武田24将のひとり、小幡信貞の居城だった国峯城です。
小幡氏は関東管領:山内上杉氏の重臣のひとりでしたが、戦国中期の小幡憲重は北条氏の攻勢に晒され、やむなく臣従します。
これに怒った箕輪城の長野業正は、憲重と嫡子:信貞が草津に湯治に出掛けた留守を襲い、国峯城を奪取してしまいます。
帰れなくなった小幡親子は信濃に逃れて、在陣していた武田信玄の庇護を受けました。
後の上野侵攻で小幡を奪還してもらった小幡氏は、以後は武田の属将として各戦線で活躍し、信玄の信頼を得て行きました。
小幡氏の戦力は騎馬500(徒歩含め2,500)で、武田諸将の中で最大戦力だったと言われます。
国峯城は中腹に御殿平という居館跡があり、そこまで林道があって駐車場も完備されてる…という事だったのですが、橋の老朽化や道路の荒廃が進んだ様で、『4WDの軽自動車以外は進入禁止』になっていました。
仕方なく麓の空き地に駐車させてもらい、徒歩で登ります。
御殿平までの車道は荒れ道ながら難なく登れましたが、そこから上は登山の遊歩道が整備されているものの、あまり利用者は無い様で、踏み跡もなく、草木に阻まれる難行です。
有るはずの曲輪類も判別が難しく、傾斜のきつさも相俟って辟易とする所ですが、鹿の親子と2度も遭遇する機会に恵まれ、気分を取り直して登りきる事ができました。
山上には郭の跡が明瞭に遺っていて、テンションも上がり、一気にタイムスリップです。(気分だけ)
物見台からの遠望も良く、“苦あれば楽あり”で、上州の城巡りの大トリだったのですが、〆に相応しい登城となりました。
武田氏の滅亡後、当主となっていた小幡信貞の元には織田信忠の誘降の使者が訪れ、滝川一益に属しましたが、すぐに本能寺の変で北条氏に従う事となります。
小田原征伐では小田原城に詰めていましたが、戦後に改易となり、徳川の勧誘は断って旧知の真田昌幸を頼りました。
登城後に甘楽町の歴史博物館を訪ねましたが、小幡氏の貴重な資料が多数保管されています。写真撮影もOKでした。
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