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橋吉

道の駅に隣接している (2018/04/30 訪問)

古宮城から、国道301号線を南へ800m移動し、亀山城へ向かいました。
上野国から三河国作手地方に移住した奥平貞俊は、1424(応永31)年に亀山城を築き本拠地としました。
元亀年間(1570年~1573年)には、貞能の子貞昌(信昌)が甲斐国の武田氏に従属したため、武田氏の三河侵攻の拠点となりますが、1573(天正元)年には徳川氏へ転属します。
関ヶ原の戦いの後、1602(慶長7)年には信昌の四男松平忠明が城主となり作手地方支配の拠点となりましたが、1610(慶長15)年に伊勢国の亀山城へ移封されると、城は廃城となりました。

国道301号線沿いにある道の駅「つくで手作り村」の第二駐車場脇に亀山城址入口があります。

小さな丘の上に、土塁に囲まれた本丸と二の丸があり、そのまわりを小さな曲輪が取り囲んでいる単純な縄張りです。

道の駅に隣接していることもあり、見学者がたくさんいました。
高低差はさほどなく、よく整備されていることもありピクニック気分で訪れることもできます。

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昌官忠

クラブツーリズム「信州桜吹雪」1泊2日③ (2017/04/08 訪問)

クラブツーリズム「信州桜吹雪」1泊2日の3城目は高田城です。松代城からの転戦です。

高田城は2回攻城しています。
①2017/04/08(今回) クラブツーリズム「信州桜吹雪」ツアーでの攻城
②2018/11/11 続100名城スタンプ押印目的の攻城(投稿済)

夜桜がライトアップに映え、とても綺麗でしたが、降雨と稚拙な夜間撮影技術の為、ピンボケしまくりです。
かろうじて見えるものを選んで投稿します。攻城時間は50分くらいでした。

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昌官忠

クラブツーリズム「信州桜吹雪」1泊2日② (2017/04/08 訪問)

クラブツーリズム「信州桜吹雪」1泊2日の2城目は松代城です。上田城からの転戦です。

松代城は2回攻城しています。
①2017/04/08(今回) クラブツーリズム「信州桜吹雪」ツアーでの攻城
②2018/10/07  100名城スタンプ押印目的の攻城(投稿済)

桜を見るツアーですが、桜は咲いていません。団体移動の為、ツアー客がどうしても写真に写り込んでしまいます。
極力人が写っていない写真を選んで投稿しました。攻城時間は60分くらいでした。

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昌官忠

クラブツーリズム「信州桜吹雪」1泊2日① (2017/04/08 訪問)

クラブツーリズム「信州桜吹雪」1泊2日の1城目は上田城です。

上田城は3回攻城しています。
①2017/04/08(今回) クラブツーリズム「信州桜吹雪」ツアーでの攻城
②2018/06/24 電車&レンタサイクルを使って日帰りで、富士見城/小諸城/龍岡城や田口城などを一人で巡りました(投稿済)
③2020/10/13 自宅(千葉県)から車を使って妻と二人での攻城(投稿済)

桜は満開とは言えませんでしたが、観光客が多く、どうしても写真に写り込んでしまいます。
極力人が写っていない写真を選んで投稿しました。攻城時間は75分くらいでした。

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肉球

巨大です (2021/01/21 訪問)

寒さが緩みついつい外出してしまいました。
何度か訪れていますが城内全てを把握するのがなかなか困難です。
堀がきっちりと残っているので見学しやすくアップダウンもそれ程きつくありません
お城の南側の滝山街道沿いに専用駐車場があります。
隣はコンビニです。ピクニック気分で訪れている方も多くいます

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古市氏と筒井氏の争いの最前線 (2021/01/17 訪問)

平清水氏は、古市氏側。奈良盆地で古市氏と筒井氏が争っており、筒井氏側の喜多氏北村城と2〜3kmしか離れていない。この辺りは、奈良盆地から、かなり登っており、山間に狭い平地が点在する。
平清水城は、北城と南城がある。北城は、山続きの東側を堀と土塁で守り、西の村側は急斜面。郭の南にも土塁が続いていて回り込んで攻められるのを防いでいるようだ。
南城は、梅本神社背後の頂部まで行ってみたが、平削してあるような、自然地形のような。

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イオ

国史跡・安宅氏城館跡 (2021/01/10 訪問)

戦国中期に築かれた熊野水軍・安宅氏の本拠で、発掘調査によると戦乱の中、江戸初期に至るまで居館として機能していたようです。

日置川下流域の東岸に居館跡が、その南に武家屋敷や湊の伝承地があり、井戸跡もあるようですが、現在では一帯は宅地や田畑になっていて、宅地の下に遺構とされる石垣が見られるくらいです。

周囲には平地の居館である安宅本城の防衛のための城が数多く設けられており、北に八幡山城、日置川対岸に大野城、南の安宅荘全域を見渡す高所に勝山城が、日置川上流には中山城と土井城が、河口部には海上を見張るための大向出城があります。昨年3月にはこれら安宅氏居館(安宅本城)、八幡山城、中山城、土井城に境目の城・要害山城を加えた5城が「安宅氏城館跡」として国史跡の指定を受け、残る3城についても追加指定を目指しているようです。

駐車場はないため、八幡山城の登城後に安宅八幡神社の駐車場に車を駐めたまま訪れましたが(徒歩5分)、安宅八幡神社の社務所には安宅氏城館跡の航空写真やパンフレット、古地図などが多く掲示されていますので、電車で来られた方も立ち寄ってみる価値は充分にあると思います。
 

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昌官忠

クラブツーリズム「宮城・山形・福島の日本100名城制覇」の旅⑥ (2017/10/01 訪問)

「クラブツーリズム「宮城・山形・福島の日本100名城制覇」の旅」の6城目(ラストです)は多賀城です。仙台城からの転戦です。
100名城スタンプは「JR東北本線の国府多賀城駅」で押しました。

多賀城は大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として多賀城は神亀元年(じんきがんねん)724年に大野東人(おおののあずまひと)によって創建された城柵です。『日本後紀』に登場するようです。
平城宮跡(奈良県)、太宰府跡(福岡県)とともに日本三大史跡に数えられています。陸奥国府のほか、鎮守府が置かれました。
現在は国の特別史跡に指定され、政庁跡や城碑、復元された塀などが残されています。

平城宮跡(奈良県)、太宰府跡(福岡県)に比べるとちょっと地味かなという印象です。でも100名城なんですよね。
攻城時間は75分くらいでした。

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昌官忠

クラブツーリズム「宮城・山形・福島の日本100名城制覇」の旅⑤ (2017/10/01 訪問)

「クラブツーリズム「宮城・山形・福島の日本100名城制覇」の旅」の5城目は仙台城です。山形城からの転戦です。
100名城スタンプは「仙台城見聞館」で押しました。

仙台城は2回攻城しています。
①2017/10/01の今回でツアーを利用して一人で攻城
②2020/07/01に 大手門脇櫓を見学する為に一人で攻城(投稿済)

仙台城は「関ケ原の戦い」の後、伊達政宗によって築かれた城です。以降、約270年にわたり伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁でした。
現在は青葉山公園として整備されており、本丸には伊達政宗騎馬像が建てられています。

伊達政宗騎馬像の台座にあるレリーフ①遺欧使節団②朝鮮出兵の図③少年期の元服姿④従三位叙任の内、①と②しか写真を撮っていませんでした。
この時はツアーの見学時間の都合上、復元された大手門脇櫓が見学できないことが心残りで、レリーフが4枚あることは後で知りました。
大手門脇櫓の見学だけは2020/07/01にリベンジしましたが、残り2枚のレリーフは課題ですね。
攻城時間は60分くらいでした。

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昌官忠

クラブツーリズム「宮城・山形・福島の日本100名城制覇」の旅④ (2017/10/01 訪問)

「クラブツーリズム「宮城・山形・福島の日本100名城制覇」の旅」の4城目は山形城です。会津若松城からの転戦です。
100名城スタンプは「二の丸東大手門櫓内部」で押しました。

山形城は延文元年(1356)に羽州探題として山形に入部した斯波兼頼(最上家初代)が築城したのが始まりと伝えられ、現在の城郭は第11代城主最上義光(1546~1614)が築いたものが原型とされています。
本丸・二ノ丸・三ノ丸の三重の堀と土塁で囲まれた、全国有数の規模を持つ輪郭式の平城で、出羽の関ヶ原合戦「長谷堂合戦」で城郭が霞で隠れて見えなかったことから「霞ケ城」とも呼ばれていたそうです。
現在残っている二ノ丸の堀や土塁・石垣は、最上家改易後、元和八年(1622)に城主となった鳥居忠政により整備されたと伝えられています。
最上家により始まった山形藩は、最も長く藩主を務めた秋元家でも78年、最短の堀田(正仲)家は1年と、藩主の交代が非常に頻繁だったようで、義光の頃には57万石あった石高も、最後の藩主・水野家の頃には5万石とかなり減少しています。

現在城址は霞城公園として整備されており、桜と観光の名所になっています。
また、公園内やその近くには、山形市郷土館、山形県立博物館、山形美術館、最上義光歴史館などの多くの文化施設があります。

堀や石垣・土塁などが残っており二の丸東大手門も立派でした。もちろん最上義光公像もかっこよく正面から撮るよりは横から撮る方が絵になります
公園は広くないので、30分もあれば大丈夫ですが、近くにある文化施設を見るとなると+1時間は必要かと思います。
攻城時間は60分くらいでした。

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橋吉

城山公園 (2018/03/10 訪問)

尾張旭市には城山公園があり市民に、子どもが小さな頃連れて行ってあげたことがあります。当時はあまり気にならなかったのですが、城マニアとなった私は公園名を聞いただけでワクワクしてしまいます。

調べてみると、ここには新居城とよばれる城があることがわかりました。
新居城の歴史はよく分かっていません。
南北朝期の1361(康安元)年に水野良春が築城し、1460(長禄4)年頃にはその子孫である水野宗国によって築き直されたようです。
その後、戦国期に至ってどうなっていたのかは分かりません。

いきなり駐車場脇に、天守閣?
とおもったら、旭城という名のレストハウスでした。
もちろん、新居城にはこんな建物はなかったわけですが、
ここの良心的なのは新居城の縄張りをぎりぎり外れて立っているところです。

城跡は、駐車場から見ても、小高い丘になっています。
土塁,土橋,堀切が残っています。
本丸は、弓道場とテニスコートなっており、その周囲を土塁が取り囲んでいるようです。

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赤い城

武田と正木 (2020/01/19 訪問)

久留里線の東清川駅から登城口まで徒歩で20分くらい。
笹子地区の集落にあります。
入口の標柱を進むと民家、ぬかるんだ登城口から登りました。
一通り散策し帰ろうとしたら地元の方に声をかけられ「案内するよ」と。
この城、武田の城と正木の城に分かれているとのこと。
二人して藪漕ぎ、直登したのですがなかなかの大きな城、藪化した深い堀や鋭い切岸などをご案内いただきました。
私有地もあるのでご注意下さい。
久留里線は1時間に1本なので計画的に。

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牛若丸

だいぶ前に千葉ドライブで (2014/08/22 訪問)

館山城と久留里城と巡った時の写真です。
中は展示館となっており、本多忠勝好きには訪れたいお城です。

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牛若丸

だいぶ前に千葉ドライブで (2014/08/22 訪問)

以前に館山城と大多喜城と巡ったときの写真です。
この時は、外装補修中で足場が組んであり、ちょっと残念。また行きたいお城です。
結構、坂道を登りますが上から見るけしきは絶景です。

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笠置街道を行く (2021/01/17 訪問)

城びと未投稿の奈良県北東部の山間の二城を訪れた。笠置城の麓から、南に笠置街道を行き、北村城を目指した。途中に手書きの「上狭川城」の標識あり。
林道兼で、登城路が整備されており、容易にたどり着ける。単郭ながら、南の虎口は、二重升形で重厚な土の城。写真の6枚目以降。
北村城は、南側の民家脇から登城。庭先で作業中のご主人に道を聞くと、案内の後に、「何もないですよ」と。「十分、見応えあります」と応えた。
城跡は、南に深い堀切、北と東側に急な切り岸。
北村城の喜多氏は、山間の地ながら、筒井氏の重臣であったと。次に平清水城を目指した。

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カズサン

大手道側も草刈整備され良く観察出来ます (2021/01/16 訪問)

 この時期の本丸西土塁西側の鉢巻・腰巻石垣を先に写真投稿致しましたが大手道、大手門枡形、本丸東土塁の東側石垣、東門も草刈り景観整備され良く観察出来ます。久しぶりに石垣をじっくりと見る事が出来ました。
 石垣の観察は今の時期でしょう、これから3月に入るとミツバツツジが咲き、桜が咲き、ツツジが咲き夫々に趣の違った城跡景観が眺められます。
 先ずは今回撮った大手道方面の石垣写真を投稿します。(各曲輪、遺構跡の名称は浜松市文化財課2017年3月発行の二俣城・鳥羽山城探訪マップに依ります)

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昌官忠

クラブツーリズム「宮城・山形・福島の日本100名城制覇」の旅③ (2017/09/30 訪問)

「クラブツーリズム「宮城・山形・福島の日本100名城制覇」の旅」の3城目は会津若松城です。二本松城からの転戦です。
100名城スタンプは「天守閣内売店」で押しました。

会津若松城は、1384年の南北朝時代に蘆名直盛(あしな なおもり)に居城として創営されたことからはじまりました。当時はその名を黒川城といいました。
1589年には蘆名氏を滅ぼした伊達政宗が黒川城に入城します。翌年、豊臣秀吉は、奥州仕置によって政宗から城を取り上げ、築城の名人と称され、秀吉の信頼が厚かった蒲生氏郷が入城しました。
黒川城に入城した蒲生氏郷は、城を5層から7層へ近世城郭へと改造し、城の名前を「黒川城」から蒲生家の家紋の舞鶴にちなみ「鶴ヶ城」と改名しました。
蒲生氏郷の死後、上杉景勝が入城しますが、関ケ原の戦いで徳川家康に敗れ米沢に追い出されてしまいました。
その後、蒲生氏や加藤氏が入り、1643年に徳川秀忠の子、保科正之が入り、保科家の三代目正容の代に松平の姓が許され、幕末まで松平氏が領主として君臨することとなりました。
鶴ヶ城の最期の城主、松平氏が藩主を務める際に、鶴ヶ城で最も有名な出来事である会津戦争が起きました。

現在の天守は1965年(昭和40年)に外観復元されたものですが、さらに2011年(平成23年)に黒瓦を当時と同じ赤瓦に復元したようです。
また、天守にあるシャチホコは瞳には2カラットのダイヤモンドが埋め込まれているそうですが、見てみたいですね。
見事な赤瓦を備えた五層天守、水堀、石垣のすべてが圧倒的な存在感を出している素晴らしい城址でした。特に二の丸から見る本丸の高石垣は圧巻です。
攻城時間は60分くらいでした。

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イオ

なかなかの土木量 (2021/01/10 訪問)

室町期に熊野水軍・安宅氏により築かれた城で、平地の居館である安宅本城の詰めの城として機能しましたが、戦国中期に一族の跡目争いの中で落城し、発掘調査によれば火災後に改修された様子がないため、そのまま廃城となったものと思われます。

安宅八幡神社の裏山が城域で、神社の駐車場に車を駐め、津波避難場所として整備されている登城路を5分ほど登っていくと、幅の広い横堀に行き当たります。横堀の真ん中の土橋を渡ってさらに登り、平入りの虎口を抜けると二の曲輪です。二の曲輪は南北に細長い曲輪で、周囲を土塁が取り巻いています。
二の曲輪から一の曲輪(主郭)への本来の登城路は、一の曲輪南西部の虎口にまっすぐ登るルートだったようですが、一の曲輪北下の帯曲輪を経て北側から入るルートに改変されています。一の曲輪の周囲は土塁が取り巻いており、北東部(祠の奥)は櫓台状に高く分厚くなっています。一の曲輪東側の虎口を出ると、東下に小さな腰曲輪があり、そこから北に土塁を越えて進むと、巨大な竪堀が東斜面に落ち込んでいます。その竪堀から西方向には岩盤を削り込んだ深く幅広い堀切が伸び、反対側の西斜面で竪堀となっています。堀切を越えた先にも竪堀が設けられ、北尾根からの侵攻への備えは万全です。
三の曲輪へは一の曲輪南部の虎口から二の曲輪南東辺の土塁上を行く……はずですが、虎口が封鎖されていたので、いったん二の曲輪に戻って南東辺の土塁に上がりました。二の曲輪と三の曲輪の間は堀切で遮断され、二の曲輪南辺の土塁が土橋状の通路となっています。三の曲輪も周囲を土塁が囲み、南端の八幡神社からの斜面を堀切で断ち切っています。二の曲輪と三の曲輪の間の堀切は西斜面では竪堀となっており、堀底を下りていくと、二の曲輪西下の横堀へと続いていました。横堀の南端の西辺からは土塁が北に続いています。

決して大きな城ではありませんが、横堀は幅広く、堀切は深く、各曲輪は分厚く高い土塁で囲まれ、虎口は未発達ながら土木量はなかなかのもので、大いに見応えがありました。
 

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昌官忠

クラブツーリズム「宮城・山形・福島の日本100名城制覇」の旅② (2017/09/30 訪問)

「クラブツーリズム「宮城・山形・福島の日本100名城制覇」の旅」の2城目は二本松城です。白河小峰城からの転戦です。
100名城スタンプは「二本松市歴史資料館受付窓口」で押しました。

二本松城跡の築城は、古く畠山満泰が応永21年(1414)に塩沢の田地ケ岡よりこの白旗ケ峯に居を移し、二本松城と号したとされています。
天正14年(1586)に伊達政宗が畠山氏を滅ぼして二本松城は伊達の支城となりましたが、豊臣秀吉の奥州仕置以後、二本松は蒲生・上杉の支城として城代が置かれました。
その後松下・加藤氏を経て、寛永20年(1643)に丹羽光重が10万700石で入封、城内の石垣等の修築を行うとともに城下町整備を行い、二本松藩の居城として明治維新に至りました。
慶応4(1868)年7月、二本松少年隊の悲話を残して落城しました。

現在は「霞ヶ城公園」として整備されており、山上の本丸には天守台が再建されています。
また麓に復元された箕輪門近くには幕末の戊辰戦争でふるさとを守るために若い命を散らした「二本松少年隊」の群像があります。
自分が攻城した時は、本丸天守方面はロープが張られていて行けませんでしたので、三の丸付近のみの見学でした。消化不良です。
攻城時間は40分くらいでした。

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昌官忠

クラブツーリズム「宮城・山形・福島の日本100名城制覇」の旅① (2017/09/30 訪問)

城びと入会時の2020/7/29に「こじんまりとした三重櫓がいい味出しています」のコメントを投稿していましたが、内容がないので再投稿します。

「クラブツーリズム「宮城・山形・福島の日本100名城制覇」の旅」の1城目は白河小峰城です。
100名城スタンプは「白河集古苑」で押しました。

小峰城は、南北朝期の興国・正平年間(1340~1369)に、結城宗広の嫡子親朝(小峰氏を創設)がこの丘陵に城を築いたのが始まりとされています。
その後永正年間(1504~1520)頃には白河結城氏の本城となったと推定されるようです。
天正年間には常陸佐竹氏の影響下におかれ、その後天正18年(1590)豊臣秀吉により所領を没収されて、結城氏による白河地方の支配は終ったようです。
その後、蒲生氏、上杉氏など会津藩の領地となり、城代が当城におかれました。蒲生秀行の時代には城下の整備もなされたとされています。
現在にその名残をとどめる近世城郭は、寛永4年(1627)に10万石余で棚倉より入封した丹羽長重が、幕命を受け寛永6年(1629)より大改修を行い、同9年完成させたものです。
丹羽氏以後、松平(榊原)、本多、松平(奥平)、松平(結城)、松平(久松)、阿部氏と7家21代にわたる居城となっています。
慶応2年(1866)阿部氏の棚倉移封後は、二本松藩丹羽氏の預かるところとなり、慶応4年(1868)の戊辰戦争白河口の戦いにより落城焼失しました。

白河小峰城は、東北では珍しい総石垣造りの城です。盛岡城、会津若松城とともに東北三名城のひとつにも数えられています。
天守相当の御三階櫓は戊辰戦争の際に焼失しましたが、1991年(平成3年)に復元されました。
この御三階櫓は数少ない木造復元天守のひとつで、JR白河駅のホームからもよく見えます。
木造の三重櫓、前御門が美しい。何より石垣が美しく見応えがあります。攻城時間は60分くらいでした。

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