理文先生のお城がっこう 歴史編 第7回 多賀城と東北の城柵

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回は7~11世紀頃まで、大和政権が蝦夷地を治めるために築いた「城柵」と大和朝廷の最大の東北地方の拠点・多賀城について学びます。

城柵の設置

7世紀から11世紀頃(ころ)まで、天皇(てんのう)を中心にした大和政権(やまとせいけん)が蝦夷地(えぞち)(東北地方)を治めるために築(きず)いた軍隊の運営(うんえい)や政治(せいじ)を行うための機関を城柵(じょうさく)(現在(げんざい)の東北地方に置かれた政治を行うためと蝦夷に備(そな)えた軍隊を駐屯(ちゅうとん)させる機能(きのう)を併(あわ)せ持つ施設(しせつ)と呼(よ)んでいます。

初めて記録に登場するのは、大化3年(647)に設置(せっち)された渟足柵(ぬたりのき)(新潟市(にいがたし)付近)で、続いて翌年(よくねん)には磐舟柵(いわふねのき)(新潟県村上市付近)が造(つく)られました。

城柵は、朝廷(ちょうてい)が「化外(けがい)の民(国が治めることの出来ない人々)」であった蝦夷地の支配(しはい)を進め、そこで採(と)れる豊(ゆた)かな産物を自分たちの物にするために造られた軍事的・政治的な中心施設でした。併せて、都から遠く離(はな)れた地にまで勢力(せいりょく)を広め、言うことを聞かせようとする役割(やくわり)も持っていました。

『日本書紀』には、渟足・磐舟柵を造るにあたって、柵戸(さくこ)(関東や中部地方から、開拓(かいたく)や城を守備(しゅび)するために連れてこられた人々)をいいように使ったとあります。こうした他国からの移民(いみん)の支配や、俘囚(ふしゅう)(陸奥(むつ)・出羽の蝦夷(えみし)(朝廷から異(こと)なる民族のような扱(あつか)いを受けた人たち)のうち、朝廷の支配に属(ぞく)するようになった人たち)から必要な物資(ぶっし)を取りそろえたり、天皇への貢物(みつぎもの)(特産物などを差し上げること)用意したりする施設としての役割を果たしていました。

また、必要な物品を用意し、都へ運ぶための中心的な場所でもあり、蝦夷に対し酒や食事の用意をしてもてなすために使われることもありました。

払田柵跡に復元された外柵南門と角材列
払田柵跡に復元された外柵南門と角材列(大仙市教育委員会提供(ていきょう)
遺跡(いせき)の正面玄関(げんかん)で、中心施設である政庁域(せいちょういき)へ通ずる場所で、平成5年度に復元(ふくげん)されました。

朝廷最大の東北地方の拠点・多賀城

神亀(じんき)元年(724)、大野東人(おおのあずまびと)(奈良(なら)時代の武人(ぶじん)によって新たに創(つく)られた陸奥国(むつのくに)(現在の福島県、宮城県(みやぎけん)、岩手県、青森県、秋田県の一部)国府(こくふ)(地域の政治の中心となった都市)で、後に鎮守府(ちんじゅふ)(陸奥国に置かれた軍隊の管理や政治を担当(たんとう)した役所)も置かれ、東北地方における大和政権の中心的な施設になりました。

仙台(せんだい)平野や仙台湾(わん)を一望できる小高い丘(おか)の上に建てられ、国の重要文化財となっている「多賀城碑(たがじょうひ)(天平宝字(てんぴょうほうじ)6年(762年)に建てられた多賀城の歴史を書いた石碑)や発掘調査(はっくつちょうさ)の成果から、奈良時代から平安時代にかけて、4度の修理(しゅうり)や建て替(か)えが行われたことが解(わか)りました。その時期は、以下のように分けられています。

第Ⅰ期…724年、大野東人が新たに陸奥国の国府を創る
第Ⅱ期…762年、藤原朝狩(ふじわらのあさかり)による大きな修理
第Ⅲ期…780年、伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)が反乱(はんらん)を起こして焼き討(う)ちしたため、乱後に失われた建物などを復旧(ふっきゅう)
第Ⅳ期…869年、貞観(じょうがん)の陸奥国大地震(だいじしん)で倒壊(とうかい)したため、作り直す

(しろ)外郭(がいかく)(城の周囲にめぐらされた囲い)の大きさは約1km四方となりますが、やや形が整っていない方形で、塀(へい)で囲まれ、南・東・西に門を造り(北門は確認(かくにん)されませんでした)、その中央部分に中心的な施設となる政庁(政治に関する事務(じむ)を取り扱うための役所)が置かれていました。

政庁は、政務(政治に関する事務)儀式(ぎしき)(特別な催(もよお)し)宴会(えんかい)(酒や食事を共にして、楽しむ会)等が行われる重要な施設で、その大きさは、東西が103mで、南北が116mでした。周囲が築地塀(ついじべい)で囲い込(こ)まれ、内部には正殿(せいでん)脇殿(わきでん)(正殿の両脇に建つ施設)後殿(こうでん)(正殿の後ろに建つ建物)(ろう)(高く造られた建物)などが計画的に決められた位置に置かれました。

城の内部からは瓦(かわら)土器(土で作られた器(うつわ)を始め、いろいろな遺物(いぶつ)(遺跡で発見された、昔の文化を示(しめ)す生活のための道具などのこと)が見つかり、当時の人々がどんな生活を送っていたかが想像(そうぞう)できるようになりました。このようないろいろな遺物から、城内の各所に実際(じっさい)の政治を行うための事務をする役所や兵士の住む場所などが置かれていたことが解ったのです。

なお、城を囲む塀は小高い丘の上が築地塀で、平らな平野部は木材を利用した塀になっていました。どちらも高さはだいたい4~5mと思われます。藤原氏の力が衰(おとろ)え始める11世紀中頃まで使われていたと考えられています。

多賀城模型コピー禁止
多賀城政庁復元模型(多賀城跡調査研究所所蔵)
8世紀後半の第Ⅱ期の時代の姿(すがた)を推定(すいてい)復元したものです。主要な建物である正殿、東・西脇殿、南門のほかに、東・西楼と後殿が新たに建てられ、広場は石敷(いしじ)きになります。南門の左右には翼廊(よくろう)が付き、築地塀には東・西殿や北殿などの装飾的(そうしょくてき)な建物が付け加えられました。

城柵の移り変わり

渟足柵、磐舟柵を築いたのに続き、大和政権は北に前進する形で、次々と柵を築いていきます。

太平洋側だけでなく、和銅(わどう)2年(709)には日本海側の出羽柵(でわのき)(山形県庄内地方(しょうないちほう)か)、この柵は後に場所を移動して秋田城(あきたのき)(秋田市)になりました。発掘調査によって、文献(ぶんけん)(研究上の参考資料(さんこうしりょう)となる文書・書物、記録や言い伝え)には載(の)っていない9世紀初め頃に造られた払田柵(ほったのさく)遺跡(秋田県大仙市)、同じく9世紀前半に造られたとされる城輪柵(きのわさく)遺跡(山形県酒田市)なども確認されています。

太平洋側では、延暦(えんりゃく)12年(802)に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)胆沢城(いざわのき)(岩手県水沢市(みずさわし))、翌年に志波城(しわのき)(岩手県盛岡市(もりおかし))を築き、鎮守府が移(うつ)されました。その後、朝廷が蝦夷を治めるための考え方を大きく変えたため、徳丹城(とくたんのき)(岩手県矢巾町(やはばちょう))を造ったのを最後に、城柵を建てることが打ち切られ、再(ふたた)び造られることはありませんでした。

古代トイレ
秋田城で発見された古代水洗(すいせん)トイレ(秋田市立秋田城跡歴史資料館提供)
奈良時代の最新鋭(さいしんえい)のトイレで、排泄物(はいせつぶつ)は沈殿槽(ちんでんそう)にいったんたまり、上澄(うわず)みだけが沼地(ぬまち)に流れる構造(こうぞう)でした。

城柵の位置

東北地方のおもな城柵位置と規模(秋田市立秋田城跡歴史資料館提供)

今日ならったお城(しろ)の用語


城柵(じょうさく)
7世紀から11世紀にかけて、天皇(てんのう)を中心とした大和政権(やまとせいけん)が、北の辺境(へんきょう)の地(現代(げんだい)の東北地方)に住む人々を支配下(しはいか)に置くために築(きず)いた、政治(せいじ)を行うためと軍隊を駐屯(ちゅうとん)させる機能を併(あわ)せ持つ施設(しせつ)です。

鎮守府(ちんじゅふ)
大和政権(やまとせいけん)によって、奈良(なら)時代前半頃(ころ)から陸奥国(むつのくに)に置かれた軍隊の管理や政治(せいじ)を担当(たんとう)した役所のことです。延暦(えんりゃく)21年(802)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が胆沢城(いさわじょう)を造(つく)ると、多賀城(たがじょう)付近にあった役所が、胆沢城に移(うつ)されたと言われています。

「多賀城碑」(たがじょうひ)
多賀城跡の一角に建つ、天平宝字(てんぴょうほうじ)6年(762年)の建立の石碑(せきひ)です。都から多賀城までの行程(こうてい)と城(しろ)の歴史が記されています。日本三古碑の1つで「壺(つぼ)の碑」とも呼(よ)ばれ、平成10年に国の重要文化財(じゅうようぶんかざい)に指定されました。

外郭(がいかく)
(しろ)の周囲や外周に巡(めぐ)らした区画のことです。その境(さかい)には、土塁(どるい)、築地塀(ついじべい)、柵(さく)などが利用されていました。

次回のお城がっこうは・・・
城歩き編 第8回:「様々な場所に造られた城2(平山城と平城)」 11月22日(木)予定
歴史編 第8回:「前九年の役と後三年の役の城」 12月14日(金)予定

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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