古代城郭教室(Ⅴ) 中世城館はどのように誕生したのか?

古代山城研究会代表の向井一雄先生が、変化に富んだ日本の城の歴史について、日本が「孤島」でありながらも海外からの影響を受け、どのようにして城郭文化が出来上がったのかについて教えてくれる「古代城郭教室」。今回はいよいよ最終回! 中世城館誕生にいたるまでの解説です。連載に込めた先生の思いも必読です!

北東北の防御性集落

高屋敷館,古代城郭,向井
高屋敷館遺跡全景写真(青森市教育委員会提供):大釈迦川に面した段丘崖を利用した占地で平地側に濠と外土塁がめぐる

10世紀後半になると、北東北では堀をめぐらした環濠集落や山地に立地する高地性集落など、敵の攻撃に備えた集落-防御性集落が出現してくる。その様子はまるで弥生時代の高地性集落にそっくりである。防御性集落にはいくつかの類型がみられるが、立地から大きく2つの類型に分けられる。比高(平地からの高さ)差のある高地に立地するものと台地上や岬状地形の先端部に立地するものである。また環濠のめぐらせ方からは、集落全体を囲む「津軽型」と、主要な数軒の竪穴住居を空堀で囲み、後背地に集落を配置する「上北型」に分けられる。

津軽型の高屋敷館遺跡(青森県青森市)は東西80m、南北100mの規模で、幅約6m、深さ約3.5mの濠がめぐらされ、外側に幅2mの外土塁が築かれている。濠の内部は大小の竪穴住居が重なって密集し、86棟が確認されている。鍛冶工房と推定される鉄滓が出土した住居もある。現地は史跡公園として整備され見学することができる。上北型の林ノ前遺跡(青森県八戸市)では、130棟の竪穴住居が出土し、山頂には東西30m、南北70mの環濠を設けていた。頭蓋骨のみの人骨や縛られた人骨など特異な人骨が出土したほか、多数の鉄鏃や馬具、金・銀の付着した土製るつぼ片、大刀の責金(せめがね)とみられる銅製金具など通常の集落ではない遺物も出土している。

防御性集落の性格については論争が続いていたが、林ノ前遺跡の発掘によって戦乱に関係する遺跡であることが明らかになってきた。防御性集落は律令国家による征夷終了後、律令国家の圏外である北東北に出現しており、蝦夷の世界に戦争の時代が到来していたらしい。防御性集落は12世紀までに一斉に姿を消す。これは11世紀末の奥州藤原氏の平泉政権の樹立によって北東北の社会が安定化したためと考えられる。

安倍・清原氏の柵

古代城郭教室,向井一雄
防御性集落と北日本の城郭。防御性集落の築造後、北日本では城郭が継続的に築かれる。道南十二館やチャシも防御性集落の系譜に連なる城郭といえる

陸奥側では律令国家の支配領域が少しずつ北上し、10世紀半ばに胆沢(いさわ)鎮守府が所管する胆沢・江刺・和賀・稗貫(ひえぬき)・志波・岩手の奥六郡が完成した。胆沢鎮守府は六郡域にとどまらず、六郡を越えた北方の蝦夷社会との交易を統括するようになる。同じように秋田城介(あきたじょうのすけ)による秋田郡域を越えた津軽や渡嶋(北海道)などの北方夷狄社会の支配も進行していった。11世紀には奥州安倍氏が「六箇郡の司」と呼ばれる地位を与えられた。

奥六郡司となった安倍氏は奥六郡を拠点として糠部(ぬかのぶ、青森県東部)から亘理(わたり)・伊具(いぐ、宮城県南部)にも支配を広げていった。一方、出羽の清原氏は雄勝城の在庁官人の出身で、俘囚長に任ぜられ、山北三郡を支配したとされる。安倍氏は六郡内各地に柵(楯:柵は「たて」と訓じる)を築いて、一族や有力家臣を配置し、柵を拠点として地域支配を行った。安倍氏の12柵が『陸奥話記』などの記録にみえるが、鳥海(とのみ)柵(岩手県胆沢郡金ケ崎町)以外の柵については不明なものが多い。前九年の役で安倍氏が滅亡した厨川(くりやがわ)柵は岩手県盛岡市の厨川城跡とされてきたが、この遺跡は発掘調査の結果、鎌倉時代以降の工藤氏によるもので、安倍氏の厨川柵ではない。

大鳥井山遺跡,古代城郭,向井
大鳥井山遺跡 二重の土塁跡と堀跡(横手市教育委員会提供):大鳥井山と小吉山の2つの独立丘陵に占地し、小吉山東側に横堀・土塁を二重にめぐらせ、西側は河川に囲まれ、きわめて防御性が高い

防御性集落と比べて、安倍・清原氏の拠点はきわめて規模が大きく複数の区画にわかれていて、城内に四面廂付建物など大型の公的建物がある点が異なっている。しかし大鳥井山遺跡(秋田県横手市)の空堀が二重の横堀や外土塁をめぐらす点は防御性集落の伝統と考えられ、奥州藤原氏の柳之御所遺跡(岩手県平泉町)も発掘調査によって大鳥井山遺跡に似た大規模な外堀がめぐっていることが明らかになった。奥州藤原氏の関連城館は、北は青森県の中崎館(青森市)、岩手県の比爪館(樋爪館 ひづめだて、紫波町)、稲荷町遺跡(盛岡市)、南は福島県の陣ヶ峯城(会津坂下町)など、大規模な堀・土塁で囲まれた館跡が東北各地で確認されつつある。
平泉防衛のため築かれた阿津賀志山防塁(福島県伊達郡国見町)は3.2kmにも及ぶ長大な防塁だが、二重の堀と三重の土塁からなり、防御性集落や安倍・清原氏の柵と同じような構築法を採っている。

最古のグスク

シイナグスク,古代城郭,向井
シイナグスク石積み(今帰仁村教育委員会提供):今帰仁城築城前の北山王の居城と伝わる。13世紀後半頃の山間に集居した高地性集落の趣きを残す遺跡

北日本で戦乱が続く中、南日本-南西諸島の沖縄でも城郭が築かれ始める。この地域の交易を管轄していた奄美大島の喜界島の城久(ぐすく)遺跡(鹿児島県喜界町)とされるが、北日本で律令国家の征夷が終了、支配が間接的となっていく時期に城久遺跡でも大宰府の影響が後退し、地元勢力が台頭していく。
沖縄では14~15世紀頃、各地の按司(あじ:豪族・首長)たちによって大型の石垣グスクが築かれた。現在見ることができるグスクはその頃のものだが、グスクの起源については御嶽(うたき)と呼ばれる拝所(祭祀を行う聖域)に始まるとする説や高地性集落説など諸説あり、謎に包まれていた。

最近調査された大湾アガリヌウガン遺跡(沖縄県読谷村)は11世紀後半~13世紀頃のグスク時代初期の遺跡で、比謝(ひじゃ)川支流の長田川沿いの険しい崖上にあり、人口的な平場に柵列や多数の掘立柱建物が見つかった。後のグスクのような高い石垣はないが、尾根先端の平場を区切るために野面積みの石積み列が設けられている。今帰仁城(沖縄県今帰仁村)主郭の発掘調査で、第Ⅰ期(13世紀末~14世紀前半)の遺構が柵列と斜面の土留めの石積みであったことは知られていたが、大湾アガリヌウガン遺跡やシイナグスク(今帰仁村)の調査によって、初期のグスクがどのような姿であったか、具体的に明らかになりつつある。

国府・郡衙の消滅と国司館

館前遺跡復元模型,古代城郭
館前遺跡 復原模型(多賀城市埋蔵文化財センター提供):多賀城跡南東の小高い丘陵に位置し、9世紀前半頃の国司クラスの邸宅とみられる遺跡

10世紀になると、地方の役所であった郡衙(ぐんが)は衰退、消滅してしまう。郡衙の正倉は9世紀前半頃までは整然とした建物配置が維持されていたが、9世紀以降の政策変化によって貯穀施設としての正倉の役割が低下する。その後、田租や出挙稲(すいことう)は私営田経営者の倉から国府あるいは受領(ずりょう)の京宅に直接運ばれるようになった。郡衙の機能は国府へ吸収され、国府が地方支配の実務機関として再編・強化されていく。

国府の政庁は10世紀末~11世紀には衰退する。これは10世紀頃から国司が受領化したことにより、国庁における儀式や饗宴の場としての機能が低下し、政務の中心が国司館に移転したことを示している。
9世紀後半の治安悪化-群盗蜂起、俘囚反乱、東国での僦馬(しゅうば)の党、西国での海賊の横行などの鎮圧過程の中で軍制の改革が進められていく。かつての律令軍団制は弱体化し延暦11年(792)に廃止され、「弓馬之士」を募兵する健児(こんでい)制や選士制、服属した蝦夷を活用した俘囚軍などの試行錯誤を経て、国毎に警察・軍事指揮官として押領使を任命し、中央からの追討官符を受けた受領(国司)の命令で押領使が国内の豪族たちを動員して反乱を鎮圧する体制に移行していった。こうして10~11世紀には受領は任地で国司館を中心に私的従者と地方豪族軍を中心に地域の武力集団を編成していく-国衙軍制の成立である。

平安時代のプレ方形館

神隠丸山遺跡,古代城郭
神隠丸山遺跡全景写真(南から)(公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター提供):相模から武蔵を通る交通(中原海道)の要衝にあり、北川谷遺跡群と関係深い「居館」的な遺跡とされてきたが、出土遺物は少なく、緑釉陶器や鉄器の出土もないため、最近の研究では「神社」説が有力視されている

武士の館-方形館の成立は通説では鎌倉時代とされる。しかし近年、発掘調査によって9世紀~10世紀にかけての館跡が各地で発見されている。
館跡として比較的早い時期のものとして8世紀後半から9世紀中頃と考えられる一辺70mの方形に溝がめぐる芳賀輪遺跡(千葉市)や内荒(うちあれ)遺跡(静岡市)がある。内荒遺跡からは墨書土器や硯、荷札木簡さらに銙帯(かたい)金具、銅銭、銅印などが出土していることから、安倍郡衙と推定されている。溝などの方形区画はないが、同時期には寺平遺跡(栃木県市貝町)のような富豪層の居宅とされる遺跡もある。大型の竪穴住居を中心として、掘立柱建物群、仏堂と考えられる建物、倉庫群などが一辺約 60mのコの字形に配置されている。

北島遺跡(埼玉県熊谷市)は、90m四方の二重の方形区画溝と東側に四脚門がつくられ、区画内からは5×2間の四面廂付の大型建物と数棟の付属棟、竪穴住居などが確認されている。また「篁」の刻書のある緑釉陶器や灰釉陶器が大量に出土し、時期は9世紀代と考えられている。9世紀後半~10世紀前半の大島畠田遺跡(宮崎県都城市)では5×2間の身舎(もや:家屋の中心部分)に四面廂と縁が付く大型建物を中心に池状遺構や掘立柱建物群があり、東西70m、南北80mの居宅跡は、東と西は段丘崖など自然地形を利用し南辺に溝(幅約2m)や柵列の区画施設を設け、これに四脚門が取付いている。供宴用の坏などが多量に見つかり、緑釉陶器や灰釉陶器、特に青磁・白磁といった大量の中国製輸入陶磁器が出土したことから、単なる有力者の居宅ではなく、島津荘成立に関わる遺跡とみられている。国史跡に指定され、最近歴史公園として整備、公開された。

長野県の関口B遺跡(小諸市)や下神遺跡(松本市)では、約50m四方の溝と柵列がめぐり9世紀代に成長し農村の実力者となった富豪層の居宅と考えられている。港北ニュータウンの東端部の北川谷戸遺跡群の谷奥には、9世紀中頃と考えられる神隠丸山遺跡(神奈川県横浜市)がある。幅1~2m、一辺53mの溝が方形にめぐり、南辺に出入り口がある。中央には4×2間の掘立柱建物が南面して建ち、その西側には主屋を囲むように掘立柱の長屋が確認されている。敷地の東側は広場で北東隅に竪穴住居がある。世良田諏訪下(せらだすわしも)遺跡(群馬県太田市)は、全体の形は平行四辺形、堀幅は3.5mで東辺は長さ128m、南辺は長さ75mほどが確認されている。南辺には掘立柱建物を伴う小規模な付属区画がある。区画の東側からは竪穴住居13棟が確認され、出土遺物から9世紀末~10世紀初頭とみられている。

吉田川西遺跡(長野県塩尻市)では、10世紀末頃に東西100mの大きな溝(幅1~2m)で囲まれた方形区画の中に大型の竪穴建物と掘立柱建物、小型の竪穴住居が配置され、さらに区画の外にも小型の竪穴住居が分布している。区画内からは鉄鏃や馬具、供宴用の多量の土師器や緑釉陶器が出土しており、武装した有力者と下人らの住居に、特に一辺10mの大型竪穴建物は宴会の場として性格付けがなされている。

吉田川西遺跡,陶器,古代城郭
吉田川西遺跡出土の緑釉陶器・灰釉陶器(長野県埋蔵文化財センター提供):八稜鏡と共に有力者の木棺墓に納められていた

9~10世紀頃、律令制の解体が進行していく中で、荘園や国衙領の田地経営を請け負った有力農民を「田堵(たと)」と呼んだ。田堵は、郡司一族に出自を持つ地方豪族や土着国司の子孫などで、墾田開発や農民への私出挙を行い、富を蓄積していった。請け負った土地の名を負うところから「負名(ふみょう)」とも呼ばれ、経営規模によって大名田堵、小名田堵などと呼ばれた。後の「大名」の言葉としての起源はここにある。
この時期の方形館は田堵のような「富豪の輩」の拠点もあるが、郡衙など官衙に関連した施設とみられるものや、四面廂付の大型建物や緑釉陶器のように中央との繋がりを強く示す荘園の政所的な施設もあり、複雑な様相を呈している。囲郭施設としての溝も幅1~2mと概して狭く、防御的な役割は弱い。

兵(つわもの)の時代

国衙軍制に集結した軍事力は「兵(つわもの)」と呼ばれる。彼らこそ武士のルーツなのだが、この段階では武士とはいえない。
10世紀中頃の承平・天慶の乱の時、平将門は豊田郡の鎌輪宿(かまわのしゅく、茨城県下妻市か)に住んでいたが、その後、岩井の島広山に石井営所(いわいのえいしょ、茨城県坂東市岩井)という軍事拠点を設け移ったと伝えられる。また11世紀初めの平忠常の乱の時、忠常は上総国夷隅郡伊志み山(千葉県いすみ市か)に軍営を置いたというが、彼らの館や軍営がどのようなものであったか、遺跡は見つかっておらず、よくわからない。『将門記』の戦闘記事によれば、将門が勝利に乗じて焼き払った敵方の屋敷地として「領主の宅(館)」と「それを取り囲む与力の小宅」、「散在する伴類の舎宅」の三重構造が指摘されている。これは当時の戦闘集団の構成とよく対応し、10~11世紀頃の方形区画内外の大型建物や小型の竪穴住居の構成とも合致する。

7世紀後半~8世紀代にかけて集落立地は丘陵・台地上にあったが、9世紀後半以降、台地上の遺跡は衰退し、集落は沖積低地へ進出していく。そのため、古代末から中世前期は「大開墾の時代」といわれる。荒廃した公田の復興や条里地割内の不安定耕地の克服といった再開発がなされると共に、山間の谷地田や扇状地、河岸段丘、三角州など未墾地の開発も進められていった。有力農民であった田堵の中には荘官となるものもあり、彼らの中から兵を統率する武士団も現われていく。
沖積地へ進出した11世紀後半の拠点的な遺跡として、多摩川右岸の微高地上の落川遺跡(東京都日野市)がある。方60~70mの範囲に、板塀ないし柵列、四脚門と四面に縁を有する大型の掘立柱建物群、それに付属する竈屋、鍛冶工房、畑地など、富豪層の居宅と考えられる遺跡である。金属製品が豊富で、鉄鏃、馬具、刀装具などの武具類、鎌、鍬、鋤などの農具、珍しいものとしては家畜用と考えられる「土」字の焼印や鉄製の鍋・釜、越州窯系など輸入陶磁器が出土している。

鉄印,古代城郭
落川遺跡の鉄製焼印(東京都教育庁所蔵・横浜市歴史博物館画像提供):牛馬用の烙印と推定され、関東を中心に平安時代の遺跡から20例見つかっている。全て一文字で、牧の存在を示す遺物として注目されている

馬と鉄

落川遺跡の居宅には溝や堀などはみられないが、大型掘立柱建物を中心とする階層的にも分化した半農・半武士的集団の拠点であり、至近に武蔵一宮ともされる小野神社(式内社)が鎮座することから、小野牧との関連も指摘されている。遺跡の一部は都営団地の一角に公園として保存されている。
将門の強さは騎兵にあり、官牧である長洲(ながす)・大結牧(おおいのまき)、常羽御厩(いくはのみうまや)の牧司(もくし)として経営に当たっていたとされる。また、結城郡は尾崎前山遺跡(茨城県八千代町)など古代の鉄産地であり、将門は強力な騎馬隊を生み出す「馬と鉄」を掌握していた。
神隠丸山遺跡に近い西ノ谷遺跡(横浜市)では10世紀後半~12世紀の鍛冶工房が形成されている。鉄滓の科学分析から鉄鉱石を原料として精錬・鍛冶作業が一貫して行われ、鉄札の未製品が出土したことから大鎧が製作されていたとみられている。

早稲田大学の本庄キャンパス移転に伴って発掘調査された大久保山遺跡(埼玉県本庄市)では、12~13世紀頃の居館が見つかっている。武蔵七党の中でも最大の児玉党の初期の拠点とみられている。彼らの始祖・有道氏も阿久原牧(あぐはらのまき、埼玉県神川町か)の別当(管理者)だった。各地の「党」的な武士団は平氏や源氏など軍事貴族との間に所領などを介した主従関係を形成していく。

方形館論争-鎌倉武士の館はなかった?

江上館,古代城郭向井
江上館全景(胎内市教育委員会提供):代表的な方形館の一つ。三浦和田一族の中条氏の居城。奥山荘城館遺跡として整備され、橋や城門が復元、奥山荘歴史館も併設されている

水堀と方形の土塁に囲まれた館(方形館)-教科書などで紹介される鎌倉時代の武士の館のイメージである。「一遍上人絵伝」に描かれた武士の館や各地に残る鎌倉武士の伝承を持つ方形館の遺跡の存在から、近年に至るまで鎌倉期の武士は方形館に住んでいたと考えられてきた。しかし、発掘調査が進むと、方形館として地表に残る遺跡は、多くは14~15世紀頃に築かれたものと判明した。堀と土塁をめぐらせた武士の居館を表わすとされる「堀ノ内」という言葉があるが、この言葉は本来、尾根から谷を囲い込んだ堀をめぐらす広い空間=農耕地を指していた。
現在地表で確認できる方形館の土塁・堀のような城館遺構の多くは、中世後期(南北朝~)以降の構築物であり、中世前期(平安末~鎌倉)までさかのぼりえない。方形館の典型例と考えられてきた足利市の鑁阿寺(ばんなじ)も近年に至るまで何らかの改変を受けている可能性は高い。発掘調査などで未確認城館が多数発見される一方、中世の城館は同一場所に長期間、継続あるいは断続的に使用されており、古い段階の遺構は破壊されていることもわかってきた。

12~13世紀の古い段階の居館的な遺跡としては、まず大内城(京都府福知山市)があげられる。比高差20mほどの丘陵上に占地し、80m四方の方形館である。特徴的なのは土塁が堀の外側をめぐっている点で、柵列も伴っている。六人部荘を管理する荘園の政所的な施設と推定されている。
平地居館でさかのぼる事例としては、11世紀後半の佐山遺跡(京都府久御山町)がある。条里地割に沿って幅7~8mの巨大な大溝が検出され、120m四方の方形居館を取り囲んだ水をたたえた濠だったことが判明している。「石清水文書」にみえる極楽寺領の「居屋狭山」に当ると考えられ、濠から「政所」と墨書された灰釉陶器や延喜通寶(初鋳907年)が出土したことから、当初(平安中期)、荘園の政所施設だった場所が在地領主層の拠点として利用されたと考えられている。
よく似た遺跡としては、12世紀末~13世紀前半の長原遺跡(大阪市)があり、条里地割に規制された南北109m(=一町)の濠(幅3.5~4.6m)が検出されている。また和気遺跡(大阪府和泉市)では、幅2.5~3mの濠と塀で囲まれた東西36m、南北30mの区画を中心に、北側に外郭が追加され、12世紀後半~13世紀中頃にかけて5期の変遷が想定されている。

このように、方形館の出現については関西が先行するとされている。確かに13世紀代の中世居宅遺構が検出された宮久保遺跡(神奈川県綾瀬市)では、柵や垣、部分的な小溝で区画されているだけで堀はない。上浜田遺跡(神奈川県海老名市)や多摩ニュータウン692遺跡(東京都八王子市)、小山田1号遺跡(東京都町田市)では、丘陵をL字にカットして削平地を造成しており、方形館のイメージとはかなり異なる。上浜田遺跡や小山田1号遺跡は史跡公園として整備され、見学できる。

東日本の方形館

河越館,古代城郭
河越館 推定復元図(川越市教育委員会提供):応安元年(1368)の武蔵平(むさしへい)一揆で河越氏が滅亡した後、16世紀後半に山内上杉氏が陣城(上戸陣)として利用、現地に残る土塁などはその時の遺構。河越館史跡公園として整備されている

最近の調査によって、河越館跡(埼玉県川越市)では、13世紀までさかのぼる河越氏時代とみられる方形区画が見つかっており、奥山荘城館遺跡(新潟県胎内市)でも、15世紀代の江上館南方で13世紀後半~14世紀の坊城館が発見され、東日本でも方形館的な遺構が見つかり始めている。阿保境館(あぼざかいやかた、埼玉県神川町)の場合、Ⅰ期(13世紀前半~14世紀前半)では内郭の幅1.5mの溝だけだったのが、Ⅱ期段階(14世紀中~14世紀後半)になると外郭の空堀(幅3~4m)が造られていて、過渡的な様相を示している。史跡公園として整備された小田城(茨城県つくば市)では、主郭下層(第⑥層)が鎌倉時代に遡ることが判明しており、鑁阿寺でも13世紀代のかわらけや青磁片が見つかっていることから、鎌倉期に既に何らかの居宅的施設があったと推定できる。

14世紀辺りに防御的な武士居宅への転換点があるとみられる。土塁の有無については、古い遺構は上部が削平されてしまい現状確認できないものの、長原遺跡などでは堀の内側に一定幅の遺構のない空間が存在することから、土塁の存在が推定されている。高田大屋敷遺跡(静岡県菊川市)では土塁の断ち割り調査の結果、平安時代末~鎌倉時代(12世紀末~13世紀頃)に土塁が築造されたとされる。なお、方形館の堀(濠)については、その内側の土塁や柵と共に防御機能を想定できるが、灌漑用水の調節用溜池としての利用も指摘されている。方形館の地域開発の拠点としての側面である。

平地城館の多郭化

屋代城跡の変遷,古代城郭教室,向井一雄
屋代城跡の変遷(『龍ケ崎市史 中世史料編 別冊』平成6年 龍ケ崎市 P.38-39(龍ケ崎市教育委員会提供)を筆者が加工):龍ケ崎市の城ノ内中学校の校庭に主郭があった。校庭の西側に土塁が残されている。地表には土塁や堀は断片的にしか残存していなかったが、発掘調査によって、その全貌が明らかとなった

日本の中世城郭の特徴は、複数の曲輪の組み合わせによる多重防御的な縄張りプランにある。弥生の環濠集落や防御性集落などで時に二重~三重の環濠がみられるが、これらは遮断線を厚くすることで防御機能を高めており、曲輪の組み合わせによる多郭化=横矢がかりと虎口防御を駆使する、とは異なる。それでは、曲輪による多重防御の起源はいかに考えられるだろうか。
日本の中世城郭では、まず方形館で多郭化が始まる。当初は単純に中心区画の相似形的に外郭を設けていたが、やがて複雑化していく。二重方形区画の段階として、会津新宮城(福島県喜多方市)や青鳥(おおどり)城(埼玉県東松山市)がある。屋代城(茨城県龍ケ崎市)は全面発掘によって複雑に変化していった様相が判明した事例で、13~16世紀の城館である。Ⅰ期(13~14世紀)に一辺80mの方形館が築かれ、Ⅱ期(14世紀後半~15世紀中頃)に東西166m、南北212mの外堀を構築しているが、その内部には複雑な折や小区画が設けられている。内城-外城の二重方形区画の城館は、内城(実城)-中城-外城という三重構造の戦国期城館へ発展していく。

中世山城の出現

播磨山城,古代城郭教室,向井一雄
播磨城山城(義則敏彦氏提供):7世紀後半に古代山城が築城された後、平安時代に山岳寺院が設けられ、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱では赤松氏が山城として籠城、滅亡した

平地もしくは丘陵上城館に比べると、中世山城の誕生は謎に包まれている。後の戦国期に利用される際に改修を受けて古い段階の遺構が残っていない、もしくは見分けられなくなっているケースが多いためで、山城の出現は南北朝期に始まるが、徐々に高い山に占地するのではなく、いきなり最初から高山を利用している。当時、山岳寺院が盛んに城郭として利用されたことも高山利用の理由だが、山地での土木造作の困難さから天険を利用したという面が大きい。防御構築物としては掘切を連ねる形が多く、いわゆる阻塞類(バリケード)を山地の要所に設けていく手法といえる。曲輪となる部分は概して削平が甘く未削平の部分も多い。初期の中世山城としては、楠木正成で有名な千早赤坂城塞群(大阪府千早赤坂村)や古代山城だった播磨城山城(はりまきのやまじょう、兵庫県たつの市)、厚東氏の霜降城(山口県宇部市)などがある。また奥山荘城館遺跡の鳥坂(とっさか)城(新潟県胎内市)の古城(山頂)は、後世の縄張りと重なり、遺構は判然としないが、文献から判明する希有な事例といえる。
古代山城や城柵のパーツともいえる阻塞類を再構成していくことで、中世山城が成立していくといえるが、山城で大規模な普請工事が行われるようになるのは、応仁の乱後の軍事的な必要性と動員力の増大を待たなければならない。

連載「古代城郭教室」を終えて

我が国では中世から近世にかけて何万という城郭が築かれたため、歴史ファンはもちろん一般の方々にとってもお城の存在は当たり前、城が築かれるということに対して違和感を持たない、いわば「城の日常化」的な感覚を持っている。世界史的にみて、戦闘拠点としての城が無数に存在している国はあまりない。アジアに限ってみても中国や東南アジアでは城は「城市」=都市であるし、「山城の国」といわれるお隣の韓国でも城の総数はせいぜい2000足らずである(北朝鮮まで含めても3000)。
しかし、日本列島において城が築かれ機能していた時代は意外に短期間である。平和な時代には城は築かれることはなく、必要ではなかった。かつては「城を構える」という言葉は屋敷の武装化や武装蜂起・反乱と同義であった。戦乱が城を必要としたのであり、古代末から中世前期にかけて最初に城郭が発達する地域が北東北と沖縄であることはそれをよく表わしている。同時代の列島の大部分では城は未発達であった。
長い城の歴史の中で考えると、古代国家の都城や官衙を模した方形の居館こそが中世から始まる日本式城郭の原点であることがわかる。中世の城というと、私達は山城を思い浮かべてしまうが、山城の発達の前に方形館の多郭化があったことを忘れてはならないだろう。城郭ファンには人気のない方形館であるが、日本の城の歴史の中における重要性を再認識して欲しい。


執筆/向井一雄(むかいかずお)
古代山城研究会・代表 城郭・古代史研究家
1962年愛媛県松山市生まれ。古代朝鮮式山城を研究・調査する研究者のネットワーク機関として古代山城研究会を組織。
研究分野は、城郭だけでなく、狼煙や銅鐸など多岐にわたる。
専門は日本考古学、城郭史。日本考古学協会会員。
ブログ「銅鐸通信

<参考文献>
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川合 康1996『源平合戦の虚像を剥ぐ』講談社選書メチエ
飯村 均・齋藤慎一 2001「Ⅲ 城と館」『図解・日本の中世遺跡』東京大学出版会
石井 進 2002『鎌倉武士の実像-合戦と暮しのおきて』平凡社ライブラリー
冨永樹之 2004「十・十一世紀の関東-集落・官衙・寺院・土器の変質-」『中世東国の世界2 南関東』高志書院
田中広明2006『国司の館-古代の地方官人たち-』学生社
原田信男2008『中世の村のかたちと暮らし』角川選書
原 明芳 2010『奈良時代からつづく信濃の村・吉田川西遺跡(シリーズ「遺跡を学ぶ」069)』新泉社
樋口知志(編)2016『前九年・後三年合戦と兵の時代(東北の古代史5)』吉川弘文館
平山尚言・平野卓治(編著) 2020『神隠丸山遺跡Ⅰ平安時代編(港北ニュータウン地域内埋蔵文化財調査報告52)』横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化財センター