くろかわしじょう

黒川氏城

滋賀県甲賀市


旧国名 : 近江

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主郭へ到達
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しんしんちゃん

当時の最新技術を駆使したであろう本格的な城郭。 (2023/06/26 訪問)

黒川氏城は六角氏に仕えた黒川氏の城で、後に黒川氏は織田氏に従いました。
黒川氏城は虎口周辺や石段、主郭周辺の土塁の補強など各所に石積みを多用し、
おそらく織田信長の安土城を参考に改修がされているのではないかと推測します。
甲賀の城郭ではおそらく最大規模をほこり、主郭を中心に堀切、土塁を多用し
周辺、特に北側に多くの郭を配置しています。

害獣防止用の扉をあけ中に入ると多数の郭が段々に出迎えてくれます。
そのまま南下しつつ高所に上がっていくと主郭北側に配置した二重の土塁や堀切に
到達します。ここからでも主郭に行けますが、西側を迂回する形で
回り込むようにして主郭を目指します。
案内板に従っているだけなのですが、ぐるぐる回っているうちに自分が
どこにいるのかわからなくなってきます。
やがて石段が現れ、その周辺には石積みが見られます。かつてはここに立派な門が
建っていたと思われます。石段の上は馬出しのような空間で破城のあとのような
散石が見られます。
西の虎口を目指して登っていくと、より多くの散石があり本郭に到達します。
本郭の周辺も土塁の補強に石垣を併用してあり、周囲全体を土塁&石垣で囲っています。
北側の虎口周辺にも石積みが見られ、ここにも門が建っていたと推測します。
北の虎口から土塁沿いに歩いていくと北の郭周辺に到達し、そのまま下山しました。
たしかにこの城は周囲の土豪たちを威圧するには十分な見ごたえのある城でした。
織田氏に従った地元の豪族の権威を高めるために最新技術を惜しみなく注ぎこんでいるように
見受けられますが、この構造だと麓に居館が置けないですね。
下に家臣たちの館があるので、主人は不便な主郭に住んでいたと思います。
権威を高めるためとはいえ、なかなか大変です。安土城もそうなんですけどね。

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pascal

羽柴秀吉の兵站基地 (2020/01/08 訪問)

 近江国甲賀郡は甲賀忍者で知られる様に、多くの小土豪が連携して生きていた“惣の郷”でした。
伊賀国と同様で、遺る城郭も小規模なものが多数点在しますが、中には大規模な城址が幾つかあります。

 黒川氏城のある鮎河の郷は、鈴鹿の山並みを背景に割とまとまった平地の有る、明媚な山里です。
野洲川に支流の鮎川が合流する地点にある『うぐい川公園』の駐車場に停めますが、鮎河は桜の名所なので、その時期の休日は避けた方が賢明かも知れません。

 鮎川に架かる橋の南詰めに大きな城址案内看板があるので、まず予習します。
あんれまぁ…、異様にデカイ城だから、これは訳ありですね(^^;
当時の甲賀郡の石高は7万石余りで、そこに甲賀53家と言われる小土豪が割拠していました。
平均すると1千7百石…、兵力にして30~40人というところです。
おのずと城の大きさも限られますね。

 城址は200m南の杉林になった丘の上にあるので、田圃の畦道を通って向かいます。
害獣柵のゲートが2箇所あるので、“あとぜき”忘れずに。
 杉林に入ると、間伐や枝打ちの材が放置されていて、雑然としていますが、郭の土塁のシルエットは判ります。
『デ、デカイ!』、想像以上で、ドアを開けたら目の前に八村塁が立っていた感じかな(^-^;
虎口に石を使い、雁木まで備えた主郭は土塁も高くて堅牢ですが、それよりも驚くのは副郭の大きさで、小学校跡地かな?と思えるほど。

 こんな城を造り、維持できる氏族は甲賀には居ませんし、一時的にかなり大きな兵力の収容を意図した縄張りですね。
そうすると、天正11年(1583)の滝川一益と天正12年の織田信雄を攻めた秀吉の“伊勢侵攻”に使われた…と見るのが妥当です。
この鮎河は、鈴鹿山脈を越えて伊勢に至る街道が集まる場所です。
 この城に集まった秀吉軍は、“鈴鹿越え”で新所城へ、“安楽越え”で亀山城へ、そして“千草越え”で桑名城へと、続々と攻め込み、その兵站もこの黒川氏城が担ったのでしょうね。

 その後、紀州攻めの失策で秀吉に改易された甲賀衆ですが、黒川氏は関ヶ原に徳川方で参戦して功を挙げ、徳川旗本として召し抱えられます。
知行地は鮎河近郷の七ヶ村でしたから、約4千石の高給旗本で地元に帰り咲いた訳ですね。
城址の麓の郭には家来の名前が伝わるものも有る様ですから、この城跡に代官所を置いていたのかも知れません。

 鮎河の郷は鮎河家と大河原家が領していた筈(ひとつ南の谷間が黒川郷で、黒川城も有る)ですから、“黒川氏”の銘々を不思議に思っていましたが、謎が解けました。

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いんげん丸虫

遺構も雰囲気も最高 (2020/11/21 訪問)

丘陵に築かれた城で大規模な曲輪、堀切、土塁、石積等しっかりと堪能できます。獣避け柵を開けて訪城します。過度な整備はなく最小限の看板ですが、実に雰囲気が良く素晴らしい城跡だと思います。

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ぴーかる

黒川氏城 (2020/01/04 訪問)

【黒川氏城】
<駐車場他>鯎川(うぐいかわ)公園駐車場
<交通手段>車

<見所>曲輪・土塁・堀切・横堀・堅堀・石垣・切岸
<感想>新春1泊2日伊勢攻め城の旅5城目。松阪からの帰路で攻め城を決めるのにYAICHIさんのお勧め投稿を見て決定し登城した。
 城跡入口は県道9号線の鯎川の橋の脇に城跡の説明板があり、入口ゲートがありますのでそこから入ります。南に200㍍程行ってもう一度城山のゲートを入ると城跡に入れます。
 
 現地案内板より抜粋・まとめるとこの城跡は「複数の曲輪、石垣を用いるなどして甲賀市域に存在する城とは大きく異なる様相をもつ。主郭土塁内側にある雁木は近世城郭の特徴であるが、一直線状にのびる大手道周辺に複数の曲輪を配するなど、織豊期城郭の要素が強くみられる。このことから本城は1584年の羽柴秀吉による北伊勢攻撃の際に築城され、その後黒川氏が旗本として徳川家に仕え1622年以降に主郭周りに改修を加えた可能性が考えられる。」とあります。

 城跡は大きく分けると北側半分が主に方形の屋敷跡群があり、南側半分が主郭を中心とした帯曲輪・山の地形に沿った曲輪の配置をしている。まず北側半分の曲輪群を攻める。縄張り図郭Ⅳ・Ⅴおよび北側の曲輪群までは階段状に曲輪があり、そこから南側の曲輪群は比高がぐんと上がるかたちとなる。縄張り図Ⅳの西側の曲輪切岸は高さ20㍍以上あり見応えある。Ⅵ曲輪北側は横堀を備え、切岸は14㍍程、虎口に石垣遺構が残る。2重堀を備えた曲輪もある。
 次に南側半分の主郭を中心とした部分を攻める。主郭南側は大堀切、いくつかの曲輪を備えている。主郭周辺は主に帯曲輪、主郭虎口は北側・西側の2箇所にあり、石垣遺構が残る。西側の虎口受け箇所には石段遺構も見られる。主郭は横堀があり周囲は切岸17~18㍍程はある。主郭北側虎口の北側は傾斜がきつく、道もないので散策はできなかった。
 城郭規模が大きいのでたっぷり2時間弱十分堪能できました。私も後追いですがお勧めします。見応えあるいい城跡です。

 これにて1泊2日伊勢国攻め城の旅終了、564㎞無事走破。

<満足度>◆◆◆

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 黒川玄蕃佐
築城年 永禄年間(1558〜1570)
主な改修者 羽柴秀吉
主な城主 黒川氏
遺構 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、堅堀、石垣
再建造物 説明板
住所 滋賀県甲賀市土山町鮎河