2019/11/29
古代城郭教室(Ⅱ)古代都城は中国式の城といえるのか?
古代山城研究会代表の向井一雄先生が、変化に富んだ日本の城の歴史について、日本が「孤島」でありながらも海外からの影響を受け、どのようにして城郭文化が出来上がったのかについて教えてくれる「古代城郭教室」。第2回目の今回は、藤原京、平城京、長岡京、平安京などの古代都城について解説します。
磐余の諸宮から飛鳥京へ
7世紀代を飛鳥(あすか)時代という――現在の奈良県明日香村周辺に大王の宮が置かれたことに由来するが、飛鳥に宮が置かれるまで、6世紀代の王宮は飛鳥の北東、磐余(いわれ)(奈良県桜井市の南部)の地に営まれた。
磐余の諸宮の所在はまだ明らかになっていないが、舒明天皇の百済宮に隣接して造営された百済大寺が吉備池廃寺であると判明したので、将来、桜井市を中心とする地域で6世紀代の大王宮も発見されるだろう。6世紀末頃の邸宅跡である上之宮遺跡は、石組の苑地遺構が一部保存され史跡公園として整備されている。
飛鳥は、多武峰(とうのみね)と甘樫丘(あまかしのおか)、そして飛鳥川に囲まれた南北3km、東西0.7kmの小盆地で、寺院や宮殿・邸宅などが建ち並び、我が国最初の都「飛鳥京(倭京)」があった。飛鳥から檜隈(ひのくま)の地域は渡来系集団である東漢(やまとのあや)氏や今来漢人(いまきのあやひと)たちが集住しており、蘇我氏が推古4年(596)に飛鳥寺を建立してから開発が進み、推古天皇の豊浦宮以降、歴代の宮が次々と営まれた。持統8年(694)の藤原京遷都までここが日本の古代政治の中枢となった。
飛鳥に山城はあったのか?
飛鳥には山城的な遺跡が2ヶ所ある。1つは飛鳥寺の西北の甘樫丘で、大化1年(645)の乙巳(いっし)の変(大化改新)で滅ぼされた蘇我蝦夷・入鹿父子の邸宅があったとされる。
最近、発掘調査が行われ、甘樫丘東麓遺跡から建物や石垣など大規模な邸宅跡が発見された。7世紀中頃の焼土層や炭化材・土器が出土し、建物跡の斜面には石垣状の遺構が設けられていたことから、「蘇我氏の邸宅跡発見」と報道されたが、邸宅の中心部はまだ見つかっていない。甘樫丘山頂は展望台になっていて飛鳥が一望できる。
2つ目は、飛鳥の石造物の中でも最も謎めいた酒船石(さかふねいし)が置かれた丘陵上にある。場所は飛鳥京跡の東側で、酒船石のすぐ北側に列石と砂岩ブロックを積み重ねた石垣と版築土塁が発見された。石垣は覆い屋で保護され、今でも見ることができる。その後の調査で、列石と石垣は長さ700mにわたって丘陵を囲んでいることが判明した。
酒船石北で検出された砂岩切石積み(明日香村教育委員会所蔵)
この遺跡が飛鳥京を守る古代山城だとする意見もあるが、丘陵の北側の谷間には亀形石槽を中心とした水の祭祀場があることから、酒船石のある丘陵全体が、両槻(ふたつき)宮と呼ばれた斉明天皇の宮に附属した苑地を兼ねた宮殿・祭祀場と考えられている。
同時代の朝鮮半島では宮都の周囲に山城や羅城が築かれている。甘樫丘の邸宅も酒船石遺跡も防御施設としては不完全なものだが、半島の城郭に影響されて飛鳥京周辺の丘陵上に設けられた可能性は高い。飛鳥資料館の裏山はヒフリ山という小字(こあざ)だが、ヒフリ山地名は東西南から飛鳥に入ってくる交通路沿いに分布しているので、ヒフリ山(=火振り山)は交通路を監視する狼煙台とする説もある。
飛鳥の西南方、紀路を見下ろす丘陵からは森カシ谷遺跡(奈良県高取町)という7世紀後半の砦状の遺跡も見つかっている。酒船石の東方丘陵上には尾根筋に設けられた大規模な柵列も確認されているので、将来、飛鳥京を守る防衛施設が明らかにされるかもしれない。
前期難波宮と大津宮
乙巳の変後、孝徳天皇は難波に遷宮する。この宮は藤原宮に匹敵する巨大な朝堂院を持ちながら、基壇まで木造の掘立柱構造であり、唐や朝鮮諸国との外交儀礼に特化した施設とみられている。難波宮(大阪市)は、現在、大坂城の南方に史跡公園として整備されている。白村江の敗戦後の天智6年(667)、天智天皇は飛鳥から近江へ遷宮し、大津宮を造営した。滋賀県大津市北郊の錦織地区、琵琶湖西岸の狭い丘陵上で宮跡が発見されたが、壬辰の乱まで5年と短命な宮であったためか、大規模な朝堂院や曹司群(役所)は見つかっていない。
藤原京
天武天皇は壬辰の乱に勝利後、飛鳥浄御原(きよみはら)宮で即位し強力な中央集権体制構築に取りかかった。大規模な宮都の建設もその1つだが、天武5年(674)に詔を発し、「新城(にいき)」と呼ばれる新しい都の造営を開始した。天武天皇の新城は飛鳥京の北方に拡大して条坊区画を造営しており、飛鳥京の諸施設はそのまま利用されたらしい。天武天皇は後飛鳥岡本宮を内裏として、その東南に新たにエビノコ郭(大極殿)を建設している。
新城の造営は、天武天皇の崩御で中断されたが、計画は持統天皇に引き継がれて持統8年(694)に新益(あらまし)京に遷都する。日本で最初の本格的な都城の藤原京(奈良県橿原市)である。藤原宮は大和三山に囲まれた中央にあるが、藤原京の平面プランは不整形な京域だった可能性が高い。藤原京の南辺は丘陵部にかかっていて羅城門はなく、外郭の羅城も設けられていない。
遣唐使は白村江敗戦後の天智8年(669)から30年以上派遣されておらず、逆に新羅とは頻繁な交流があった。新羅王京である慶州(金京)も条坊制を導入した都城だが、形態は不整形で羅城もない。遣新羅使たちは新羅の都造りを目の当たりにしただろうから、都城のスタイルも新羅からの影響を受けていると考えるべきだろう。
(左)藤原京条坊復元図、(右)平城京条坊復元図 (ともに奈良県立橿原考古学研究所附属博物館所蔵。図名およびやじるしは筆者による加工)
平城京
藤原京は完成からわずか16年後の和銅3年(710)に平城京(奈良市)へ遷都する。平城遷都の理由については諸説あるが、30年ぶりに派遣された大宝4年(704)の第七次遣唐使の帰国報告を受けて、より唐の長安城に近い中国的な都城の建設を目指したとする説が有力である。
藤原京においては中央にあった宮城が、平城京では京域の北端中央に置かれ、朱雀大路の南端に羅城門が設けられた。羅城門は正面7間、扉は5つあり、現在平城宮史跡公園に復元されている朱雀門(扉3つ)よりも大きく、京内最大の門建物だった。外国からの侵略の恐れが少ない島国・日本では防御施設は必要なく、平城京には長安城のような都を囲む城壁(=羅城)は造られなかったとされてきたが、京域の南辺中央(約1km)だけは羅城が造られていたらしい。最近の調査によると、羅城門の周辺は築地塀にし、離れた部分は簡素な木造塀にしていたとわかってきた。
東側500mの下三橋(しもみつはし)遺跡は羅城の東端とみられ、イオン大和郡山店の駐車場に2本の柱列が羅城跡として復元整備されている。築地塀といっても高さ5mの巨大なもので、その前面には幅3.6mの濠もあった。このように都城の正面観だけを整えるスタイルは次の平安京にも見られ、日本における都城が律令国家と天皇の威信を示す儀礼的な空間だったことがわかる。実際、祈雨儀礼や遣唐使・外国使節の入京・出京の送迎儀礼が羅城門で行われている。鑑真和上も来日の際に羅城門で盛大に迎えられた。
平城京の羅城門跡は江戸時代に佐保川の改修で破壊され、現在は土手の下となっているが、巨大な礎石は大和郡山城の天守台石垣に一部転用されており、間近に見ることができる。
平安京羅城門模型(明日の京都文化遺産プラットフォーム提供)
条坊制とは
藤原京で初めて整備された条坊とは、市街区画(グリッドプラン)のことで、中国にルーツがある制度。南北の大路(坊)と東西の大路(条)を碁盤目状に組み合わせて街路を形成している。大路で区切られた方形のエリアは「坊」と呼ばれ、官人たちの宅地として分配された。平城京の人口は約10万人といわれているが、皇族や上級貴族は100人程度、中・下級官人は約1万人で、残りは地方から労働力として集められた仕丁(しちょう)や都を守る衛士、地方から庸調(布や塩などの税)を運んで来た役夫たちだった。
「坊」は坊城と呼ばれる築地塀で囲まれて、夜間の出入りは禁止されている。さらに幅74mの朱雀大路は儀礼のための空間で、左右街区からの入口は兵士に守られ一般人が歩くことなどできない。このように古代都市は律令国家を管理する貴族・官人を天皇の下に集住させる施設であり、都の東西に市があったといっても、貴族ですら自給自足的な体制で生活しており、およそ都市生活とはいえないものだった。
日本では、条坊制の都といえば平城京のモデルになった長安のイメージが強い。そのため、宮城を北端に置き、都の中央を朱雀大路が通り、羅城内は碁盤目状の街区が設けられる古代都市の姿は中国の伝統的な都城プランと考えられがちである。しかし、このスタイルは三国志で有名な魏の曹操の考案で、鄴城(中国河北省邯鄲市)から北魏の洛陽、隋唐の長安と受け継がれたが、その後の中国諸王朝の都では崩れていく。
長岡京と平安京
延暦3年(784)、桓武天皇は平城京から山背国の長岡京(京都府向日市)へ遷都した。長岡京の造営には難波宮の建物が解体・移建された。平城京・難波京の複都制から単都制への移行が長岡京遷都の理由の1つである。長岡京の特徴は、淀川・桂川などの河川の合流点に位置し山﨑津の水運を活用できる立地にある。その代わり長岡の丘陵地は京の造営には障害となり、河川の合流点だったため洪水も多発したらしい。変則的な条坊プランと朝堂院南門の中国風の門闕(もんけつ)構造(門の左右に楼閣が付く逆凹字型の宮城門)の導入は工事を遅滞させた。
延暦13年(794)、桓武天皇は長岡京から四神相応の地である新都・平安京(京都市)に遷都した。羅城門の左右に東寺・西寺を置いて京の正面をシンメトリックに荘厳化している。長岡京でも試みられた中国風の門闕構造の導入は、朝堂院正面の翔鷺(しょうろ)楼と栖鳳(せいほう)楼を備えた応天門を造営し、大極殿左右にも白虎楼と蒼龍楼という小楼閣を対置し、主要施設の屋根を緑釉瓦で飾ることで実現している。
平安京の朝堂院は、二条城の北、現在の千本丸太町の交差点辺りにあったが、小さな児童公園に石碑が立つだけで礎石も残っていない。平安遷都千百年を記念して明治28年(1895)に建てられた平安神宮の建物は平安宮を5/8サイズで再現している。
平安京も平城京と同様、京を囲む羅城は設けられていない。平城京と同じように南辺中央にだけ羅城が造られていたらしい。平安京の羅城門は『捨芥抄』に「二重閣九間」とあり、平城京羅城門よりも大きい正面9間の巨大な門だったらしい。しかし奥行きは2間しかないので、非常に薄っぺらい建物となり、遷都間もない弘仁7年(816)に大風で倒壊、以後再建と倒壊を繰り返した。
国宝に指定されている東寺の兜跋(とばつ)毘沙門天像は、かつて羅城門の楼上に安置されていたという。平安京の四隅では「道饗(みちあえ)祭」という祭りを行って、京全体を見えない防壁で囲んで侵入してくる疫病などの悪神を撃退しようとしていた。いわば城壁なき要塞都市といえる。
「今、天下の苦しむところは軍事と造作となり」という徳政相論を受けて、桓武天皇は造都の停止を決定する。7世紀末に飛鳥からはじまった都造りは、藤原京から平城京、恭仁京、紫香楽宮、難波京、そして長岡京、平安京と繰り返されたが、ようやくここに造都の世紀も終わりを告げることになった。平安京遷都後の詔に、「この国は山河襟帯し自然に城をなす」とある。平安京の形勝から「山背国」を「山城国」と改称したのだが、これが「城」という漢字を「しろ」と読む由来になったといわれている。
長岡宮朝堂復元図(公益財団法人向日市埋蔵文化財センター所蔵)
古代の役所
日本の古代の役所には、国府や郡衙(郡家)がある。国府はかつて「方八丁」といって平城京など都城のミニチュア版と考えられていた。しかし発掘調査が進むと、碁盤目状の条坊(街区)などは存在しないことがわかってきた。
国庁を中心に曹司群と呼ばれる実務官衙郡や国司の居住する国司館、正倉、厨(くりや)、学校などの諸施設が一定の範囲に配置されているが、それらを囲む外郭施設(築地、柵、堀など)は設けられていない。郡衙は郡庁、正倉、郡司の屋敷である館(たち)、食膳がそれにあたる。給食を作る厨などから構成され、特に郡衙の主要な役割だった租税である稲穀を保管する正倉は、棟数も多く広大な面積を占めていた。郡衙の諸施設も一定の範囲に集中して造られているが、全体を囲む外郭施設はない。
国庁や郡庁など政庁部分は50~100mほどの方形区画の中に正殿と東西の脇殿がコの字型に配置され、周囲は築地や塀によって囲まれて南門が開くといった形式をしている。いわゆるコの字型の配置様式で都の朝堂院の縮小版である。
九州の大宰府(福岡県太宰府市)は「人物殷繁にして、天下の一都会なり」と評された通り、他国と違って条坊による街区が存在した。平城京の規模は、朱雀大路の幅や京域が長安城のちょうど1/2スケールで設計されているが、大宰府はその平城京の半分の規模で造られている。現在、都府楼と呼ばれる政庁から南へ延びていた朱雀大路は、二日市温泉の南北道路として残っている。大宰府にも羅城はないが、その代わり大野城や水城など大宰府を取り囲む山々には防衛施設が設けられていた。
執筆/向井一雄(むかいかずお)
古代山城研究会・代表 城郭・古代史研究家
1962年愛媛県松山市生まれ。古代朝鮮式山城を研究・調査する研究者のネットワーク機関として古代山城研究会を組織。
研究分野は、城郭だけでなく、狼煙や銅鐸など多岐にわたる。
専門は日本考古学、城郭史。日本考古学協会会員。
著書『よみがえる古代山城』(吉川弘文館、2016年)
論文「西日本の古代山城遺跡-類型化と編年についての試論」『古代学研究』125号(古代学研究会、1991年)、「古代山城論-学史と展望」『古代文化』62-2:特輯 日本古代山城の調査成果と研究展望(下) (古代学協会、2010年)、「日韓古代山城の年代論」『大宰府学研究』(九州国立博物館、2019年)ほか多数。
ブログ「銅鐸通信」
<参考文献>
佐藤信2007『古代の地方官衙と社会(日本史リブレット8)』山川出版社
吉村武彦・舘野和己・林部均2010『平城京誕生』角川選書
吉田歓2011『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・渤海(歴史文化ライブラリー)』吉川弘文館
豊島直博・木下正史(編)2016『ここまでわかった飛鳥・藤原京』吉川弘文館
桃崎有一郎2016『平安京はいらなかった(歴史文化ライブラリー)』吉川弘文館