JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の21城目は野田城です。
牧野城から転戦。案内板前(34.882146、137.467998)に路駐しました。信玄公狙撃場所(34.881657、137.467753)はすぐ近くです。
1508年 菅沼定則によって築城され、居城とします。定則の子・菅沼定村、孫・菅沼定盈らも居城としました。
1561年 桶狭間の戦いの後、今川氏を離反した定盈は、今川勢に攻囲され開城退去。
1562年 定盈が夜襲で奪回するも、損壊の激しい野田城は修築に刻を費やされます。定盈は、仮本拠を大野田城に定めています。
1571年 武田氏の遠江・三河侵攻において武田家臣山県昌景・小笠原信嶺らの襲来により、大野田城は大破炎上。同年12月、定盈は修築中の野田城を再び本拠としたといいます。(なお近年では元亀2年の遠江・三河侵攻については根拠となる文書群の年代比定が再検討され、一連の経緯は天正3年の長篠の戦いの前提である可能性が指摘されています。)
1573年 野田城の戦い。武田軍に水の手を断たれて、城主・定盈は開城降伏します。このとき武田信玄が城から聞こえる笛の音に聴き惚れていたら鉄砲で狙撃され、その傷が原因で死亡したとの伝説があります。近くには「信玄狙撃の地」と呼ばれる小高い場所があり、小さな祠がひっそりと祀られています。
1590年 徳川家康が関東へ移封されると、定盈も付随。その後、吉田城に入った池田輝政の代官が新城を利用し、野田城を破却。廃城となりました。
土橋、堀切が素晴らしいコンパクトな城です。着いたのは18:20くらいだったのですが、表はさほどではないですが、城内は暗くて撮った写真が見にくいのが残念。
攻城時間は15分くらいでした。
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