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登城できるようになってました (2021/02/14 訪問)

本郭から南側に逆Vの字に二筋の尾根があり、郭群が連なっています。登城道は、尾根の間を進み、ついで、つづらおれで右手の尾根に登って行きます。
よっぴーさんが、昨年4月に訪れた際は、台風による被害でつづらおれ手前に立ち入り禁止の表示があったとのこと。現在は、表示は畳まれて、登れるようになってました。右手の尾根の最初の郭は展望が開けているのですが、崩れる危険があるので、崖(切り岸)に近づかないよう、表示とロープがありました。
本郭の背面は、土塁、土橋付きの念が入った堀切。竪堀となって下っていく先には岩盤を穿ったところも見えました。郭のそれぞれもけっこう広いです。
本郭に立つ石碑は、山下城でなく、獅子山ノ城とありました。下調べしてると、「当時は山下城とは呼ばれてなかった」と熱く語る資料あり。

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pascal

戦国の攻城兵の気分になって (2018/03/08 訪問)

『小幡城を観ずして土の城を語る勿れ!』…とまでは言われていませんが、マニアに大人気の小幡城です。

【アクセス】
3年前の訪城でしたが、とにかく交通は不便な場所です(^^;
クルマでしか行けませんが、ナビが頼りです。 
道路も狭いので、近隣へのマナーとしても軽自動車がお奨めですね。
駐車場は当時は北東の堀底道の入口に停めましたが、その時に城の北側で造成工事をしてたので、もう専用駐車場が出来てるはず。

【城の歴史】
 ほとんど記録資料が無い城で、素性も不明な点が多いのですが、応永24年(1417)に大掾詮幹の三男:義幹による築城という説が有力な様です。(異説あり)
 城は湿地帯に付き出した台地の先端を堀で断ち切って縄張りされています。
郭内は七つの郭が空堀で仕切られた連郭の城ですね。

 大掾氏だと、水戸城の支城という扱いでしょうか。
しかし上杉禅秀の乱で大掾領は江戸氏に与えられますから、戦国末期まで江戸氏が改修し使った事でしょう。
廃城後は、湿地帯の小丘という環境が上手く作用し、山に還って遺構は破壊を免れて、良好な状態で今日に伝わりました。

【見どころ】 
 見学の登城口は北東の空堀から入る様になっていて、堀底道を彷徨いながら七つの郭を見て行きます。
何がそんなに大人気なのかと言えば、城内に入った時から感じる“戦国疑似体験”なのですよね。
遺構の状態が良いので、両側に立ちはだかる土塁の底を歩いていると、なぜか上から狙われてる様な、妙な緊張感に襲われてしまうのです(^^;
そして、堀底道は絶妙に曲がっていて、枝分かれを繰り返すので、同じ様な景色の繰り返しで、最後には今何処にいるのかさえ判らなくなる…まるで迷路の世界ですね。
いったい本丸は何処なんだ!?

【感想】
 病的なマニアとしてはすぐに、この城は何処からどう攻めたら良いのか…などと考え悩んでてしまいます。
しかし、縄張り図をよくよく見ると、東と南は当時は沼なので、多くの舟が無いと押し渡れないので、実質の攻め口は地続きの西と北からに限られます。
つまり、いきなり堀底道から攻め込むというシチュエーションは元々無いのです(^^; 

ただ、狭い土塁で堀底を仕切った“二重堀”などはとても良く考えられた構造で、攻めにくい絶妙な縄張りなのは間違いないですね。
実戦の記録は不明ですが、一見の価値がある城です。

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イオ

倉治城(滋賀県甲賀市甲南町新治) (2021/01/31 訪問)

詳細は不明ながら、倉治城は室町期に倉治氏(甲賀五十三家)が築いた城と伝わります。

倉治城は磯尾川の西岸段丘上に築かれた城で、城域は現在では住宅地と農地になっていますが、西側と南側(北東部も?)に立派な土塁が残っています。

甲南町新治由来記の説明板がある県道の交差点から北に徒歩3分、汁善寺池から東に入ったあたりが城域です。甲南町新治由来記の地図(縄張図)を参照しながら歩けば、迷わずたどり着けるかと。
 

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅳ⑩:滝田城➡城びと未登録(千葉県南房総市) (2019/06/26 訪問)

平松城から転戦。車で10分くらいでした。
南側のトイレがある滝田城址駐車場(35.058410、139.896350)に駐車して攻城しました。

滝田城の築城年代は定かではありませんが、里見義豊の妹婿である一色九郎が城主をつとめた記録があります。
1533年(天文2年)から1534年(天文3年)にかけての「稲村の変」の際には里見義豊の義弟とされる一色九郎が城主を務め、義豊側の拠点の1つであったとされ、通説では義豊の滅亡とともに廃城になったとされます。
また、義豊を倒してこの乱に勝利をした里見義堯が滝田城を本拠としたとする説もあります。
また滝田城は滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」で里見義実の居城のモデルとなった城としても有名です。
そのため城址にある展望台付近には「伏姫と八房の像」が建てられています。

南側のトイレがある滝田城址駐車場のトイレは水は出ますがちょっと怖い。
尾根をひたすら進み、伏姫の像を確認し、さらに進めば展望台に到着。
櫓台の城碑は折れて倒れてました。北側に進む気力がなく引き返えした根性なしです。
攻城時間は35分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅳ⑨:平松城 (2019/06/26 訪問)

稲村城から転戦。車で10分くらいでした。
県道296号城址標柱前(35.026176、139.909777)に路駐して攻城しました。

平松城は1180年(治承4年)源頼朝の安房入国の時最初に参向した安房の豪族安西三郎景益の城址と考えられています。
安房を里見氏が支配していた時代にはその家臣・安西式部の館跡ともいわれています。
主郭には平松城址の石碑があります。

駐車場もトイレもありません。
県道296号城址標柱前から山に向かって行き、落ち葉が積もった舗装された道をひたすら進むと主郭までいけました。
物見台、石碑、土塁、虎口が確認できます。
攻城時間は25分くらいでした。

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三浦の晃ちゃん

地元の城 (2021/02/15 訪問)

15年以上、三浦市に、住んでいますが、初めて、場所を確認しました。

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小城小次郎

恵まれた素養が、いつか必ず花開く (2020/12/05 訪問)

敷地のほぼ全域が更地で残っていたり、移築書院が国道に面したところにさらっと残っていたり。この陣屋は石垣だけじゃない。全国的にも稀に見る恵まれた素養が歴史遺産として観光資源として近い将来必ず花開く時が来るはずだ。

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だめなこ

やっと♪ (2021/02/14 訪問)

前回は隠し扉?部屋?があるのを知らなくて
時間もなくてパパッと帰ったから
今回はそれが見たくて足助城へ\('ω')/

やっぱいいなー♪
帰り・・・戻るとき油断しててコケたけど
しっかり整備されてるから歩きやすいし(・∀・)イイ!!

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ぴーかる

下土井城 (2021/01/10 訪問)

【下土井城】
<駐車場他>駐車場はなし。<34.846844, 134.434841>の地点に1台程度停めれなくはない。
<交通手段>車

<見所>堀切・竪掘
<感想>緊急事態前の駆け込み攻め城2城目。下土井城跡は案内板・説明板・表示もないので攻めるのに少し躊躇しますので、まずルート説明をします。山全体に鉄の防獣柵が張ってあるのですぐ入れません。柵の扉はいくつかあるようですが、地元の方に尋ねて<34.847636, 134.436149>の地点の先に扉があるのでそこを利用しました。城跡への道はありません。間違っても扉からすぐ城跡のある南の方へ向かって山の斜面を直登しないように(私は行きは2回3㍍程ずり落ちながら登ってしまった)して下さい。扉を開けて入ると果樹園がありますので少し右寄り東南東くらいの向きで抜けます。先に廃墓地がありますのでそこも右寄りに抜けます。右手の山方向へはさらに網が張ってありますので、適当な場所でくぐって入ります。東南東の向きで行き着いた所にこんどは東南方向に山の斜面に道跡のような、豪雨の時に出来た川跡のような枯葉の堆積した溝がつづら折れでありますのでそこが緩やかで一番楽に登れると思います。登りきったら尾根の小道に出ますのでそのまま尾根道を南西方向に100~200㍍ほど南下すると城跡に入ります。
 城跡は矢野川と小河川の間に挟まれた山地の南端にあり、山の尾根上を削った細長い曲輪が2、3あるだけの小さい城です。北東方向に3重堀切を備えているので尾根道から南下するとまずこの3重堀切にぶち当たります。見事な3重堀切でここから道が無いので本当に堀切を攻めることになります。堀切は南方向に避けて登ると曲輪に入り込めます。曲輪は3重堀切のある北東端に土居があるのみで内部は特に遺構は見られなかった。曲輪両サイドの斜面も灌木のみかと。城跡の南西端(尾根の終わり部分)から曲輪を囲むように横堀とその下に南・西・北方向へ数条竪掘りが長く落ち込んでおり、岩場と重なっていて見応えがあります。
 戻りは前述した道を発見して楽に下って降りれました。行きは知らずに後日すごい筋肉痛になりましたが、3重堀切と竪掘り群は登り甲斐のある見応えでした。

<満足度>◆◆◇

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イオ

服部城(滋賀県甲賀市甲南町新治) (2021/01/31 訪問)

詳細は不明ながら、服部城は室町期に築かれた服部氏(甲賀五十三家、甲賀二十一家、荘内三家)の居城と伝わります。

服部城は、新宮神社の裏山から谷部をはさんで西側の丘陵地に築かれた方形単郭の城で、主郭の東辺から南辺を分厚く高い土塁がめぐっており、南東部外周には堀も見られます。北東部には虎口があるようですが、竹藪でよくわかりませんでした。主郭内部も藪化しているものの、足を踏み入れられる程度には整備されていました。

駐車場はないため、新宮神社の北にある新宮神社表門(国重要文化財)脇の空きスペースに駐車し、新宮神社に参拝した後に保育園との間の道を西へ進むと、服部城の北側に至ります。北側にあるはずの虎口からは入れそうにないので、北辺の小道を西側に回り込むと、主郭内への進入路がありました。…といっても、西側に回っても格別見どころはありませんし、東側から土塁をよじ登るほうが早いですけどね。

なお、新宮神社表門から北に徒歩1分行くと、県道の交差点に甲南町新治由来記の説明板がありますが、この説明板には新治地区にある七つの城の地図(縄張図)が載せられており、下調べでは服部城(倉治城、竹中城も)の縄張図を入手できずにいたので、登城時にはこちらの縄張図を参照させてもらいました。
 

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅳ⑧:稲村城 (2019/06/26 訪問)

白浜城から転戦。車で20分くらいで着きました。
登城口近くの曲がり角付近(34.997798、139.901561)に邪魔にならないように路駐して攻城しました。
稲村城説明板前(35.997142、139.905544)にも駐車可能です。
登城口は稲踏切横の細い道を山に向かって登り、防護柵の横をすり抜け、進んで行くと辿りつけます。

稲村城は里見義通・義豊、いわゆる前期里見氏の居城だと考えられています。
伝承では1486年(文明18年)に里見義実が築城し、1491年(延徳3年)に完成したとされるが、確証はないそうです。
1533年(天文2年)から翌年にかけて発生した天文の内訌が「稲村の変」と呼ばれているように、同城が舞台となっています。
この内訌で稲村城主であった4代当主里見義豊は、従兄弟である義堯に滅ぼされて家督を奪われて稲村城もそのまま廃城となりました。
城址には土塁や堀、切通しなどの遺構を確認することができます。

駐車場もトイレもありません。攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅳ⑦:白浜城➡城びと未登録(千葉県南房総市) (2019/06/26 訪問)

岡本城から転戦。車で40分くらいで着きました。
青根原神社前の駐車場(34.911610、139.894231)に駐車して攻城しました。

15世紀後半、関東管領上杉氏の勢力がこの地を領有していました。
1445年(文安2年)房総里見氏初代とされる里見義実が安房に入り、最初の城がこの白浜城でした。
麓の青根原神社周辺は居館があったと思われる地名が残されています。
また、城跡は第二次世界大戦中に軍用地として使用されたそうです。
堀切や土塁のない初期の山城構造で、切通しや切岸などの遺構を確認することができます。
登山口近くの青根原神社前には里見二代・成義の墓碑があります。

青根原神社前から青木観音堂に向かうと登山道があり、チェーン柵に沿って登れば展望台につきます。
攻城時間は40分くらいでした。

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まーやん

東胡麻城~塩貝城縦走イベント (2020/11/29 訪問)

新聞で地元の方々が城跡を案内して下さる無料のイベントがあると知ったので行ってきた‼️

東胡麻城は丹波守護代 内藤氏方の宇野但馬守が光秀に抗った際の居城で、内藤氏にも光秀にも対抗した波多野氏の家臣 塩貝将監の塩貝(大戸)城は尾根伝いにあり、近接している。

宇野氏の居館は野毛館といいJRの向かい側に望める。
東胡麻城は本丸に向かって凄まじい数の雛壇を登っていくが、釣り針型をしているのが面白い。

峰続きをアップダウンし塩貝城へ登城。横堀二本を越えると本丸に着く。本丸西側には腰曲輪のような曲輪と北側に一段下がった曲輪が巻いている。
少し下っていくと鍛冶屋敷曲輪がある。眺望がよいが周囲に土塁を盛って下から見えなくしている様子。
曲輪は以上で急坂を下っていくが麓には塩貝将監の墓所がある。

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朝田 辰兵衛

被害甚大との報道が! (2019/04/21 訪問)

みなさん,ご無事でしょうか…?
関東エリアでも停電範囲が広かったように思います。越後は2分ほどローリング的な横揺れが続きました。三半規管が弱い私は吐き気に襲われ,平衡感覚を失いそうになりました。
報道機関をチェックすると,宮城県と福島県の被害がハンパないですね…。ぎりょうさん,丹羽長重さん,ご無事でしょうか…?
また,白石城が被害甚大で今にも崩れそうとのこと。
今後も,大雨や大雪が予報されています。
余震の警戒も含め,くれぐれもご注意くださいませ。

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pascal

姫が堀に身を投げたのか? 女淵城➡城びと未登録 群馬県前橋市粕川町女淵  (2014/09/20 訪問)

リストに無い城ですが、歴史上の記録もあり、規模も復元度合いも並以上の良い城なので投稿します。

【アクセス】
上毛鉄道の新屋駅で降り、東300mの線路脇にあり、女淵城址公園という広い公園になっています。
クルマの場合、専用の公園駐車場があります。

【城の歴史】
 観応の擾乱で『女淵の戦い』という場面があるので、室町初期には城館が有った様ですが、領主などの詳細は不明でした。
戦国中期の上杉謙信の侵攻で、この城を奪取した謙信は足利長尾氏に与えたので、初めて記録に現れます。
その後は例によって上杉と北条で取り合いを重ね、一時は武田が占拠しましたが、最後は北条で落ち着き、天正18年を迎えました。
 縄張りは池沼に浮島の様に郭を並べた連郭式の平城で、郭は土橋で連結された“水城”です。
城址にある縄張り図によると、東西300m、南北700mもの城域に7つ以上の郭を配した、立派な城です。

 そして女淵(おなぶち)という名ですが、落城時に姫が堀に身を投げた訳ではなく、どうやら初期の領主が『南渕(なんぶち)氏』という豪族だった様で、これが『女淵』に訛った様ですね(^^;
(以下:勝手な創作)
ある時、付近を通り掛かった諜報の武士が農夫に尋ねました。
武士: これ、そこの農夫!
農夫: ん? オラのことだか?
武士: ちとモノを尋ねるが、あの城はどなたの城じゃ?
農夫: あれだか? あんりゃあ“おなんぶちさま”のお城だっぺ。
武士: おなぶち…? おんなぶち?… 如何なる字を書くのじゃ?
農夫: オラぁ文字は読めねえだし知らねえども、村役さまも庄屋さまも皆“おなんぶちさま”と呼んどるだ。
武士: んん~…、おんなぶち……、まぁイイか、殿には『女淵城』と報告しておこう…。
農夫: …(お南淵様だて言うとるに)

【見どころ】
 公園整備が進み、埼玉の難波田城の様に現代工法で再現されていますが、大きな改変は無い様です。
城址の復元整備からもう一歩進めて、常時水を湛えた水郷の風情です。
空堀にも水路と遊歩を造り、水生植物を植えて、ホタルも居る様で、気持ちよく散歩できる公園環境を整えています。
興味の有無に係わらず、人が集まりやすい城址整備って、アリですね。

【感想】
 この辺りは赤城山の伏流水で水が豊富なのか、池がたくさんあります。
刀根の大河とは離れた内陸で水城とは驚きですが、きっと旱魃でも枯れる事は無かったのでしょうね。
赤城山の恵みを活かして、赤城山に護られた女淵城でした。

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赤い城

ゴルフ場を横切って (2021/02/06 訪問)

毛呂駅から徒歩で20分くらいのところに雷電神社の案内板があります。
ここから登城。参道から坂道を登っていくと柵があり、その先はゴルフコースになっています。
開けてコースを横切って進みます(町道らしい)。
ここからは結構急ですがすぐに鳥居のある郭があり、さらに登ると雷電神社が建つ主郭となります。
二郭からは竪堀も落ちていました。
毛呂氏の詰城だったと思われ、上杉氏に攻められた毛呂城はここであったと言われています。
ちなみに城下で推しの豚玉毛丼、地元産の食材とのこと。
美味しくいただきました。

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とまんど

素晴らしい遺構 (2021/02/13 訪問)

鉢形城は長尾景春が拠点としその後北条氏邦が整備拡張したと言われているお城です。
荒川の橋付近に鉢形城地形模型があり、全体の様子が素人目にもよく分かりました。
小田原北条家の城跡はいつも堀と土塁に圧倒されるのですが、鉢形城は規模も大きく素晴らしかったです。
自然も豊かでカタクリの群生地でもあるそうです。
鉢形城歴史館は残念ながら新型コロナの影響で臨時休館でした。
百名城スタンプは駐車場正面入り口手前の郵便受けにありました。門が閉まっているので一見分かりにくいかもしれません。
次回は鉢形城歴史館にも行きたいと思います。

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チェブ

会田出羽館と元荒川。 (2021/01/02 訪問)

「越ヶ谷御殿」は、にゃんこパラダイスになってます。

築城は伊奈 忠次さん、とありました。
「越ヶ谷御殿」になる前は会田 出羽守 資久さんの「会田出羽屋敷」がありました。
ちなみに「会田出羽屋敷」を探すと「越ヶ谷御殿」に案内されます。

会田 資久さんは岩槻城主 太田 資正さんの家臣です。
お名前の "資" をいただいてます。
北条征伐で「岩槻城」が落城すると、会田さんは徳川傘下に入りました。

用水路(←の表現で良いか分かりません)から元荒川に注ぐ場所に、「越ヶ谷御殿」の石碑と説明板がありました。
ん?元荒川?もともと荒川?
築城者の伊奈 忠次さんは関東の治水対策をした方です。

ここから勝手な想像です。
治水の為に視察にやって来た 伊奈 忠次さん。
水辺の鷹や野鳥を見て、家康さんに報告。
鷹狩りに最適と、御殿建設命令。
「会田出羽屋敷」を「越ヶ谷御殿」にすれば経費削減。
だから、築城者は伊奈 忠次さん。
近くに「会田七左衛門屋敷」もあります。

現在は「越ヶ谷御殿」の周りには鷹ではなく、猫ちゃんが集まって来ます。
猫ちゃんのエサをお世話している方がいました。
「越ヶ谷御殿」は、にゃんこレストランになってます。

追伸
昨晩の東北の地震、東京の端っこも長い時間 ゆれてました。10年前を思い出し不安でした。
どうか、早く皆さんが安心して過ごせますように。

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まーやん

丹波の国人宇津氏の居城 (2020/11/15 訪問)

道の駅ウッディ京北で鯖そばを食した後、宇津城に向かった。
光秀が宇津氏を滅ぼし周山城築城にかかったと聞き、気になっていたがあまり情報がなく探すのに苦労した💦しかし本当の苦労は…。

京北下宇津町の公民館?に駐車し八幡宮を通過し林道へ。途中、関電の作業道を見つけ上がっていった。ピークが見えていたが侮るなかれ💦
登りはじめてすぐに道は消え、そこはまさに茨の道だった。
山は一歩ごとにずり落ちるような赤土で、掴む草は枯れすっぽ抜ける。掴めるものはイバラのみで血まみれになった💦
平坦部に上がってもイバラだらけで足を取られ、これは難攻ずり落ちの城。近寄れない⤵️
何とかピークに達し南側の本丸を雛壇状の北曲輪を2つ越えて目指す。
本丸は大堰川を眼下に付き出した半島のような場所で、さらに南側の切岸的な箇所に綺麗な石垣が結構残っていて感動した。恐らく落城後に光秀によるものだろう。
同行者とは、「こりゃ攻められんわなぁー」と実感しながら血だらけの茨の道を泣く泣く帰るのであった。
こんなとこ行かない方がよいですヾ(;゚;Д;゚;)ノ゙
しかし宇津氏は元々美濃の長森城の土岐氏と言われており、土岐氏系の明智に滅ぼされるのは何の因果か寂しい話だ。

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まーやん

光秀築城の丹波の謎の山城 (2020/11/15 訪問)

本当なら4/19に小和田哲男先生の講演とセットの登山企画だったが、コロナ禍で延びに延びこの日厳戒態勢の中開催となった。

道の駅を出発し篠山藩周山代官所跡から黒塗りの光秀像のある慈眼寺を通り登山道へ。
大手門跡から九十九折の道を進むと右手に進入禁止の曲輪があり、先端に鉄塔がある。続いて左手に同じく進入禁止の曲輪があり、右手に切り返すと左手に弓削方面、右手に禁裏御料山国が望める開けた場所に出る。山国荘の左手(右側)に見える天童山などには旧街道跡が冬季のみ確認出来る。多分冬季のみ。多分。
続いて登ると石垣が見えてくるが兵糧蔵曲輪とその虎口とのこと。
更に登ると二ノ丸跡から大きな坂を登るような形で石垣の石があちこちに転がっており、その先が本丸となる。大手道なのか?まさに総石垣の城。のっけから半端ない。
本丸周辺は二ノ丸を含め東西南北に放射状に雛壇状の曲輪が連続し、石垣で囲われている。
特に西側で石垣が美しく光秀お得意の転用石も見てとれ、また井戸跡、小姓曲輪も残っており大変面白い。
本丸手前で南側には愛宕山が望める。坂本ー周山ー愛宕山ー亀山という直線的配置が意味深さを感じた。

今回はツアーということで単独行動が出来なかったが、西へ進むと土の城がある。
穴太衆を用いた石垣積みを得意とする光秀が何故か西側に土の城を築いていたことが調査で明らかになっているのだ。
色んな意味で謎多き巨大山城であり、今後また西城まで登ってみたい。

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