平安末期に平通盛が木曽義仲に対するべく築いた城で、南北朝初期には恒良親王、尊良親王を奉じた新田義貞が入城して足利軍と戦うも、尊良親王と新田義顕(義貞嫡男)は自害、恒良親王は捕縛され、落城しました。戦国後期には朝倉氏の城となっていましたが、織田信長の侵攻を受けて支城の天筒山城が落城したことにより開城。しかし、浅井長政の離反により織田軍は挟撃を避けるべく撤退、金ヶ崎の退き口の舞台となりました。
天筒山から敦賀湾に張り出した半島部に築かれており、往時は三方を海に囲まれた要害で、突端の最高所に本丸を配し、天筒山方向へ続く尾根には3つの木戸と堀切を設けて防衛しています。
金崎宮バス停のある金ヶ崎公園駐車場(無料)に車を駐めて登城開始。駐車場西隣の旧敦賀港駅ランプ小屋には金ヶ崎城と周辺の城のパンフレットが置かれていますので、金ヶ崎城の縄張図をお持ちでない方はまずこちらからどうぞ。
参道の石段を上がって行くと5分ほどで金崎宮に到着。金崎宮は尊良親王と恒良親王を御祭神とし、境内には金ヶ崎城と天筒山城の模型や、金ヶ崎の退き口についての説明板が展示されています。また、お市の方が兄・信長に夫・長政の離反を知らせたとする逸話にちなんで、袋の両端を縛り小豆を入れたお守りが難関突破守として授与されています。
金崎宮から花換の小道を進んで鴎ヶ崎へ。かつては海中に突き出した尾崎だったため、幕末には台場として整備されたようですが、今は周囲も埋め立てられ、台場の遺構も見当たりません。
鴎ヶ崎から少し上がったところに案内標識があるので道をそれて行ってみると、尊良親王御陵墓見込地の碑が建てられていて、親王の自刃の地と考えられるようです。南北朝期の歴史には詳しくありませんが、太平記に描かれたようなことがこの地であったのだとすると…ひと時ただただ手を合わせてきました。
もとの道に戻って5分ほど登って行くと金𥔎古戦場の石碑があり、その先が月見御殿(本丸)です。月見御殿という名は、散在する石灰岩を庭石に見立てて月見の宴をしたとする伝承によるものだそうです。突端からは敦賀湾が一望でき、麓には恒良親王が落ち延びる際に松の木に御衣を掛けたと伝わる絹掛崎があります。
月見御殿から天筒山へ続く尾根を進むと三の木戸と堀切(竪堀)があり、その先の水の手と呼ばれる曲輪からは炭化した米が出土していて、兵糧庫があったと考えられています。また、水の手曲輪の東斜面には畝状竪堀群があり、朝倉氏の頃に設けられたもののようです。その先の二の木戸、一の木戸で金ヶ崎城はひと巡りになりますが、そのまま尾根道を進んで天筒山城に登城した後、二の木戸から金崎宮に下りて駐車場に戻りました。
遺構も期待以上にはありましたが、何より南北朝期にも戦国期にも歴史の大きな舞台になった地であり、南北朝期を描いた小説を読むなりしてもう少し知識を得た上で、また訪れたい城でした。
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