理文先生のお城がっこう 歴史編 第3回 天皇の住まいと豪族の館・寺院

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回は飛鳥時代の天皇の住まいと豪族の館・寺院について。



■理文先生のお城がっこう
前回「第2回 豪族たちの居館」はこちら

「宮都(きゅうと)」とは、宮室(きゅうしつ)・都城(とじょう)のことで、宮室は天皇(てんのう)の住い、都城はそれを中心としたある程度(ていど)の広がりを持った空間のことになります。宮都が初めて出来た頃(ころ)は、政治(せいじ)を行う場所であり、大王(天皇)の力のすばらしさを見せるための場所でもあったのです。天皇のためだけの場所ですので、初めは小規模(しょうきぼ)な宮室でした。やがて、そこに小規模ながら政治のための公的な空間が付くことになります。政治の場所になったことで、官衙(かんが)(国の事務(じむ)を行う役所)も周囲に造(つく)られるようになります。宮都は、徐々(じょじょ)に広くなってきました。

豊浦宮から小墾田宮へ

『日本書紀』(国が作った、歴代の天皇が行ったことをまとめた歴史の教科書)では、592年に推古天皇(すいこてんのう)が豊浦宮(とゆらのみや)(奈良県明日香村(ならけんあすかむら))で即位(そくい)(天皇の位につくこと)し、603年に小墾田宮(おはりだのみや)へ移(うつ)ったと書かれています。豊浦宮が作られてから、694年に藤原京(ふじわらきょう)遷都(せんと)(都を変えること)するまでの約100年間(一時的な遷都はありました)飛鳥はずっと宮都であり続けたのです。飛鳥とは、香具山(かぐやま)より南の飛鳥川の東側に広がる東西0.5km、南北1.5kmの狭(せま)い地域(ちいき)のことです。この狭い盆地(ぼんち)の中で、聖徳太子(しょうとくたいし)や蘇我馬子(そがのうまこ)が、天皇を中心にした国を造ろうとしたのです。

小墾田宮は、南に「南門」を構(かま)えその北に諸大夫(しょだいふ)(事務をする役人)が勤(つと)める「庁(ちょう)(役所)」が並ぶ「朝廷(ちょうてい)(公式行事を行う広場)」が広がり、そのさらに北の大門を入ると女帝(じょてい)の住まう「大殿(おおとの)」が営(いとな)まれていたと『日本書紀』は伝えています。宮の屋根は板葺(いたぶき)の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)で、土塁(どるい)や堀(ほり)は無く、塀(へい)が周りを取り囲むだけと、防御(ぼうぎょ)に適(てき)した住まいではありませんでした。
小墾田宮、配置図
小墾田宮に建っていた建物の配置図

飛鳥京の時代

629年に即位した舒明天皇(じょめいてんのう)は、飛鳥岡(あすかのおか)(雷丘(いかづちのおか))の麓(ふもと)に遷宮(せんぐう)し、岡本宮(おかもとのみや)といいましたが、6年後に火災(かさい)で焼失したため、田中宮(橿原市(かしはらし))へ遷(うつ)っています。642年、皇極天皇(こうぎょくてんのう)は再(ふたた)び小墾田宮へと遷都をし、翌年(よくねん)、大化の改新(乙巳(いっし)の変)の舞台(ぶたい)となった飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)へ遷都することになります。

「板蓋宮」は、当時の建物の屋根が檜皮葺(ひわだぶき)(檜(ひのき)の樹皮(じゅひ)で葺(ふ)いた屋根)草葺き(茅(かや)・葦(あし)・藁(わら)などで葺いた屋根)を用いることが多い中で、板で葺いた屋根であったことから、この名で呼(よ)ばれたと言います。当時、大陸から伝わった瓦(かわら)で葺かれた屋根は、寺院だけで他の建物に用いられることはありませんでした。発掘調査結果(はっくつちょうさけっか)から、飛鳥板蓋宮の前には飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや)(皇極天皇)、この後には飛鳥岡本宮(舒明天皇)・飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)がほぼ同じ場所に造られました。そのため、現在(げんざい)ここは「飛鳥京跡(あすかきょうあと)」と呼ばれています。694年、持統天皇(じとうてんのう)は中国の都城(城壁(じょうへき)で囲まれた都市)を参考にして我(わ)が国で初めて造られた本格的(ほんかくてき)な都である藤原京(ふじわらきょう)へと遷都し、飛鳥から移り住むことになります。
飛鳥宮、模型
飛鳥宮の模型(もけい)(文化庁所蔵・奈良県立橿原考古学研究所附属博物館(ならけんりつかしはらこうこがくけんきゅうしょふぞくはくぶつかん)保管

飛鳥板蓋宮、井戸跡
飛鳥板蓋宮の井戸跡(いどあと)

蘇我氏の館

6世紀後半、蘇我氏は、現在の奈良県高市郡あたりを支配(しはい)して力をつけてきます。推古天皇の時代には、蘇我馬子が大和政権(やまとせいけん)の中心的な役割(やくわり)を持つ豪族(ごうぞく)に成長し、天皇の権力(けんりょく)に肩(かた)を並(なら)べる存在(そんざい)になります。その子蝦夷(えみし)の代になると、天皇家以上の力を持ち、孫の入鹿(いるか)上宮王家(聖徳太子の息子で山背大兄王(やましろのおおえのおう)を滅(ほろ)ぼすまでになります。大和政権で力をふるう蘇我氏は、644年、甘樫丘(あまかしのおか)に蝦夷・入鹿父子が並べて家(館)を建てています。蝦夷の館を上の宮門、入鹿の館を谷の宮門と呼んだと言われています。館の外に砦(とりで)の柵(さく)を囲い、門の脇(わき)に武器庫(ぶきこ)を設(もう)け、館ごとに用水桶(ようすいおけ)(火災に備えて水をためておく桶)を配置し、木鈎(きかぎ)(長い柄(え)の先端(せんたん)に鉄製(てつせい)の鈎を付けた器具。物をひっかけて引き寄(よ)せる時に使います)を数十置いて火事に備(そな)え、武器を持たせた兵士が守っていたと『日本書紀』は記載(きさい)しています。甘樫丘は、天皇の住まいである飛鳥板蓋宮を見下ろす場所にあり、いかに蘇我氏の権力が強大であったかが解(わか)ります。宮都は公式の儀式(ぎしき)の場所として防御性を持つことはありませんでしたが、蘇我氏のような豪族の居館(きょかん)については敵対勢力(てきたいせいりょく)に備えるために、強い防御性を持っていたことになります。

645年の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智天皇(てんじてんのう))、中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによる大化の改新(乙巳の変)によって、入鹿は暗殺され、館を攻められた蝦夷が自殺すると蘇我氏宗本家(そがしそうほんけ)は滅亡(めつぼう)します。

蘇我入鹿、首塚
蘇我入鹿の首塚(くびづか)(後ろの山が甘樫丘)

我が国最初の寺

538年、百済(くだら)より伝わった仏像(ぶつぞう)や教典を、蘇我稲目(そがのいなめ)が小墾田の自宅(じたく)に安置し、向原の家を浄(きよ)めて寺(後の豊浦寺(とゆらでら))としたのが、最初です。本格的(ほんかくてき)伽藍(がらん)(金堂や塔(とう)という寺院のおもな建物群(たてのもぐん)を配置した寺は、587年に蘇我氏によって建立された法興寺(ほうこうじ)(飛鳥寺)です。法興寺は我が国初の瓦葺の寺院で、礎石(そせき)(柱などを支(ささ)える石)を使用した初の建物だったのです。寺院の建物群は、いずれも渡来人(とらいじん)(中国大陸及(およ)び朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から日本に移住(いじゅう)した人々)の技術(ぎじゅつ)によって築(きず)かれたもので、それまでの建築方法(けんちくほうほう)がまったく変わってしまいました。

法興寺の伽藍は、(釈迦(しゃか)の遺骨(いこつ)を供養(くよう)、安置するための高い建物)を中心に、その北に中金堂(本尊(ほんぞん)を安置する仏殿(ぶつでん)、東西に東金堂・西金堂を配置する一塔三金堂式伽藍でした。これらの廻(まわ)りを回廊(かいろう)(建物を取り囲むように造られた廊下(ろうか)が囲み、南正面に中門、講堂(こうどう)(経の勉強をしたり、様々な催(もよお)しを行う建物)は回廊外の北側にありました。こうした寺院建築の技術が、やがて城郭(じょうかく)にも利用されるようになっていきますが、それは律令制(りつりょうせい)(刑罰(けいばつ)、政治・経済(けいざい)など一般行政(いっぱんぎょうせい)に関する規定(きてい)に基(もと)づいた政治)が崩(くず)れてしまった後のことになります。

飛鳥寺、模型
飛鳥寺模型(© 東京大学池内・大石研究室、株式会社アスカラボ)


今日ならったお城の用語

宮都(きゅうと)
「宮室、都城(とじょう)」のことです。宮室は天皇(てんのう)の住まいで、都城は天皇の住まいを中心とした一定の空間のひろがりを示(しめ)します。古代の宮都は、政権(せいけん)の所在地(しょざいち)であり、天皇の力を示す場所でした。

用水桶(ようすいおけ)
火災(かさい)に備(そな)えて水をためておく桶(おけ)のことです。江戸時代(えどじだい)になると、自然に雨をためるために御殿(ごてん)の屋根の上に置かれることもありました。

檜皮葺(ひわだぶき)
日本古来の伝統的(でんとうてき)な屋根葺手法(やねふきしゅほう)の一つで、檜(ひのき)の樹皮(じゅひ)をずらして重ねて葺き、竹釘(たけくぎ)で檜皮を固定する葺(ふ)き方。江戸時代(えどじだい)の城の御殿(ごてん)は、ほとんどがこの屋根でした。

次回は「古代山城の築城」です。

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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