古代城郭教室 (Ⅰ)古代の日本に城はあったのか?

古代山城研究会代表の向井一雄先生が、変化に富んだ日本の城の歴史について、日本が「孤島」でありながらも海外からの影響を受け、どのようにして城郭文化が出来上がったのかについて教えてくれる「古代城郭教室」。第1回目の今回は、日本にはいつから城が存在したのか、またどのようなお城だったのかを解説します。



日本の城というと、なんといっても、天守閣のある江戸時代の大名居城~近世城郭がイメージされるが、最近はお城ブームの影響もあって中世城館の存在が知られるようになってきた。日本の城の歴史は変化に富んでおり、質量共に、「お城の国」と言っても過言ではない。そのような城郭文化がどうして日本列島に出来上がったのか-そこには海外からの影響と列島内でのガラパゴス的進化を見ることができる。

古代の日本に城はあったのか?

お城の概説書には、漢字の「城」の文字は「土」+「成」なので、「土を盛り上げて造った土塁を意味する」という説がよく紹介されている。中国では版築といって土を叩き締めて築いた城壁が都市を取り囲んでおり、一見納得できる説明だ。中国の漢字のルーツは甲骨文字だが、甲骨文字の「城」は四角の上下に三角屋根の家のようなものが付いた文字の横に鉞が並んでいる。家のようなものは城壁上の望楼(櫓)で四角は都市を囲む城壁、元々、望楼は左右にも付いて「郭」を意味する文字だった。武装(鉞)された都市(郭)=城だったわけだ。その後、偏の郭の部分が省略されて、鉞の下に付いていた土が偏に移り、楷書の「城」になったといわれている。

城字の変遷過程N
城字の変遷過程

中国最古の城は、中国考古学の進展によって、長江中流域の八十壋(バーシーダン)遺跡が紀元前7000年頃の最古の城址とわかってきた。農耕が始まって富の集積が起こり集落や地域間で紛争が頻発するようになった。農耕社会が集落や都市を守る城郭の出現と密接に関係することは世界史的な傾向で、我が国の城の歴史も弥生時代から始まったと考えられる。

弥生時代の環濠集落

縄文時代には戦争がなかったとされる。その証拠に縄文集落には壕のような防御施設はないし、武器で傷つけられ亡くなった人骨も発見されていない。環濠集落は弥生時代の始まり(紀元前千年前~)から見られるので、稲作文化とともに大陸・半島から伝わったと考えられ、韓国東南部では検丹里(コムタンニ)遺跡などの環濠集落が見つかっている。福岡空港近くの板付遺跡(福岡県)では東西80m、南北110mの楕円形の環濠集落全体が史跡公園として復元されている。

稲作がはじまったばかりの北九州地方では貯蔵穴エリアを囲む小型環濠も多かったが、弥生時代の中期(~紀元前1世紀)になると、近畿地方を中心に巨大な環濠集落(拠点集落)が、約5km間隔で並び立つようになった。唐古・鍵遺跡(奈良県)や池上曽根遺跡(大阪府)は史跡公園として整備されていて、巨大環濠集落の大きさが実感できる。近畿の大型環濠集落は濠を何重もめぐらしたものもあり、周辺にいくつもの支村を従え、祭祀センターとしての神殿や青銅器の工房なども発見されている。

弥生時代の環濠では、濠の内側ではなく外側に土塁をめぐらしているとされてきたが、外土塁そのものは残っておらず、環濠へ流れ込んだ土層からの推定なので、最近では濠外に土塁はなかったとする意見も多い。

高地性集落は弥生時代の山城か?

弥生時代の中期末頃になると、大坂湾岸から中部瀬戸内海沿岸に高地性集落と呼ばれる一種の山城のような遺跡が出現する。立地は尾根の先端や山頂・山腹で平地や海を広く展望できる位置にあるため、その役割は監視目的ともいわれる。六甲山地にある会下山遺跡(兵庫県)は有名で高床倉庫など建物も復元されている。

高地性集落を低地集落の逃げ込み城だとする説明を時々目にするが、大半の高地性集落は数軒の住居があるだけで、集落の人々が大挙して籠城するような規模ではない。監視所的な立地や互いに望見することができることから狼煙台として使われたとも説明されるが、焼土坑は小さく外クド(屋外炊飯)や土器焼成窯の可能性も高い。環濠や堀切状の防御施設を持つ高地性集落もあるので、戦いと関係がある遺跡であることは間違いなさそうだが、田和山遺跡(島根県)のように三重の環濠の内部には建物が二棟しかないものもあり、高地性集落の中には宗教的な聖地を守るような特殊な遺跡もあるらしい。田和山遺跡は遺跡全体が保存され、丘を囲む環濠や中腹の住居・倉庫なども復元されている。

田和山遺跡
田和山遺跡 三重の環濠(「『田和山遺跡』発掘調査報告書 2001.3」表紙写真 松江市提供)

邪馬台国成立の前史である倭国大乱と高地性集落は関係があるといわれてきたが、最近の研究によって倭国大乱(2世紀末)と弥生中期の高地性集落(紀元0年頃)は、時代が200年ほど違っていることがわかってきた。弥生時代後期(1~3世紀前半)に入ると近畿地方の巨大環濠集落は消滅してしまう。かわって、観音寺山遺跡や古曽部・芝谷遺跡(大阪府)のような大型の高地性集落が出現してくる。後期後半から庄内期(2~3世紀)になると、高地性集落の分布は東部瀬戸内や山陰、北陸方面にも拡大していく。戦乱の拡がりを示すのか首長層の出現・台頭と関係があるのか、諸説あるが、弥生時代が古墳時代に向けて大きな社会的変動期に入っていたことは間違いない。

環濠集落内の方形区画の出現

弥生時代の後期には、北九州でも巨大な環濠集落が登場してくる。吉野ヶ里遺跡(佐賀県)がよく知られているが、原の辻遺跡(長崎県壱岐)や三雲遺跡、須玖岡本遺跡(福岡県)は吉野ヶ里遺跡を超える規模を持ち、『魏志倭人伝』に登場するクニグニの首都「国邑」と考えられている。

環濠内に住む人と濠外に住む人という区別(身分差)が生じ、さらに濠内には方形区画(方形環濠)が出現する。方形区画は首長層(王族)の住居と考えられているが、方形区画は環濠の外につくられるようになり、古墳時代に入ると環濠集落が消滅して、方形区画のみとなる。これが豪族居館に発展していく。高地性集落も古墳時代に入ると姿を消す。我が国の古墳時代豪族や大王は、武力で権力を握った“城塞王”とはいえないが、高地性集落(城塞王的)から古墳(祭祀王的)へ首長たちの性格が変化していったのかもしれない。

豪族居館

古墳時代の豪族居館としては、三ツ寺Ⅰ遺跡(群馬県)が有名だが、遺跡は関越自動車道の高架下に保存されているものの、現地に行っても遺跡の様子はイメージしにくい。三ツ寺遺跡よりも大きな原之城遺跡(群馬県)も残念ながら整備はされていない。豪族居館は全国で100ヵ所ほど確認されているが、大型から小型まで規模は様々で、外郭施設は石垣を貼った濠から小型の堀など規模に応じて異なっている。濠の内側には柵や土塁がめぐっていて、環濠集落に比べると後の城郭と類似した構造になり、濠内に向けた張出し部を持つ居館もある。平地や台地上に立地することが多いが、小西行長の宇土城の西にある宇土古城の下層から発見された西岡台遺跡(熊本県)は丘陵上につくられている。

豪族居館は戦いに備えたものか?

囲形埴輪という特異な埴輪があり、かつては防柵の埴輪、古墳時代の城柵の埴輪だとされていた。その後、出土事例が増加して豪族居館や浄水の祭祀場を表わした埴輪だとわかってきた。囲形埴輪の中に導水施設と覆屋のミニチュアが入った埴輪も見つかっており、三ツ寺遺跡の大型建物の横には石敷きの水の祭祀場が発見されている。

小迫辻原遺跡(大分県)ではほぼ同じ構造・大きさの居館が三つ隣接して発見されていて、首長の代替わりごとに新たに造営されたのではないかと推定されている。古代日本では大王の代替わりごとに宮を新たに建替える「歴代遷宮」が行われていたが、豪族たちの居館も存続期間はごく短期で、一代限りのものだった可能性がある。

極楽寺ヒビキ遺跡
極楽寺ヒビキ遺跡/大型建物復元CG(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館提供 神戸大学工学部建築史研究室設計・作図)

葛城氏の居館とされる極楽寺ヒビキ遺跡(奈良県)は幅10~20mの壕で区画され、壕の両岸は貼石で護岸され、敷地は柵で何重にも囲まれているが、居館の入口である土橋部分には三本の巨大な板柱「聖徴」だけが立て並べられて門は設けられていない。古墳時代の豪族居館が豪族たちの権威を示すと共に非常にマジカルな空間であったことを窺える。

王宮から都城へ

大王の宮や畿内の有力豪族の居館はまだ十分にわかっていない。邪馬台国ではないかといわれる纒向遺跡(奈良県)では、大型建物跡が発掘され卑弥呼の宮殿かと話題になった。場所はJR巻向駅のすぐ西側で、3世紀前半と推定される大型の掘立柱建物(南北19.2m×東西12.4m)を中心に4棟の建物が軸線をそろえて東西に一直線に並んでいた。纒向遺跡では、現在のところ、環濠や竪穴住居は見つかっておらず、鍬よりも鋤(スコップ)が大量に出土することなどから通常の農耕集落ではなく、箸墓古墳など周辺の大古墳群を築造するための「古墳造営キャンプ」だったとする説もある。

最近見つかった秋津遺跡(奈良県)は、4つの大規模な方形区画施設(東西30m×南北14m)が建替えられながら南北に並んでいる。方形区画の内部には大型の掘立柱があるだけで、区画施設は二本の柱穴に挟まれた溝がめぐり特殊な構造の塀と考えられている。区画の一辺は逆L字型になっており、囲形埴輪の入口の表現に似ていることから、秋津遺跡は初期ヤマト王権(4世紀頃)の重要な祭祀を行った施設とみられている。

脇本遺跡
脇本遺跡 濠の貼石護岸(「橿原考古学研究所創立80周年記念 第8回奈良県立橿原考古学研究所東京公開講演会 『古代の王宮をさぐる』資料集 2018.11.23」表紙写真 奈良県立橿原考古学研究所提供)

三輪山の南麓、長谷街道に面した脇本遺跡(奈良県)は、倭の五王・武の上表文や稲荷山古墳鉄剣の獲加多支鹵(ワカタケル)大王で有名な雄略天皇の泊瀬朝倉宮ではないかといわれている。朝倉小学校西側の春日神社周辺で5世紀後半から6世紀代の大型の掘立柱建物が見つかっていて、さらに遺跡の西南から巨大な壕と貼石護岸が発掘された。壕の幅は60m以上あるらしい。三ツ寺遺跡や極楽寺ヒビキ遺跡よりもはるかに大きな豪族居館的な遺跡がこの地に眠っている。

執筆/向井一雄(むかいかずお)
古代山城研究会・代表 城郭・古代史研究家
1962年愛媛県松山市生まれ。古代朝鮮式山城を研究・調査する研究者のネットワーク機関として古代山城研究会を組織。
研究分野は、城郭だけでなく、狼煙や銅鐸など多岐にわたる。
専門は日本考古学、城郭史。日本考古学協会会員。

著書『よみがえる古代山城』(吉川弘文館、2016年)
論文「西日本の古代山城遺跡-類型化と編年についての試論」『古代学研究』125号(古代学研究会、1991年)、「古代山城論-学史と展望」『古代文化』62-2:特輯 日本古代山城の調査成果と研究展望(下) (古代学協会、2010年)、「日韓古代山城の年代論」『大宰府学研究』(九州国立博物館、2019年)ほか多数。

<参考文献>
辰巳和弘 1990『高殿の古代学-豪族の居館と王権祭儀』白水社
酒井龍一 1997『弥生の世界(歴史発掘6)』講談社
佐原 真(編) 2002『古代を考える 稲・金属・戦争-弥生-』吉川弘文館
小笠原好彦 2003「首長居館と王宮」『古墳時代の日本列島』青木書店
若狭 徹 2004『古墳時代の地域社会復元 三ツ寺Ⅰ遺跡(シリーズ「遺跡を学ぶ」)』新泉社
若林邦彦 2013『「倭国乱」と高地性集落 観音寺山遺跡(シリーズ「遺跡を学ぶ」)』新泉社
齋藤慎一・向井一雄 2016『日本城郭史』吉川弘文館

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