日帰り福井ドライブの締めは越前小山城。さほど期待していたわけではないのですが、良い感じに遊歩道が整備されていて遺構もあり、攻城を楽しむことができました。越前守護の斯波氏の居城で朝倉孝景に攻められ落城しています。
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2021/07/08 06:57
2021/07/08 06:47
JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:林小城 (2021/06/28 訪問)
JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の2城目は林小城です。
駐車スペースは少なく、道路脇空スペース(36.224041、138.005139)に駐車し、そこから徒歩1分/50mの登山道(36.224094、138.004637)から攻城しました。
林小城は筑摩山地の西側に突き出した尾根上に築かれた山城で、南北朝争乱の功績により信濃守護となり府中(現在の松本)に入った小笠原貞宗によって築かれました。
麓の大嵩崎集落を挟んだ林大城とあわせて林城とも呼ばれています。
小笠原氏は、林城と平地に築いた井川城を拠点とし、周囲の山々に次々と山城を築き上げ、防衛線を構築していきます。
小城は古城とも書けることから、大城よりも古いと考えられてきましたが、最近では、小城の方が縄張が複雑であることから大城よりも後に築かれたと考えられています。
小城の主郭を取り巻く石垣や縄張りなどは、山家城や桐原城との共通性が高いとされています。
1550年(天文19年)7月15日に武田氏の攻撃を受けて大城と共に自落しました。
案内標識があり歩き易く、1郭まで迷わず行くことができます。土塁や石垣、堀切が残っています。
攻城時間は50分くらいでした。
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2021/07/08 06:37
JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:井川城 (2021/06/28 訪問)
JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の1城目は井川城です。
近隣に駐車場がないので、朝食前に宿泊先のホテルから徒歩15分くらいで城址入口付近(36.222620、137.963626)に着きました。
井川城は信濃守護、小笠原氏の居城(守護館)でした。
足利尊氏にしたがって活躍した小笠原貞宗によって築かれ、井川館とも呼ばれています。
小笠原貞宗は建武の新政の際、足利尊氏にしたがって活躍し、その勲功の賞として1335年(建武2年)に安曇郡住吉荘を与えられました。
その後信濃国守護に任じられるに及んで、信濃国司の国務に対して権益を守る必要からか、伊那郡松尾館から信濃府中の井川の地に館を構えたようです。
もともとの地名である井川の由来は、この地に川や小川が多いためだそうです。
井川館を築いた時期は明確ではありませんが、「小笠原系図」では貞宗の子政長が1319年(元応元年)に井川館に生まれているので、鎌倉時代の末にはこの地に移っていたとも考えられます。
その後、1489年(延徳元年)に林城を築き居城を移したため、こちらは支城となりました。
現在城址は田畑となっていて遺構は残っていませんが、田んぼの中に櫓跡と推定される塚があり、そこに説明板が設置されています。堀の役目なのか、いくつかの川に囲まれています。
攻城時間は10分くらいでした。
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2021/07/07 20:16
「守山崩れ」で有名であり、住宅地に土塁・空堀が残る城 (2021/06/21 訪問)
織田信光(織田信秀の弟)が城主であった1535年に、尾張を攻略する為に守山城に布陣した松平清康(徳川家康の祖父)が家臣に殺された「守山崩れ」事件が起きた城です。
宝勝寺一帯が城跡とされ、その北側の空堀の北東側には大きな土塁が一部残ります。
その土塁の上に立派な石碑があります。
当時は城の四方を空堀で囲まれていたとされます。
空堀の東側からは、かなりの竹藪で降りれませんでしたので、南側の宝勝寺の裏手から空堀に降りました。
蚊の襲撃に合いましたので、直ぐに戻りましたが、藪で見辛いものの大きな空堀で見応えがあり、住宅地によく残った貴重な遺構だと思います。
城跡の南側と西側は斜面になっていて、少し高台である事が分かります。
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2021/07/07 19:20
諏訪湖を見るならここから (2021/07/04 訪問)
小高い丘の上にこじんまりとした城があります。
たどり着くまでの道が狭く急こう配で怖かったですが、
主郭より少し下に駐車場がありました。
主郭の周りにはいくつか郭が残っています。
説明看板によると、空堀・出丸があると書かれているのですが、
どれのことを言っているのかわかりませんでした。縄張図が欲しいですね。
主郭からの眺めは素晴らしいですよ。
鳥観図にも描かれているような城が残っていたら素敵だなと思います。
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2021/07/07 19:08
【お城川柳】
新高山三原も同じポチひとつ
楽あれば苦あり
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2021/07/07 19:06
【お城川柳】最後は自ら破城
お砂場で子どもら無邪気に築城す
誰に教えられたわけでもないのに堀を掘って水を流し(←全部すいこまれる)、掻き出した砂で土塁を築いて、天守もどきに旗を立てる。
「城づくり」は人間の本能なのかもしれない⁉︎
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2021/07/07 19:03
【お城川柳】
攻め来るを一網打尽の滑り台
思わず整列して滑りたくなる土塁上の危険なトラップ。
まとめて討ち取られること必至。
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2021/07/07 13:22
【お城川柳】
石垣に いいね沢山 つけるコミュ
城びと見てると石垣や石積みにハート数が結構高いですね~。
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2021/07/07 11:07
【お城川柳】松江城と浜松城つながりで一句
・ 浜松と 吉晴つながり 松江城
・ 松江天守 小振り復元 浜松城
堀尾吉晴侯は浜松に約10年在城し織豊系城郭に改修、関ヶ原後出雲隠岐の太守で移封、浜松城に倣った松江城天守閣を複合式で完成させましたと言われてますが? 浜松城天守台の構造は東向きに付櫓台が有り複合式天守閣の痕跡の様です。
この様に堀尾吉晴侯で繋がってる松江城と浜松城、松江城の小振りな様式で浜松城天守台全面を使用した堀尾式天守閣の再建復元を願って居ます。
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2021/07/07 08:21
五條代官所(奈良県五條市新町) (2021/06/22 訪問)
江戸中期に幕府が宇智郡、宇陀郡、吉野郡の天領を管理するために築いた代官所で、江戸末期、尊王攘夷を掲げ蜂起した天誅組の襲撃により焼き払われましたが、翌年、現在の位置に場所を移して再建されました。明治期には五條県庁を経て裁判所となった後、長屋門と広場を五條市が引き継いで現在に至ります。
裁判所東隣の史跡公園には再建後の長屋門(正門)が現存し、内部は民俗資料館として整備されています。史跡公園と裁判所の南辺には石垣が築かれ、裁判所の南辺には長屋門から続く土塀も見られます。裁判所南西部には裏門も見えていますが、時季的に草が生い茂っていて遠くから眺めるだけにしました。
民俗資料館は主に天誅組に関する資料が展示されています。五條市は「維新のさきがけ」「明治維新発祥の地」として大いに天誅組推しのようで、名前は聞いたことがあるけど…程度の私でも、大まかな流れを把握することができました。その他、襲撃当時の五條代官所の見取図に興味を惹かれました。
その襲撃当時の五條代官所跡は市役所になっていて、正面の植え込みに石碑と説明板が設けられています。長屋門の下の国道沿いにある無料駐車場から市役所まで歩いても徒歩5分くらいです。
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2021/07/07 07:08
JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目:城びと未登録(長野県松本市)村井城 (2021/06/27 訪問)
JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目の19城目は村井城(1日目のラスト)です。
長者屋敷から転戦。説明板付近(36.177661、137.954754)に駐車しました。
木曾義仲の家臣、手塚光盛が居住したと伝えられています。
鎌倉時代から戦国時代にかけてこの地を支配した村井氏が居を構えていました。村井城は平時の館で、埴原城を詰城としていたようです。
1548年(天文17年)甲斐の武田晴信(後の信玄)が小笠原長時と戦うと村井氏は小笠原氏に属し、この館を府中の防衛拠点としていました。
しかし、小笠原氏が塩尻峠の合戦に敗れると、共に戦った村井氏は滅亡し、村井城は武田晴信のものとなりました。
同年10月、晴信は直ちに村井城の鍬立普請を指図し、林城攻略の前進拠点としました。
続いて1550年(天文19年)7月、晴信は林城を落とすと、深志城をこの地の拠点としたため、村井城は廃城となったと考えられています。
現在、遺構などは一切残っておらず、住宅地の中に「小屋城跡」と書かれた標柱と説明看板があるのみである。
攻城時間は5分くらいでした。
1日目の攻城徒歩数=17729歩、攻城徒歩距離=13.82Kmでした。
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2021/07/07 07:03
2021/07/07 07:03
2巡目の続日本100名城のスタンプラリー38城目 (2021/06/05 訪問)
すっかりペースが落ちて遅々として進まないスタンプラリーですが、なんとか無事、スタンプをゲットすることが出来ました。福井県の続100名城は後2つ残っていますが、来年以降に持ち越しです。東京都下の滝山城に行けるようになるのにはあと何年かかるのでしょう。
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2021/07/07 07:02
【お城川柳】
城ネコに遺構はこっちと導かれ
ついて行った先の小屋は空堀を展示する覆屋で、その奥に建物跡地がありました。
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2021/07/07 06:58
【お城川柳】敗将の如く佇む
白き将城とも大地へ還りゆく
本丸にポツンと立ち、その身が溶けてゆくのをただ受け入れるしかない雪だるまの姿が何とも切なくて。
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2021/07/07 06:49
JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目:城びと未登録(長野県松本市)光明寺館 (2021/06/27 訪問)
JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目の17城目は光明寺館です。
赤木南城から転戦。光明寺入口付近(36.163865、137.956854)から中に入り、光明寺に駐車しました。
詳細は不明。標柱によれば、吉田四郎忠家の居館と伝承されています。
吉田氏は坂東八平氏のうち秩父氏の末裔で、兄弟には小池家兼、赤木親忠、白河親行がいたそうです。
付近をぐるっと廻ったが遺構らしきものは見つからず。
攻城時間は10分くらいでした。
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2021/07/07 06:45
JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目:城びと未登録(長野県塩尻市)赤木南城 (2021/06/27 訪問)
JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目の16城目は赤木南城です。
南熊井城から転戦。セイコーエプソン駐車場は関係者以外駐車禁止のようなので、近くの路肩(36.156111、137.973085)に駐車しました。
築城年代は定かではないが鎌倉時代に北条政頼によって築かれたといいます。
天正年間(1573年〜1592年)初めの頃は古川伝八郎が守っていたと伝えられています。
遺構はよくわからない。
攻城時間は10分くらいでした。
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2021/07/07 06:39
JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目:城びと未登録(長野県塩尻市)南熊井城 (2021/06/27 訪問)
JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目の15城目は南熊井城です。
高須城から転戦。JA集荷場付近(36.124186、137.972123)に駐車し、標柱場所(36.124115、137.971401)に向かいました。
南熊井城は府中小笠原氏配下で、現在の南熊井集落を支配する領主館であったと考えられているが、築城年代や築城者については定かでないようです。
北熊井城と至近距離に位置することからすれば、小笠原氏に属し、1548年(天文17年)塩尻峠の戦いで北熊井城が武田氏に攻められた時に、この城も攻められ落城したと推定されるそうです。
武田氏によって改修されたかどうかは明らかではないが、北熊井城の出城的な役割を果たしたと考えられるそうです。
標柱場所先から土手を直登。内部は草でよく見えないが、東側の水路が通ってる堀はなかなかでした。
攻城時間は15分くらいでした。
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