古代城郭教室(Ⅲ)古代山城は日本を守る防衛ラインだったのか?

古代山城研究会代表の向井一雄先生が、変化に富んだ日本の城の歴史について、日本が「孤島」でありながらも海外からの影響を受け、どのようにして城郭文化が出来上がったのかについて教えてくれる「古代城郭教室」。第3回の今回は、日本で初めて本格的に築城された古代山城について解説します。



日本史初の本格的な築城

7世紀の半ば頃、朝鮮半島情勢の変化と唐・新羅の軍事的脅威に対処するため、西日本各地に古代山城(こだいさんじょう)が築かれた。この古代山城がわが国における初めての本格的な築城といえる。

古代山城と中世山城の違い

古代山城、中世山城、違い

中世の山城は“やまじろ”と読むが古代山城は“さんじょう”と読む。これは古代の山城が朝鮮半島の山城(さんじょう)をルーツとし、朝鮮式山城(ちょうせんしきさんじょう)という用語から造語されたからだ。

中世城館の研究者の中には中世でも初期の山城-南北朝の頃の山城は古代の山城と系譜的に連なると思っている人もいる。しかし、古代の山城と中世の山城には根本的な構造に違いがある。中世の山城が曲輪を単位し、掘切や切岸を遮断線とするのに対し、古代山城は基本的に曲輪を持たない。もちろん城内に建物や居住空間としての削平地は存在するが、古代山城は土塁や石塁で山地全体を囲い込む形を取っている。

古代山城の形態は基本的に単郭で山の稜線など地形を利用しているため、いびつな方形、多角形、楕円形など定まっていない。朝鮮半島では、周囲が数十mの堡塁のようなものから数㎞におよぶ巨大山城まであるが、日本の場合、山城の規模は1.7~6.3㎞で、2~3㎞程度のものが多い。

城壁には石築と土築があるが、日本の古代山城の外郭線は基本的に版築(はんちく)土塁が多い。城壁線が谷を通過する箇所では土築城でも石塁を高く築き、石塁中に暗渠状の通水溝(水門・水口)を設けている。

神籠石論争

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高良山城の馬蹄石と列石 (左)馬蹄石(本来の神籠石)、(右)列石(かつて八葉石塁と呼ばれていた)

西日本の古代山城には、『日本書紀』など史書に記録の残るものと記録に見えない山城がある。これまで記録の残る山城は「朝鮮式山城」、記録のない山城は「神籠石系山城(こうごいしけいさんじょう)」と呼ばれてきた。

文献記録の残る山城は、その築城契機・築城主体についてわかっていたが、記録のない山城については、その年代観と築城主体をめぐって長く論争が続いてきた。文献記録がない山城は神籠石系山城と呼ばれているが、「神籠石」という不思議な言葉は明治時代の神籠石論争までさかのぼる。

神籠石論争は、明治31年(1898)、福岡県久留米市にある高良山の列石遺構の学会誌への報告を契機に始まった。列石内に高良大社が鎮座することから霊域説が唱えられたが、これに対する反論として、列石のめぐり方が朝鮮半島の山城に似ていることから山城説が唱えられ、14年間に及ぶ大論争になった。

戦前の神籠石論争以来、1960年代の発掘調査までは、神籠石系山城(特に北部九州の山城)はその分布から邪馬台国や筑紫君・磐井といった九州の在地勢力に関係するもの、年代も文献史料になく伝承も残されていないことから、かなり古い時代に造られ忘却された遺跡とする考えが支配的だった。「文献に記録のない山城は在地勢力の逃げ込み城である」というイメージは今でも古代山城研究にまとわりついており「神籠石系が古く、朝鮮式は新しい」という年代観も固定された先入観となっている。

しかし、現在までの調査で長期間にわたる継続使用や改築の痕跡は確認されていない。近年の研究では、朝鮮式山城と神籠石系山城の両者には基本的に大きな違いはないため「古代山城」として一括して捉えられるようになってきた。

白村江の敗戦後、天智朝に対外的な緊張に応じて築城

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高句麗の燕州城(中国遼寧省)

朝鮮半島では三国が鼎立していたが、6世紀末から隋の高句麗遠征が始まり、にわかに風雲急を告げることになった。新羅は唐と同盟を結び、斉明6年(660)百済を挟撃しこれを滅ぼしてしまう。倭は百済復興運動を支援して出兵したが、天智2年(663)の白村江の戦いで大敗し半島から撤退する。百済復興の夢はついえ去ったが、強大な唐の陸海軍が百済征服の余勢を駆って日本へ来襲するかもしれない危険が生じた。

敗戦の翌年、天智3年(664)に対馬・壱岐・筑紫に防人と烽(とぶひ)を設置し、筑紫に水城(みずき・福岡県太宰府市)が築造されている。水城は博多湾奥に防衛線として築造された大土塁で高さ10m基底部幅80m、長さは約1.2㎞におよぶ。博多湾側には幅60mの水濠があった。水城築造の翌年天智4年(665)8月には、百済人・憶礼福留(おくらいふくる)らを派遣して大野城基肄城(きいじょう)と長門国に築城している。文永の役後に築かれた元寇防塁も博多湾の沿岸と共に長門国にも造られたと伝わるが、大陸からの防衛最前線として筑紫と共に長門が時代を超えて重視されていることは興味深い。

大野城(福岡県太宰府市・宇美町)は大宰府の北、四王寺山(標高410m)に位置し周囲6.3㎞の土塁がめぐっている。大宰府南方の守りとしては基肄城(佐賀県三養基郡基山町)が設けられ、水城・小水城(しょうみずき)と一体となって大宰府を囲む一種の羅城を形成している。最近、福岡県筑紫野市の前畑遺跡で土塁が見つかり、大宰府羅城の一部かと話題になったが、その他の丘陵や山地には土塁はなく、版築の構造も古代山城や水城とは異なっている。

築城に至る経緯を詳細にたどると、敗戦後の唐からの遣使に対応するかのように築城記事が現われる。唐は百済復興運動の鎮圧後、百済を羈縻(きび)支配下に置こうとしており、白村江で大敗したとはいえ倭国の水軍力・渡海戦力は侮れないとみていた。当面の高句麗戦に向けて倭国に対して大きな軍事活動を起こせないため、軍事警戒と牽制をかけるしかなかった。

幻の高安城

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屋嶋城の石塁(平岡岩夫氏提供) 屋嶋城も高安城と同じように長らく遺構が未発見だったが、平成10年(1998)平岡氏によって石塁が発見された。写真は平岡氏が発見した当時のもので現在は復元整備されている

天智5年(666)唐の高句麗攻撃が再開され、この年に2回、相次いで高句麗使が来倭している。目的は援軍要請とみられており、天智6年(667)3月の近江遷都は高句麗との共同作戦を想定したものだったかもしれない。戦局の悪化や高句麗政権の内訌(ないこう)で高句麗との連携はならず、11月には、高安城・屋嶋城・金田城を築き、長い縦深防衛シフトの構築を開始している。文武2年(698)に大野城などと共に修築記事のある鞠智城(きくちじょう)この頃築城されたと考えられている。

高安城は長らく遺跡が不明だったが、昭和53年(1978)4月に高安城を探る会によって礎石建物群6棟が発見された。平成11年(1999)6月、高安山西斜面(大阪側)の中腹-標高380m付近の尾根先端5箇所で「石垣」が発見されたと読売新聞が報じた。高さ10m以上の石垣が尾根と谷を越えて設けられていたという壮大な話だったが、「石垣」の正体は尾根先端の岩盤や露岩を誤認したものだった。誤報から20年近く経ってもインターネットではこの“偽石垣”が堂々と紹介されているが、人工的な構築物では100%ない。

長門城、備後国の常城・茨城など文献史料に明記されながら遺跡地すら判明していない山城は、主なものだけで5城存在する。また高安城のように遺跡地はわかっていても、城域や外郭線の構造が不明な山城もあり、このような未発見城址についてこれまで説得力のある説明はなされていない。

現在見ることのできる山城遺構の多くは天武・持統期以降のものであり、天智期築城の実態は、簡素な施設-例えば柵列など-だった可能性もある。低い土段すら伴わない柵列ならば地表調査では発見は不可能に近い。事実、飛鳥京の東方丘陵上では大規模な掘立柱塀(柱間2.4m等間)が2カ所で発見されている。

天武朝以降は国内支配の拠点として整備

御所ヶ谷山城の中門石塁
御所ヶ谷城(福岡県行橋市)の中門石塁:高さ7mもの切石積みの石塁が谷を塞ぎ、近世城郭のような凹字に組んだ石樋(せきひ)が設けられている

文献に記載のない神籠石系山城については、『日本書紀』斉明四年是歳条分注の「繕修城柵」の記述から、百済救援の陣頭指揮を取るため九州に下った斉明天皇によって築城されたとする説が唱えられ、北部九州の研究者を中心に支持された。

しかし鬼ノ城の発掘調査の進展によって、その築城・維持された年代が7世紀第4四半期を中心としていることが明らかとなり、斉明天皇築城説の研究者たちに再考を迫ることになった。御所ヶ谷城や永納山城(えいのうさんじょう)など、文献に記録のない他の山城からも7世紀後半~8世紀初め頃の土器が出土し始め、文献に記録のない山城は古いという説が誤りであったことが判明した。

多くの山城の築城年代が7世紀後半であるとわかってくると、天武朝に大宰・総領が置かれた地域に集中して古代山城が築かれているという説が注目されはじめた。西日本の要地である「筑紫」「周防」「伊予」「吉備」には670~680年の時期に広域行政ブロックが敷かれ、山城はその大宰・総領制の核となっていたらしい。山城築城は単に防衛網を築いただけではない。

武器収公による集中管理と戸籍による民衆把握によって「軍国体制」を立ち上げることと連動した事業であり、豪族連合的な倭国を中央集権国家としてステップアップさせるための重要な「築城」であったと、考えられてきている。

古代山城の分布は山陰になく畿内周辺には高安城しかない。北部九州から瀬戸内海沿岸という6世紀後半~7世紀代の倭王権の地域支配の重点地域と重なり合う。その築城は、西日本主要部の地域支配強化を目的としたものであったことがうかがえる。

九州の神籠石系の山城は見せる山城

阿志岐山城の列石
阿志岐山城(福岡県筑紫野市)の土塁と列石:平成11年(1999)に中嶋聡氏によって新発見された古代山城

これまでの研究によって、①大野城などの朝鮮式山城(天智紀山城、嶮山城)、②瀬戸内の神籠石系山城(嶮山城)、③北部九州の神籠石系山城(緩山城)の3つの類型が想定されている。「対外防衛」から「律令制化・地域支配」の拠点へという機能差として段階的に築造されていった様子が捉えられ、新しい時代になるにつれ軍事性は低下していく(①→②→③)。

特に北部九州の神籠石系山城では外郭線の一部が造られず、平野側のみ外郭線がめぐる事例が非常に多い。これらの城を未完成とみる意見もあるが、交通路からの視角を意識した構築状況と理解できる。このような山麓の駅路や官衙のような施設からの視角を重視した城郭を、戦闘・籠城用の山城に対して「見せる山城」と呼びたい。

奈良時代になると次々と廃城

大宝1年(701)、高安城が廃され、養老3年(719)には備後国の茨城と常城が停止されているが、8世紀初頭、瀬戸内の古代山城の多くが廃城となり姿を消す。九州だけは大宰府という形で大宝令制下も西海道を総監する機構が維持されたため、大野・基肄の2城は維持されたらしい。

新羅征討計画と怡土城

天平勝宝8年(756)6月から築城が始まった怡土(いと)城について、新羅征討計画に関連して企画されたといわれるが、征討計画自体の準備は天平宝字3年(759)から開始されたので怡土城起工のほうが数年早い。

怡土城(福岡県糸島市)は、標高416mの高祖山に築かれた周囲8㎞の日本最大の古代山城である。高祖山の山頂から平地部にかけて西斜面一帯を広く囲い込むように城郭を形成しており、中国の兵法に通じた吉備真備が築城を指導したことから、中国式山城ともいわれる。山頂から尾根伝いに9カ所の望楼跡が設けられ、西の山裾には約2.5㎞にわたる土塁(幅約20m、高さ約7m)がめぐっている。山麓には3カ所ほど城門跡が確認されている。

大野城と基肄城は食糧備蓄基地化

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まほろん(福島県埋蔵文化財センター)にある白河郡衙(ぐんが)復元倉庫:大野城倉庫とほぼ同規模で、内部に入ることもできる

大野城で60棟、基肄城で40棟という籠城に備えた倉庫群が城内に何十棟も立ち並ぶ姿は古代山城のイメージとして固定化している。ところが、金田城ではこれまで6棟の建物跡が確認されているが、掘立柱の側柱建物ばかりで倉庫のような総柱建物は1棟もない。鬼ノ城は礎石建ての側柱建物2棟、倉庫と考えられる総柱建物5棟が計画的に配置されているが、大野城などと比べると棟数は僅かである。

以前は大宰府政庁のように、大野城の掘立柱の倉庫群が8世紀初頭に一斉に礎石建てに改築されたとする意見もあったが、現在では出土した瓦や礎石建物の尺度から奈良時代-8世紀後半~9世紀代に倉庫群が次々と増築されていったと考えられてきている。

倉庫は備蓄米を貯えた不動倉であったとみられ、いわば食糧備蓄基地化といえるが、当時は貨幣経済ではないので、備蓄米=財源という側面が強い。大宰府は独自の財政基盤がなく、西海道6国の税収に支えられて運営されていた。それが8世紀後半頃から諸国からの税収が滞りがちになり、大宰府の独自財源確保の努力が9世紀にかけて続けられた。大野城・基肄城の倉庫群も大宰府の独自財源の一部であったと思われる。

鞠智城が再び文献記録に登場するのは天安2年(858)のことだが、この時は「菊池城院」と呼称も変わっていた。鞠智城は8世紀前半に一旦廃止されたが、9世紀代に大宰府と肥後国を中心とする飢饉対策-公営田制の基地=倉庫群として再利用されている。

9世紀後半-古代山城の終焉

奈良時代末の宝亀5年(774)、大野城に四王院が新羅など異敵調伏祈願のため設けられた。現在でも山頂には毘沙門堂が残る。経塚も多数発見されている。鬼ノ城では瓦塔片が出土しており、城内の礎石建物があった場所を再利用する形で平安期に山岳寺院が造られている。

他の古代山城でも廃城後、平安期に宗教施設が設けられている事例は多い。高良山城の高隆寺(高良大社)や石城山城の石城神社、屋嶋城の屋島寺、常城の青目寺、高安城の信貴山朝護孫子寺など、瀬戸内の古代山城を中心に山岳寺院や式内社が設けられている。平安期は国家仏教の時代であり、山城の跡地が国家の管理下にあったことがうかがえる。

貞観18年(876)頃、大野城を守衛していた兵士が40人いたことが記録に残っている。40人といっても実際は4交代年間90日勤務なので、実働は10人となる。城内の主要な倉庫群の出入り口を守るのがやっとの人数だろう。大野城の警備と修理が彼らの役目だった。

堅固な城壁に囲まれた面的に広大な施設というよりも南北の城門と倉庫群を結んだ点と線の小規模な施設となっていたと思われる。
大野城や鞠智城が山城としていつ頃使われなくなったかは記録がなく、よくわかっていない。



執筆/向井一雄(むかいかずお)
古代山城研究会・代表 城郭・古代史研究家
1962年愛媛県松山市生まれ。古代朝鮮式山城を研究・調査する研究者のネットワーク機関として古代山城研究会を組織。
研究分野は、城郭だけでなく、狼煙や銅鐸など多岐にわたる。
専門は日本考古学、城郭史。日本考古学協会会員。

著書『よみがえる古代山城』(吉川弘文館、2016年)
論文「西日本の古代山城遺跡-類型化と編年についての試論」『古代学研究』125号(古代学研究会、1991年)、「古代山城論-学史と展望」『古代文化』62-2:特輯 日本古代山城の調査成果と研究展望(下) (古代学協会、2010年)、「日韓古代山城の年代論」『大宰府学研究』(九州国立博物館、2019年)ほか多数。
ブログ「銅鐸通信

<参考文献>
小田富士雄1983『北九州瀬戸内の古代山城(日本城郭史研究叢書第10巻)』名著出版
村上幸雄・乗岡実1999『鬼ノ城と大廻り小廻り(吉備考古ライブラリー2)』吉備人出版
向井一雄2016『よみがえる古代山城(歴史文化ライブラリー440)』吉川弘文館
近江俊秀2018『入門 歴史時代の考古学』同成社

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