おおごじょう

大胡城

群馬県前橋市


旧国名 : 上野

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二の丸を南から
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イタさん

圧倒される本丸の土塁など (2024/02/28 訪問)

案内板に拠れば、中世に大胡氏が拠ったと言われる。徳川氏の関東入部で牧野氏が入り、二代で転封後、酒井氏の前橋藩領になり城代が置かれるが、江戸中期に酒井氏転封後は廃城になる。

トンネルを抜けると二の丸で、駐車場になっている。本丸の高い法面が見応えがある。南に水の手門、東寄りに枡形虎口があり、石垣が見られる。本丸は高い土塁が残る。本丸の北に北城(北曲輪・越中屋敷)があり、二の丸北東の堀を東に下がれば川に橋が架かるが、保育園の敷地で入れず。北端の近戸曲輪に大胡神社があり、社殿裏に大きな堀が確認出来る。

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チェブ

常在戦場。 (2023/12/06 訪問)

右手に「大胡城」の石碑があり、車がすれ違いできない位のトンネルを抜けると、いきなり二ノ丸に到着しました。
ちょっと、暗めな四角いトンネルです。まさか、こんなに広い「大胡城」に着くとは思いませんでした。

大胡氏が築いた「大胡城」。
横瀬家に奪われ増田氏。
上杉家に奪われ北条氏。
武田家が侵攻し大胡氏。
武田家が滅亡すると織田家の滝川氏。
本能寺の変が起こり北条家。
北条家討伐され徳川家の、牧野 康成さんが城主を勤めました。

二ノ丸には何台か車が駐車してました。
郭は、高い土塁が守っています。
虎口から幅広い土橋を渡ると、両側に深い空堀。水の手門近くには石積みもあります。
これだけ、取った取られたを繰返した「大胡城」ですから改修も、深~く 高~く 広~くしたに違いありません。

牧野氏の家訓でもある『常在戦場』。
常に戦場にいるような心持ちでいると、「大胡城」のようなお城が出来上がるのでしょう。

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しんちゃん

本丸・二の丸周辺と大胡神社北側に遺構が残る。 (2023/05/01 訪問)

大胡城は南北にある丘陵上に築かれた平山城で、本丸周辺に遺構が良く残っています。
本丸を中心に、二の丸を囲部的に配し、北に北城(越中屋敷)、
近戸曲輪、南に三、四の曲輪があるようです。
東は荒砥川が流れ、その間に根小屋、西には西曲輪の平坦部が附加され、
南北670m、東西310mの規模を持つと有ります。
周辺は市街地化も進んでいますが、本丸周辺以外にも北側の大胡神社周辺、
特に北側に大きな空堀が残っていました。
神社自体周囲より高地にあり、かつての曲輪であることを感じさせます。
上野の豪族、大胡氏が城主であったとされますが、戦国期の混乱の中、上杉、
北条と城代が立て続けに変わりますが上杉方の北条高広が城代を務めていた時代があるようです。
謙信死後の御館の乱の際には入道芳林(高広)は子の景広と共に上杉景虎に味方しますが、
景広は討死し、景虎も自害、天正7年4月、厩橋に戻った芳林は武田勝頼に従います。
本能寺で信長が斃れた後、芳林は服属を迫る北条を退け、真田昌幸と結びます。
芳林は上杉景勝に関東出馬を勧め、大胡常陸介高繁に大胡城を固めさせて、太田三楽斎の援助を得て、
佐竹・宇都宮・結城氏の援軍を動かし小田原勢を撃退します。
真田昌幸も何でもありの人でしたが、北条高広(芳林)も辛酸を舐め尽くし、
できることは何でもやってやろうという強い気概を感じます。

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赤い城

トンネルの先に見事な遺構 (2022/06/26 訪問)

県道16号線から少し入ったところにあります。
トンネルの手前に石碑があり、その先を登ると二の丸に着きます。
二の丸が駐車場になっていていきなり空堀。
枡形の虎口には石垣も見られます。
二の丸には水の手もありました。
本丸は土塁で囲まれ、北側の切岸はかなりの高さがあります。
北西部に虎口があり、土橋がかかっていました。
藤原秀郷の子孫と云われる大胡氏が築いた城です。
なかなか見事な土の城、コンパクトながら堅牢さを感じることができました。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 大胡氏
築城年 天文年間(1532〜1555)
主な城主 大胡氏、益田氏(由良氏家臣)、北条高広(上杉氏家臣)、牧野氏、酒井氏
廃城年 元和2年(1616)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、虎口、土橋
指定文化財 県史跡(大胡城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 群馬県前橋市河原浜町660-1
問い合わせ先 前橋市文化財保護課
問い合わせ先電話番号 027-231-9531