古代城郭教室(Ⅳ)東北城柵は蝦夷征討の城か、それとも役所なのか?

古代山城研究会代表の向井一雄先生が、変化に富んだ日本の城の歴史について、日本が「孤島」でありながらも海外からの影響を受け、どのようにして城郭文化が出来上がったのかについて教えてくれる「古代城郭教室」。第4回目の今回は、東北城柵は、蝦夷征討の城かそれとも役所なのかを解説します。



蝦夷支配と城柵

7世紀半ばから9世紀初頭にかけて、東北地方には蝦夷(えみし)との境界領域に城柵(じょうさく)が設置された。これらの城柵は古代国家が蝦夷支配の拠点として造営した施設である。
城柵については、戦前は開拓史観に基づいて蝦夷征伐の城砦と捉えられていたが、戦後1960年代以降の発掘調査によって、中心部の政庁などが国府に酷似し、外郭が土塁ではなく築地や材木塀と判明したため、役所説が提唱されるようになった。

古代城郭教室,向井一雄
古代山城と東北城柵の分布図:古代日本では東西の辺境に古代城郭が設けられた

渟足・磐舟柵と郡山遺跡

大化3年(647)と翌年、越国に渟足柵(ぬたりのき・新潟県新潟市東区沼垂(ぬったり)か)と磐舟柵(新潟県村上市岩船か)が築かれた。両柵は日本史の教科書に必ず載っているが、遺跡はまだみつかっていない。八幡林遺跡(新潟県長岡市)から出土した養老年間(8世紀初め頃)の木簡に「沼垂城」の文字が確認され、渟足柵の実在が裏づけられた。また仙台市の郡山遺跡の発掘調査によって、陸奥国側にも同時期に城柵が設置されていたことが明らかとなってきた。

囲郭集落と柵戸

7世紀代の東北南部では、関東系土器が出土する囲郭集落が福島県から宮城県北部でみつかっている。囲郭集落は周囲に区画溝と材木塀をめぐらし防御的な構造を持つ。関東系土器が多量に出土しており、この時期、関東から多数の移民がやってきたことは間違いない。
教科書的には、城柵の建設→柵戸(きのへ/さくこ・移民集落)の設置となっているが、関東から東北への移民→囲郭集落の出現→官衙型の城柵造営という遺跡の状況から、事実は逆らしい。当初、城柵は関東系移民の東北進出の後追いとしてつくられ、東北中部の交易拠点を軍事的に押さえていったらしい。

古代城郭教室,郡山遺跡材木塀
郡山遺跡材木塀(仙台市教育委員会提供)

城柵の構造

太平洋側では内陸の北上川を北進して志波城(岩手県盛岡市)まで達し、日本海側では点々と潟湖(せきこ)を港として利用しながら北上、秋田城(秋田県秋田市)が最北端の城柵となる。7世紀中頃から9世紀初めまでの約160年間に設置された城柵は20を数える。

城柵の立地は平地あるいは丘陵地で、平地の場合は平面が正方形だが、丘陵地では地形に制約されて不整形になる。施設中央部には政庁を設け、その周囲には曹司(そうし・実務を行う役所)を配し、外郭は材木列、築地、土塁などで囲んでいる。外郭の要所に櫓が設置されていることも多く、防御を固めている。規模は、最大級の多賀城(宮城県多賀城市)で900m四方、志波城は840m四方でさらに外濠がめぐる。最小の徳丹城(岩手県矢巾町)は350m四方である。政庁区画は100~150m四方を築地塀で囲み、正殿と東西脇殿がコの字型配置をとる。

基本は方形の政庁と外郭で囲まれた二重外郭構造をとっているが、8世紀後半以降、蝦夷との軍事衝突が本格化すると、城外の隣接地にあった集落を城内に取り込む三重外郭構造となった。多賀城では条坊が設けられ、城柵に付属する都市も形成されていた。
東北城柵は、蝦夷に対する軍事的な拠点でもあったが行政的な施設でもあり、この点が西日本に築かれた古代山城と大きく異なる点である。城内の施設内容は国府によく似ており、いわば「武装された官衙」といえる。

古代城郭教室,向井一雄,全体塀図
壇の越遺跡・東山官衙群・早風遺跡の全体図(加美町教育委員会提供)

蝦夷とは何か?

蝦夷とは東北地方に住む土着の人たちを広く指した言葉である。よく縄文人の末裔が蝦夷だという人がいるが、正しい理解とはいえない。また弥生時代前期に青森まで稲作が伝わっていることから、その後東北地方に稲作が定着したと思っている人がいるが、紀元前1世紀頃、様々な事情で稲作は放棄されている。
蝦夷の呼称の内実は,時代や地域によって大きく異なり,その性格を一義的に規定することを困難にしている。律令国家がこの地域に本格的に進出していく7世紀に限ってみれば、一種の疑似的なエスニック集団-倭王権からみた「辺民」といえる。

東北地方は3~4世紀に関東から九州までの地域が古墳文化に入っていく中で、独自の歩みを続けた。この時期の古墳文化の太平洋側の北限は宮城県中部、日本海側は新潟県から山形県で、そのラインから以北は続縄文文化の文化圏に残った。これは古墳寒冷期の厳しい気候がその背景にある。東北中部の地域は4~5世紀代にかけては北海道を中心とする続縄文系集団が南下し、南の古墳文化人と雑居の状態にあった。

この時期の続縄文文化では、墓はつくられるが居住痕跡が少なく、遊動性の高い生業であったと推定されている。東北中部の拠点的集落には続縄文文化人と古墳文化人が共生しており、皮革加工用の石器(皮なめし用のラウンドスクレーパー)が多量に出土することから、毛皮交易が盛んであったらしい。

仙台平野には前方後円墳が造られ東北中部では古墳文化化が進んだが、6世紀頃に遺跡数が減少したため、国造制の北限は福島県域に止まった。東北中部・新潟県の古墳文化人たちは国造制の範囲の外側に位置することになり、化外の民とされたらしい。北海道では7世紀以降、続縄文文化から擦文(さつもん)文化が成立していく。

多賀城の創建と天平五柵

和銅6年(713)の丹取郡の設置、霊亀元年(715)の東国六国の富民千戸の陸奥への移配はこの時期最大級の規模で、大崎平野への入植が本格化した。この動きと連動して神亀元年(724)に多賀城(宮城県多賀城市)が造営され、郡山遺跡から陸奥国府が移転した。

天平9年(737)の天平五柵は多賀城創建と同じ頃、大崎・牡鹿地方に置かれた城柵であり、大崎平野を中心として大規模な植民と城柵官衙の整備によって東北中部における蝦夷支配体制の強化が行われたことがうかがえる。この地域は後に黒川以北十郡と呼ばれるようになった。

桃生城と伊治城

8世紀半ば以降になると、陸奥国では海道(かいどう)に桃生城(ものうじょう・宮城県石巻市)が、山道に伊治城(宮城県栗原市)が築かれた。大崎・牡鹿地方の支配をさらに拡大しようと企図したのである。

桃生城は標高80mの丘陵に、伊治城は河岸段丘上に占地して、それまでの城柵に比して厳重に防御を固めている。両城は蝦夷の領域への侵略拠点であり、そのため蝦夷からの強い反発・抵抗を受けることになった。東山官衙遺跡群や伊治城の外郭は丘陵地に数kmにわたって二重の堀と土塁がめぐり、古代山城を彷彿とさせる。

古代城郭教室,向井一雄,早風遺跡
早風遺跡二重土塁。早風遺跡は東山官衙遺跡の外郭で総延長は1.5kmに及ぶ(東北歴史博物館提供)

出羽国側の城柵

陸奥国側の多賀城設置と大崎・牡鹿地方の支配強化に次いで出羽国側でも城柵の北進が計画された。天平5年(733)出羽柵が秋田村高清水岡へ移転する-秋田城(秋田県秋田市)の設置である。

出羽柵の秋田移転と雄勝(おかち)村への建郡が計画され、四年後陸奥・出羽連絡路の建設を目指した軍事行動が起こされたが、雄勝村の狄俘(てきふ)の動揺のため中断している。桃生城と同時に築かれた雄勝城の所在は不明であるが、横手盆地中央には第二次雄勝城と目される払田柵(ほったのさく)遺跡がある。払田柵の外柵は角材を並べた材木塀で、角材の年輪年代は延暦20年(801)頃の伐採と判明している。これまでも「小勝」の文字のある木簡や墨書土器が出土していたが、平成30年(2018)、払田柵から出土した漆紙文書に「小勝城」(=雄勝城)の名が記されていることがわかった。

三十八年戦争の推移

古代城郭教室,多賀城南辺築地
多賀城南辺築地(東北歴史博物館提供)

天平宝字6年(762)、多賀城は藤原朝葛によって大規模に修造された。政庁内の建物はすべて礎石建てに改められ荘厳化された。この時、外郭南辺も南へ拡張され、外郭の材木塀が築地塀に改修されたらしい。新しい南門の前に多賀城碑も建碑された。多賀城の荘厳化と積極的な蝦夷領域への拠点造営は藤原仲麻呂政権の施策によるものだろう。しかしこの積極策が後年裏目に出る。

宝亀5年(774)海道の蝦夷が桃生城を攻撃し落城させた。桃生城の多くの建物が火災で焼失して、その後、放棄される。蝦夷の蜂起は出羽国側にも及んだ。三十八年戦争のはじまりである。

宝亀11年(780)3月、伊治呰麻呂(これはり/これはるのあざまろ)が伊治城において道島大楯らを殺害、伊治城は焼かれ、呰麻呂ら俘囚(服属した蝦夷)軍は多賀城を襲撃して兵器・兵粮を略奪、放火した。
延暦8年(789)3月に、紀古佐美(きのこさみ)らによる大規模な蝦夷征討が開始されたが、5万人を越える征討軍は巣伏(すぶし)の戦い(岩手県奥州市水沢区)で大敗を喫してしまう。延暦13794)には、第二次の蝦夷征伐が行われた。前回に倍する10万の大軍が動員され、戦果を上げた。さらに延暦20年(801)、坂上田村麻呂を征夷大将軍として第三次の征討が行われた。この時は優勢な戦況を背景に停戦し、大墓公・阿弖利爲(あてるい)と盤具公(いわぐのきみ)・母禮(もれ)が和平に応じ降伏したが、河内で斬首された。

胆沢城と志波城

延暦年間の征夷の結果として、胆沢城(いさわじょう/いさわのき・岩手県奥州市)と志波城が築かれた。胆沢城は延歴21年(802)年、志波城は翌年の築城である。志波城の城内には官衙群だけでなく、外郭築地内側に千棟を越す竪穴住居(兵舎)があるとみられている。また南門の左右に各7棟計14棟の櫓が配置されていた。志波城は東北地方最大級の城柵であり、築城当初の重要性は胆沢城を凌いでいたと考えられる。両城は三十八年戦争のさなかにつくられたのではなく蝦夷征討の終了後に築かれた。両城は胆沢~志波地域を統治するための拠点であり、平地に立地し防衛的なプランではない。

延暦23年(804)には田村麻呂が征夷大将軍に任じられ、第四次の征討計画が進められようとしていたが、延暦24年(805)の「徳政相論」によって征夷と造都は中止され、第四次征討は中止された。

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志波城復元築地と南門(室野秀文撮影)

征夷と饗給

城柵では、朝貢してきた蝦夷に対し、城司が天皇に代わって蝦夷に饗給(きょうきゅう)を行った。饗給儀礼は城柵の政庁前の広場で行われ、蝦夷の有力者は位階や官職を与えられ、絹や麻布、朝服や食料などが支給された。城柵の任務は、軍事的な征服だけではなく、饗給に関わる部分も大きかった。朝貢と饗給には、朝廷(倭人)側にとっても北方の特産品を入手するという経済的な意味もあった。

つまり城柵はいわば「交易センター」としての性格も持っていたことになる。熊や鹿の毛皮、馬、砂金、昆布などの北方の特産品は都の王臣や国司らに珍重されたため、蝦夷との私的交易活動の禁制が出されるほどであった。

蝦夷社会への影響

蝦夷の側でも交易によって入手する武器や農工具などの鉄製品、繊維製品、米、酒、塩などの食料品を入手することができた。これらの倭人側の産物は集団内部での族長の権威を高め、周辺の他集団との交易にも用いられた。倭人との交易が、たとえ軍事力による不平等交易だったとしても、蝦夷側にとってもメリットが大きかったのも事実である。

朝貢・饗給システムの影響は北海道にまで及んでいた。延暦21年(802)には渡嶋の狄が来朝して種々の毛皮などを貢じており、東北地方から多く発掘される蕨手刀などが北海道のオホーツク文化の墳墓からも出土している。8世紀に東北北部の土器が土師器化し、北海道の擦文土器成立にも影響を与えていることなどからも、倭人社会との接触が蝦夷領域へ与えた影響がいかに大きかったかわかる。

征夷の終了と胆沢鎮守府

弘仁2年(811)には文室綿麻呂の建議により、爾薩体(にさったい、岩手県二戸市仁左平)・弊伊(へい、岩手県宮古市)の2村の征討が最後の征夷として実施された。今回の征夷は陸奥・出羽国内から徴兵した兵士と俘囚軍によって行われた。征夷後、和賀・稗貫(ひえぬき)・斯波の3郡が設置されたが、この3郡は服属した蝦夷で構成される蝦夷郡だった。

志波城は水害を理由に、弘仁3年(812)頃、南に15㎞移転する。律令国家最後の城柵となる徳丹城(岩手県紫波郡矢巾町)である。爾薩体・弊伊の征討後も蝦夷の小規模な反乱はしばらく続くが弘仁2年(811)には征夷の終了(三十八年戦争終結)と大幅な軍備縮小(軍団数減、鎮兵廃止と健士(こんし)発足)が行われた。徳丹城は9世紀半ばまで維持され、胆沢城へ吸収される。

多賀城に置かれていた鎮守府が胆沢城に移されると、胆沢鎮守府の機構整備が進められ、胆沢城も9世紀後半に礎石建て、瓦葺きに建替えられる。約20ヶ所も造られた城柵だが、10世紀まで存続した6城柵だった。

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伊治城出土弩機。「機」は弩(ボーガン)の引金部分で、日本では初めて出土した貴重な遺品栗原町教育委員会提供

元慶の乱

元慶2年(878)、北秋田・米代川流域の俘囚が蜂起した。原因は秋田城司・良岑近(よしみねのちかし)の苛政で、反乱勢力は秋田城などを急襲し、秋田河(雄物川)以北の独立を要求した。出羽国府軍は壊滅、城司と出羽守は逃亡してしまう。朝廷は藤原保則と小野春風を派遣し、不動穀を賑給するなど蝦夷を懐柔、春風は陸奥から入り夷語を話して地元の豪族を降伏させた。

元慶の乱は、古代国家の軍事力が低下して武力によって蝦夷を制圧できなくなってきたことを示す。乱後、秋田城は再建されたが、出羽国司次官が秋田城に常駐して秋田城介(あきたじょうのすけ)となり、胆沢城の鎮守府将軍に近いものになっていった。後に織田信長の長男・信忠が任官したのがこの秋田城介である。

城柵の終焉

東北の城柵は10世紀半ば~後半には衰退・消滅する。城柵の周辺では既に9世紀後半頃から政庁に似た建物配置の遺跡が出現していた。国司館や城司館と想定される遺構で、方一町程度の規模を持ち、主殿を中心に脇殿などを備えた邸宅である。国司や城司が受領化し政務が徴税請負的性格に特化した体制下では、律令制的な儀礼を行う施設の維持の必要性が薄れ、国司館などに中心が移っていった。




執筆/向井一雄(むかいかずお)
古代山城研究会・代表 城郭・古代史研究家
1962年愛媛県松山市生まれ。古代朝鮮式山城を研究・調査する研究者のネットワーク機関として古代山城研究会を組織。
研究分野は、城郭だけでなく、狼煙や銅鐸など多岐にわたる。
専門は日本考古学、城郭史。日本考古学協会会員。

<参考文献>
熊谷公男2004『蝦夷の地と古代国家(日本史リブレット11)』山川出版社
鈴木拓也2008『蝦夷と東北戦争(戦争の日本史3)』吉川弘文館
進藤秋輝(編)2010『東北の古代遺跡-城柵・官衙と寺院』高志書院
藤沢敦(編)2015『倭国の形成と東北(東北の古代史2)』吉川弘文館
ブログ「銅鐸通信

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