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10Q-Nobu

城初め (2021/01/05 訪問)

自粛続きの中、久しぶりに城に来た。
黒田氏時代と奥平氏時代で石垣の境目かわかりやすく見えました。
今年はいくつ城にいけるかな。

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昌官忠

茨城県龍ヶ崎市/牛久市近辺日帰り⑩ (2018/06/03 訪問)

「茨城県龍ヶ崎市/牛久市近辺日帰り」の10城目(ラストです)は東林寺城です。牛久城からの転戦です。
最初は(35.958951、140.120763)付近に駐車して、城跡らしきもの探す為、付近をウロウロしましたが、私有地らしく感じたので諦め、東林寺の駐車場(35.961602、140.121964)に駐車して東林寺付近を散策しました。

東林寺城は岡見氏によって牛久城の支城として築かれた城で、近藤治部が城主をつとめていました。
1564年(永禄7年)に上杉謙信が小田城を攻撃した際には、上杉軍がここに駐屯したと伝わっています。その後「小田原の役」で廃城になっています。
現在城址の大半は宅地や畑となっていますが、一部土塁と空堀を確認することができるようです。
また、城址の東側にある曹洞宗東林寺には城址で発見された、戦国期のものとみられる五輪塔が二基移されています。攻城時間は20分くらいでした。

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昌官忠

茨城県龍ヶ崎市/牛久市近辺日帰り⑨ (2018/06/03 訪問)

「茨城県龍ヶ崎市/牛久市近辺日帰り」の9城目は牛久城です。牛久陣屋からの転戦です。
車は牛久陣屋攻城時に駐車した「河童小径」入口付近の駐車場(35.952322、140.132535)に置いたまま、駐車場から南東側に進んだ城址入口(35.951535、140.133460)に向かいました。
攻城してわかりましたが、自分が登城した本丸側より三の丸の木戸口側?(説明板あります)から登城する方がよろしいかと思います。その場合なら(35.954263、140.134793)付近に駐車できます。

牛久城は岡見氏によって1550年頃に築かれた城です。北条流の築城技術を取り入れて築かれており、惣構えをもっていたそうです。
佐竹氏と結んだ多賀谷氏からの攻撃を受け岡見氏が滅亡したのちは北条氏方の持ち城となり、「小田原の役」で北条氏が滅びると、豊臣秀吉によって由良国繁の母に牛久城が与えられ、国繁が城主になりましたが、1623年(元和9年)に廃城となっています。
江戸時代には山口氏が牛久陣屋を築き、明治維新まで存続しました。現在城址には土塁や空堀などの遺構が良好な状態で残っています。

空堀が素晴らしい城址ですが、説明がなさすぎです。
牛久市のお城をいくつか廻りましたが、「小坂城」の整備具合が素晴らしい反面、他のお城はちょっとという感じです。なんとかならないものでしょうか。攻城時間は40分くらいでした。

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昌官忠

茨城県龍ヶ崎市/牛久市近辺日帰り⑧ (2018/06/03 訪問)

「茨城県龍ヶ崎市/牛久市近辺日帰り」の8城目は城びと未登録の牛久陣屋です。岡見城からの転戦です。
駐車場所は「河童小径」入口付近の駐車場(35.952322、140.132535)を利用し、「河童小径」を牛久沼沿いに歩いて登城しました。
時間削減したい方は「河童の碑」付近に駐車場(35.956274、140.128029)があります。
しかし、上記GPS座標のナビ誘導では辿りつけないので、カーブミラー(35.956340、140.128532)を目印に進めば駐車場が見えます。
カーブミラーの北側が牛久陣屋の東側半分で、「河童の碑」や「雲魚亭」があるほうが西側半分みたいです。

牛久陣屋は牛久藩2代藩主・山口弘隆によって1669年(寛文9年)に築かれた陣屋です。
弘隆の父、山口重政は「関ケ原の戦い」では徳川秀忠に従って上田城攻めに参加した功で一万五千石で封じられました。
その後、「大久保長安事件」の連座で改易となりますが、「大坂夏の陣」に参戦し再び大名に返り咲くと、弘隆の代になって常陸・遠江にわかれていた領地が常陸・下総に集められ、旧牛久城内に陣屋を構え、明治維新まで維持されたそうです。
現在跡地は小公園となっており、土塁や空堀などの遺構を確認することができます。また陣屋門が市内の民家に移築され現存しているそうですが、自分は見ていません。

自分は「牛久沼」、「河童の碑」と「雲魚亭」を見ただけです。攻城時間は「河童小径」の散策時間も含めて45分くらいでした。

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昌官忠

茨城県龍ヶ崎市/牛久市近辺日帰り⑦ (2018/06/03 訪問)

「茨城県龍ヶ崎市/牛久市近辺日帰り」の7城目は城びと未登録の岡見城です。小坂城からの転戦です。
付近をウロウロしましたが駐車場は見つからず、仕方ないので付近の空スペース(35.974008、140.174355)を利用しました。

岡見城は戦国時代に牛久地方を本拠にした小田氏の一族、岡見氏の最初の居城だといわれており、岡見氏発祥の地です。詳細がわからないことが多く、本拠を牛久城に移したあとも支城として利用されていたと思われますが、小田原征伐の際に廃城になりました。現在城趾には土塁や空堀などの遺構がわずかに残っています。

岡見城は本殿単郭の居館らしいが、岡見城館群(本殿、西殿、八幡山、南殿)として遺構が残っているようです。
自分は時間の都合もあり、本殿と西殿のみ見学しましたが、藪になっており、よく確認できませんでした。
それにしても、同じ牛久市なのに「小坂城」との整備具合に差がありすぎです。なんとかならないものでしょうか。攻城時間は20分くらいでした。

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todo94

国史跡(小笠原氏城跡) (2020/12/17 訪問)

松本城至近の国宝・開智学校に立ち寄ってから、徒歩にてアプローチしました。小笠原氏城跡として国史跡に指定されています。案内板や説明板が設置されているのはありがたい限りです。にのまるさんが試練とおっしゃっている板の橋を渡ってイトーヨーカドーに向かいました。(ワイングラスを手に入れるためでした。)

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昌官忠

茨城県龍ヶ崎市/牛久市近辺日帰り⑥ (2018/06/03 訪問)

「茨城県龍ヶ崎市/牛久市近辺日帰り」の6城目は小坂城です。馴馬城からの転戦です。
駐車場所は小坂城の駐車場(35.967002、140.196998)を利用しました。ちょっと狭いですが、車4台は駐車できます。道路を挟んだ登城口付近にはバス用の駐車場(1台分)もあります。

小坂城は岡見城の岡見弾正忠が江戸崎城の土岐氏に対抗するための支城として築いたと考えられています。
岡見氏は小田氏に従っていましたが、小田氏滅亡後は土岐原氏と同盟して北条氏の配下に加わり佐竹氏に対抗しました。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉による「小田原征伐」での北条氏滅亡にともない岡見氏も滅んだため小坂城も廃城となったそうです。
現在は「小坂城跡広場(小坂城跡公園)」として整備されており、空堀や土塁だけでなく、虎口や土橋、横堀などの遺構を確認することができます

説明板や案内図も充実しており、とてもわかり易い城跡でした。攻城時間は40分くらいでした。

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予土国境の城 (2020/11/11 訪問)

伊予と土佐の国境にある河後森城。
山城であるが、比較的 登りやすい。
馬蹄型に曲輪が広がる。
特に西第十曲輪には竪堀、堀切、切岸がよく残っている。
風呂カ谷には大砲の砲弾が発見されたという。
本丸からの眺めは絶景である。
自販機、トイレなどないので、予め準備をして行くと良い。

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キンヤ

元は寺跡ではと言われている謎の城 (2012/03/11 訪問)

城びとで投稿がお一人のみでしたので、2012年に行った時のものですが、投稿させて頂きます。

元は寺跡ではと言われている謎の城です。

内部は住宅地のように綺麗に土塁で区画されていて驚きましたが、確かに寺跡のようにも見えました。

でも城の周囲は見応えがある空堀で囲まれていて、更に背後の尾根筋にも深い堀切・土橋で防備していて、これは完全に城だと思いました。

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カズサン

おめでとうございます!今年も登城始めは浜松城❣ (2021/01/04 訪問)

 新年あけましておめでとうございます。
 昨年は拙い投稿をご愛読?ご声援頂き有難うございます、本年も宜しくお願い致します。

 年末年始の今日まで寒波により風と寒さが厳しく、お屠蘇とお節料理で朝から良い仕上がり外に出る事も無く過ごして居りましたが今日は寒波も緩み少し温かく成りましたので今年の仕事始めならぬ登城始めに近くに在る浜松城へ出掛けました。
 ヒロケンさんの元旦登城投稿に有りましたように浜松城天守閣が昨年10月頃より休館し展示等のリニューアル作業、12月末にリニューアル竣工し本年元旦より公開入館が出来るようになりました。
 武漢コロナウイルス対応で入館制限が元旦から11日まで有り、1時間単位で40~50人、南広場で入場券と整理券を販売してます。(70歳以上は無料、当人該当者)
 浜松城駐車場(無料)は6~7割の入り、10時半の整理券が入手出来あまり時間を待たずに天守閣に入れました、タイミングが悪いと1時間待ちに成ってしまいます。
 狭い閣内ですが、地階の井戸は変わり無し、1階は家康の浜松足跡、2階は発掘調査成果、歴代城主、浜松誕生秀忠と鎧兜、3階の天井は歴代城主の家紋が格天井の枡に記され綺麗に成ってます、展望回廊の四方には写真と古絵図を対比させる案内板に成って判りやすい、本日は天気も良く天守閣展望階より遠く富士山を眺める事が出来ました。
 (投稿写真を撮ってませんので是非浜松城天守閣に足をお運びください)

 退場後天守御門の櫓見学、本丸、南広場の周辺を撮影し、入場券整理券受付で「浜松城出世おみくじ」が有りましたので引きましたら吉「今日のあなたは伊達政宗」の卦?。

 浜松城駐車場から本丸北下に「浜松城の説明板と今後の復元計画図」が新しく成り、浜松城家康の時代、堀尾の時代、現在の時代と想像図と古地図で説明板3枚に成ってました、気に成った堀尾吉晴時代の想像図が以前広島大の三浦教授の図案、発掘調査の成果を踏まえて天守閣が4層5階複合式、南東角に2階隅櫓、櫓付埋門、天守櫓御門が描かれて居り今後の復元を文化財課、浜松市の構想に成ったのかなと思ったりしたり?、松江城の複合式天守を小さくした形です、大いに期待したいところです。

 帰りに初詣は浜松城から北東に約1km弱に在る浜松八幡宮を参拝、ここには三方ヶ原の戦いで敗走家康が浜松城に逃げ込む前に隠れた雲井の大楠が有ります、又この楠には源義家の言われも伝わっています。

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カルビン

モザイク入れたい状況でした (2014/07/21 訪問)

お城巡りを始めて最初に車で2泊3日の大遠征したのが中部地方回遊の旅でした。

1日目に中央道から岐阜方面に向かい、朝一で岐阜城再訪して100名城スタンプ入手した次に訪問したのが郡上八幡城でした。

模擬天守ではありますが、日本最古の木造再建模擬天守と言う事もあって、当時はまだ続100名城ではなかったものの大人気のお城で、山上の駐車場は常時満車で、暫くその下の二ノ丸エリアで待ってました。

白い天守が映えると聞いていたものの、なんか外壁が汚く・・・よくみたら大量の大きな蛾が至る所に(@Д@;;;)
(Gを筆頭に虫は苦手なんだが。。。orz)

景観も何もあったものではなかったですが、早々来れないと思っていた郡上八幡城に来る事が出来てとりあえず充実感は味わえました。

模擬天守や櫓や石垣の造り・配置、更に景色が抜群だったので、季節的には一番良い時期の訪問だった気がします。


しかし郡上八幡城に大量発生していた蛾ですが、この先の九頭龍湖にも大量発生していて周辺の景観を残念なものに変えていたのが残念でした(涙)
最初に訪問した岐阜城、九頭龍湖の後に訪問した越前大野城はその影響無かったので個人的被害は最小限だったのが救いでしたが・・・

この行軍で訪問した郡上八幡城・越前大野城と次の日に訪問した鳥越城が続100名城に登録された事で再訪を余儀なくされておりますw

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さすが❗️毛利‼️ (2020/10/26 訪問)

さすが毛利輝元‼️さすが長州‼️
遺構としては、門も無い。櫓も無い。石垣だけ…
しかし、とても『兵どもが夢の跡』を感じます。
毛利藩だけの巨大な城郭です。
お勧めとしては、指月山の頂上にある詰城に登城する事‼️
石切場も残ってるし、詰城から見る絶景が待ってます。頑張って登って欲しい‼️
それから、御城印が発売になったそうです‼️
残念ながら、僕は発売日の5日前に萩城に来てしまったので😅

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織田晃司

宇喜多秀家 (2021/01/03 訪問)

誕生の城。別名 亀山城

本丸のある山と西の丸がある浮田小学校の裏山の2つの山ですがどちらも標高は高くないので両方とも登ってみる事をオススメします。

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織田晃司

宇喜多直家 (2021/01/03 訪問)

宇喜多家再興の地。

小さな山で登城にはそんなに苦にはならないと思う。
麓にあった石組みはいったいなんだろう…

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織田晃司

宇喜多能家 (2021/01/03 訪問)

政敵に攻められ自害。
子の興家と孫の八郎(後の直家)が逃げのび再興を誓う。

東の登山口に1台分の駐車スペース有り。
本丸にある立派な石垣は神社建立のため作られた石垣で隅に残る野面積みの石垣が砥石城の石垣かと思われる。

本丸以外の曲輪は藪化している…

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チェブ

立派な於曾殿。 (2020/12/26 訪問)

「勝沼氏館」の後「於曾屋敷」に向かいました。
余談ですが、皆さんナビの音声案内を正しく聞き取れますか?
ナビ 『フルーツのおか入口を、、、』
私の耳『フルーツ農家入口、、、?』
正解 『フルーツの丘入口。』
こんな感じで迷いタイムロスです。
耳から都合の良い変換と脳内伝達、いつもの事です。

「於曾屋敷」はバリアフリーのトイレが完備された公園です。

「於曾屋敷」は甲斐源氏の加賀美 遠光さんが治め於曾を名乗りました。
武田 信玄さんの時代は於曾 信安さんが板垣氏を継ぎます。
於曾 信安さんを調べると
父、於曾 源八郎さん。
母、板垣 信方さんの娘。
板垣家を継いだ嫡男が不行跡で追放され、誅殺されました。
そこで、於曾 信安さんが抜擢されます。
信安さんは、階段がきつい駿河の「久能城」、縄張りが円い「田中城」の城主をしたり、100名城「箕輪城」にも在城する有能な方です。

公園は細長く整備されてますが、土塁はお隣のお宅まで続いてます。
どうやら、お隣のお宅は末裔の方のようです。
トイレ側から反対側に向かうと高い土塁。登ってみると外側はさらに低く、思っていたより高く感じました。
お隣のお宅の立派な門があり左手に古い説明板がありました。
まさしく現在の「於曾屋敷」です。

板垣家を継いだ、於曾 信安さん。『於曾殿』と呼ばれていたようです。

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ぴーかる

府内城 (2020/11/28 訪問)

【百名城55城目】
<駐車場他>無料駐車場は見当たらず。近隣のコインPあり。
<交通手段>レンタカー

<見所>廊下橋・人質櫓・天守台
<感想>2泊3日豊後国百・続百名城攻城の旅4城目。来城したときは大分城址公園内は現在PCR検査場建設途中の為内堀より中に入ることができず内堀の外を外周するのみとなってしまった。これもご時世致し方なしとあきらめた。それでも堀越しから見える現存の人質櫓・宗門櫓や復元の廊下橋・大手門・複数の櫓が見事で十分堪能するできた。また堀越しからしかわからない、主郭北東面の扇櫓~菱櫓間の角が切ってある事がよくわかった。天守台が間近で見られなかったのは残念だったが、大手門前の鏡石も見れたし、またいつか中をゆっくり見学できる日がくることを祈ってあとにした。

<満足度>★★★☆☆

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赤い城

主郭には養護施設が (2022/01/02 訪問)

土気駅から徒歩で25分。
ひまわりの郷という養護施設が主郭跡のようです。
説明板が立っている手前に藪化した空堀と土塁があり、説明板が立っているところは三の曲輪となります。
主郭周辺にも堀と土塁が残っています。
主郭から金谷口に向かうクラン坂は岩盤を削って造られています。
なかなか雰囲気があります。
奈良時代に貴船城として築かれた城で戦国期には土気酒井氏の居城でした。

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昌官忠

茨城県龍ヶ崎市/牛久市近辺日帰り⑤ (2018/06/03 訪問)

「茨城県龍ヶ崎市/牛久市近辺日帰り」の5城目は馴馬城です。八代城からの転戦です。
駐車場所は龍ヶ崎市歴史民俗資料館の駐車場(35.916337、140.176600)を利用しました。

馴馬城の詳細は不明ですが、この城跡が南北朝時代の1344年(康永3・興国5年)に南朝方の春日顕国がたてこもった「馴馬沼田城(=馴馬城)」に比定されています。
現在、城址には龍ヶ崎歴史民俗資料館が建てられており、駐車場の奥に案内板が設置されています。
中心部が破壊されていることもあって、遺構が明瞭でありませんが、空堀、曲輪、土塁などの遺構が残っています。
攻城時間は龍ヶ崎市歴史民俗資料館の見学も含めて45分くらいでした。

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昌官忠

茨城県龍ヶ崎市/牛久市近辺日帰り④ (2018/06/03 訪問)

「茨城県龍ヶ崎市/牛久市近辺日帰り」の4城目は城びと未登録の八代城(屋代城とも呼ぶようです)です。龍ヶ崎城からの転戦です。
城ノ内中学校の周りを一周しましたが、駐車スペースはないので、城ノ内中学校北西側の校門前(35.922610、140.207152)に路駐しました。
路駐なので速攻の撤退となりますが、この場所なら校門外から説明版と土塁を見ることができます。

八代城は屋代氏の居城であったと伝わっていますが、築城年代は定かではないようです。
もともとは東条社氏の居館として築かれていましたが、東条社氏の没落後、十四世紀後半に信濃の豪族である屋代氏がこの地に入部して城を再興したそうです。
現在城址には城ノ内中学校があり、北西側のグラウンドに土塁が残されています。

写真は、校内に入る勇気のない自分が校門外から撮った写真をいくつか投稿します。
攻城時間は5分くらいでした。

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