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昌官忠

京成&東武野田線日帰り攻城⑥:夏見城 (2019/06/14 訪問)

米ヶ崎城から徒歩15分で長福寺(35.712714、139.997661)に着きました。

夏見城は1558~1569年(永禄の頃)には、夏見政芳が城主であったことが分かっています。
政芳は1568年(永禄11年)に近隣の豪族に攻められ落城、政芳は一族と共に討死または、抜け穴から逃れ他国に落ちたという言い伝えが残されています。
現在、城址には長福寺が建てられており、境内裏手に土塁が良好に残っています。

境内裏手に土塁発見。攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

京成&東武野田線日帰り攻城⑤:米ヶ崎城 (2019/06/14 訪問)

高根城から徒歩10分ちょっとで意富比神社(35.714119、140.004571)に着きました。

夏見城を拠点とする夏見氏が鎌倉時代に米ヶ崎城を築城したと推測されますが、詳細は不明です。
現在、城址は農地化されており、中心部と思われる場所に意富比神社(おおひじんじゃ)が祀られています。
神社の南部と西部に土塁の遺構を確認することができます。

これが土塁かなと思われるものはありましたが、自信がないので投稿しません。
攻城時間は10分くらいでした。

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織田晃司

高松空港近くの (2021/02/14 訪問)

模擬天守につられてやって来ました。
中庭に遺構の土塁があります。

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織田晃司

心水の泉 (2021/02/14 訪問)

城跡の蔵珠院の庭にある螺旋状の石組みの井戸。
別名栄螺の泉、まいまい井戸

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にのまる

鎌倉城〜七口切通〜 (2021/01/04 訪問)

 年始の小田原城総構散歩がとても楽しかったので、二日後に今度は鎌倉城散歩してきました。
「目指せ七口切通制覇!」です。
 赤い城さん昨日ご投稿の一升桝遺跡に行った際に亀ヶ谷坂と化粧坂切通しの2か所を抜けたのですが、今回は無謀にも一日で全部制覇を目指しました。
 結果を先に言うと5ヵ所でゲームオーバーでした。敗因は出発が遅すぎたのと、道に迷いまくったのと、コースの順番がよくなかったことなど。でもそれはそれで良き思い出です(^_^)v
①亀ヶ谷坂切通
 扇ケ谷から山ノ内に出る道で国史跡。そして生活道路。二輪車がブォ~ンと通り抜けます。
②巨福呂坂切通
 鶴岡八幡宮の近くですが、ちょっとわかりづらかったです。錆びた鉄柱の「巨福呂坂」という文字が読めたときは感動しました。旧道はこの先途切れていて道はありません。巨福呂坂新道(トンネル)とは違うスポットです。
③化粧坂(仮粧坂)切通
 源氏山公園への道です。山頂には源頼朝公が鎮座しておられました。「鎌倉殿の13人」では大泉洋さんだそうですがまだ真田信之のイメージが抜けないです。
④大仏坂切通
 大仏のある高徳院から500mくらい。雰囲気がよくてここがいちばん好きでした。一升桝遺跡も至近なので配水場の辺りまで行ってみました。高いところからの眺めがとても良いです。
⑤極楽寺坂切通
 ここも生活道路ですが海に近くて鎌倉らしい雰囲気でした。稲村ヶ崎海岸に寄り道しました。

 ここで時間切れ。約17km・25,000歩のお散歩でした。名越坂切通と朝比奈切通はまたいつか。
 天然の要害の地であり丸ごとお城(都城)である鎌倉は切通しを交通路として、また防衛強化のために改修して利用したスケールのでっかい超絶かっこいいお城でした(^O^)/

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ぴーかる

龍野城~麓居館編~ (2021/01/10 訪問)

【龍野城】
<駐車場他>龍野歴史文化資料館横に駐車場8台分あり。
<交通手段>車

<見所>復元本丸御殿・復元埋門・復元武具櫓
<感想>緊急事態前の駆け込み攻め城3城目。現在の山麓居館の龍野城は江戸時代初期に築城されましたが、京極高和の丸亀転封によって破却されました。その後1672年に脇坂安政の入部よって再建されました。江戸時代より以前は山頂に 鶏籠山城(龍野古城)があり、室町時代に赤松村秀によって築城され以降赤松時代が4代続いたが秀吉の播州攻めにより開城している。
 この城跡の見学後山頂の鶏籠山城にも登城したので、実際は山頂と麓にある時代の違う別の城と言われればそうなのですが鶏籠山城跡の方は城びと登録に無いわりにはいい城跡だったので、龍野城の方で記録を残したく前後篇に分けて投稿させて下さい。
 まず龍野歴史文化資料館、有料200円程度に入館した。内部は龍野城の縄張り図や脇坂時代の武具等の展示もあります。資料館前に復元武具櫓があり、扉の鍵はかかっていないが立入禁止の表示もなく入っていいのか駄目なのか良く分からずでした。ちょっと不親切。復元の本丸御殿は見事で入館無料、外観見応えあります。知名度が低いのが不思議。城跡の西端に模擬隅櫓、高麗門があり、鶏籠山城に入るゲートがあります。遺構は寺に移築門があるらしいが現地は石垣のみが残っている。南面に石垣が高石垣で見応えありそうでしたが、プール、裁判所、検察庁があったりして堪能できませんでした。

<満足度>◆◆◇

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織田晃司

本丸の… (2021/02/14 訪問)

石垣は実に素晴らしい。登った甲斐がありました。
石垣だけでなく、曲輪や堀切、竪堀なども見事です。

整備もしっかりされていて登りやすい城です。

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pascal

圧倒的な本丸高土塁 (2014/09/20 訪問)

 北条高広が隠居城として整備したと言われる大胡城です。

【アクセス(車)】
 旧大胡町の中心にある市民文化会館(旧:大胡町役場)の北側にある丘が大胡城址です。
城址の東を流れる荒砥川に沿って県道16号を北上すると、歩道のみの青い橋(城山橋)があります。
その交差点を左に入ると、突き当りにトンネルが口を開けていますから、入って行くと出口はもう城内の二ノ丸で、駐車場になっています。

【城の歴史】
 大胡城はこの地の豪族:大胡氏の居城で、室町初期に足利尊氏に従って勢力を強め、築城したものと思われます。
大胡氏は戦国初期の公方vs管領の関東争乱では、山内上杉氏配下でしたが、古河公方方の金山:横瀬氏の圧迫を受け、この地を捨てて武蔵牛込(神楽坂辺り?)に逃れました。

 残された大胡城には一族の益田氏もしくは上泉氏が古河公方方として入った様ですが、北条氏の北上で古河公方は廃され、越後長尾氏(上杉氏)の南下の頃には“厩橋城”と同様に北条(きたじょう)高広が支配し、良くも悪くも高広と運命を共にします。 
高広は小城だった大胡城を南方に大きく拡張し、自身の隠居城として使った…との話も伝わっています。

 時代は下がって、徳川家康が関東に入封すると、大胡城には譜代の牧野康成が2万石の大名として入ります。
牧野氏は16年間大胡城に居ましたが、元和2年(1616年)、越後長岡に転封になり、大胡は前橋藩領となって、大胡城は廃城になりました。

【見どころ】
 江戸初期も大名の城として使われた大胡城。
『日本城郭体系』の縄張り図を見ても、それなりの規模感のある立派な縄張りです。
南側の外郭は殆どが跡形なく失われていますが、本丸、二ノ丸の土塁はほぼ原形を留めている…と言って良いでしょう。
急な斜度の高土塁が廃城後400年も現存するのは、入念な版築が施されたからと思います。
 空堀も埋め戻される事無く薬研状に残っていて、往時の姿を描きやすくなっていますが、全体に雑草が凄くて勿体ない事です。
草の伸び具合から、除草はおそらく6月と10月の2回…といった雰囲気なので、その直後が狙い目ですね。
 
 北側に堀切(水路)を挟んで隣接する大胡神社は、大胡氏時代の城址だそうで、北条高広以降も郭の一部として使われました。
本丸の高土塁はそこよりも高くなっていますから、北条高広が積み上げた…という事になりますね。

【感想】
 川を挟んでの遠景を見ている時に、通り掛かった散歩中の老紳士に色々と話を伺いましたが、城に関する伝承とかの記憶は無いそうで、地元の方の誇りになる城という位置付けでは無い様です。
(大胡神社が城址の一部なのもご存知なかった)
名の有る城主が上杉家きっての“やらかし武将”北条高広では、仕方ないのかも知れませんが、これだけの遺構を残す城址が、埋もれて忘れられているのは、勿体ない事です。

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赤い城

逗子マリーナの近く (2021/02/13 訪問)

逗子マリーナから正覚寺に行く途中、プールの前に説明板がありました。
正覚寺のさらに上に住吉神社があり、抜け穴とされるやぐらと井戸跡があります。
ここには城の遺構っぽいものはなさそう。
Google Mapで示す主郭にはマンションが建っていました。
北条早雲に攻められた三浦義同が立て籠もった城です。

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織田晃司

国道からでもよく見える (2021/02/14 訪問)

模擬天守が目印

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小城小次郎

聖地にお城が同居した (2020/12/06 訪問)

佐伯山の山頂部分は岩が多かったせいもあるだろうが城域は山頂部分を避けているようだ。山頂の磐座を含め山全体が恐らく古代以来の聖地で寺院等が集まっていたところに後からお城が割り込んだのだろう。

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イオ

圧倒的なスケール感! (2021/01/31 訪問)

室町期に築かれた服部氏の城とも望月氏の城とも言われますが、詳細は不明です。

磯尾川西岸の丘陵地に築かれた城で、新宮城から谷をはさんだ南隣の尾根に位置します。方形の曲輪を分厚く高い土塁で囲んだ典型的な甲賀の城ですが、土塁の高さと厚みは甲賀でも一二を争う圧倒的なスケールです!

新宮城東側登城口の少し南に新宮支城の登城口があり、登り始めてすぐにたどり着く北東の曲輪は北西端を仕切土塁で区切り、南西部には大土塁が壁のように聳え立っています。大土塁の裏側(南側)は主郭との間を隔てる深い堀切です。東の曲輪から斜面を登っていくと、虎口受けを経て主郭東部の虎口に至りますが、東の曲輪にはイノシシの罠が何箇所か設置されていますので、ご注意を。虎口を抜けて主郭に足を踏み入れると、自分が巨大なすり鉢の底に立っていることに気付かされます。主郭を囲む高土塁に上ってみると、曲輪内がはるか下に見えます。非常識なまでの高さです。何だこりゃ…。また、主郭南側の堀切と土塁は、主郭の土塁上から見ても、下から見上げてみても見事なものでした。

昨冬、伊賀の城が大いに気に入ったので、次は甲賀に行きたいと思いつつも、コロナの影響や、麒麟がくる紀行を優先してなかなか訪れることができませんでしたが、ようやく来ることができた甲賀の城、その中でもブラタモリで見て以来、一番楽しみにしていた新宮支城は期待をはるかに上回る城でした。ただ、この圧倒的なスケール感は写真や映像ではその半分も伝わらないと思いますので、ぜひ実際にすり鉢の底に立って体感してみて下さい。
 

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橋吉

鷲津砦、丸根砦、大高城周遊 (2021/02/11 訪問)

丸根砦から織田軍になったつもりで、大高城めざして進軍しました。
史実は、逆で大高城の松平元康に討ち取られちゃったのですが・・・

東海道新幹線・本線のガードを通り抜けて、ほどなく、川に進路を塞がれてしまいました。
大高川です。
この川は大高城の堀の役目を果たしていました。

川を越えたところにある津島社で、進路を西に変えさらに進みました。
城跡がみえてきたので、北側に回り、坂道を登ります。

大高城に到着
入口の両脇は腰曲輪があったようです。

本丸からは、鷲津砦,丸根砦が見えます。

本丸には一段高くなっているところがあります。かつては建物があったのでしょうか。
現在は城山八幡社が置かれています。

本丸と二の丸をつなぐ土橋の両脇にはけっこう深い堀切がありますが、樹木が生い茂る遠目にはよくわかりません。

城の北には城下町らしい細くて折れた通りがありました。

大高駅を出発して、徒歩で鷲津砦、丸根砦、大高城とめぐって、大高駅に戻ってきました。全行程5.1km、1時間40分でした。

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昌官忠

京成&東武野田線日帰り攻城④:高根城 (2019/06/14 訪問)

金杉城から徒歩20分で高根城跡(35.721131、140.007261)に着きました。
外周を一周すれど遺構は住宅地になっていてわからないので、秋葉神社/高根寺付近(35.720031、140.005694)に向かいました。

高根城の城主は、松戸の小金城に本拠を置く高城氏の一族とされ、高城山城守又は、その家臣であった高城右京亮であったといわれています。
城址西南方にある高根寺は、小金城主高城氏の開いた広徳寺の末寺で、高城山城守の時に保護を受け、寺名を小山寺から高源寺に、その後、高根寺に改めたと伝えられています。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で攻められ廃城となりました。
現在、城址は宅地化されており、高根寺と秋葉神社の東にある台地にわずかに土塁と空堀の遺構を確認することができます。

秋葉神社/高根寺付近の土塁は確認できました。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

京成&東武野田線日帰り攻城③:金杉城 (2019/06/14 訪問)

佐津間城➡六実駅➡馬込沢駅と移動し、馬込沢駅から徒歩30分弱で金杉城址(35.730518、140.000127)に着きました。
遺構はみつからない(私有地なので入れない)ので、土塁があるとされる神明社付近(35.730655、140.001417)に向かいました。

金杉城の詳細は不明です。
小金城の高城氏の勢力圏にあったことからなんらかの関わりがあったと推定されています。
中世に金杉氏を名乗る一族がこの地に存在したらしく、おそらくはその居城だったと思われるそうです。
現在城址は大部分が私有地となっており、見学はできません。
一部、神明社の周辺に土塁の遺構を確認することができます。

攻城時間は20分くらいでした。

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まーやん

島城(京都府南丹市美山町島) (2020/11/29 訪問)

東胡麻ー塩貝城跡縦走の午後から美山へ行き、丹波の山城をハシゴ攻めしてみた。

島城は秦河勝の後裔川勝氏の居城で若狭と西への街道が交差し、由良川と棚野川の水運を押さえる交通の要衝に築かれた山城だ。川勝氏は光秀に従い丹波平定に加わるが、本能寺後、秀吉に取り入り、また関ヶ原合戦時は田辺城(舞鶴市)の細川幽斎を攻めたりしているが、徳川時代を経て近代まで生き抜くしぶとさには感服する。

城山の登山口は三ヶ所あるようだが、それぞれ距離的に変わらないので南側から尾根筋を歩く平坦なルートを採った。
途中、熊の爪痕があったが、山頂にもあってビビりまくりの登山となった(;゜0゜)平地には熊が出てきているとの情報があったので冷や汗をかいた💦

山頂の本丸付近は立派な石垣で固められ、二ノ丸には美しい竪堀の跡がくっきり見られ遺構が良好に残る。
眺望も大変よく、北は若狭との国境、東西南北の街道が見渡せ、この地を選んだ理由がよく分かる。菅原神社が鎮座している市場という数少ない平地を守るよう今宮城、中村城とともに取り囲むように城を整備したようだ。
小規模ながら京都にも戦国大名がいたようで、身近な府内の城跡をもっともっと訪ねていきたい。

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赤い城

残念ながら非公開 (2021/02/13 訪問)

にのまるさんの投稿通り非公開なのは分かってましたが「行った」をポチしたく。
鎌倉七口めぐりの途中に立ち寄りました。
稲村ヶ崎から極楽寺へ、極楽寺坂切通を見たあとここに向かいました。
住宅地の細い道を進むと入口がありますが進入禁止。
いつか公開してほしいですね。
この後大仏切通、化粧坂切通、亀ヶ谷坂切通、巨福呂坂切通と巡り、一旦鶴岡八幡宮へ。
さらに釈迦堂切通、名越切通と歩き回リました。
脳内BGMはもちろんサザンでした。

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AJ

虎の血脈② (2020/08/23 訪問)

JRの駅から徒歩数分。街のシンボル的な城址ですが、一見すると物静かな佇まい。遺構は豊臣と徳川によるもの。つまり、武田滅亡後に造られた城。北に2キロほど離れた躑躅ヶ崎館跡と比べると、やや熱量で劣るように感じるのはそのせいかもしれません。もちろん、残された野面積の状態は良好で、東国における初期の織豊系城郭を知る上で重要な手がかりです。

長らく天守はなかったとされてきましたが、近年の発掘調査で鯱瓦などが見つかり一転。関ヶ原の前後までかなり大きな天守が存在した可能性が高くなっています。天守復元を求める声もあります。ただ、絵図が見つかっておらず、議論は長引きそうです。

治水事業と金山開発で信玄の領国経営は安定していたと言われます。あえて豪壮な城を建てずとも領民の敬意を集めていたのかもしれませんね。そんな信玄が欲したもののひとつが海(湊)だったとよく聞きます。甲府城の天守台に登ると甲斐の町が一望できます。のちに本居宣長が記したとおり、山々に囲まれた「峡」(かい)の町。信玄はこの地に引きこもることなく、縦横無尽に海を、そして京を目指したようです。ようやくチヤホヤされ始めた信長、秀吉、家康がまだこの虎の一挙手一投足に肝を冷やしていた頃のお話。

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イオ

土造りの枡形虎口 (2021/01/31 訪問)

室町期に築かれた服部氏の城とも望月氏の城とも言われますが、詳細は不明です。

磯尾川西岸の丘陵地に築かれた城で、方形単郭の城が主流の甲賀にあって、丘陵頂部を主郭とし、東側斜面にいくつかの曲輪群を段状に配した縄張になっています。

駐車場はないので、東側登城口近くの県道脇に路駐して登城。歩き始めてすぐ右手に段状の曲輪群が広がり、主郭東下の曲輪に至る虎口は土塁により枡形が形成されています。主郭東下の曲輪の西辺には主郭の土塁が高くそびえ立ち、その南端に開けた虎口から主郭に入ると、四方土塁が高く囲んでいます。主郭北下には堀切と土塁を設け、その東下には水の手と思しき貯水池がありました。主郭南西隅の虎口を出ると、土橋が掛かった幅広い堀切で西尾根を断ち切っています。

藪化していて見づらい箇所もありましたが、一般的な甲賀の城の要素に加えて、織田信長に近江を追われた六角氏の影響ともいわれる土造りの枡形虎口も見られるなど、なかなか見応えのある城でした。
 

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昌官忠

京成&東武野田線日帰り攻城②:佐津間城 (2019/06/14 訪問)

藤心陣屋➡逆井駅➡六実駅と移動し、六実駅から徒歩25分で佐津間城説明板前に着きました。。
本来はもっと早く着くと思いますが、場所がわからず廻りをウロウロして付近の人に聞いてたどり着きました。
城址への道を聞く人が多そうなので、今回教えていただいた登城口を記載しておきます。
県道沿いにある渋谷重兵衛商店(いつもシャッターが閉まっているそうです)を(35.796412、140.004020)目印に進みます。
鎌ヶ谷市消防団第7分団付近の小道(35.797114、140.004252)を進めば佐津間城説明板前に着きます。

佐津間城の歴史はわかっていませんが、鎌倉時代は相馬氏の所領であったことが確認されています。
「相馬文書」によれば、南北朝時代は千葉一族の相馬氏の城で、戦国時代には松戸市を地盤とした小金城の高城氏の支城のひとつであったと考えられています。
いつの時代にどの勢力が佐津間城を築いたのかはわからないそうです。

現在城址には案内板が建てられており、遺構として土塁と空堀が確認できます。ただし曲輪内は私有地のため許可がないと入れないようです。
攻城時間は10分くらいでした。

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