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うさぎ

柳川城址 (2021/02/21 訪問)

柳川城址です。

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todo94

朝駆け (2021/02/11 訪問)

建国記念の日に日帰りドライブで徳島の城めぐりをしてきました。淡路SAにて車中泊。朝4時過ぎに出発して途中、ローソンで朝食をとり朝7時前に到着しました。城址碑と説明板のある津波避難所には簡単にたどり着けますが、その奥の山頂に分け入ることはできませんでした。

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橋吉

鳴海城 (2021/02/20 訪問)

前回、大高城と対峙する鷲津砦・丸根砦と徒歩でまわりました。
今回は、鳴海城とこれをとり囲む丹下砦・善照寺砦・中島砦を周遊してみました。

この日、鳴海城近くのコインパーキングが満車であったため、名鉄鳴海駅南のコイン駐車場に駐めました。
鳴海駅北の旧東海道は、昭和の香りが残されており、それを見て楽しんでいるうちに鳴海城跡に到着しました。

天神社(あまつかみしゃ)
所在地: 名古屋市緑区鳴海町城
鳴海城は、天神社から道路を挟んで西にある鳴海城跡公園にかけて存在したといわれています。

天神社境内には史蹟碑や案内板が設置されています。

鳴海城は今川義元の家臣である岡部元信が城主を務めていた城で、今川氏の重要拠点になっていた城で、別名根古屋城(ねごやじょう)ともよばれました。
もともと、この地には成海神社が建っておりましたが、築城の際、400m程北の現在の位置に移動してもらっています。

鳴海城跡公園は、ふつうの公園で遺構は残っていません。
ただ、周辺より高台となっているくらいです。
ひょっとして、堀切があったかもしれませんね。

桶狭間の戦いにおいて今川義元が敗れると、織田信長との交渉の結果、義元の首級と引き換えに岡部元信は城を明け渡します。
その後は佐久間信盛・信栄父子が城主を務めましたが、天正末期には廃城になったそうです。

公園の北にある東福院の門は、鳴海城の城門だったといわれています。

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昌官忠

京成&東武野田線日帰り攻城⑩:鷺沼城(ラスト) (2019/06/14 訪問)

実籾城➡実籾駅➡京成津田沼駅と移動し、京成津田沼駅から徒歩10分で鷺沼城址公園西側入口(35.678620、140.025074)に着きました。

鷺沼城の詳細は不明ですが、1288年~1293年(正応年間)には鷺沼太郎源太光義が居城としたといわれています。
また『吾妻鏡』にある、「石橋山合戦」で敗れたあと安房に逃れた源頼朝が軍勢を整えた鷺沼館(鷺沼御旅館)がこの城である可能性も指摘されています。
現在城址は「鷺沼城址公園」として整備されており、土塁や切岸などの遺構を確認することができるそうです。
また公園内には2基の鷺沼古墳が残されており、鷺沼城の土塁も古墳を利用して築かれていたと思われます。

新婚当初、この近くに住んでいましたが、お城に興味がなかったので城跡だとは、全然気づきませんでした。
城址というより古墳押しのようで城址をしのばせるのは土塁と鷺沼城址公園という名前くらいです。
どれが切岸かわからなかった。攻城時間は20分くらいでした。

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昌官忠

京成&東武野田線日帰り攻城⑨:実籾城 (2019/06/14 訪問)

馬加城から徒歩で妙見神社入口(35.680222、140.065798)を目指すが、ナビで誘導されたルートに道はなく強引に斜面を降りて道に出て35分かかって妙見神社に辿り着きました。
車のルートを歩いた方がよかったと後から悔やみました。城址も宅地なので入れませんでした。

実籾城の詳細は不明ですが、千葉氏の一族にかんする城であったと推定されています。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による「小田原征伐」において、千葉氏は北条氏に味方したことから滅亡しますが、このときに千葉氏一族の尼僧が抜け穴から脱出して逃げのびたという伝承もあるようです。
現在城址は住宅地となっており遺構はありません。城址北東に妙見神社が建てられています。

攻城時間は10分くらいでした。

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こんじゅ

岩村城 (2021/02/21 訪問)

歴史資料館に車を停めて足で登りました🏃‍♀️
本丸下まで車で行けますが、対向車が来たら大変みたいなのでやめました。いざ登ってみると、車が結構多くミニバンの車などもあってので車でも来れたかな?と思いました。
6歳と3歳の子供でも割と余裕で登り切れました👦🏻👧🏻
竹の杖がたくさん用意されているのでそれを借りて登ると楽だと思います。
大変立派な石垣でした。

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こんじゅ

金沢城 (2020/09/19 訪問)

家族で石川富山旅行🏯
肝心なお城の写真撮り忘れてショック🤳🤦🏻

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こんじゅ

墨俣一夜城 (2020/09/21 訪問)

家族と🏯
子供達と出世橋をRUN🏃💨💨
ひょうたんから流れる御水を浴びて出世を願う

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pascal

蒲生氏郷の故郷 (2015/03/28 訪問)

 蒲生氏郷が生まれ育った日野城です。
近年は中野城と表記される事が多く、現地でもそうでしたが、私自身の映像や書物を通しての記憶では、“日野城”で凝り固まってるので、ここでは日野城とします。

【アクセス(車)】
 音羽城に続く訪城なので、R477に戻り、2kmほど西に走ると、“←日野川ダム”の看板が現れます。
その交差点に“中野城”の看板もあるので左折して入って行き、ダム湖の畔に出ます。この湖の北岸に日野城址はあります。
 湖畔は大きな駐車場になっていて、傍に料理旅館があるので、一瞬旅館の駐車場? と思いますが、観光案内看板が何枚もあり、城址入口も示されているので、停めて大丈夫みたいです。

【城の歴史】
蒲生氏は古くからの東近江の名族で、鎌倉~室町期は近江守護の重臣を努めていました。
応仁の乱の頃、蒲生貞秀は音羽城を築城して本拠としていましたが、嫡子の秀行を将軍奉公人として京で公奉させる傍ら、二男:高郷には守護の六角氏への奉公を命じていました。
 しかし、幕府と六角氏が明応の政変で争う様になると、蒲生の兄弟も巻き込まれて相争う様になってしまいます。
結局は、将軍の力が衰退して、高郷の子の定秀が蒲生氏の家督を継承するのですが、定秀は長い争いで荒廃した音羽城を放棄して、新城を築城します。それが日野城なのです。

 以後、定秀ー賢秀ー氏郷と受け継がれた日野城ですが、当時としては相当に堅固な城だった様で、蒲生氏はこの城に籠って大勢力に対決姿勢を示す場面が何度も有ります。
『本能寺の変』の直後、賢秀、氏郷親子は信長の妻妾子弟をこの城に保護して、守りを固めたのは顕著な例ですね。

 天正12年(1584)、秀吉の配下で大活躍した氏郷には、大幅加増で伊勢松ヶ島12万石が与えられ、蒲生氏の故郷を離れる事になります。
日野は羽柴秀次領となり、次いで長束正家領となって、それぞれの城代が入りました。
 関ヶ原の戦いで長束正家が改易されると廃城になりましたが、元和6年(1620)、織田家旧臣で大坂の陣で戦功の有った市橋長政が近郷で2万石を与えられると、長政は日野城跡の一部(北東)に陣屋を構えて、市橋氏支配は明治まで続きました。

【見どころ】
 歴史を学ぶ際にはよく耳にする日野城ですが、その遺構は名前ほどには遺っていません。
城域の多くは江戸期には開墾が進み、さらに昭和の戦後に日野ダムが造られた事で、大半の遺構が消失しました。
 現在遺るのは、おもに本丸北側の土塁で、物見の櫓台も稲荷社に姿を変えて遺ります。
さらに北側の空堀(一部水堀)とそれを渡る土橋もキレイに遺っていますが、空堀の底から土塁上端までの険しい姿に、往時の堅城の面影を垣間見る事が出来ます。

【感想】
 名将:蒲生賢秀・氏郷親子が生まれ育ち、存亡を掛けて戦った日野城。
近くの“ひばり野公園”には軍装の蒲生氏郷の銅像が建っていますが、奥州会津の領地から九州征伐に向かう際、途中の中山道・武佐宿から故郷の綿向山を臨んで歌を詠んだ姿だそうです。
『思いきや 人のゆくえぞ 定めなき わが古さとを よそに見んとは』

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こんじゅ

長篠城本丸跡 (2018/11/24 訪問)

両親と子供達と訪れました💁🏻‍♀️
ここが有名な長篠城か〜
紅葉も綺麗でした🍁

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るるパパ

防御力の高さに圧倒されました! (2021/02/22 訪問)

山城としては超Aクラスの保存状態ですが、比較的楽に、気持ちよく登れます。林道のゲート前に車を止めて林道を歩くと10分弱で、曲輪が段々畑状になってる城の入り口です。そこから20分ぐらいで頂上です。主郭の前で2度道が折り曲がります。特に主郭の直前、谷底から登るような道で、上側3方向から攻撃されます。そこから右に90度曲がるため思い切り横矢に狙われます。2枚目はその道を下から、3枚目は上から撮った写真です(わかりにくくてすみません!)攻略は本当に難しそうです。信長以前の城だそうですが、防御力の高さに驚かされました。石垣も立派で堀切が深いです。滋賀県の城は小谷城といい鎌刃城といい、極めて防御力が高く、しかも保存状態が良く、訪れるたびに深い感動を味わえます。保存に尽力されている地元の皆さまに、感謝です。

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ひろべえ

なかなかハードな攻城 (2020/03/03 訪問)

道路が途中で通行止めでしたので、行き止まりに駐車し徒歩で城址へ。登城路は細いうえにかなりの傾斜、踏みはずすと大変な状態。途中石の礫などで登城路がわからなくなる足元。ロープにつかまりながらの急な傾斜。途中拾った太い木の枝を杖代わりに登ることができました。木の棒がなければ登城は無理なほど、傾斜が急で滑りやすかったです。郭は東西に2つ。大軍が収容できるとは思えませんが、攻城するには斜度がある山城だと実感。下城時は滑落注意です。未整備の山城恐るべしです。

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小城小次郎

ここが小幡城であることに迷いはなさそうなのだが (2020/12/06 訪問)

「ここが小幡城跡です。」という力強い表示板は、ここが小幡城であることがわからない人が少なからず存在することを暗示しているのだろうか。そうは見えないお城なのだが。

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Kitty

関戸塁(関戸砦) (2021/02/21 訪問)

関戸城の天守台標柱がある山の南側にある原峰公園内にあります。馬蹄型郭と思しき地形が残っています。

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ひろべえ

本当に残念 (2018/05/25 訪問)

2018年5月に来訪。正殿は改装中で足場が組まれ、さらに天気が良かったものの朝の来訪だったので写真を撮影しても逆光・・・とても残念な思いでしたので改装なったら再訪したいなあと思っていました。翌年まさかあんなことになろうとは・・再建に関してはしっかり精査するとともに、慎重に検討して欲しいと願っております。

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耕助

吉岡妙林尼を偲ぶ (2021/02/20 訪問)

島津軍の2将を討ち取った女傑がいた城です。
妙林尼の義理の父は豊州二老と言われた吉岡長増です。
今は、鶴崎城は鶴崎高校と鶴崎小学校の校地あたりにありました。
写真はないのですが、近くまで来たので備忘として。

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チェブ

将監と将軍。 (2021/01/02 訪問)

前回、投稿した埼玉県の「越ヶ谷御殿」から江戸川を渡り千葉県の「金野井城」へ向かいました。

野本 家定さんが築いたようです。

浄水場の入口に「金野井城」の城址碑がありました。車で浄水場のグルリと回ろうかと思いましたが、道幅が狭く戻りました。
城址碑が無ければ、きっと来ることもなかった土地だと思います。

野本 家定さんを調べてみると、鎌倉時代の御家人で通称『野本将監』。権力の強さから『野本将軍』の渾名があったようです。
前に行った、埼玉県東松山市の「野本氏館」近くに『野本将軍塚古墳』がありました。
野本氏は代々『野本将軍』って呼ばれていたのでしょうか?
野本 家定さん、遊女を好きになってしまい、お城を抜け出し毎夜、遊びに行きました。
家定さん、見かねた家臣達に、殺されてしまいました。
、、、将監や将軍と呼ばれた方ですが、他に逸話は なかったのか、、、。嫌いじゃないけど、、、。

浄水場のお隣に、お墓がありました。『西福寺』です。こちらの奥の方が「金野井城」を感じられるかもしれません。

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ヒロケン

武田氏の命運を決めた戦い (2021/01/10 訪問)

長篠城は寒狭川と宇連川が合流する地点の川面から60mほどある崖上に立地し、本丸東側には野牛郭、北側に二の郭・三の郭、西側には弾正郭・服部郭で守られていました。この城を一躍有名にしたのは、1575年に起きた織田・徳川連合軍と武田勝頼率いる武田軍との合戦で、織田・徳川連合軍が馬防柵を用いた、鉄砲三段撃ちで武田の騎馬隊を撃破した長篠の戦いです。
この城は、織田・徳川連合軍の後詰めによる決戦でした。この戦いで敗れ、多くの重臣を失った武田軍は、この後、衰退の一途をたどることとなります。

現在は、城址公園として本丸・土塁・堀・井戸が残っており、二の郭には、資料館と無料駐車場があります。本丸と野牛郭の間にJR飯田線が走り線路で分断されていますが、線路を渡ることもでき、野牛郭に行くこともできます。また、この城から西に数キロ離れていますが、長篠の戦いがあった地に、馬防柵が再現されています。併せて散策することをお勧めします。

この城址と長篠の戦いがあった場所には、家から比較的近いこともあり、何度も訪れていますが、徳川氏・武田氏の重臣達の墓や首洗いの池などが残り、目を閉じると、火縄銃の爆音や馬の蹄の音、武将達の歓喜・無念さが伝わってくるようです。

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ひろべえ

素晴らしい石垣 (2018/04/16 訪問)

続100名城スタンプ押印目的で登城。昭和初期に立てられた模擬天守は何とも言えませんでしたが、本丸石垣が素晴らしいです。時期は4月、思わず本丸で横になってしまいました。本丸大石段もとても力強い。あちこち破城感を感じさせる風景がありました。徳島藩洲本城代時代の金天閣へも行き蜂須賀卍も確認。登り石垣をや麓の石垣を見ることができなかったので、次回は是非散策したいと思います。

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城の主は猪に (2021/02/19 訪問)

2018年5月にキンヤさんが、訪れた後、菅原神社後ろの郭を囲む鉄柵が設けられ、立ち入れなくなってました。猪が住み着いたとの説明書きあり。
よくある獣よけの柵と異なり、開閉できる扉が見当たりませんでした。柵の外から、堀と切り岸を見ました。高く急な切り岸です。北西側は、川が削った崖になってますが、護岸工事中でこちらもしばらくは立ち入れません。

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