いなむらじょう

稲村城

千葉県館山市


旧国名 : 安房

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西水往来の岩盤切通
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赤い城

里見氏の本城とのこと (2022/01/23 訪問)

西水往来から登城。
こちら側には駐車場がなく少し離れたところに車を駐めて登城。
岩盤の切通を登って行くと程なく主郭方面への案内板。
尾根道を進んで行きます。
途中横穴墓を見ながらさらに進むと堀切がありました。
この上が主郭で山側には土塁が付いています。
もちろん海側の眺望は素敵。
北側の虎口を降りるとここにも堀切。
深さもあります。
さらに尾根道を進むことができますが堀切と土橋があるところから竹藪になっていて見学はここまで。
里見氏初代の義実が築いたとされますが詳細は不明です。
天文の乱で義豊が敗れると廃城になりました。
帰りは東水往来側に降りると少し先に貯水槽があり、説明板が立っていて駐車場にもなっていました。
ここから西水往来側には大きく回るようになりそうだったので結局引き返しました。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅳ⑧:稲村城 (2019/06/26 訪問)

白浜城から転戦。車で20分くらいで着きました。
登城口近くの曲がり角付近(34.997798、139.901561)に邪魔にならないように路駐して攻城しました。
稲村城説明板前(35.997142、139.905544)にも駐車可能です。
登城口は稲踏切横の細い道を山に向かって登り、防護柵の横をすり抜け、進んで行くと辿りつけます。

稲村城は里見義通・義豊、いわゆる前期里見氏の居城だと考えられています。
伝承では1486年(文明18年)に里見義実が築城し、1491年(延徳3年)に完成したとされるが、確証はないそうです。
1533年(天文2年)から翌年にかけて発生した天文の内訌が「稲村の変」と呼ばれているように、同城が舞台となっています。
この内訌で稲村城主であった4代当主里見義豊は、従兄弟である義堯に滅ぼされて家督を奪われて稲村城もそのまま廃城となりました。
城址には土塁や堀、切通しなどの遺構を確認することができます。

駐車場もトイレもありません。攻城時間は25分くらいでした。

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pascal

戦国大名:里見氏の誕生 (2014/12/06 訪問)

 安房里見氏の前期の居城です。
戦国時代の南関東にあって、最後まで北条氏に屈せず互角に渡り合ったのは里見氏だけです。
地勢上のアドバンテージは有ったにせよ、キラリと光る氏族ですよね。

 南総里見八犬伝のモデルになった滝田城に続く訪城で、安房グリーンラインを南下して行きます。
内房線を横切った右奥の丘が城址なのですが、最初の交差点に『☞稲村城こちら』の小さな看板がありました。
☞看板は要所にあって、最後は『☞稲村城入口』で集落の細道を案内していますが、駐車場はその先の広場(看板は無いがたぶん駐車場)に停めさせてもらいました。

 稲村城は古河公方の命で上野から安房に移った里見義実が築いた城で、2代目の義通、3代義豊と、3代50年に渡って里見氏の本拠地でした。
この期間に里見氏は近隣の有力国人衆を味方にし、或いは討伐して安房国内を統一、戦国大名へと名乗りを上げる事となるのです。

 縄張りは、北西から南東に延びる細長い丘陵を二ヶ所の『水往来』と呼ばれる堀底道で分断した、連郭の形式を採っています。
しかし広さは中央の主郭が圧倒的に広く、室町期の単郭の城の名残りを感じますね。
南東の斜面は緩やかで、階段状に平場が重なっています。
現在も此処に集落が有るのですが、祠や古井戸がいっぱい有るそうなので、ある程度家臣を集住させてたのかも知れません。

 現在、城址の多くは果樹園として活用されていて、カキやミカンが実を付けています。
さすがに主郭だけは国史跡指定を機に整備した様で、まだ伐採した果樹の切り株が遺っていました。
城址遺構と農業道路の見分けが必要ですが、さすがに車道などの大きな改変はされていないので、城の姿はイメージしやすい城址ですね。

 主郭に立つと館山市街とその向こうの東京湾が一望できます。
里見氏は最終的にはあの館山を本拠にして終わるのですが、その前に稲村城を舞台にして肉親同士で争う大きな内訌がありました。
2代目の義通は若くして死の病に冒され、跡継ぎの義豊はまだ幼児だった為、その養育と元服後の当主就任を弟の実堯に託して亡くなります。
託された実堯は良く家を守り、義豊も無事成人しましたが、20歳になっても叔父:実堯は当主の座を譲ろうとしません。
先代の約定違反には憤る重臣も居り、義豊は思い切って城内で実堯を取り囲んで詰問し、切腹に追い込んでしまいました。
 実堯の子の義堯は、軍を率いて上総に遠征していましたが、この処置に激怒して軍を返して来ます。
義豊も正統性を基に義堯を討たんとして兵を上げますが、国人の多くは実績ある義堯についてしまい、義豊は自害したので、4代目以降の当主は義堯の子孫が担って行く事になるのです。


 安房に入ってから、気になった事がひとつあります。
クルマで走っている時に、地元№のクルマのマナーがやたら良いのです。
皆さん車間を取ってゆっくり走るので、後ろを気遣う心配がありません。
それどころか、右折のため対向車待ちをしてる際に、わざわざ止まって譲ってくれる場面も何度もありました。
この時から、なんとゆうか 千葉県のイメージが180度変わりましたね(^^;

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退会済み
ユーザー

小沢城址特別緑地保全地区 (2017/02/28 訪問)

球場の東側にある

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 里見義実
築城年 15世紀後期
主な城主 里見氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 国史跡(里見氏城跡)
再建造物 説明板
住所 千葉県館山市大字稲字城山他