JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の12城目は久能山城です。
八幡山城から転戦。久能山参道付近の富久屋土産店駐車場(34.960097、138.468218)に駐車しました。
久能山城は、1568年(永禄11年)武田信玄は久能山にあった久能寺を移転させて跡地に久能山城を築き、板垣信安が城主でした。
1572年(元亀3年)板垣信安が田中城へ移動すると、今福浄閑斎・昌和父子が守将となります。
1582年(天正10年)徳川家康が駿河へと侵攻して江尻城主穴山信君が徳川氏に降ると、今福昌和も開城して甲斐へと去り、1583年(天正11年)には家康の家臣松平松平康俊が在番しました。
1586年(天正14年)松平康俊が病没。養子・松平勝政が家督を相続します。
1586年(天正14年)家康が秀吉の要請に応じ、徳川家が豊臣家に臣従します。
1590年(天正18年)小田原征伐の論功行賞で徳川家が関東に移封、中村一氏の所領となり松下吉綱が城主になります。
1600年(慶長5年)中村一氏が関ヶ原の戦いの直前に病死。死の前に家康への味方を約しており、嫡男・中村一忠は東軍へ参陣します。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの論功行賞において、中村一忠が伯耆米子城へ移封。久能城は大久保忠政が城主になります。
1607年(慶長12年)徳川家康の要請を受け榊原清政が久能城の城主になります。
1607年(慶長12年)榊原清政が病没。三男・榊原照久が家督を相続します。
1616年(元和2年)徳川家康が死去。家康の遺言により愛宕曲輪に埋葬され、久能城は廃城となり久能山東照宮が造営されました。
ロープウェイ休止中。付近のお店は全て閉まっていました。(お土産を買う予定でしたのでガッカリ、強雨&ロープウェイ休止なら来るお客さんもいないので閉まっていて当然ですね)
強雨の中、石段を登る根性なし。参道入口付近で引き返しました。
攻城時間は15分くらいでした。
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