こうらさんこうごいし

高良山神籠石

福岡県久留米市


旧国名 : 筑後

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①	毘沙門岳城(高良山頂上標高312m)
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トク

【大友宗麟】(8)毘沙門岳城(龍造寺VS大友の戦い) (2026/01/31 訪問)

大友宗麟、高良大社からの続き(8)です。

高良大社の社殿の背後には「杉ノ城」がありました。そして、さらにそこから30分程歩いた山頂にある「毘沙門岳城」(標高312m)まで登って来ました。

高良山は、元々は南北朝時代に、南朝方の懐良親王が入ったのが始まりとされ、その後は代々の座主が治めていたようです。そして戦国時代に入り、大友氏は4度ここで陣を敷いています。

1度目は、1534年に宗麟の父である大友義鑑が、ここを拠点に菊池氏を攻め菊池本城(守山城)を奪い取り、肥後を平定しています。それ以降、大友氏は座主を保護し、良好な関係にあったようです。

2度目は前々回お話しした、1565年の多々良川の戦いの時です。立花道雪率いる主力軍は、多々良川で毛利軍と対峙します。宗麟は後詰として、ここ高良山に陣を敷いています。

3度目は、1570年の龍造寺攻めです。大友宗麟は、台頭してきた龍造寺隆信を抑えるため再びこの高良山に本陣を敷き、村中城(=佐賀城)を5万の大軍で取り囲みます。対する龍造寺軍はわずか5千、数の上では10倍、圧倒的に大友軍有利です。それに油断したのか、先鋒を任された大友親貞は、今山の戦場で前祝の酒宴を開きます。それを見た龍造寺家老の鍋島直茂が何と大友軍を深夜に奇襲! 大友軍は予期せぬ大惨敗を喫してしまいます。

4度目は、耳川で大友氏が島津氏に敗れた直後の1584年、柳川城の蒲池氏は弱体した大友氏を見限って龍造寺氏に寝返り、大友領に侵攻します。これを知った立花道雪は、病を押して立花山から出陣、高良山に陣を敷きますが、何とここで病が悪化し、亡くなってしまいました。道雪はよほど蒲池氏が憎かったのか「我が死体に鎧兜を着せ、頭を柳川に向け高良山に埋めよ!」と言い残しますが、宗茂がそれでは首が敵に奪われてしまうため忍びないと、遺体を立花山に持ち帰ったそうです。おそらく道雪は写真①②の場所に埋めてほしかったのだろうと思います。

大友の後は、1586年に北上する島津忠長(義久の叔父)4万の軍勢が同じくここに陣を敷き、勝尾城に籠る筑紫広門を攻めます。勝尾城を攻め落とすと、次に忠長は岩屋城に籠る高橋紹運を攻め、岩屋城を攻め落としますが、頑強な抵抗に会って大損害を出してしまいます。その後、立花城を攻めますが宗茂の抵抗に会い、秀吉の援軍がきたため断念し撤退しました(写真⑩)。

そして1587年には、豊臣秀吉が九州征伐の途中に中腹の吉見岳城に入り、龍造寺家政(隆信の嫡男)と謁見したとの記録もあるようです(写真⑨)。神宿る高良山は見晴らしだけでなく、武将にとっても縁起を担いで陣を敷いた場所なのかもしれませんね。

毘沙門岳城は、Y字型に曲輪が築かれ、その下には数本の竪堀と、大きな横堀が残っていました(写真③④⑤)。また杉ノ城とは多くの切堀で遮断されており、攻めるには難しい城だと感じました(写真⑥⑦⑧)。

私は展望台から、龍造寺領であった西の佐賀平野や、大友領であった北の立花山を眺めてみました。くやしさをにじませ撤退した大友宗麟や、ここで未練を残して亡くなった立花道雪は、さぞかし無念であったろうと思いました。

次は、大友家の全盛期を支えた(大友館)に続きます。
 

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トク

【大友宗麟】(7)高良山神籠石(高良大社登山道) (2026/01/31 訪問)

大友宗麟、名島城・多々良川の戦いからの続き(7)です。

筑後高良山は何度も大友軍が陣を敷いた場所です。その痕跡を探しに高良山へ登ってきました。でも大友の話は後日お伝えする事として、今回はまたちょっと脱線して、高良山と言えばやはり神籠石が有名なので、その様子から先にお伝えしようと思います。

「高良山神籠石」は、位置から考えた私の推測ですが、668年天智天皇が大宰府政庁に築いた「大野城・水城・基肄城」の防衛ラインと兵站の補給基地である「鞠智城」とのちょうど中間地点にあるので、補給路を守る役割と大宰府の背後の詰城的な役割も担っていたのではないかと思います。

しかし他の神籠石と異なるのは、一段で横一列にずらりと並べて置かれているという点です。大野城や基肄城などでは防御のための石垣的な役割があったと思いますが(山城説)、ここ高良山では、この囲まれた区域が神域である事を示すだけでなく、神聖な登山道が風雨で崩れないように道を守り、また登山者が道に迷わないように、石列に沿って登れば高良大社まで無事に辿り着きますよという、道標的な役割もあったのではないかと私は推測しています(神域説+道標)。

JR久留米大学駅から歩いてもいいですが、私は西鉄久留米駅から「竹の子」行のバスに乗り「御井(みい)町」で下車しました(写真⑩)。こちらの方が1km程近く、一ノ鳥居のすぐ前です。車の方は、一ノ鳥居からさらに高良大社まで直接行ける車道もありますが、あまり楽をして登ると御利益はないかも?(笑)。よって、二ノ鳥居の手前には、いちおう広い登山者用駐車場もある事をお伝えしておきます。

一ノ鳥居から10分程歩くと二ノ鳥居に着きます(写真①)。鳥居をくぐって、ここから400段の石段を登るのが、おそらく江戸時代に出来た正規の参詣ルートです。多くの登山者がそこから登っていました。しかし神籠石が見たい私は、二ノ鳥居の右側から細い道に入り、水門跡をぬけて神籠石に沿って大社まで登って行く自然遊歩道のルートを選択しました(写真②③④)。そして帰りは石段ルートで下山しました。

この1.6kmも神籠石が並ぶ道をずっと歩く遊歩道(登山道)は、とても壮観です。1350年前の大和時代から戦国時代までは、この道が正規の登山ルートだったのではと推測します。この神籠石の列は、山をぐるりと囲むように4kmにも渡って築かれているそうで、全部で1300個もの石が並べられていると書いてありました(いったい誰が数えたのだろう🤔?)。よくまあ大昔に、こんなにたくさんの大きな石を運んで、四角に削ってずらりと並べたものだと思います(写真⑤⑥⑦)。

そして石に沿って登る事60分、高良大社の社殿にたどり着く事ができました(標高約300m付近)。このような立派な社殿を整備したのは、江戸時代の久留米藩三代藩主の有馬頼利だそうです(写真⑧⑨)。

この先は、大友氏の痕跡を探しに、さらに高良山の山頂にある「毘沙門岳城」まで登ってみようと思います。
 

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20180602高良山神籠石(福岡県久留米市) (2018/06/02 訪問)

1年ぶりの再訪で、前回訪れた大学稲荷神社よりも高い場所にある車道沿いの列石を見る

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20170712高良山神籠石(福岡県久留米市) (2017/07/12 訪問)

大学稲荷神社前の斜面に並ぶ列石を見学

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城郭情報

分類・構造 神籠石式山城
天守構造 なし
築城主 不明
築城年 7世紀?
主な城主 不明
廃城年 不明
遺構 列石
指定文化財 国史跡(高良山神籠石)
再建造物 石碑
住所 福岡県久留米市御井町
問い合わせ先 久留米市市民文化部文化財保護課
問い合わせ先電話番号 0942-30-9225