理文先生のお城がっこう 歴史編 第2回 豪族たちの居館

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。古墳時代に人々を支配した豪族たちが住んだ「豪族居館」ってどんなとこ?





■理文先生のお城がっこう


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豪族の登場と豪族居館

古墳時代(こふんじだい)(3世紀中頃(ごろ)から7世紀末頃)に入ると、環濠集落(かんごうしゅうらく)のような集落を守るために柵(さく)や堀(ほり)で囲んだ集落が無くなり、生活するのに適(てき)したごく普通(ふつう)の集落が広がるようになります。

そうした集落の中で、一般(いっぱん)の人々から経験(けいけん)や機会、努力によって抜(ぬ)け出した人が、多くの土地や財産(ざいさん)私兵(しへい)(個人(こじん)が勢力(せいりょく)を維持(いじ)するために自分で養成している兵士)を持つようになり、やがて一定の地域(ちいき)を支配(しはい)する力を持つようになります。こうして、人々を支配するようになった一族を「豪族(ごうぞく)」と呼(よ)んでいます。彼らは、古墳と呼ばれる特別な墓(はか)や、堀によって囲まれた屋敷(やしき)を造(つく)って、他の人々とは違(ちが)う生活をおくるようになりました。

こうした豪族たちの屋敷は「豪族居館(ごうぞくきょかん)」と呼ばれ、多くは堀によって囲まれた四角形をした敷地内に住居(じゅうきょ)や倉などを造って住むようになります。豪族と言っても、個人のための建物ですので、環濠集落と比(くら)べると、その規模(きぼ)は非常(ひじょう)に小さいものでした。侵入(しんにゅう)を防(ふせ)ぐための柵列や遠くを見張(みは)るための物見櫓(ものみやぐら)のような建物を造ったり、外へ張り出す部分やとびだした突出部(とっしゅつぶ)を造ったりした居館もありました。こうした居館は、普通の人々が生活する場所と完全に分離(ぶんり)された所に造られ、他からの攻撃(こうげき)から守るための工夫がされていたのです。

三ツ寺遺跡と原之城遺跡

豪族居館と考えられる遺跡(いせき)は、九州から関東地方まで広がっており、三ツ寺遺跡(みつでらいせき)(群馬県高崎市(ぐんまけんたかさきし))や原之城遺跡(げんのじょういせき)(群馬県伊勢崎市(いせさきし))が発掘調査(はっくつちょうさ)で見つかった代表的な遺跡です。

三ツ寺遺跡は、古墳時代中頃(5世紀頃)の居館で、周囲を水堀で囲まれ、さらに敷地を取り囲むように三重の塀あるいは柵列が見つかりました。また敷地の中を南北に分ける柵も見つかっています。堀の斜面(しゃめん)には、古墳の葺石(ふきいし)(河原石(かわらいし)や礫石(れきいし)を積んだり、貼(は)りつけたりするように葺いた土留(どど)め用の石)にように、石を貼りつけて飾(かざ)られていました。

その規模は、一辺が約86mの四角形で、西辺に二ヵ所と南辺に一ヵ所の堀に飛び出す張出部が設(もう)けられていました。周囲を取り囲む堀幅(ほりはば)は、30~40mと非常に広く、深さは約3~4mもありました。

南側は、豪族の住まいである居館を中心に、外部から導水管(どうすいかん)(水を送るための管)によって水を引いた祭祀施設(さいししせつ)(神様や先祖(せんぞ)をまつるための場所)がありました。北側には複数(ふくすう)竪穴住居(たてあなじゅうきょ)(地面を円形や方形に掘り窪(くぼ)め、その中に複数の柱を建て、梁(はり)や垂木(たるき)をつなぎあわせて家の骨組(ほねぐ)みを作り、その上から土、葦(あし)などの植物で屋根を葺いた建物)と倉庫群が建ち並び、場所によって敷地を使い分けていたようです。

また、出入口と、突出部については、守りを固めるための防御的(ぼうぎょてき)なものではなく、中に住んでいる豪族が、他の一般の人々とは違っていることを知らせる目的がありました。簡単(かんたん)に見ることが出来ないようにして、神様のような立派(りっぱ)で強い存在(そんざい)であることも知らせようとしていたのです。

この三ツ寺遺跡からわずか約3km離(はな)れた場所に位置する北谷遺跡(きたやついせき)でも非常によく似(に)た豪族居館が見つかっています。発掘調査で、一辺の長さが約90mの四角形で、堀に飛び出した張出部も見つかりました。居館の周りを囲む水堀の幅は約30m、深さは約3mで、斜面には石が積まれていました。あまりに両遺跡が近くにあり、しかもほぼ同じ構造(こうぞう)をしているため、基本的な設計図(せっけいず)があったのではないかとも言われています。
 
三ツ寺遺跡、模型
三ツ寺遺跡の全体を想像した模型(もけい)(写真提供:国立歴史民俗博物館(こくりつれきしみんぞくはくぶつかん)

原之城遺跡は、全国でも最も大きい部類に入る6世紀中頃の豪族居館です。その大きさは、東西約110m×南北170mのほぼ長方形の形をしており、周囲を幅約20mの堀で取り囲まれていました。

入口は、南の土橋(どばし)(堀を横断(おうだん)する通路として設けられる土の堤(つつみ)だけが、外とつながる通路になっていました。周囲は土塁(どるい)が取り囲み、5か所の堀へ飛び出す張出部が確認されています。

屋敷地のほぼ真ん中に、四面庇(ひさし)(四方向に庇が付いている建物)の中心となる掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)(地面に穴(あな)を掘りくぼめて礎石(そせき)を用いず、そのまま柱(掘立柱)を立て地面を底床(そこゆか)とした建物)と大型の竪穴住居がありました。敷地の北側にたくさんの倉庫群が、南側には竪穴住居群がありました。内部からは、農耕祭祀(のうこうさいし)(作物の無事の収穫(しゅうかく)を祝うために行われるお祭り)のために使われたと考えられる遺物も出土しています。

豪族居館の特徴

各地で確認(かくにん)された豪族居館は、2000㎡(約45m四方くらい)以下から7000㎡(約85m四方くらい)以上までの規模と、大きさに共通する点はありません。地域(ちいき)や造る場所の広さなどで違っていたのでしょう。

共通するのは、どの豪族居館も堀・土塁・柵でほぼ四角形や長方形に囲まれていたことです。身分を示(しめ)すためや、守りを固めるためと考えられています。居館の中は、柵や溝(みぞ)で分かれ、大きな高床(たかゆか)の建物(地面や水面より高い位置に床のある建物)やお祭りをする施設(しせつ)や場所、掘立柱建物と竪穴住居が建っていました。これらの建物と一緒(いっしょ)に、祭りなどをするための広場、井戸(いど)、武器(ぶき)や農具などの品物を作るための工房(こうぼう)や、物を納(おさ)めるための倉庫がありました。こうした建物は、使い方によって別々の場所にまとめて建っていたと考えられています。

 伊勢遺跡、復元想像図
 伊勢遺跡(いせいせき)で見つかった方形区画の建物の復元想像図(ふくげんそうぞうず)(CG制作/MKデザイン 小谷正純氏、協力:NPO法人守山弥生遺跡研究会) 
※伊勢遺跡は弥生時代の終わりの遺跡で、地域を治める「首長(しゅちょう)」によって作られました。ここは、住まいではなく祭事(さいじ)や会議を行う主殿(しゅでん)や祭殿群(さいでんぐん)と考えられています。豪族の居館ではありませんが、特別な建物をイメージしやすいCGですので、使用しています。


今日ならったお城(しろ)の用語

豪族居館(ごうぞくきょかん) 
古墳時代(こふんじだい)に一定の地域(ちいき)を支配(しはい)する力を持つようになった一族が住居用(じゅうきょよう)として築(きず)いた屋敷(やしき)で、水堀(みずぼり)や土塁(どるい)や柵(さく)でほぼ四角形や長方形に囲まれていました。

物見櫓(ものみやぐら)
遠くや近くを監視(かんし)するためや敵方(てきがた)の動きを監視(かんし)するために建てられた建物です。木材などを高く積み上げた建物で、常設(じょうせつ)ではなく戦いがある時のみの仮設(かせつ)となることもありました。

土橋(どばし)
(ほり)を横断(おうだん)する通路として設(もう)けられる土を高く盛(も)って造(つく)られた土手です。古墳時代については、戦闘的(せんとうてき)な目的があったかは、はっきりしません


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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