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Tiger

主郭石垣とカモシカの親子 (2018/11/11 訪問)

霧の中に見える石垣は幻想的でした。カモシカは好奇心旺盛な生き物です。

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町奉行所 (2021/07/22 訪問)

 JR川尻駅から徒歩10分くらいの所にある古城神社、川尻公園付近が城址です。案内板はありませんが、川尻公園に「町奉行所とお茶屋敷跡」の標識があり、その横に鎌倉時代から室町時代にかけて地頭職河尻氏の河尻城があったと記載されていました。

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竹崎季長 (2021/07/22 訪問)

 元寇のときに活躍した竹崎季長の居城と伝えられている城址です。
主郭付近まで車でいくことができます。主郭には竹崎季長城跡の石碑がありますが倒れていました。周囲には帯曲輪と思われる削平地があります。

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名和氏の城 (2021/07/22 訪問)

 主郭には城址碑があり、虎口付近には案内板もありました。周囲には堀の跡を見ることができます。建武の新政で登場する名和長年の子がこの付近を支配したときに築城されたといわれています。
国道3号線近くですが、見つけにくい場所にあります。

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お辻さん (2021/07/22 訪問)

 案内板はありますが、見つけるのに苦労しました。案内板によると空堀があるとのことでしたが、確認していません。この城の城主が辻姫という女性であったとの伝承があります。それでこのあたりの人は「お辻さん」とよんでいるそうです。姫は鈎野民部少輔の妻か娘で城主の死後、その代理として城主となっていたのではなかろうかと案内板には書かれていました。

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小西行長 (2021/07/22 訪問)

主郭が公園として整備され小西行長の像が立っています。石垣、堀が残っています。

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千畳敷と三城 (2021/07/22 訪問)

「千畳敷」と「三城」にわかれています。
「千畳敷」の方は堀があり公園として整備されています。堀は固められていて少し違和感を覚えますが、保護のためということです。堀底がボコボコしている未完の堀の跡と説明が書かれてありました。竪堀があるらしいのですが、夏草のためかよくわかりませんでした。「三城」の方は曲輪跡らしい削平地がありますが、藪となっている所もありました。石垣がありましたが、これは当時のものか否かわかりません。写真は添付しておきました。

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にのまる

【お城川柳】

抜けるのか?触ってみた人手を挙げて

はいっ(^o^)/

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にのまる

【お城川柳】

石工らは名より作品残しおり

匠の技!

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にのまる

【お城川柳】

また会いに来るねと風に囁きぬ

('ω')ノ 

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はるやま

2回目です。 (2021/06/30 訪問)

12月に頂上まで登りました。6月にふもとの館に行きました。改めて感銘を受けました。

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肉球

目立つ天守台 (2021/06/25 訪問)

前田利常の隠居城として改修された時の天守台が
県立小松高校の敷地内に残っています。
学校の敷地内ですが天守台近くから階段が備わっていて断りなく入れます。
前回訪れた時登れなかった天守台に手すりや柵が設けら再び登れるようになっていました。
駐車場はなく住宅街の生活道路に路駐です。
市内には二の丸鰻橋門が来生寺に常盤門が芦城小学校に移築されています。
また丸岡城の移築門も市内の興善寺に移築されてます。

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赤い城

北条早雲旗揚げの城 (2021/07/18 訪問)

原駅から徒歩30分だがこの日は車で登城。
駐車場は三の丸、坂道を登って行くと本丸に穂見神社が建ち、脇に続100名城スタンプとパンフレットが置いてあります。
神社の脇から登ると天守台、石垣が残っています。
西櫓台から本丸を見下ろすと発掘調査中であることがわかります。
本丸を囲む土塁には高さがあります。
天守台と北曲輪の間が最大の見どころ、大空堀。
深さもあり、折れも伴っています。
西側は岩盤を削ってあり鋭さも感じられました。
北条早雲今川氏親より与えられ、伊豆韮山へ攻め込む足がかりとした城。
その後は今川氏、武田氏、徳川氏など支配者が目まぐるしく変わった城です。
東駿河の重要な城郭として長い間機能したことにもなります。
これから整備も進んでいきそうですがやり過ぎないようにお願いしたいです。

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イシテル

神通力を持つ蛤石のある古城 (2021/07/17 訪問)

道の駅アルプ飛騨古川に車を停め、GoogleMapを頼りに宮川を渡り、県道から脇に入る林道を進んでいると山への侵入を阻む表示板が何枚かあり、そこから行くのを断念。宮川沿いの県道に戻り、歩いて行くと、「吉城コンポ」の看板があるGoogleMapの示す別のルートから山に入りました。多くの土、石が置かれた資材置き場に挟まれた道を行けどもGoogleMapが示す登城口が分らず、断念しようとした時、草が茂っている奥に山道があるのを見つけ、草むらをかき分けて入って行きました。入口が整備されておらず、夏場は登城口が判り難い状態です。でも山道に入ると意外と歩いやすい道が続き、15分程度で城跡へ到着します。神通力を持っていたと言われる「蛤石」が鍵の掛けられた小屋の中に置かれており、不思議な石であることが感じられます。
主郭まで進むと櫓台があり、櫓台から主郭を見ると、古川城の全体が望め、主郭の下には幾つかの帯曲輪があることが判ります。
場所が判り難い点はありますが、神通力のあると言われる不思議な蛤石を城跡で見ることが出来ます。

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ぴーかる

沼津城 (2021/07/10 訪問)

【沼津城】
<駐車場他>駐車場はなし。本丸跡にコインPあり。
<交通手段>車

<感想>1泊2日沼津・三島の城巡り旅5城目。沼津城は戦国時代と近世に2度築城されている。戦国時代は1577年武田勝頼が上杉景勝と同盟して後北条氏と手切れになり、戸倉城攻略の拠点として豆州境に築いたもの。武田氏滅亡後は徳川方の城となり、小田原征伐には豊臣秀吉も入城している。江戸時代初期は沼津藩大久保忠佐が入城したが嫡子無しで廃城となったり、城地が火災に遭ったりして、やがて開墾地となっていったようです。1740年に水野氏が沼津藩を与えられ改めてここに築城し直した。現代では識別の為に戦国時代の時の城は三枚橋城と名付けていますが同位置にあったようです。
 現在では遺構はかなり破却されているようで、本丸跡の中央公園に説明板、石碑の石台が当時の石垣石だったようです。行きませんでしたが各所にも復元の石垣があります。

<満足度>◆◇◇

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:賤機山城 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の10城目は賤機山城です。
丸子城から転戦。温浴施設「美肌湯」脇の道路を登ったスペース(34.989436、138.3724)に路駐しました。

賤機山城の築城年代は駿河の守護・今川範政が駿府に入った1411年(応永18年)ごろとされるが、さらに古いとする意見もあるようです。今川氏館の詰城として築かれたと考えられています。
1568年(永禄11年)に武田信玄が駿河へ侵攻した際には賤機山城と考えられている「籠鼻」に陣取り今川氏館に火を放って焼き尽くしています。
その後は駿河を手中にした武田氏の管理下に置かれましたが、1582年(天正10年)に徳川家康が駿府に入ると廃城となりました。
現在の賤機山は市街地に程近いハイキングコースとなっており、曲輪や堀切などの遺構を見ることが出来ます。
山麓にある臨済寺は今川氏歴代の菩提寺で、また太原雪斎ゆかりの寺として知られており、墓地には今川氏輝と太原雪斎の墓、そして中村一氏の墓があります。

温浴施設「美肌湯」の脇の道路を登りました。途中に3台分程度の駐車スペースがあります。
そこから歩くと10分足らずで賤機山公園頂上の戦没者慰霊塔に着くそうですが、丸子城で降りだした雨はますます強くなり、しばらく待って攻城を断念しました。
攻城時間は15分くらいでした。(ほぼ雨やみ待機時間です)

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:丸子城 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の9城目は丸子城です。
持舟城から転戦。誓願寺駐車場(34.9481965、138.3273671)に駐車しました。
道路沿いに説明板、登城口(34.948837、138.328737)の丸子の里自然歩道入口にむかいました。

丸子城は今川氏、武田氏に重視された城で、本丸は今川氏時代、武田氏時代と二カ所あるそうです。
山頂を中心に、今川時代に本丸があった北城と、武田時代の本丸の南城(千畳敷)を連結した縄張りになっています。
北城は応永年間(1394年-1428年)、駿河国守護今川氏の家臣、斎藤安元歴代の居城として築城され、北城の北側山麓には斎藤氏の居館が設けられていたそうです。
今川義忠が、1476年(文明8年)に戦死し、龍王丸(後の今川氏親)と、小鹿範満との間で家督争いが起きた際、龍王丸は一時丸子城で暮らしていたそうです。
家督相続した氏親が西進を目指すに当たり、駿河府中の防御を固めるため斎藤氏の居城を接収して、南の三角山方面に城域を拡大したのが南城だそうで、氏親以降氏真までの城主や歴史は不明のようです。
また、家督相続した氏親は直ちに駿府の今川館には入らず、1495年(明応4年)頃まで丸子城を今川氏の居館である丸子館にしたとする説も出されているようです。

1568年(永禄11年)武田信玄が駿河に侵攻すると、西駿河に残る今川方への押さえとして山県昌景が丸子城に置かれました。
1570年(永禄13年)信玄は駿河全域を制圧して、丸子城は諸賀兵部大輔・関甚五兵衛を在番とし、1578年(天正6年)頃には屋代勝永に替えました。この間、西方面の大規模な増築や各所の改修が行われたようです。
1581年(天正9年)高天神城落城を前に、武田方は徳川方に丸子城を明け渡して退去し、徳川家康は松平備後守(松平清善?)を置いたが、1590年(天正18年)の関東移封に伴い廃城となったようです。

登城路は整備されており、駿河匠宿の観光スポットを横目に、ちょっとわかりにくい登城口から入って険しい道をしばらく登ると、いきなり丸馬出の見事な遺構が現れて感動します。
攻城時、強雨となった為、本曲輪のみの見学で下城。誓願寺には片桐且元の墓があるそうですが、見学しませんでした。
本曲輪までの距離表示が急に伸びたのには驚きました。
攻城時間は40分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:持舟城 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の8城目は持舟城です。
花沢城から転戦。城跡駐車場(34.924851、138.360871)に駐車しました。登り口(34.924362、138.359222)まで徒歩3分くらいです。

はじめ今川氏の属将であった一宮元実によって天文年間に築城され、駿河守備の重要な支城として重用されたと伝わっています。
今川義元の妹婿である関口親永らが城主を務めました。しかし、桶狭間の戦い以降、今川氏が衰退すると、1568年(永禄11年)駿河国侵攻した武田信玄らによって攻められ落城しました。
武田氏城代として三浦義鏡、および武田水軍に招かれた向井正重らが入り、駿河湾に面していることもあり、水軍の城としての機能を持っていました。
新しく湊が作られ、現在のJR用宗駅付近が舟溜りとして使われたらしく、そのころ城名として「持船」の通称がついたといわれています。
1579年(天正7年)徳川家康の駿河侵攻により牧野康成らに攻められ、落城。城代の三浦、向井らは揃って討死してしまうが、すぐ翌年には武田勝頼らによって再び奪い返されて再建し、朝比奈信置が城代となります。
1582年(天正10年)甲州征伐によりまたも駿河に侵入した徳川家康により再攻撃を受け、降伏。城代朝比奈信置は久能山に退き、この際に廃城とされたと伝わっています。

城址駐車場より主郭へ。主郭北側を降りた場所に2段の曲輪がありました。強雨の為、撮った写真はピントずれまくりで、投稿できる写真は少ないです。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:花沢城 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の7城目は花沢城です。
田中城から転戦。城跡案内板(34.897754、138.328267)があります。登り口付近(34.897776、138.329883)はこのGPS座標で行けるはずです。

花沢城の築城は、1861年(文久元年)に新宮高平が著した地誌『駿河志料』では明応・文亀年間(1492年~1503年)としているが根拠はなく、花倉の乱終結直後の1537年(天文6年)頃ではないかと考えられています。
今川氏家臣・関口氏録が初代城主とされます。
1568年(永禄11年)より駿河侵攻を開始した武田信玄は、1570年(永禄13年)正月、城主・大原資良以下今川家臣の立て籠もる花沢城に攻め入りますた。
信玄は高草山中腹に布陣し、武田勝頼・武田信廉・長坂長閑らが攻撃を行います。
城兵は14日間に渡り奮戦したが、同月27日に降参し開城、大原資良は遠江に退去したと伝わっています。
現在城址には土塁や堀切などの遺構が残っているようです。(自分は城跡案内板で引き返しました)

降雨と時間の都合で城跡案内板の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:田中城 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の6城目は田中城です。
花倉城から転戦。下屋敷駐車場(34.871341、138.279430)に駐車し、櫓&門&下屋敷(34.871202、138.278132)に向かいました。

田中城は1537年(天文6年)に駿河今川氏によって築かれました。
1570年(永禄13年)の武田氏による駿河侵攻以降、三河の徳川氏に対抗する駿河西部の城砦網の要として重要視されました。
1570年(永禄13年)武田信玄により攻め落とされ、馬場信春により改修。田中城に改名。武田家家臣山県昌景が入城しました。
1582年(天正10年)甲州征伐の際、徳川勢により攻められるが城将の依田信蕃が頑強に抵抗し、主家の武田勝頼の死後まで守り抜きますが、武田家を離反した穴山梅雪の説得で開城。徳川家の高力清長が入城しました。
1590年(天正18年)の徳川家関東移封後は駿府城主中村一忠の管轄となりました。
1601年(慶長6年)酒井忠利が田中藩主となり城域の拡張や藤枝宿の城下町への取り込みなどを行います。
1609年(慶長14年)酒井忠利は川越に転出し、以後は駿府に居を構える徳川頼宣・徳川家康によって支配されます。
1616年(元和2年)徳川家康は田中城に立ち寄り、茶屋四郎次郎に供されて鯛の天ぷらを食し、これが家康の死因とする説があります。
1633年(寛永10年)以後、松平氏、水野氏、北条氏等が封じられました。
1730年(享保15年)本多正矩が4万石で封じられ、以降明治維新まで同地に拠ります。
1868年(明治元年)最後の田中藩主本多正訥が安房長尾藩に移封され、駿河国に転封となった徳川本家(静岡藩)の支配地となり、高橋泥舟が城を預かった後、廃城となりました。

当時の遺構は水堀と石垣がわずかに残るだけですが、江戸時代後期、田中藩主・本多家の庭園であった別荘が史跡公園(田中城下屋敷)として整備され、本丸櫓や茶室が復元されています。
また、近隣の旭傳院に不浄門が移築され現存しているそうですが、自分は行っていません。

下屋敷の受付の方が本日初めて(着いたのはお昼でしたが、降雨の中、見学される方が少なかったのかな?)のお客さんとのことで、立派なパンフレット等をたくさんくれました。
駐車無料です。下屋敷を見学後、城址の住宅街(三の丸土塁➡大手二之門跡➡三之堀跡)を回る予定でしたが、降雨の中、やめました。
攻城時間は25分くらいでした。

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