2018/08/31
理文先生のお城がっこう 歴史編 第5回 都城の誕生
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回は「都城の誕生」について。中央集権化を目指して造られた藤原京とはどのような都だったのでしょうか?
■理文先生のお城がっこう
前回「第4回 古代山城の築城」はこちら
都城とは
都城(とじょう)とはもともと中国にあった城(しろ)に囲まれた都市のことです。中国で最初の統一王朝(とういつおうちょう)(国を一つにまとめた王の時代)をつくった秦(しん)の始皇帝(しこうてい)は、長安(ちょうあん)(現在の西安)の北西にあたる咸陽城(かんようじょう)の規模(きぼ)を拡大(かくだい)して、首都にふさわしい大都城としました。
その後の王朝は、首都となった市域全体(しいきぜんたい)を城壁(じょうへき)(羅城(らじょう))で囲むようになりました。我(わ)が国が見本にしたのは、唐(とう)時代の長安で、碁盤(ごばん)の目状(めじょう)の道路、南北をつらぬく大通り、北の政庁(せいちょう)(政治の事務(じむ)を取り扱(あつか)う役所)の位置、河川(かせん)の配置までもが、影響(えいきょう)を受けたと言われています。
都城制の導入
壬申の乱(じんしんのらん)(672年に起こった天智天皇(てんじてんのう)の次の天皇をめぐる後継争(こうけいあらそ)い。息子の大友皇子(おおとものおおうじ)と弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)との間の大きな戦い)に勝利した天武天皇(てんむてんのう)が、中央集権化(ちゅうおうしゅうけんか)(天皇が強大な権力(けんりょく)を持って国を治めること)をめざし藤原京(ふじわらきょう)と呼(よ)ばれる新しい都造(みやこづく)りを開始しましたが、天武天皇の死亡(しぼう)により中止されてしまいます。
その後、天皇となった天武天皇の妃(きさき)で、天智天皇の娘(むすめ)の持統天皇(じとうてんのう)が工事を再開(さいかい)し、持統天皇8(694)年に完成しました。これにより飛鳥(あすか)の宮は終わりを告げることになります。
藤原京の規模は、最初は大和三山(北に耳成山(みみなしやま)、西に畝傍山(うねびやま)、東に天香久山(あま(め)のかぐやま))に囲まれた地域と考えられていましたが、発掘調査(はっくつちょうさ)により10里四方(1里は約7㎞)の京域(きょういき)(都の範囲)に、東西10の条坊(じょうぼう)(碁盤の目のように区画した街の道すじ)を備(そな)えた、大規模な範囲に広がっていたことが解ってきました。東西南北に各3つずつの門を備えたため、合計12カ所の門がありました。
藤原京の模型(橿原市教育委員会提供(かしはらしきょういくいいんかいていきょう)、一部城びと編集部にて加筆)
そのほぼ中央に約1㎞四方の藤原宮(ふじわらのみや)、その北には苑池(えんち)(池泉(ちせん)を主体とした庭園)が設(もう)けられていました。北魏(ほくぎ)(中国南北朝時代の華北(かほく)に建てられた王朝)の洛陽城(らくようじょう)(長安と並(なら)んで中国王朝の首都となった都市)の影響(えいきょう)が指摘(してき)されていますが、外郭(がいかく)ライン(外回りの囲い)は中国の都城と異(こと)なり、城壁ではなく、築地塀(ついじべい)(泥土(でいど)をつき固めて作った塀(へい))や区画溝(くかくみぞ)(内と外を区切る人工的な溝)でした。
完成した藤原京は、後の平城京(へいじょうきょう)や平安京(へいあんきょう)より大きな規模で、古代最大規模を誇(ほこ)る都となったのです。広大な京域の南側には、旧来(きゅうらい)の宮である飛鳥の街がかかっていましたので、その繋(つな)がりは保(たも)たれていたことになります。
藤原京の復元(ふくげん)CG(奈良産業大学(ならさんぎょうだいがく)・橿原市提供(かしはらしていきょう))
藤原宮の構造
藤原京の中心であった藤原宮は、現在(げんざい)の皇居(こうきょ)(天皇の私的(してき)な居住(きょじゅう)する区域)と国会議事堂(政治や儀式(ぎしき)を行う場)、官庁街(かんちょうがい)(役人の日常的(にちじょうてき)な仕事をする場所)を併(あわ)せた機能(きのう)を持っていました。
宮の範囲は、1㎞四方程で、周囲は高さ約5mの塀が廻(めぐ)り、東西南北の塀には門が3カ所ずつ設けられていました。南の中央にある門が正面玄関(しょうめんげんかん)となる朱雀門(すざくもん)です。宮の内部は、中央に政治・儀式の場で回廊(かいろう)(取り囲むように造られた廊下)囲みの大極殿(だいごくでん)(天皇の即位式(そくいしき)など国家的な儀式に使用された最も格調(かくちょう)のある重要な建物)、同じく回廊に囲まれ中央に広場を持った十二堂(12の庁舎(ちょうしゃ))からなる貴族(きぞく)・役人の集まる朝堂院(ちょうどういん)、大極殿の北に天皇が居住する内裏(だいり)が置かれていました。
大極殿は瓦葺(かわらぶき)の高層式(こうそうしき)の礎石建物(そせきたてもの)(基壇(きだん)(建造物をその上に建てるためにつくった土盛(ども)り,石積み)は、東西約52m、南北約27mの大きさ)で、柱は丹塗(にぬり)(丹または朱(しゅ)で塗ること)で、飛鳥での宮とは異なり初の中国式の宮殿建物でした。朝堂院や宮の中心となる建物はすべて日本の宮殿では初めての瓦が葺かれた礎石建物だったのです。
内裏は伝統的(でんとうてき)な桧皮葺(ひわだぶき)(桧(ひのき)の皮を精製(せいせい)した材料を、竹釘(たけくぎ)を使って打ちとめていく屋根建築(やねけんちく)の工法)の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)が採用(さいよう)されており、周辺に広がる官衙(かんが)(役所、官庁)地区も板葺きの掘立柱建物となっていました。
藤原宮復元CG(奈良産業大学・橿原市提供)
藤原京では、人々の生活や活動のために必要な品物・資材(しざい)を用意する国などの公的な市(いち)(定期的に人が集まり商いを行う場所)に関係する人々や、公的な寺院に仕えていた僧侶(そうりょ)、生活用品(鉄器や漆(うるし)製品等)を生産する工房(こうぼう)(仕事場)に勤(つと)める工人(こうじん)(労働者)などが住むことになったのです。様々な職種(しょくしゅ)の人々が居住する政治的な機能を持った都市が我が国で初めて出現(しゅつげん)したのです。
大極殿跡(だいごくでんあと) 朝堂院跡と天香久山
今日ならったお城の用語
都城(とじょう)
城壁(じょうへき)で囲まれた都市のことです。中国で考えられた都市の設計(せっけい)及び計画のことで、天子(天皇(てんのう))の宮城(きゅうじょう)を北側に、その南側に官庁(かんちょう)を置いて、その周囲に市街地が広がり、それらを守るために城壁で囲い込(こ)んだ都市を呼(よ)びます。
城壁(じょうへき)
都を囲い込(こ)むための塀(へい)で、羅城(らじょう)と呼(よ)ばれます。後の城の城壁とは異(こと)なり、都を荘厳(そうごん)に見せるためだとも言われています。瓦葺(かわらぶき)の築地塀(ついじべい)(土で出来た塀)や木造(もくぞう)の塀が採用(さいよう)されていました。
築地塀(ついじべい)
泥土(でいど)をつき固めて作った塀(へい)のことで、「築地」とも言われています。多くは、瓦(かわら)や板の屋根が設(もう)けられていました。
区画溝(くかくみぞ)
防御のために掘られた溝(みぞ)(堀(ほり))ではなく、京域(きょういき)や屋敷(やしき)など特定な場所を区切るために設(もう)けられた溝のことです。
朱雀門(すざくもん)
古代の宮城(きゅうじょう)の南に設(もう)けられた正門のことです。大内裏(だいだいり)(皇居(こうきょ)を中心に官庁(かんちょう)を配置した宮城)の外郭(がいかく)に設けられた12の門の中で、最も重要な門でした。
次回は「国衙と郡衙の成立」です。
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加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。