くにみねじょう

国峰城

群馬県甘楽郡


旧国名 : 上野

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登城口
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赤い城

堀切が素敵 (2023/03/19 訪問)

長善寺から案内板に沿って進みます。
御殿平まで軽の四駆で行けるとなっていますがやめておいたほうが良いでしょう。
麓のスペースに車を停めて登りました。
急坂ですが歩きならば全く問題ありません。
しばらく登ると御殿平、説明板もあります。
さらに登ると切通状の岩盤堀切があります。
そこからさらに進むと主郭部への道が付いていました。
三郭下には長い竪堀、二郭には鳥居が建っています。
主郭からは眺望もよかったです。
西に進むと尾根上の曲輪が堀切で区切られます。
深さもあり、見どころですね。
物見台があり、その先の尾根にも堀切がありました。
戻りましたが、主郭の下にも横堀や竪堀が施されています。
小幡氏の居城で山内上杉氏、武田氏、北条氏に属しましたが北条氏の滅亡により廃城となりました。
行きにくいですがおすすめの城です。

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赤い城

尾附城 群馬県多野郡神流町 (2023/02/25 訪問)

ドコモの鉄塔横に1台分の駐車スペースがあります。
ここから登ります。
一応神社の参道で石段にはなっているもののほぼ直登状態。
石段の体をなしていません。
登ったところが主郭で神社が建っています。
ここから東西へ尾根上に展開しています。
まずは西側の二郭側、堀切があります。
ここの地盤は脆く、崩れやすい感じです。
戻って東側に。
こちらにも深い堀切があります。
この尾根の両サイドは急な崖で落ちたらひとたまりもありません。
ちょっと恐怖を感じました。
秩父からも峠越えでアクセスも難しいエリアかと思います。
おすすめか、と聞かれると微妙ですが悪くは無い城かと思います。

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pascal

山城歩きの醍醐味 (2014/10/10 訪問)

 武田24将のひとり、小幡信貞の居城だった国峯城です。
小幡氏は関東管領:山内上杉氏の重臣のひとりでしたが、戦国中期の小幡憲重は北条氏の攻勢に晒され、やむなく臣従します。
これに怒った箕輪城の長野業正は、憲重と嫡子:信貞が草津に湯治に出掛けた留守を襲い、国峯城を奪取してしまいます。
帰れなくなった小幡親子は信濃に逃れて、在陣していた武田信玄の庇護を受けました。
後の上野侵攻で小幡を奪還してもらった小幡氏は、以後は武田の属将として各戦線で活躍し、信玄の信頼を得て行きました。
小幡氏の戦力は騎馬500(徒歩含め2,500)で、武田諸将の中で最大戦力だったと言われます。

国峯城は中腹に御殿平という居館跡があり、そこまで林道があって駐車場も完備されてる…という事だったのですが、橋の老朽化や道路の荒廃が進んだ様で、『4WDの軽自動車以外は進入禁止』になっていました。
仕方なく麓の空き地に駐車させてもらい、徒歩で登ります。

 御殿平までの車道は荒れ道ながら難なく登れましたが、そこから上は登山の遊歩道が整備されているものの、あまり利用者は無い様で、踏み跡もなく、草木に阻まれる難行です。
有るはずの曲輪類も判別が難しく、傾斜のきつさも相俟って辟易とする所ですが、鹿の親子と2度も遭遇する機会に恵まれ、気分を取り直して登りきる事ができました。

 山上には郭の跡が明瞭に遺っていて、テンションも上がり、一気にタイムスリップです。(気分だけ)
物見台からの遠望も良く、“苦あれば楽あり”で、上州の城巡りの大トリだったのですが、〆に相応しい登城となりました。

 武田氏の滅亡後、当主となっていた小幡信貞の元には織田信忠の誘降の使者が訪れ、滝川一益に属しましたが、すぐに本能寺の変で北条氏に従う事となります。
小田原征伐では小田原城に詰めていましたが、戦後に改易となり、徳川の勧誘は断って旧知の真田昌幸を頼りました。

登城後に甘楽町の歴史博物館を訪ねましたが、小幡氏の貴重な資料が多数保管されています。写真撮影もOKでした。

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とってぃ

登ってはみたものの… (2019/12/15 訪問)

外堀跡は確認。
長善寺から徒歩で進んだが、御殿平も分からず…あきらめました…

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 小幡氏
築城年 天文年間(1532〜1555)
主な城主 小幡氏
廃城年 天正18年(1590)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、竪堀
指定文化財 町史跡
再建造物 碑、説明板
住所 群馬県甘楽郡甘楽町国峰1025-2他
問い合わせ先 甘楽町教育課文化財保護係
問い合わせ先電話番号 0274-74-3131