2018/10/12
理文先生のお城がっこう 歴史編 第6回 国衙と郡衙の成立
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回は奈良時代に地方を支配したしくみについて学びます。全国に置かれた地方の役所「国衙」や「郡衙」では、どういったことが行われていたのでしょうか?
■理文先生のお城がっこう
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国衙と郡衙(地方を支配するしくみ)
奈良時代(ならじだい)の地方支配(ちほうしはい)のしくみは、律令(りつりょう)(「土地と人民は天皇(てんのう)の支配に従(したが)う」という考え方を整えるための体制(たいせい))によって定められました。
全国を60あまりの国(くに)(おおよそ今の県)に分け、その下に郡(ぐん)(おおよそ今の市町村)、さらにその下に里(り)を置きました。里は、住民50戸が1里で、2~20里で1郡としました。国には、中央から貴族(きぞく)を国司(こくし)(「国」に置かれた役人の長)として送り、郡は地方の有力な豪族(ごうぞく)を郡司(ぐんじ)に任命(にんめい)し、里は地元の有力者をえらんで里長(さとおさ)としたのです。里は、後に郷(ごう)に改められ、郷を2、3の里に分けたのです。
地方の役所は官衙(かんが)といい、国と郡に置かれ、国衙(こくが)(国府(こくふ))・郡衙(ぐんが)(郡家(ぐうけ))と呼(よ)びます。こうした地方の役所は、庶民(しょみん)をまとめて治め、租税(そぜい)(税金)を集めるための機関でした。
中央政府(ちゅうおうせいふ)と地方を結ぶための主要な道路 (幅(はば)約6~12m)が整備(せいび)され、往来(おうらい)する役人に宿舎(しゅくしゃ)・食料・人馬などを提供(ていきょう)した駅家(うまや)、賊(ぞく)(他人に危害(きがい)を加えたり、他人の財物(ざいぶつ)を奪(うば)ったりする者)や謀反人(むほんにん)(国家・朝廷(ちょうてい)・君主にそむいた人)が逃亡(とうぼう)することをふせぐための関(せき)(関所)も全国に配置されたのです。
「平沢官衙遺跡(ひらさわかんがいせき)歴史ひろば」の復元建物(ふくげんたてもの)(つくば市教育委員会提供)
『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』に登場する11郡のうち、筑波郡(つくばぐん)の郡衙(郡役所)跡(あと)と考えられる国指定史跡。発掘調査(はっくつちょうさ)によって確認(かくにん)された奈良(なら)・平安時代の高床式倉庫跡(たかゆかしきそうこあと)約50棟(むね)のうち、3棟の復元を中心にした史跡整備が行われ、平成15(2003)年度から一般公開(いっぱんこうかい)されました
国衙とは
国衙とは、律令制度(せいど)の下で、国司が地方の政治(せいじ)を行うために国ごとに置いた地方の役所のことです。この国衙が存在(そんざい)した都市域(としいき)(地区)を国府と呼んでいます。今にたとえれば、県庁(けんちょう)的な存在になります。
国衙の中心的な役割(やくわり)を果たした施設(しせつ)が国庁(こくちょう)(政庁)で、国によって違(ちが)いは認(みと)められますが、国庁(国司が儀式(ぎしき)や政治を行う施設)である正殿(せいでん)の前後に、前殿(ぜんでん)(正殿の前にある施設で、政務(せいむ)を行う表向きの施設)・後殿(こうでん)(正殿の後ろに建てられた建物で、日常的(にちじょうてき)な業務を行う施設)を設置することが多く見られます。
東西に脇殿(わきでん)(正殿の両脇にひかえる建物で、日常的な仕事を分担(ぶんたん)して行っていました)が置かれ、高楼(こうろう)建物(二階建て以上の建物)が設(もう)けられることもありました。中央(前殿の前)に儀式を行う広場である前庭(ぜんてい)を置き、建物配置は基本的(きほんてき)には「コ」の字状(じじょう)に、左右対称(さゆうたいしょう)に配置されていました。これらの建物群(たてものぐん)を板塀(いたべい)や築地塀(ついじべい)、あるいは溝(みぞ)で区画し、南に南門が置かれたのです。
その外側の周囲には、国司の生活の場である国司館、租税を収(おさ)める蔵(くら)の正倉(しょうそう)、曹司(ぞうし)(役人の官舎)群、食事のための厨家(くりや)、国衙の備品や武器(ぶき)を製造(せいぞう)する工房(こうぼう)などという施設がありました。その規模(きぼ)は数10~100m前後四方でした。国衙の建物は、都城(とじょう)を手本としたため、各国にほぼ共通しますが、周囲の建物群の配置は、国ごとに大きく異(こと)なっていたのです。
伯耆国庁復元模型(ほうきこくちょうふくげんもけい)(国立歴史民俗博物館所蔵(こくりつれきしみんぞくはくぶつかんしょぞう))
第Ⅱ期の国庁の状況(じょうきょう)を復元した模型。「コ」の字形に左右対称に配置された建物の様子が良くわかります。
発掘された国衙(国府)遺跡
主な国衙遺跡には、武蔵国府跡(むさしこくふあと)(東京都府中市)、周防国府跡(すおうこくふあと)(山口県防府市(ほうふし))、伯耆国府跡(鳥取県倉吉市(くらよしし))、常陸国府跡(茨城県石岡市(いばらきけんいしおかし))、近江国府跡(おうみこくふあと)(滋賀県大津市(しがけんおおつし))、土佐国府跡(とさこくふあと)(高知県南国市(こうちけんなんこくし))などがあります。
これらの国衙遺跡の発掘成果から、前述(ぜんじゅつ)したような建物配置、いうなれば国衙を区画するプランが徐々(じょじょ)に解(わか)ってきたのです。国衙は全国各地に置かれていたわけですが、場所がはっきりと解っている例は極めて少ないと言わざるをえません。
それは、国衙が地方の中心に置かれていたためで、その後の開発行為(かいはつこうい)によって破壊(はかい)を受けたということや、寺院のような特別な建物群が持っていた基壇(きだん)(建造物(けんぞうぶつ)をその上に建てるためにつくった土盛(ども)りや石積み)や大型の礎石(そせき)建物等が存在していなかったことも大きな要因(よういん)と考えられます。
郡衙とは
地方を支配(しはい)するための拠点(きょてん)として設けられた、国の下に置かれた行政区画が郡衙です。郡家とも呼ばれました。701年に大宝令(たいほうりょう)(唐の律令を参考にして作られた我(わ)が国の律令)が定められ、評(こおり)と呼んでいた単位を郡に改めたのです。
この郡に務(つと)める役人を郡司と言い、郡のランクによって2~8名が任命されました。郡司は国司と異(こと)なり、すべて在地(ざいち)の有力な豪族(その土地に住み、地方に勢力(せいりょく)を持つ一族)から起用されました。最も大切な仕事が、徴税(ちょうぜい)(税金を取り立てること)でした。
郡衙の政庁は、中央の宮を手本として建てられた国庁とは違って、必ずしも規則性(きそくせい)を持つものばかりではありませんでした。近年の発掘成果を総合(そうごう)すると、郡衙の政庁の構造(こうぞう)は、中央に国庁の前庭のような広場が置かれたことは共通するようです。
しかし、郡庁として大型の建物を中央に配置することがあったり、長舎(ちょうしゃ)(桁行(けたゆき)(屋根の棟に平行な方向)7間(13m弱)以上の細長い建物)だけを「コ」の字形に配置したりするような場合もありました。この他、郡衙に務める役人のための住まいである館舎(かんしゃ)や宿舎(しゅくしゃ)、公的な食事を用意する厨家、税金として集めた穀物類(こくもつるい)を保管(ほかん)する正倉群などが配置されていたようです。
郡司の最重要な仕事が税金の徴収(ちょうしゅう)なら、郡衙の重要施設は正倉群でした。郡衙の正倉には、田租(でんそ)(田の面積に応(おう)じて課せられた最も基本的な税)や出挙稲(すいことう)(農民へ稲(いね)の種もみや金銭(きんせん)・財物を貸(か)し付け、利息とともに返還(へんかん)させた制度(せいど)に使用する稲)だけでなく、不動倉(ふどうそう)(諸国(しょこく)に設置された非常用(ひじょうよう)の穀物貯蔵庫。保管は国司で、倉を開けるには、政府の許可(きょか)が必要でした)としても利用されていたようです。正倉は、大規模な溝で囲まれていたり、防火用水(ぼうかようすい)と思われる大きな穴(あな)が側にあったりし、極めて厳重(げんじゅう)に管理されていたことが解ります。
志太(しだ)郡家(郡衙)復元模型(写真提供:国立歴史民俗博物館)
郡庁となる大型建物がなく、建物も「コ」の字配置とならないため、郡衙の施設のうちの厨家や館跡と考えられています。
発掘された志太郡衙
駿河国(するがのくに)志太郡(静岡県藤枝市(しずおかけんふじえだし))の郡衙跡が、昭和52年(1977)に水田内で発見されました。郡衙は、板塀で囲まれた区画内に掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)30棟、井戸(いど)、門、道路遺構(どうろいこう)、「志太」「大領(だいりょう)」(官職名(かんしょくめい))等と記された墨書土器(ぼくしょどき)(文字や絵などが書かれた土器)・木簡(もっかん)(文字を書くために使われた細長い木の板)などが確認(かくにん)されています。
東西と南側を丘陵(きゅうりょう)に囲まれた谷部に位置し、8世紀前半から9世紀前半にかけて3期の造り替(か)えがあったと考えられています。建物は南北に棟の方位をそろえた規則的(きそくてき)な配置ですが、規模も小さく典型的な郡庁と異なる構成であるため、郡庁や正倉ではなく厨家や館の遺構と推測(すいそく)されています。
東西で機能(きのう)が異なっていたとされ、西側は、井戸を持つ広場や、南北棟が隣(とな)り合って並(なら)び、中心的な区域と考えられます。対して東側には、倉庫や雑舎群(ぞうしゃぐん)が密集(みっしゅう)し、土塁状施設(どるいじょうしせつ)や杉板(すぎいた)で囲まれていました。
志太郡衙の復元された正門と板塀 志太郡衙の復元された掘立柱建物
今日ならったお城(しろ)の用語
国衙(こくが)
律令制度(りつりょうせいど)の下で、国ごとに置かれた役人の長(国司)が地方の政治(せいじ)を行った役所のことです。国府とも言います。
郡衙(ぐんが)
地方を支配(しはい)するための拠点(きょてん)として設(もう)けられた、国の下に置かれた地方役所のことです。郡家とも呼(よ)ばれました。
正倉(しょうそう)
税金(ぜいきん)を納(おさ)めるための蔵(くら)。主な税金は米です。
曹司(ぞうし)
役所の中に設(もう)けられた役人が使用する様々な官舎群(かんしゃぐん)のことです。
厨家(くりや)
食事、あるいは調理する場所。台所。
次回は「多賀城と東北の城柵」です。
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加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。