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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:田中城 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の6城目は田中城です。
花倉城から転戦。下屋敷駐車場(34.871341、138.279430)に駐車し、櫓&門&下屋敷(34.871202、138.278132)に向かいました。

田中城は1537年(天文6年)に駿河今川氏によって築かれました。
1570年(永禄13年)の武田氏による駿河侵攻以降、三河の徳川氏に対抗する駿河西部の城砦網の要として重要視されました。
1570年(永禄13年)武田信玄により攻め落とされ、馬場信春により改修。田中城に改名。武田家家臣山県昌景が入城しました。
1582年(天正10年)甲州征伐の際、徳川勢により攻められるが城将の依田信蕃が頑強に抵抗し、主家の武田勝頼の死後まで守り抜きますが、武田家を離反した穴山梅雪の説得で開城。徳川家の高力清長が入城しました。
1590年(天正18年)の徳川家関東移封後は駿府城主中村一忠の管轄となりました。
1601年(慶長6年)酒井忠利が田中藩主となり城域の拡張や藤枝宿の城下町への取り込みなどを行います。
1609年(慶長14年)酒井忠利は川越に転出し、以後は駿府に居を構える徳川頼宣・徳川家康によって支配されます。
1616年(元和2年)徳川家康は田中城に立ち寄り、茶屋四郎次郎に供されて鯛の天ぷらを食し、これが家康の死因とする説があります。
1633年(寛永10年)以後、松平氏、水野氏、北条氏等が封じられました。
1730年(享保15年)本多正矩が4万石で封じられ、以降明治維新まで同地に拠ります。
1868年(明治元年)最後の田中藩主本多正訥が安房長尾藩に移封され、駿河国に転封となった徳川本家(静岡藩)の支配地となり、高橋泥舟が城を預かった後、廃城となりました。

当時の遺構は水堀と石垣がわずかに残るだけですが、江戸時代後期、田中藩主・本多家の庭園であった別荘が史跡公園(田中城下屋敷)として整備され、本丸櫓や茶室が復元されています。
また、近隣の旭傳院に不浄門が移築され現存しているそうですが、自分は行っていません。

下屋敷の受付の方が本日初めて(着いたのはお昼でしたが、降雨の中、見学される方が少なかったのかな?)のお客さんとのことで、立派なパンフレット等をたくさんくれました。
駐車無料です。下屋敷を見学後、城址の住宅街(三の丸土塁➡大手二之門跡➡三之堀跡)を回る予定でしたが、降雨の中、やめました。
攻城時間は25分くらいでした。

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にのまる

【お城川柳】

身を賭して使命果たせし石ありき

奇跡ではなく。

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赤い城

三枚橋城を利用して築かれた城 (2021/07/18 訪問)

沼津駅から徒歩で5分くらいの中央公園に石碑が立っていてこの辺りが本丸とされています。
元々は武田勝頼が戸倉城に対抗して築いた三枚橋城。
その後徳川配下となり、江戸初期に一旦はとなりましたが水野忠友が沼津に入り、三枚橋城を利用して沼津城を築きました。
三枚橋城よりは小規模なものでした。
中央公園に立つ石碑の周りには三枚橋城の石垣になっていた石が利用されています。
街中を歩くと痕跡はいくつかあるようですが現在の沼津はラブライブの聖地になっているようです。

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あべっち

川柳

城中は 殿様気分 妻の前

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あべっち

川柳

石垣に 思いを馳せる 殿気分

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火ノ島豊後守正宗

金田城 (2021/07/23 訪問)

続54城目。
国境の島・対馬にやってきました。
博多港よりフェリーで4時間かけて対馬港に到着。
翌日、「観光情報館ふれあい処つしま」にてスタンプゲット。
そして自転車をレンタルして金田城跡を攻略しました。
自転車で1時間。登頂で1時間・・・・往復4時間の強行軍でしたが、
山頂についた時の達成感は半端なかったです。
山頂で食べたおにぎりが大変美味でした。

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城好きのメガネ

「古渡城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
古渡城は、三河松平氏を牽制するために織田信秀が築いたとされる。織田信秀は弾正忠・織田信定の子であり、織田信長の父である。尾張清州城主・守護代・織田大和守の一族ではじめ三奉行の一人。主家を圧倒し、勢力を拡大させる。1538年頃に、那古野城を奪取し、安祥城を攻略、小豆坂の戦いで今川氏を破り、西三河を制圧した。美濃にも出陣するも、斎藤道三に敗れ、濃姫と信長を婚姻させ講和。人生の大半を尾張統一にかけた英雄であった。那古野城を織田信長に与え、自身は古渡城に入る。その後、末森城に移ったため廃城となる。現在、城跡は「真宗大谷派名古屋別院」となっており、遺構は消滅している。

<アクセス>
名古屋市営地下鉄・名城線 東別院駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「羽黒城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
羽黒城は、鎌倉幕府の別当であった梶原氏が当地に移住し築いたとされる。別名、梶原氏館。17代・梶原景義が織田信長に仕えるが、本能寺の変で討ち死にしたため、梶原氏は廃絶した。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
名鉄小牧線 羽黒駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「楽田城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
楽田城は尾張守護代であった織田久長が築城したとされる。その後、犬山城主・織田信清に攻略され支配下に入る。小牧・長久手の戦いでは羽柴秀吉の陣所となる。小牧・長久手の戦い後に、廃城となる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
名鉄小牧線 楽田駅 徒歩10分

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:花倉城 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の5城目は花倉城です。
諏訪原城から転戦。県道215号線から左側へ(34.915829、138.242582)入り、この付近(34.913383.138.229655)から右折、登城口付近(34.9148966、138.2256611)に駐車しました。

1352~56年(文和年間の間)頃に今川範氏によって築かれた城で、範氏から今川泰範、今川範政と三代にわたる今川氏の居城でした。
今川範国は足利尊氏に従って戦功を挙げ、1336年(延元元年)に遠江守護、次いで駿河守護となりました。
しかし、駿河では南朝方の狩野貞長が安倍城に拠り、北朝方に激しく抵抗していました。
今川範氏が家督を継いだのは1353年(文和2年)で、この頃に花倉城が築かれたと思われます。
1404年(応永11年)今川範政が本拠を駿府へ移しました。
1394~1428年(応永年間の間)頃、今川氏に抵抗していた狩野氏が降伏し、これを機に4代目の駿河守護・今川範政は、駿府に館を築いて移りました。
1536年(天文5年)に当主今川氏輝の急死により勃発した、「花倉の乱」では今川氏の重臣である福島氏が、花倉遍照寺の僧で栴岳承芳(後の今川義元)の異母兄である玄広恵探を擁立して、この城を拠点に抵抗しましたが、栴岳承芳派の総攻撃によって同年に落城。玄広恵探は敗走の後自害し、乱の終結を決定付けました。
この戦い以後、花倉城が史料に登場しないため、この時に廃城になったとみられます。尚、後北条氏で勇名を馳せた北条綱成は、この福島氏の出身のようです。

高速は通行止め。迂回した国道1号は大渋滞。予定移動時間を35分もオーバして到着しました。
たくさん写真を撮りましたが、強雨の為、ピンぼけとほとんどの写真に大きな雨粒が写り込んでしまい投稿できません。(ピンぼけな物もありますが、ご容赦願います)
攻城時間は35分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:諏訪原城 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の4城目は諏訪原城です。
勝間田城から転戦。ビジターセンタ駐車場(34.8161400、138.1179506)に駐車しました。

1568年(永禄11年)駿河に侵攻して今川氏真を遠江掛川城へと追いやった武田信玄は、翌1569年(永禄12年)に大井川を越え金谷台地に五砦を構えます。
その一つが金谷城(諏訪原城の前身)で馬場信春に命じて築かせ守将としましたが、同年に徳川家康の家臣永井安盛・安倍定吉らが攻めて攻略しています。
1573年(天正元年)高天神城攻略を目指す武田勝頼は、馬場信春・武田信豊に命じて諏訪原城を再度築城し、1574年(天正2年)には徳川方の小笠原長忠の守る高天神城を攻略します。
1575年(天正3年)徳川家康は武田方の海野・遠山氏らが守る諏訪原城を2ヶ月に及ぶ包囲戦を行い攻め落とし、松平康親を城将として入れ、城名を牧野原城と改めました。 
1578年~1581年(天正6年~9年)にかけて家康は松平家忠らを城代として入れ、城の修築を行います。
1581年(天正9年)に武田方の高天神城が落城、翌年には武田勝頼が滅びると城主松平康親は駿河三枚橋城へと移りました。
諏訪原城を明き城となり掛川城預かりとなったが、1589年(天正17年)頃には廃城となったと推定されていまする。
『諏訪原城』の名は、城内に諏訪大明神を祀ったことからついたと言われています。

ビジターセンターに8台ほど駐車できます。とてもきれいに整備され順路も判りやすく案内されており、お城に詳しくない方でも楽しめると思います。
自分が攻城した時は強雨で、ビジターセンターが開くまで車で待っていたのですが、係の方が15分前に開けてくださり、二人でお城談義をして楽しみました。今は草が多く、本当はもっと堀は深いとおっしゃっていました。
たくさん写真を撮りましたが、強雨の為、ほとんどの写真に大きな雨粒が写り込んでしまい投稿できません。(空堀と馬出の凄さをお伝えできないのが残念です) 久々の感動です。
攻城時間は50分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:勝間田城 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の3城目は勝間田城です。
小山城から転戦。城址駐車場(34.781425、138.159098)に駐車しました。登城口まで徒歩10分くらいかかりました。

鎌倉時代初期からこの地を領した勝間田氏が南北朝時代に築城したとされているが、詳細はわからないようです。
1476年(文明8年)勝間田氏は横田氏とともに見付で今川義忠と争って敗れ、勝間田氏は一族離散となって滅亡したそうです。
その後、戦国時代に遠江に侵攻した武田氏によって、北の曲輪(二の丸)一帯が改修・増築されたと考えられています。
現在城址には縄張りがほぼそのまま現存しており、中世山城と戦国時代の山城それぞれの特徴がよくわかる遺構が良好に保存されています。

県道233号に勝間田城の看板があり判りやすいと思います。駐車場があり5台くらい停められます。
綺麗なトイレがあり、トイレのポストにパンフレットがあります。アスファルトで舗装された道を歩いて10分程で城址に辿り着けます。
たくさん写真を撮りましたが、強雨の為、ほとんどの写真に大きな雨粒が写り込んでしまい投稿できません。
攻城時間は35分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:小山城 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の2城目は小山城です。
相良城から転戦。駐車場入口(34.778582、138.2478)から侵入して駐車しました。

小山城の築年は不明ですが、武田四天王のひとり馬場信春によって築かれた城で、今川氏によって築かれた山崎の砦が土台となったとされます。
今川義元が桶狭間の戦いに敗戦して以降、武田信玄と徳川家康は、大井川を境界として駿河を信玄、遠江を家康が領有することを約束していました。
しかし1568年(永禄11年)12月、信玄がその約束を破って侵攻し、今川氏真を討って山崎の砦を攻略します。
対して家康は松平真乗に城砦周辺の領地を与え、1570年(元亀元年)4月に城砦を落とすことに成功します。
1571年(元亀2年)2月、甲州から2万5,000人の兵を率いて攻め入った信玄はこれを真乗から奪取して「小山城」と名付け、大熊朝秀(長秀)を城主におき遠州攻略の拠点としました。
それまで小規模の城砦にすぎなかったものが、武田方の改築によって本格的な築城がなされたとされています。
小山城築城は大井川西方の防衛ラインを形成し、武田方にとって高天神城攻略の為の拠点となり、信玄は三河にて足助、田代、二連木を取ったとされます。
武田勝頼が長篠の戦いに敗退、諏訪原城も落城し、残兵が逃げ帰った先が小山城でした。
勢いに乗った徳川軍は小山城を攻撃したが、城番の岡部元信らの防戦により落城は免れた。小山城は堅牢であったため、滝堺城を通じて武田方の最前線である高天神城への補給路の要となっていました。
これに対し徳川軍は、城の南方にある吉田田んぼの青田刈りで食糧攻めを行い、1581年(天正9年)3月に高天神城が落城、翌1582年(天正10年)2月に織田・徳川軍による甲州征伐が開始されると、戦況をみた兵たちは城を捨て小山城は自落したそうです。

現在は能満寺山公園として整備されており、甲州流築城術の特徴である丸馬出し、三日月堀が史料を元に復元されています。
また、かつて物見台があったとされる三の丸跡に犬山城天守をモデルにした模擬天守(展望台小山城)が建てられています。
たくさんの写真を撮りましたが強雨の為、ピントがずれたもの多く残念。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:相良城 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の1城目は相良城です。
牧之原資料館P(34.685970、138.198127)に駐車しました。

相良城は1768年(明和5年)老中・田沼意次によって築かれました。
その前身は甲斐国武田氏によって築かれたもので、後に徳川氏の領する所となり、鷹狩りに使用する「相良御殿」となっていました。
江戸時代になると陣屋・城主格の大名が次々と入れ替わったが、本格的に城が築かれたのは、将軍の側用人から後に老中まで出世した田沼意次によってだそうです。
田沼は老中時代に5万7000石を領していたが、老中を辞して失脚すると家督を継いだ孫の意明は陸奥国下村で1万石となり、相良城は破却されました。
1823年(文政6年)意次の二男意正が相良に1万石を与えられ、相良城の二の丸に相良陣屋を築き明治まで続きました。
1868年(明治元年)徳川宗家が駿府70万石に移ったため、相良藩田沼意尊は上総国小久保へ転封となって移ったそうです。

朝早いので牧之原資料館は開いていませんでした。どしゃぶりの中、石垣を見落としました。
史料館前に、田沼意次像と徳川家達書の城址碑がありました。そこから、徒歩で約5分のところの相良小学校校門のところに、土塁と松がありました。
攻城時間は20分くらいでした。

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にのまる

【お城川柳】

廃城を知らぬが如く聳え立ち

これまでも、これからも。。。

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にのまる

【お城川柳】

願わくは平和の徴となりますよう

このすがたのままで。

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赤い城

富士山と相模湾の眺めが良い。 (2021/07/18 訪問)

港に駐車場があり石碑と説明板が立っています。
登城口から登ると第四曲輪と第三曲輪の間の堀切に出ます。
第三曲輪と第二曲輪の間の堀切には跳ね橋があったとされています。
第二曲輪には土塁が残り、主郭との間にも堀切の跡。
展望台も建っていて富士山と相模湾の眺めは絶景でした。
主郭から相模湾に向かい、段になった腰曲輪がありました。
南側には竪堀が一条、その下には安宅船の船族が復元展示されています。
北条氏が武田水軍に対する防衛拠点として機能し、梶原景宗が守った城です。
整備もよくされていて歩きやすい城でした。

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小城小次郎

難読地名はさすがに由緒正しき地名のようだ (2021/05/02 訪問)

周匝を「すさい」とすらすら読める人は地元の方か難読地名に強い方だろう。スサノオ伝説≒砂鉄(スサ)生産地に由来する由緒正しき地名なのだそうだ。模擬建築に惑わされることなかれ。いい遺構が残っている。

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まっぴー

【お城川柳】お城好きあるある?

①外眺め 見えた地形が 城のよう 

ドライブなどでぼーっと外の景色を見ている時、土の盛り上がりだったり、凹みを見ると、ついつい土塁や堀に見えてしまいます。
もう城好き末期なのかもしれません。(笑)

②楽しみは 城巡り前の 計画時

城巡り中はもちろん楽しいですが、なんだかんだ、どこに行くかを考える計画する時間が一番楽しいんじゃないかと感じる時がよくあります。

③予定なし それでも常備 スタンプ帳

たとえお城に行く予定がなくても、スタンプ帳はいつの間にかバックに入れてしまっています。
いつでもバックに入っていないと不安になってしまいます。

④虫苦手 それでも城なら 平気かも!?

相当虫は苦手ですが、お城のためなら山城の草むらにでも突っ込んでいけます。
好きって凄いですね。(笑)

以上4つの城好きあるある川柳を作ってみました。
自分のことで作ったので「それはないでしょ!」というものはあるかもしれませんが、皆さんは当てはまるものがありましたか?あったら嬉しいです。

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ぴーかる

ありがとうございます

「いいね」を押していただいたフォロアーの皆様、
にのまるさん 朝田辰兵衛さん お祝いのお言葉・祝桜の御写真ありがとうございます。とても嬉しいです。

 一級の受験に際して城びとの皆様方の投稿や記事・特集で得た情報や知識が大変役立ちました。当サイトがなかったら到底無理だったかと思います。加齢による記憶力の低下でなかなか覚えられず苦労しました。一級合格が一つの大きな目標だったのですが、これからも日々精進してまいりますので今後もよろしくお願い致します。

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