里見氏の支配下に入ると、里見義弘が拠り、久留里城と共に真里谷氏及び後北条氏への最前線として重要な役割を果たしたそうです。
ただし、近年の古文書研究により、後北条氏が同城を占拠して城代を置いていた時期も存在していたことが判明しています。
徳川家康が関東に入封すると譜代の内藤家長が城主となります。
その後は桜井松平氏、能見松平氏が治め、柳沢吉保が継いだあと、一時期廃城となりますが、1710年(宝永7年)に阿部正鎮が三河刈谷から入封して佐貫城を再興、以後は阿部氏歴代の居城として、明治維新まで162年間にわたって佐貫藩を治めました。
現在も城址には石垣や堀、曲輪跡などの遺構が残っています。

南側城址入口の駐車場に車を停めて攻城。堀切、空堀、土塁、土橋が素晴らしかった。
攻城時間は40分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅳ③:飯野陣屋 (2019/06/26 訪問)

真武根陣屋から転戦。車で30分くらいで着きました。
飯野神社前(35.320640、139.863382)に駐車して攻城しました。

創建年代については諸説あるそうですが、飯野藩の藩主であった保科氏が加増の結果、大名となった1648年に飯野藩の藩庁として、保科正直の三男である保科弾正忠正貞によって築かれた説が有力だそうです。
構造的に防衛を考慮された城郭的色彩が強い点などから、江戸時代以前に既存の城郭があって、飯野藩の成立後に増改築がなされたとの説もあります。
廃藩置県後、飯野陣屋は一時飯野県の県庁として利用されましたが、飯野県が木更津県に合併された後は利用されることもなく、陣屋内に居住していた旧飯野藩士もやがて離散し、遺棄されました。
越前・敦賀陣屋、周防・徳山城(徳山陣屋)とともに三大陣屋に数えられています。
陣屋当時の建物はすでにありませんが、現在も土塁と水堀が状態良く保存されており、「飯野陣屋濠跡」として県の史跡に指定されています。
二の丸跡には飯野神社が建立されています。

ナビで導かれ飯野神社前に駐車。陣屋の概念図を見た後、参道を戻り飯野陣屋濠跡の石碑を確認し、土塁と堀を堪能。
攻城時間は20分くらいでした。

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todo94

日帰りドライブの〆 (2021/02/06 訪問)

新府城のスタンプをゲットして最後に訪れたのが日の出城。小さな案内表示に従って進むと中央道に突き当たります。その右手にソーラー発電があってその奥に城址碑と説明板が立っていました。車で城址碑前まで行くのはちょっと厳しいかと思います。

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小城小次郎

案内板がほっこりしている (2020/11/28 訪問)

一段と整備が進んで実に見やすくなった。ちなみにここの案内看板はカフェみたいな手作り感があってほっこりしていて、さりげなく見どころをアピールしてくれるので、とっても気に入っている。

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pascal

春の陽光を浴びて、ゆっくりのんびり… (2014/04/12 訪問)

 …探訪するのに最適なのが白井城。
もちろんタイミングや天候などの要素が合致しての話ですが、自己の体験から一番お奨めな城です。

 白井城は室町中期に、山内上杉氏の家宰(執事)だった長尾景仲が築いた城で、その子孫は白井長尾氏と呼ばれ、代々この白井城を居城ににしました。
しかしこの城は関東公方が室町将軍と争った“享徳の乱”や山内上杉氏家宰の座を巡る“長尾景春の乱”など、騒乱の舞台になった城でもあります。
 戦国時代になると北条vs上杉の陣取り合戦、さらに武田信玄の侵攻を受けて、真田幸隆に落とされたり、秀吉の北条征伐では上杉景勝に攻められるなど、常に攻防戦の絶えなかった城でもあるのです。
その為かこの城には合戦の度に弱点補強の改修が加えられ、かなり大規模な城に成長しています。

 徳川の関東入封後は、本多康重の系統が居城としましたが、一時期には分家扱いだった頃の井伊直孝も在城しています。
元和9年(1623)、本多紀貞が無嗣のまま死去すると、廃藩廃城となりました。


 白井城登城にはR17沿いの『道の駅こもち』を基地にします。
城下には沼田街道が通っていて、城下町は宿場町でもありました。
この白井宿がまた、江戸時代の宿場景観をよく遺しており、城と併せて楽しむことが出来ます。

 白井城は舌状台地の先端に築かれた崖端城ですから、宿場町の西の高台へと登って行きます。
宿場を散策しながら、中ほどの“下之坂”から登って行くと、城址の北端になります。
北の郭の物見櫓台だった『城山不動尊』が目印で、ここから南がすべて城址ですね。

 城址の大半は現在は畑に使われています。
明るい春の陽光と、赤城山、榛名山をバックに農家の方が農作業に勤しんでいますが、よく見ると二ノ丸、三ノ丸の外郭は変えず、堀もそのままに耕地化されている事が判ります。
先人旧主へのリスペクトですね。

 本丸は史跡地域だから、農地にはなっておらず、芝生公園の整備です。
ただ先述の様に、戦毎に強化された土塁や堀切の規模は圧巻で、とても見応えがあります。
充分に戦国末期の鉄砲戦に耐えうる縄張りですね。

 折から桜も満開で、ポカポカ陽気の春霞の向こうには上毛三山。
春を迎える自然の景観と変わらぬ人々の営みの中を、ほぼ貸し切りで城址の遺構に古人を偲ぶ…。
かつてない満足度の高い訪城になりました。
未登城の方は、今春にも是非訪城して見てください。

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tsuchinari

6年ぶりの錦帯橋と岩国城 (2021/02/11 訪問)

毛利元就の孫にあたる吉川広家は関ヶ原の合戦時、事前に徳川に通じ、西軍総大将の毛利輝元は参戦しないことを約束していたという。それで輝元は敗軍の将でありながら萩への移封で収まった。普通は斬首である。この時も広家の決死の助命嘆願があった。そして広家自身は岩国藩の初代藩主となり、以後藩は幕末まで続いていく。
この広家の働きがなかったら、毛利家は断絶してその子孫にあたる幕末の長州藩士の活躍もなかったと思うと、広家の果たした功績は大きい。
錦帯橋とセットで観光地化されている岩国城。約6年ぶりに登城した今回は、初めて天守最上階から麓の景色を一望できた。武家屋敷が残る城下町や錦帯橋の架かる錦川が見え計画性が感じられた。
次はこんなに間隔があかないうちにまた来たいと思った。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅳ②:真武根陣屋 (2019/06/26 訪問)

貝淵陣屋から転戦。車で10分くらいで着きました。
霊園駐車場(35.365368、139.936343)に駐車して攻城しました。

真武根陣屋は1850年(嘉永3年)、請西藩主・林播磨守忠旭によって築かれた陣屋です。
忠旭のあとは弟である忠交を養子として家督を譲りますが、1867年(慶応3年)、伏見奉行の忠交が急死すると、嫡男の忠弘が若年であることから忠旭の五男、林昌之助忠崇が藩主となります。
この忠崇は「最後の大名」や「脱藩大名」と呼ばれており、戊辰戦争において佐幕派に属すと1868年(慶応4年)陣屋を焼き払い、自ら脱藩して藩士70余人を率いて小田原・沼津・会津・米沢と各地を転戦しました。
藩主自らが脱藩したことで請西藩は戊辰戦争で改易された唯一の藩として知られています。
現在城址には石碑が建てられており、遺構としては土塁があるそうですが、見忘れました。

霊園の駐車場前で3種類の陣屋遺址碑と案内板を確認。攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅳ①:貝淵陣屋➡城びと未登録(千葉県木更津市) (2019/06/26 訪問)

蘇我駅からレンタカーで35分で着きました。
説明板前(35.371610、139.921823)に路駐して攻城しました。

1825年(文政8年)3月、11代将軍・徳川家斉の小姓をつとめ、のちに若年寄に出世した林肥後守忠英が1万石の諸侯に列したことにより貝淵藩が成立します。
忠英は当時、上総国望陀郡貝淵村と隣の桜井村の両村相交の地(境界線上)に2,500坪の陣屋を築きました。
将軍徳川家斉の信任が厚かった忠英は1万8千石に加増されたものの、1841年(天保12年)、家斉が没すると老中・水野忠邦の天保の改革開始とともにによって若年寄を罷免され、8千石を没収され、蟄居を命じられました。
1850年(嘉永3年)11月、忠英の跡を継いだ忠旭が陣屋を移し、請西藩を立藩したことにより廃藩となりました。
移転の理由として、貝淵陣屋が江戸湾に近く、海防上の都合があったとされています。
その後、戊辰戦争において4代藩主忠崇が新政府軍に敵対したため、同戦争における唯一の改易処分とされました。
1868年(明治元年)7月13日に徳川宗家を継いだ徳川家達が駿河へ移ると、替わって上総に転封となった松平(滝脇)信敏が旧陣屋を金ヶ崎藩改め桜井藩の藩庁として利用しました。
1869年(明治2年)3月、同藩は藩庁を望陀郡桜井村に移します。
廃藩置県後は桜井県、続いて木更津県の県庁が設置されますが、1873年(明治6年)の印旛県との合併に伴う千葉県設置に伴って廃止されました。
現在城址に遺構はありませんが、案内板が設置されています。

住宅地に木更津県の説明板と碑があるのみです。攻城時間は5分くらいでした。

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一二三段 (2021/02/02 訪問)

野面積みの高石垣は必見です。絡め手の複雑な石垣は圧巻です。  攻めることは困難かと。
天守台から見る津山市の景色も眺めたくなります。
スタンプ、御城印は備中櫓の中にあります。
三の丸、二の丸、本丸と、ひとつずつ、自販機、トイレがあります。
無料駐車場もありますが、9時にならないと開きません。狭いので運転に注意が必要です。他に大きな有料駐車場もあります。
石垣が好きな人、お勧めのお城です。
また、城の近くに石山寺というお寺があり、石切場の跡が残っています。そちらへも是非。

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TMN97

島崎城址 (2021/02/11 訪問)

島崎城址

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TMN97

芹沢城址 (2021/02/11 訪問)

芹沢城址

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TMN97

土浦城 (2021/02/11 訪問)

土浦城

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朝田 辰兵衛

出雲崎代官所(新潟県三島郡) (2021/02/11 訪問)

【いずもざき だいかんしょ】出雲崎町の出雲崎港周辺は,佐渡で採掘された金銀の陸揚げ地,北前船の寄港地,北国街道の宿場町として,戦国時代には陣屋が置かれ(秋田屋敷),元和2年(1616年)には徳川幕府の天領となり,代官所が置かれました。
出雲崎代官所は何度か場所を変え,最終地に石碑が建立されています。
個人的な見どころは,少し離れた場所に位置する“獄門跡”です。その名のとおり,処刑場跡です。天明年間に建立された供養塔が当時を偲ばせます。さすがに牢屋は遺っておりませんが…。すぐ近くを流れる川(通称:洗い川)で,首を洗っていたと伝わります。

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チェブ

千葉県お城攻めと繋がる。 (2021/01/02 訪問)

先日、投稿した「領ヶ谷城」の後に「平柳蔵人館」にお邪魔しました。
こちらも住宅街のど真ん中です。車で行きましたが、城攻めは電車の方が良いかと思います。
私の訪問日は1月2日早朝です。たぶん車の往来、歩行者も少ないと見込んでの「平柳蔵人館」攻めです。

もう、お名前のまんま、「岩槻城」城主 太田 資正さんの家臣、平柳 蔵人さんの居城です。

南平公民館元郷分館に「平柳蔵人館」の石碑と説明板があります。
説明板に、鴻ノ台の合戦で討死した、とあります。
鴻ノ台の合戦を調べてみると、蔵人さんが参戦したのは『第二次国府台の合戦』でした。
年末の千葉県のお城攻めも、『国府台の合戦』に関係した先人達のお城だったので 小さく、繋がった、、、。の独り言。
太田 資正さんは里見家とタッグを組みました。

私は、里見家の歴史を調べた事がありません。
里見と言えば、角川映画『里見八犬伝』と浅薄な知識。
懐かしいと思い『里見八犬伝』のキャストを見ると、太田 資正さんのお名前がありました。
一番手が、静姫の薬師丸ひろ子さん。その、ずーっと下の方に、太田 資正さん です。
機会があったら観てみよう。

埼玉県の住宅街で、千葉県に想いを馳せる「平柳 蔵人館」攻めでした。

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pascal

山城歩きの醍醐味 (2014/10/10 訪問)

 武田24将のひとり、小幡信貞の居城だった国峯城です。
小幡氏は関東管領:山内上杉氏の重臣のひとりでしたが、戦国中期の小幡憲重は北条氏の攻勢に晒され、やむなく臣従します。
これに怒った箕輪城の長野業正は、憲重と嫡子:信貞が草津に湯治に出掛けた留守を襲い、国峯城を奪取してしまいます。
帰れなくなった小幡親子は信濃に逃れて、在陣していた武田信玄の庇護を受けました。
後の上野侵攻で小幡を奪還してもらった小幡氏は、以後は武田の属将として各戦線で活躍し、信玄の信頼を得て行きました。
小幡氏の戦力は騎馬500(徒歩含め2,500)で、武田諸将の中で最大戦力だったと言われます。

国峯城は中腹に御殿平という居館跡があり、そこまで林道があって駐車場も完備されてる…という事だったのですが、橋の老朽化や道路の荒廃が進んだ様で、『4WDの軽自動車以外は進入禁止』になっていました。
仕方なく麓の空き地に駐車させてもらい、徒歩で登ります。

 御殿平までの車道は荒れ道ながら難なく登れましたが、そこから上は登山の遊歩道が整備されているものの、あまり利用者は無い様で、踏み跡もなく、草木に阻まれる難行です。
有るはずの曲輪類も判別が難しく、傾斜のきつさも相俟って辟易とする所ですが、鹿の親子と2度も遭遇する機会に恵まれ、気分を取り直して登りきる事ができました。

 山上には郭の跡が明瞭に遺っていて、テンションも上がり、一気にタイムスリップです。(気分だけ)
物見台からの遠望も良く、“苦あれば楽あり”で、上州の城巡りの大トリだったのですが、〆に相応しい登城となりました。

 武田氏の滅亡後、当主となっていた小幡信貞の元には織田信忠の誘降の使者が訪れ、滝川一益に属しましたが、すぐに本能寺の変で北条氏に従う事となります。
小田原征伐では小田原城に詰めていましたが、戦後に改易となり、徳川の勧誘は断って旧知の真田昌幸を頼りました。

登城後に甘楽町の歴史博物館を訪ねましたが、小幡氏の貴重な資料が多数保管されています。写真撮影もOKでした。

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キンヤ

安宅本城の支城で、石積を利用した五重堀切が凄い安宅勝山城 (2013/01/13 訪問)

国史跡として安宅氏城館群の安宅氏居館(安宅本城)、八幡山城、土井城、中山城、要害山城が2020年3月に指定されていたことを、イオさんの投稿を拝見して知りました。ありがとうございます。

指定された5ヶ所に行ったことがあり、和歌山県の中世城館では初めての国史跡と思いますので嬉しいです。
個人的には良かった勝山城が指定されていない事は残念ですが、いつか追加指定される事を願って、私も安宅本城の支城として勝山城(所在地 西牟婁郡白浜町塩野)を投稿させて頂きます。

2013年当時は情報が少なく、城の西側麓のお宅を訪ね、その方のご自宅の裏から登らせて頂き直登しましたが、急峻な要害の山でかなりきつかったです。
最近行かれた方の情報では城の南西側麓の梅畑からの登城道で登られているようです。

城の遺構はよく残っていて、二ノ丸と本丸は土塁で囲まれています。

二ノ丸南側の大きな三重堀切と、特に本丸北東側背後の岩盤を割って石積も利用した五重堀切で徹底的に防御されていて凄い城でした。

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ブロせ

明智城跡(明知城跡) (2021/02/10 訪問)

なかなか、素晴らし城跡でした(^^)

地元の方にお聞きしましたら、
昔は明知、今は明智らしいです
(^^)

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じゅんじん

虎口の石垣 (2021/01/02 訪問)

青少年道場に駐車して歩きました。眺めよし。石垣よし。いいお城でした。

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