姫路城
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犬山城 (2020/11/28 訪問)
国宝
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2020/12/17 12:12
中ノ御門復元工事中 (2020/11/28 訪問)
因幡山崎城を終えて国府町経由鳥取城へ山沿いの道を選び混雑を避け県庁前から鳥取城内堀の駐車エリアに行くが内堀の通りが綺麗に整備され駐車エリアが無く成って居り吉川経家像前の県庁駐車場に停める。
30年鳥取城整備計画の第一期、擬宝珠橋の次は中の御門木造復元、工事中で令和3年3月末が竣工予定、現状の工事進捗は如何にと雨の中寄りました、工事現場は工事テントに覆われ復元原寸大か復元図が描かれ復元近しを醸し出し公開日が待たれます。
年が明け桜の頃が待ち遠しい限りで、武漢コロナウイルスが早く収束して欲しいものです。今回の鶴丸城御楼門と九州未踏の城廻り累計で33城目。
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2020/12/17 11:28
殿ダムが出来て登城し易く成りました (2020/11/28 訪問)
西播磨の上月城、歴史資料館を約2時間滞在、探訪と城談義有意義な時間を終えて故郷鳥取へ山を越えると天候はガラッと変わり雨模様で気温は寒い、昨年末に城郭放浪記さんの放浪記の寄稿が有り故郷の山崎城を認識し帰省の折にと考えてましたが武漢コロナウイルス禍で中々移動が難しく今回の鶴丸城御楼門と九州未踏の城廻り(城廻り累計32城目)の帰路途中に鳥取入りし寺参り墓参りの序にと「稲葉山崎城」を訪ねました。
行程は国道373号線を北上し横目に利神城、武蔵の最初の決闘場を車窓チラ見、佐用平福ICより無料鳥取道を北上、河原城をチラッと見て河原ICを降りる、県道32号線をを東方向、船岡、郡家、国道29号線を一部通り、県道39号線山道山越え国府町中河原辺りから県道154号線へ殿ダムに抜ける道を入り殿ダムの手前に大きい看板が有り到着。車は交通量が少ないので登城口の幅の広い所に路駐、または直ぐ近くの殿ダム駐車場か手前の駐車場エリア十分駐車台数可能。
情報ガイドは何時もの城郭放浪記さん古城盛衰記さんですが今回は古城盛衰記さん案内図を参考にしました。
今回は当日雨で条件が悪く登城口、案内板、殿ダムから全体撮影だけと成りました、城郭は袋川、上地川に守られた要害の地、草が枯れて雪前の登城が最高でしょうから次回の帰省タイミングで再訪できたらと思っております。
歴史は看板によると源平の頃因幡守であった大江広元の子孫で12代続いた家柄、天文年間(1532~55年)一族の市場城(私部城)毛利豊元に攻められ落城と有ります。 大江広元の子孫と言えば安芸毛利元就も同族。
次に殿ダムの頂部道を渡り県道31号線を国府町経由鳥取城へ約10km程の北西に走る。
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2020/12/17 07:20
クラブツーリズム群馬県に残る真田氏ゆかりの城日帰りツアー② (2018/08/25 訪問)
「クラブツーリズム群馬県に残る真田氏ゆかりの城日帰りツアー」2城目は沼田城です。
続100名城スタンプは「沼田市観光案内所」で押しました。
沼田城は1544年沼田氏12代・沼田顕泰が築城したと言われています。戦国期に沼田氏は北条氏に追われ、北条氏が変わって入城。
1580年真田昌幸が北条方の武将を調略し、城を奪い取ることに成功。沼田城は真田昌幸の管理下に入りました。
武田氏滅亡後、滝川一益の管理下になるが滝川一益が神流川の合戦に敗れると、真田氏に明け渡す。
真田昌幸は北条氏の執拗な攻撃を6年間にわたって撃退し続けて、1587年に真田信幸が沼田城を任されます。
1589年の豊臣秀吉の裁定で沼田城は北条領になりますが、北条氏配下の重臣・猪俣邦憲の名胡桃城奪還事件により、1590年北条氏は滅亡。これで沼田城は真田昌幸に帰し、長男の信幸(関ケ原の戦いの後、信之に改名)が入城。
しかし、1681年真田氏5代の信澄が領地を没収された翌年、沼田城は破却されました。
城址は沼田公園となり、本丸には土塁、空堀、櫓台の石垣が現存します。1983年鐘楼が復元され、城址のシンボルになっています。二の丸には東側の土塁と石垣・堀の一部が現存しています。攻城時間は40分くらいでした。
沼田城見学後、ツアーは小松姫の墓がある正覚寺にも行きましたので、そちらの写真も投稿します。
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2020/12/17 06:47
2020/12/17 00:22
故郷と縁の有る山中鹿之助を偲んで (2020/11/28 訪問)
九州未踏の城廻りを終えて故郷鳥取帰路の途中西播磨の城廻り3城目、白旗城を終えて北に約9km程の上月城を初登城、今回の九州未踏の城廻り累計31城目、ナビは上月歴史資料館の兵庫県佐用郡佐用町上月373に合わせて走行、駐車場は上月歴史資料館に十分のスペース在り、トイレは同資料館を利用。
資料館の前に案内板、小川を渡って登城路が南に登って行く又川沿い50m程の所に尼子勝久、山中鹿之助の追悼碑が有る。
先ずは比高約110m、本丸まで380mと案内、登りは急な丸太土の目階段で尾根筋へ登ると最初の小さな曲輪、物見曲輪の様、だらだらと尾根筋道を登る、曲輪と堀切、本丸下の二段の曲輪が在り切岸が防御、本丸切岸横の登城路で本丸へそこそこ広い、本丸には赤松氏の供養塔、なぜ尼子氏鹿之助の供養塔が本丸に無いのか⁉といぶかる!本丸の東に曲輪群、南西に土橋の様な細長い曲輪、その先に二段造りの曲輪が二ヶ所続く曲輪の左右は深い崖、続き曲輪の奥は崖状に成り堀切、横堀に成ってる、更に進むと元の登城口へ700、800m程と案内に出てるが来た道が分かって居り安心なので堀切を上から見て引き返す。
資料館の方と色々尼子の情報などで情報交換城談義をし時間を過ごす、同時間来訪者は私一人、終わって尼子勝久、山中鹿之助追悼碑にお参りする。
なぜ一時撤退を秀吉、信長から言われた時に尼子勝久、山中鹿之助は撤退しなかったのか?鹿之助の娘婿亀井新十郎は後に秀吉配下と成り活躍して因幡鹿野城城主に成ってる、亀井氏が鹿之助の幸盛寺を鹿野城下に建てて現在まで継承されてる、故郷の寺と墓が鹿野城の西山麓に在り、亀井さん鹿之助と親しみを同郷の方々は感じて居ります。
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2020/12/16 23:24
保呂羽館(宮城県登米市)広大な規模を持つ奥州葛西氏の拠点 (2020/12/13 訪問)
日頃、大崎市・加美郡内の城館を訪ねているが、今シーズン最後の訪問先は登米市の保呂羽館にした。この日は朝に初雪となり訪問中止も考えたが午後には晴れの予報を信じて攻城した。
保呂羽館は北上川の右岸、寺池城の有る市街地から1.6kmほど南に位置する丘陵地にある。登米神社脇の道を登り保呂羽浄水場から300m進むと城址碑の建つ曲輪跡がある。その平場の奥が主曲輪となる。仙台古城記(仙台領古城書上げ)では寺池村登米町の項に「一 保呂羽城 東西五十間 南北百五間 城主葛西清重。草長伊豫伊達若狭。」と記載があるが日本城郭大系では1,100m×1,200m 標高108m 比高100m。古城記の記録は城の中心部にある主曲輪とそれに付随する二ノ曲輪の規模を表したものと考える。主曲輪を中心に現在は浄水場の場所、日高見牧場の施設となる場所など広大な敷地に多数の曲輪を付随させた大規模な城であったと想像できる。
遺構としては主曲輪に付随する四ヶ所の曲輪跡の平場、帯曲輪、土塁、空堀などを確認できるが何れも杉林・竹林・梅林となっている。
城主は天正18年の奥州仕置き時までは葛西氏だが同氏が何時ごろから使用したかははっきりしないようだ。中世の早い時期には山城の保呂羽館を拠点とし、後に市街地の寺池城を拠点としたのであろうか。
城址最高所のトイレがある場所に駐車スペースがある。
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2020/12/16 22:45
2020/12/16 22:38
勝間田城 (2020/11/21 訪問)
【勝間田城】
<駐車場他>麓に城跡専用駐車場8台分程あり。
<交通手段>レンタカー
<見所>連続堀切・土塁・切岸・礎石建物跡
<感想>1泊2日武田・徳川攻防の城旅2城目。この城跡は戦国期以前の城で武田・徳川とは関係ないかもしれません。現地説明板を要約すると「この城跡は応永年間(1394ー1428)にこの地方の豪族で鎌倉幕府の御家人となった勝間田氏の子孫勝間田定長が築城したと推定されます。応仁の乱が勃発すると今川氏と対立し、1476年今川義忠によって落城され一族は四散したそうです。その後城が再び使われた記録は見当たらないが遺構からは手が加えられた形跡が認められる。」とあります。
城跡専用駐車場にトイレ、トイレにパンフレットが置いてあります。駐車場から城跡入口前の侵入禁止場所まではアスファルト道なので多人数で行く場合は同乗者を上まで行って降ろしてあげると便利です。城跡入口石碑がある場所の手前に出曲輪と堀切があります。出曲輪は茶畑になっていて気づきにくいです。三の曲輪入口左手には横堀跡、三の曲輪・西三の曲輪は一体化して土塁で囲んでいる。また三の曲輪には馬洗い場の窪地もちゃんと発掘されてあります。東側には2重堀切、少し鬱蒼としていますが見応えあります。ニの曲輪はその南上段にあり土塁で仕切っている。ここには礎石建物跡があります。二の曲輪から南は谷を利用しての大堀切で区切っており、その南側にそびえ立つ東尾根曲輪は圧巻で切岸がすごいです。この辺りの防御力がこの城の要かと感じました。東尾根曲輪の東側には最大の見所の連続堀切があります。曲輪からは2条程しか見えませんが、堀切をつたって奥までいくと小さいのがもう3つ、5条の連続堀切になっています。東側からは比較的平坦で尾根伝いに侵入できそうなので5条も造ったのかなと思いました。また東尾根曲輪から富士山が眺望できます。東尾根曲輪の西側に本曲輪があり本曲輪の南に南曲輪があります。本曲輪・南曲輪間も道になっていますが深い堀切になっています。本曲輪・南曲輪は南側にL字状の2m程の土塁があります。本曲輪西側にも堀切、腰曲輪があるそうだが未整備で肉眼では確認できなかった。
各曲輪間には各々堀切で仕切り、土塁もきちんと残されている。小さいながらもキレのある、キリリとしたいい城跡でした。また草刈がちゃんと施されていて気持ちよく遺構を楽しめました。
<満足度>◆◆◆
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2020/12/16 20:05
麓から白旗城を眺望とチョイ寄り (2020/11/28 訪問)
西播磨若狭野陣屋を終えて国道2号線、千種川沿い国道373号線経由で白旗城麓付近を初探訪、今回の九州未踏の城廻り通算30城目、頂上登城は気力体力的に比高300~400mは無理な状態せめて登城口付近と案内板、解説板だけでも撮影して南北朝時代、新田義貞が攻めあぐねた白旗城を麓から眺めて往時を偲びたいと寄りました。
白旗城は鳥取帰省の折国道373号線を南下途中に佐用過ぎ何回か大きな白旗城の看板を見ながら走行しており道は慣れて居りましたがナビは兵庫県赤穂郡上郡町細野544に合わせました、白旗城の大看板が見えますので看板方向へ、登城口の橋左の川堤防に駐車場が在ります、ここに停め近くを探訪、白旗城、白旗山を仰ぎ眺める。
橋を渡り登城口ゲート(害獣除け)辺りに案内板解説板在り、ゲートを開閉して登城口を観察、集落入口辺りから白幡山、白旗城の撮影。私的にはこれで満足です。
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2020/12/16 18:08
国史跡 (2020/11/22 訪問)
村雨城からは1分で行けます。20×40mの規模で3方が土塁で囲まれてます。虎口は北西にあり、その屈曲が見所なのですが、残念ながら藪で不明瞭でした。
すぐ東にある大谷池では釣りびとが楽しんでる様子でした。
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2020/12/16 17:15
赤穂浅野家分家気に成りチョイ寄り (2020/11/28 訪問)
肥前朝日山城で九州未踏の城廻りは終了、帰りの長い道中故郷鳥取が気に成り今年は武漢コロナウイルス禍で帰省が出来ず龍野辺りから佐用に抜け無料鳥取道経由で鳥取へ進路変更、鳥栖ICから九州道中国道山陽道、備前SAで車中泊し龍野西ICより国道2号線を西へ気に成ってた西播磨の城を探訪。
最初は若狭野陣屋を初登城、今回の城廻り通算で29城目。ナビは兵庫県相生市若狭野町若狭野788陣屋跡の法界庵に合わせて国道二号線より北側矢野川を渡り突き当りが目的の若狭野陣屋法界庵跡、車は周辺のギリギリ駐車エリアに一時駐車。
法界庵跡周辺を観察し庵と土塀、石垣、地域は矢野川より北に登ってる地形、田圃畑が曲輪の様に雛壇形状、奥の須賀神社は眺めるだけで終了。
歴史は赤穂浅野家初代浅野長直の養子大石長恒(浅野長恒)が寛文11年(1671年)赤穂浅野分家を起こす事に始まる、旗本3000石で若狭野に陣屋を構える。案内板より抜粋
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2020/12/16 13:48
甲府城 (2020/12/15 訪問)
甲府城のすぐ隣り、城のホテルに一泊。最上階に大浴場と露天風呂あり。眺望あればなお良い。コロナ対策の朝食含めてリピートありかも。ただ、駐車料金一泊千円は高いかな。
空気がキンとしている朝の散策はサイコーです。清掃ボランティアの方、犬の散歩の方、おはようの挨拶があったかい。
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2020/12/16 13:05
所用にかこつけた城巡り 5城目 (2020/11/14 訪問)
1602年(慶長7年)、近世になって、縄張り・築城された総石垣の山城。
二年前の6月、佐伯文化会館駐車場まで来たのだが、某有名アーチストのコンサートと重なり、
満車で入れず、泣く泣く引き返した因縁の場所。
歴史資料館で頂いたパンフによると四か所ほど登城ルートがある。
三の丸櫓門をくぐり登城の道を登る。 やや九十九折れ的な箇所もあるが、ほぼ直登である。
石垣が見え始めたところで翠明の道へ至る分かれ道になるが、そのまま登城の道を行く。
坂とは言えないほどの道だが、ところどころが石畳になっており、滑ってかえって歩きにくい。
近世山城では珍しいという石造りの堀切と廊下橋が、二の丸と本丸の間を隔てている。
二の丸と西出丸の間は屈曲した虎口で、渡り櫓があったというがどんな配置だったのだろう?
石垣すべてを覆う大きさなら、あたかも姫路城の ”にの門” みたいになってしまいそうだ。
西出丸先端には二重櫓の台跡と太平洋戦争中の砲台(機関砲?)跡が残されていた。
時代を隔てた異なる戦争の備えの痕跡がともに今もなお残っているという事は、それだけこの場所が
佐伯の街を護る重要拠点だったという事ですね。 二重櫓の台跡が破壊されなくて良かった。
堀切の下をくぐった先の北出丸には喰い違い虎口が控え、その先にも二重櫓跡が。
水の手(雄池、雌池)へ下りる虎口は、若宮の道というルートらしいが今回はパス。
本丸外曲輪の北側は四段ほどのハバキ石垣になっている。
(ハバキ石垣という語を、この一連の投稿のために調べていて初めて知った。 勉強になります。)
本丸へ登るまっすぐな階段は無視。 外曲輪をグルッと廻ると本丸石垣に沖縄のグスクのように
隅角が丸くなっている箇所があり、しかも天端がオーバーハングしている。
積み直ししているようだが、なぜここだけこんな様相をしているのだろう?
本来廊下橋を渡るしか本丸には入れない縄張りで、その廊下橋の通路に大きな樹が生えて
石垣を痛めているのが気にかかる。
本丸からは北出丸の食い違い虎口や登城道を、しっかりと監視できている。
本丸外曲輪の虎口は平虎口ではあるが、石畳となっているうえに坂虎口となっており、
滑りやすく、上り下りがやりにくい。 雨で濡れていれば、より一層であろう。
使われている石の種類にもよるのだろうが、石畳が護りに効果があることを初めて知った。
この佐伯城はかなりの箇所に石畳を多用している珍しい城だと思う。
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2020/12/16 11:53
雪には勝てません (2020/12/15 訪問)
広島市内に泊まり、翌朝JR可部駅→広島電鉄バス(吉田病院)→安芸高田市歴史民俗博物館(徒歩)へ
電車に乗ってる頃から、チラホラと雪が。現地に到着すると山が雪化粧をまとっているので登城を断念。名城スタンプを押し、館内を見学して帰路へ
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