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山口駿河守幻夢斎

住宅地裏の丘陵に思いがけない迷路のような空堀縦走路! (2021/06/02 訪問)

JR駒ヶ嶺駅から徒歩で。約20分くらいか。

けっこうな旧坂をのぼった民家の脇に小さな看板があり、そのまま進んでいくと、大手の虎口となる。

城内に入ると、案内看板がひっくり返っていたり、荒れた印象はあるが、藪もそれほどひどくなく、比較的見学しやすい。

虎口、土橋、土塁、空堀など、山城の観たいものはすべてそろっている感じのする城跡。

とくに、規模の大きな迷路のような空堀は最大の見どころ。

時間がなく、すべてを見て回れなかったのが、悔やまれてならない。しかるべき時期にもう一度・・・。

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山口駿河守幻夢斎

公園整備された古城跡の裏の顔は・・・ (2021/06/01 訪問)

こちらも以前から訪れたかった城跡。

JRの駅からは、遠いこととかなりの山の上になるので、車での訪問が吉。

駐車場が、だんだんに数か所設置されている。

完全に公園整備されており、遺構の破壊もされているのかと思いきや、堀切の遺構は完璧に残されており、城跡の雰囲気を損なうことなく、良好な整備が施されている点に、感動を覚えた。

特に、岩盤を断ち切る大堀切は迫力満点。

丁寧に見て回ると、支尾根にも、堀切や竪堀などもあるようだが、散策路周辺の遺構だけで、十分に満足して公園を後にした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:城びと未登録(長野県松本市)水番城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の7城目は水番城です。
宮原城から転戦。公民館駐車場(36.227516、138.017097)に駐車し、そこから徒歩4分くらいで獣除けフェンス前(36.226265、138.018889)に着きます。

築城年代は定かではないが、1460年(寛正元年)に小笠原信濃守清之によって築かれたとい云われています。
小笠原氏の本城である林大城の東約1kmにあり、文字通り水之手を守るために築かれた支城のようです。
1532年~55年(天文年間)の小笠原長時の頃には山辺持続が守っていたようです。 

山家城で痛めた右ひざ痛も薬が効き、傷みがやわらいできましたが、大事を取って獣除けフェンス付近で撤退しました。
攻城時間は20分くらいでした。

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山口駿河守幻夢斎

圧巻の古城跡!面白いところしかない城跡 (2021/06/01 訪問)

以前より、東北でもナンバーワンという前評判を耳にしており、ぜひとも行きたいと念願していた山城。

入口が二か所あり、手前のお寺のちょうど向かい側の墓地に行くほうの道のほうが安全。墓地に車を停められる。

その先のオレンジの看板があるほうの道は、荒れ果てた非常に心細い道となる。いけないことはないけど、お勧めはできない。

城跡は、期待以上で、墓地のところから歩いても10分もかからない。

次々と現れる遺構のすばらしさに、ため息が止まらない。

熊が出るといううわさがあるが、私は野生の狸に遭遇しました。

この城跡の壮大な遺構を堪能するには、草の勢いがなくなる季節がいいと思うが、緑に染まる城跡もまた美しい。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:城びと未登録(長野県松本市)宮原城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の6城目は宮原城です。
山家城から転戦。登山口付近(36.219009、138.041646)に路駐する予定でしたが、工事中の為、通行禁止で手前に路駐しました。

詳細は不明。薄川を挟んで山辺城の南東1.5kmにあり、山辺城主山辺氏(折野氏)の支城とされています。

登山口付近(36.219173、138.041215)まで歩き、山家城で痛めた右ひざ痛もあり、入口案内表示の写真を撮って撤退しました
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:山家城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の5城目は山家城です。
桐原城から転戦。徳運寺300m先の路肩(36.220757、138.048231)に路駐しましたがスペースは狭くお薦めしません(徳運寺の駐車場を利用されるのをお薦めします)。ブドウ畑を250mくらい登ると登山口に着きます。


鎌倉時代、諏訪氏の一族が山家氏を称し、この地に居城を築いたと言われています。
1481年(文明12年)に小笠原長朝に攻められ、山家氏は滅亡しました。
その後、小笠原長時の家臣である折野昌治が山家氏を称し、山家昌治となりこの地を治めていましたが、1550年(天文19年)に武田信玄が信濃府中に侵攻すると寝返って以降は武田氏に仕えました。
現在城址には土塁や石積み、連続竪堀などの遺構が良好に保存されており、居館跡とされる山麓の徳運寺から登山道が整備されているようです。(フェンス前で引き返したのでわかりません)
「小笠原氏城跡」として桐原城、埴原城などと共に長野県指定史跡に指定されています。

駐車場所から登山口までの急坂を登っている途中で、右ひざを痛めてしまいました。
遠征2日目でもあり無理せずフェンス前で攻城を断念し車に戻り、徳運寺駐車場で痛み止めの薬を飲んで休息しました。
攻城時間は40分くらいでした。(ほぼ休息時間です)

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:桐原城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の4城目は桐原城です。
林大城から転戦。駐車スペースはなく、大手登城口付近(36.236776、138.023212)に路駐しました。

1460年(寛正元年)に桐原城を築いた桐原大蔵少輔真智は犬甘城主犬甘大炊介政徳の弟とされ、兄弟揃って信濃守護小笠原氏に仕えていたといいます。
桐原氏五代の居城となったが、1550年(天文19年)に武田軍の攻撃により小笠原長時の林城とともに落城し、以後は武田氏の管理下に置かれました。
1582年(天正10年)に武田氏の滅亡と織田信長の横死が続くと徳川家康に仕えていた小笠原貞慶が旧領を回復し桐原氏も桐原城へ戻ったといいます。

フェンスを入って舗道ではなく、右側の細い道を登って行けば主郭まで20分ちょっとで着きます。歩き易いです。
規模の大きさ、多くの曲輪を支える何段もの石積、二重の堀切・竪堀、桝形虎口など良好な状態で残っています。
攻城時間は50分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:林大城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の3城目は林大城です。
林小城から転戦。林大城案内板(36.224369、138.014011)を右折し、先に進むと駐車場(36.225475、138.008944)に辿り着きます。ただし駐車場までの経路はグーグルでは表示されません。

林大城は信濃守護小笠原清宗が1459年(長禄3年)に築き、同族の内紛が集結した後は井川城に代わる守護の居城となったとされるが、小笠原系図によると小笠原長朝は1443年(嘉吉3年)に林大城で生まれていると記されていることから、築城年代は定説よりも早かったと思われる。
1550年(天文19年)に武田信玄の侵攻により林大城は落城し小笠原長時は諸国を流浪したが、最後は蘆名氏の庇護を受けて会津で亡くなっています。
信玄は盆地の中央に位置する深志城(松本城)を重視したため林大城は廃城となりました。
林大城跡は現在「東城山公園」として整備されており、土塁や野面積の石垣を見ることができます。

悪路ですが楽をしたいのなら車で5郭の駐車場まで行けます。遺構を堪能したいのであれば金華橋登り口から徒歩で攻城するのをおすすめします。
攻城時間は30分くらいでした。

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にのまる

【お城川柳】雨天決行

雨城も風情があって良きものぞ

と自分に言い聞かせる。

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にのまる

【お城川柳】

性格も真っ直ぐなんだろ高虎公

曲がったことが嫌いそう

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todo94

想定外 (2021/06/05 訪問)

日帰り福井ドライブの締めは越前小山城。さほど期待していたわけではないのですが、良い感じに遊歩道が整備されていて遺構もあり、攻城を楽しむことができました。越前守護の斯波氏の居城で朝倉孝景に攻められ落城しています。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:林小城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の2城目は林小城です。
駐車スペースは少なく、道路脇空スペース(36.224041、138.005139)に駐車し、そこから徒歩1分/50mの登山道(36.224094、138.004637)から攻城しました。

林小城は筑摩山地の西側に突き出した尾根上に築かれた山城で、南北朝争乱の功績により信濃守護となり府中(現在の松本)に入った小笠原貞宗によって築かれました。
麓の大嵩崎集落を挟んだ林大城とあわせて林城とも呼ばれています。
小笠原氏は、林城と平地に築いた井川城を拠点とし、周囲の山々に次々と山城を築き上げ、防衛線を構築していきます。
小城は古城とも書けることから、大城よりも古いと考えられてきましたが、最近では、小城の方が縄張が複雑であることから大城よりも後に築かれたと考えられています。
小城の主郭を取り巻く石垣や縄張りなどは、山家城や桐原城との共通性が高いとされています。
1550年(天文19年)7月15日に武田氏の攻撃を受けて大城と共に自落しました。

案内標識があり歩き易く、1郭まで迷わず行くことができます。土塁や石垣、堀切が残っています。
攻城時間は50分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:井川城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の1城目は井川城です。
近隣に駐車場がないので、朝食前に宿泊先のホテルから徒歩15分くらいで城址入口付近(36.222620、137.963626)に着きました。

井川城は信濃守護、小笠原氏の居城(守護館)でした。
足利尊氏にしたがって活躍した小笠原貞宗によって築かれ、井川館とも呼ばれています。
小笠原貞宗は建武の新政の際、足利尊氏にしたがって活躍し、その勲功の賞として1335年(建武2年)に安曇郡住吉荘を与えられました。
その後信濃国守護に任じられるに及んで、信濃国司の国務に対して権益を守る必要からか、伊那郡松尾館から信濃府中の井川の地に館を構えたようです。
もともとの地名である井川の由来は、この地に川や小川が多いためだそうです。
井川館を築いた時期は明確ではありませんが、「小笠原系図」では貞宗の子政長が1319年(元応元年)に井川館に生まれているので、鎌倉時代の末にはこの地に移っていたとも考えられます。
その後、1489年(延徳元年)に林城を築き居城を移したため、こちらは支城となりました。

現在城址は田畑となっていて遺構は残っていませんが、田んぼの中に櫓跡と推定される塚があり、そこに説明板が設置されています。堀の役目なのか、いくつかの川に囲まれています。
攻城時間は10分くらいでした。

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キンヤ

「守山崩れ」で有名であり、住宅地に土塁・空堀が残る城 (2021/06/21 訪問)

織田信光(織田信秀の弟)が城主であった1535年に、尾張を攻略する為に守山城に布陣した松平清康(徳川家康の祖父)が家臣に殺された「守山崩れ」事件が起きた城です。

宝勝寺一帯が城跡とされ、その北側の空堀の北東側には大きな土塁が一部残ります。
その土塁の上に立派な石碑があります。

当時は城の四方を空堀で囲まれていたとされます。

空堀の東側からは、かなりの竹藪で降りれませんでしたので、南側の宝勝寺の裏手から空堀に降りました。
蚊の襲撃に合いましたので、直ぐに戻りましたが、藪で見辛いものの大きな空堀で見応えがあり、住宅地によく残った貴重な遺構だと思います。

城跡の南側と西側は斜面になっていて、少し高台である事が分かります。

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くっしー

諏訪湖を見るならここから (2021/07/04 訪問)

小高い丘の上にこじんまりとした城があります。

たどり着くまでの道が狭く急こう配で怖かったですが、

主郭より少し下に駐車場がありました。

主郭の周りにはいくつか郭が残っています。

説明看板によると、空堀・出丸があると書かれているのですが、

どれのことを言っているのかわかりませんでした。縄張図が欲しいですね。

主郭からの眺めは素晴らしいですよ。

鳥観図にも描かれているような城が残っていたら素敵だなと思います。

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にのまる

【お城川柳】

新高山三原も同じポチひとつ

楽あれば苦あり

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にのまる

【お城川柳】最後は自ら破城

お砂場で子どもら無邪気に築城す

誰に教えられたわけでもないのに堀を掘って水を流し(←全部すいこまれる)、掻き出した砂で土塁を築いて、天守もどきに旗を立てる。
「城づくり」は人間の本能なのかもしれない⁉︎

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にのまる

【お城川柳】

攻め来るを一網打尽の滑り台

思わず整列して滑りたくなる土塁上の危険なトラップ。
まとめて討ち取られること必至。

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入り江わに

【お城川柳】

石垣に いいね沢山 つけるコミュ

城びと見てると石垣や石積みにハート数が結構高いですね~。

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カズサン

【お城川柳】松江城と浜松城つながりで一句

 ・ 浜松と 吉晴つながり 松江城

 ・ 松江天守 小振り復元 浜松城

 堀尾吉晴侯は浜松に約10年在城し織豊系城郭に改修、関ヶ原後出雲隠岐の太守で移封、浜松城に倣った松江城天守閣を複合式で完成させましたと言われてますが? 浜松城天守台の構造は東向きに付櫓台が有り複合式天守閣の痕跡の様です。
 この様に堀尾吉晴侯で繋がってる松江城と浜松城、松江城の小振りな様式で浜松城天守台全面を使用した堀尾式天守閣の再建復元を願って居ます。

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