2018/07/27
理文先生のお城がっこう 歴史編 第4回 古代山城の築城
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回は、飛鳥時代(7世紀)を中心に、今にも戦争になりそうな朝鮮・唐との関係から、国を守るために近畿から西側に築かれた古代山城の築城について。
■理文先生のお城がっこう
前回「第3回 天皇の住まいと豪族の館・寺院」はこちら
飛鳥(あすか)時代(7世紀)を中心に、今にも戦争になりそうな朝鮮(ちょうせん)・唐(とう)との関係から、我(わ)が国(倭国(わこく))を守るために近畿(きんき)から西側に築(きず)かれた山城(やまじろ)のことをまとめて「古代山城(こだいさんじょう)」と呼んでいます。『日本書紀(にほんしょき)』などの官選史書(かんせんししょ)(国が編集(へんしゅう)した公式の歴史の本)に名前が載(の)っている山城を朝鮮式山城(ちょうせんしきさんじょう)、載っていない山城を神籠石系(型・式)山城(こうごいしけいさんじょう)と呼(よ)びますが、構造的(こうぞうてき)に大きな差はありません。
いずれの山城もその地域(ちいき)の中心の平野に接近(せっきん)した丘陵(きゅうりょう)(なだらかな起伏(きふく)や丘(おか)の続く地形)の上を選んで築かれていました。石垣(いしがき)で固められた城壁(じょうへき)が、尾根伝(おねづた)いに谷を越(こ)え何kmにも渡(わた)って延(の)び、丘陵をぐるっと一周するなど、非常(ひじょう)に広い城域(じょういき)(城(しろ)の範囲(はんい))を形づくっていました。
整備(せいび)された屋嶋城(やしまじょう)
「天智紀(てんちき)」に登場する6城
大和政権(やまとせいけん)は、百済(くだら)と極めて強い関係を結んでいたため、百済を窓口(まどぐち)に朝鮮半島各国と関係をたもっていました。しかし、新羅(しらぎ)という国が百済を攻(せ)め滅(ほろ)ぼしてしまいます。元の百済の国の有力者たちは、我が国との強い結び付きから、百済という国をもう一度つくろうとして、味方になるよう働きかけます。我が国は、それを受けて、もう一度百済という国をつくるための軍隊を朝鮮半島に送ったのです。
天智2年(663)白村江(はくそんこう)の戦いで、我が国と旧百済(きゅうくだら)の残った有力者たちの軍は、唐・新羅連合軍に負けてしまいました。負けたことにより、大陸から唐・新羅連合軍が攻め寄(よ)せてくる危険性(きけんせい)が増(ま)すことになってしまいました。
大和政権は、連合軍が攻め寄せて来るとしたら、博多湾(はかたわん)の可能性(かのうせい)が高いと考え、九州の拠点(きょてん)である大宰府(だざいふ)(福岡県太宰府市(ふくおかけんだざいふし))の北西入口を塞(ふせ)ぐための水城(みずき)(福岡県太宰府市)を天智3年(664)に構築(こうちく)します。ついで翌年(よくとし)に北側の丘陵上に大野城(おおのじょう)(福岡県大野城市)、南側丘陵上に基肄城(きいじょう)(佐賀県基山町(さがけんきやまちょう))を築き、攻め寄せて来そうな大陸軍に備(そな)えたのです。
大宰府周辺を望む
天智6年(667)には、朝鮮半島に最も近い対馬(つしま)に、金田城(かねたのき(かねだじょう))(長崎県対馬市(ながさきけんつしまし))、さらに大陸軍が九州から大和へと向かう侵攻(しんこう)ルートを予想して、西から長門城(ながとのき)(山口県下関市)、屋嶋城(やしまのき)(香川県高松市(かがわけんたかまつし))、高安城(たかやすのき)(奈良県平群町(ならけんへぐりちょう)・大阪府八尾市(おおさかふやおし))をほぼ同じ時期に築き上げています。
これらの城のうち、長門城は百済将軍答火本(※)春初(くだらしょうぐんとうほん しゅんそ)が、大野城、基肄城は、憶礼福留(おくらい ふくる)・四比福夫(しひふくぶ)らの百済から逃(に)げてきた政府(せいふ)の有力な役人が築城工事(ちくじょうこうじ)を指図し動かしたと記録されています。唐・新羅侵攻に備え、百済から逃げて日本に来た人たちが大和政権に協力したことが解(わか)ります。
(※)「火本」は、「火」偏(へん)に「本」で一文字の漢字です。「ほん」と読みます。
金田城の城壁 基肄城の水門
大野城の姿
大宰府の真北に位置する標高約410mの四王寺山(しおうじやま)一帯に築かれた大野城は、尾根伝いに延々(えんえん)と8km以上続く土塁(どるい)を廻(めぐ)らせています。谷になる箇所(かしょ)には石垣を構(かま)え、南方に3ヵ所(5ヵ所とも)、北方に3ヵ所の城門を設(もう)けていました。
内部には、都合70棟程(とうほど)の礎石建物(そせきたてもの)(土台に石を据(す)えて、その上に柱を置いた建物)群(ぐん)(大多数が3×5間〔1間は約1.8m〕)の規格(きかく))が残り、総柱(そうばしら)(1間ごとに格子状(こうしじょう)に柱を置いた建物)であるため高床式(たかゆかしき)(地面から床を高くした建物)の倉庫だと考えられています。発掘調査(はっくつちょうさ)で、武具(ぶぐ)(戦いに使われる道具)や焼けて炭になった米が出土するため、倉庫の可能性が高まっています。
大野城から水城大堤(みずきおおつつみ)及(およ)び小水城(しょうみずき)(水城と同じ目的と構造(こうぞう)で造(つく)られた関屋(せきや)土塁、とうれぎ土塁(共に佐賀県基山町)など、規模(きぼ)が小さいので「小水城」と呼ばれています)を間に置いて基肄城へと続く大宰府防衛(だざいふぼうえい)ラインは、博多湾側(はかたわんがわ)からの攻め寄せてくることを想定したものです。自然地形を上手に利用した配置は、百済の国を守るための考え方を取り入れたものだと言われています。
大野城の総柱建物
神籠石系(型・式)山城の分布
官選史書に登場しない古代山城の神籠石系(型・式)山城は、西日本に16ヵ所が知られています。城が造られた年代も、「天智紀」の6城と同じ7世紀頃が確実(かくじつ)とされ、造られた目的も大陸軍が攻め寄せて来た時に備えた城と言われています。または、大和政権が地方を確実に支配(しはい)するために、国府(こくふ)(国が地方を支配するために置いた施設(しせつ))に先駆(さきが)けて築いた城の可能性も考えられています。
神籠石系(型・式)山城で、史跡整備(しせきせいび)されたのが鬼ノ城(きのじょう)(岡山県総社市(おかやまけんそうじゃし))で、標高約400mの鬼城山(きのじょうざん)を含(ふく)む丘陵に位置しています。城壁(じょうへき)は一周約1.8kmで、主に土塁で造られていますが、水門(すいもん)(流水を制御(せいぎょ)する施設)部分は5mを越(こ)える高石垣(たかいしがき)が築かれています。西門周辺が整備され、3間×2間の西門と階上建物(かいじょうたてもの)(2階以上がある建物)が復元されています。そのほかにも、近くにあった版築土塁(はんちくどるい)(土を入れて突(つ)き固める作業を繰(く)り返して造られた土塁)や高石垣、櫓台状(やぐらだいじょう)に張り出す角楼(かくろう)も復元(ふくげん)され、古代山城の姿(すがた)を間近に感じることができます。
復元された鬼ノ城
今日ならったお城(しろ)の用語
古代山城(こだいさんじょう)
飛鳥時代(7世紀)を中心に、外国(朝鮮(ちょうせん)・唐(とう))・唐から、我(わ)が国(倭国(わこく))を守るために近畿(きんき)から西側に築(きず)かれた山城のことです。
朝鮮式山城(ちょうせんしきさんじょう)
『日本書紀』などの官選史書(国が編集(へんしゅう)した公式の歴史の本)に名前が載(の)っている山城の呼(よ)び名です。
神籠石系(型・式)山城(こうごいしけいさんじょう)
『日本書紀』などの官選史書(国が編集(へんしゅう)した公式の歴史の本)に名前が載(の)っていない朝鮮式山城(ちょうせんしきさんじょう)と同じ造(つく)りをした山城(やまじろ)の呼(よ)び名です。
城壁(じょうへき)
外敵(がいてき)から守るために、城(しろ)の周囲を囲んで建設(けんせつ)された防御(ぼうぎょ)のための壁(かべ)のことで、土や石垣(いしがき)で築(きず)かれていました。
高石垣(たかいしがき)
高さが5mを越(こ)える石垣(いしがき)のことを言います。
総柱建物(そうばしらたてもの)
掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)または礎石建物(そせきたてもの)の中で、1間ごとにくまなく格子状(こうしじょう)に柱を立てたものを言います。高床式(たかゆかしき)の倉庫のような建物だと考えられています。
版築土塁(はんちくどるい)
版築を作る部分を決め、両側を板などで囲(かこ)み枠(わく)を作り、その中に土を入れて突(つ)き固める作業を何度も続けて造(つく)られた土塁(どるい)のことです。数十段重(すうじゅうだんかさ)ねることにより、高い壁(かべ)を作ることもできます。古代山城(こだいさんじょう)では版築に外側に石を築(きず)くことで石垣(いしがき)とすることも多く見られます。
角楼(かくろう)
古代山城(こだいさんじょう)で、城壁(じょうへき)を突出(とっしゅつ)させて隅(すみ)に築(きず)かれた突出部。門の横などに見られ、門に攻(せ)め寄(よ)せた敵(てき)を攻撃(こうげき)する施設(しせつ)だと考えられています。鬼ノ城(きのじょう)で確認(かくにん)されています。