理文先生のお城がっこう 歴史編 第8回 前九年合戦、後三年合戦に使われた城

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回は、平安時代の末期に東北地方で行われた戦い「前九年合戦」と「後三年合戦」に関係するお城について学んでいきます。

安倍氏の奥六郡支配
陸奥胆沢鎮守府(むついざわちんじゅふ)(陸奥国(現在の福島県,宮城県, 岩手県,青森県)の胆沢城に置かれた古代日本における軍隊をコントロールする役所)在庁官人(政府から派遣された国を治める役人が、現地で採用した役人)・安倍頼良(あべのよりよし)は、奥六郡(現在の岩手県中部の内陸部)に城柵(じょうさく)を構えて、自分が直接(ちょくせつ)支配(しはい)するようになりました。

安倍頼良は、朝廷(ちょうてい)への貢租(こうそ)(みつぎもの、年貢のこと)もさぼり、好き勝手に治めるようになったのです。そこで、永承6年(1051)に、陸奥守(むつのかみ)藤原登任(ふじわらのなりとう)が、安倍氏に罰を与え、凝らしめようと鬼切部(おにきりべ)を戦場として戦いましたが失敗してしまいます。

前と同じように、言うことを聞くようにさせたい朝廷は、河内源氏の源頼義(みなもとのよりよし)を新しい陸奥守とし、さらに鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)の役職(やくしょく)も与えて、東北地方をしっかり治めるように命令しました。

翌年(よくとし)、後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)大赦(たいしゃ)(犯罪者の罪を許(ゆる)す制度)により、頼良の罪(つみ)が許されました。感謝(かんしゃ)した頼良は、新しく鎮守府将軍となった頼義と同音(同じ発音)で、失礼に当たるからと、名前を頼時(よりとき)と改名するなど、より二人の関係を良いものしようと努力するようになりました。

ところが、安倍氏に反感を持つ、朝廷の役人たちのはかりごとにより、再び安倍氏と朝廷が対立することになります。戦にまでなってしまい、お互い勝ったり負けたりしていましたが、黄海(きのみ)の戦いで頼義はコテンパンにやられてしまいます。

この勝利で、安倍氏は衣川(こもろがわ)の南まで支配するようになり、勝手に税金(ぜいきん)を集めるようになったのです。

前九年合戦と勢いを増した清原武則
苦戦が続いた頼義は、出羽国(現在の山形県・秋田県)俘囚(ふしゅう)(陸奥・出羽の蝦夷(えみし)(朝廷から異なる民族のような扱いを受けた人たち)清原光頼(きよはらのみつより)に戦に加わるように頼みました。

以前から東への進出を考えていた光頼は、弟の武則(たけのり)を総大将(そうたいしょう)とする軍勢(ぐんぜい)を派遣することになります。清原氏が戦に加わったことで、頼義軍が劣勢を回復し、優位(ゆうい)に戦を進め、小松柵(岩手県一関市)、衣川柵(岩手県奥州市)、鳥海柵(とのみのさく)(岩手県金ヶ崎町)などを次々と攻め(せめ)取りました。

康平5年(1062)になると、遂(つい)に安倍氏の拠点・厨川柵(くりやがわのさく)(岩手県盛岡市)、嫗戸柵(うばとのさく)(岩手県盛岡市)を攻め(せめ)落とし、安倍氏を滅(ほろ)ぼしたのです。この戦いを「前九年合戦」と言います。

戦が終わると、頼義は正四位下(しょうしいのげ)伊予守(いよのかみ)に位が上がり、東北を去ることになります。かわって、清原武則が鎮守府将軍(しょうぐん)となり、安倍氏の元の領地(りょうち)である奥六郡(おくろくぐん)を与(あた)えられ、奥羽(おうう)を治める大将(たいしょう)にまで登りつめたのです。

陸奥話記、鳥海柵跡
『陸奥話記』に登場する鳥海柵跡、平成25年に国の史跡に指定されました。おおよそ南北500m×東西約300mの範囲に広がる城柵跡です。自然の地形を上手に使って、守りを固めています(岩手県金ヶ崎町教育委員会提供)

前九年合戦で朝廷(ちょうてい)は、安倍氏を滅ぼすことに成功しました。しかし、これによって東北地方すべてを治めるようになったわけではなく、清原氏に支配をまかせるようになっただけでした。清原氏による東北支配は、武則、武貞(たけさだ)、真衡(さねひら)とへと引き継(つ)がれていきました。

後三年合戦と源義家の東国進出
永保3年(1083)、真衡と異母兄弟(母親が異なる兄弟)にあたる清衡(きよひら)・家衡(いえひら)の2人が仲たがいをしてしまいます。この時、陸奥守(むつのかみ)として転勤(てんきん)してきたのが源義家(みなもとのよしいえ)だったのです。

義家が、陸奥の勤務先(きんむさき)に入ると、真衡が急に亡(な)くなりました。そこで義家は奥六郡を清衡と家衡に平等に3郡ずつ分け与えることにしました。

応徳3年(1086)、この義家の判断(はんだん)に不満(ふまん)を持った家衡が、突然(とつぜん)清衡館に襲(おそ)い掛(か)かりました。何とかその場を切り抜けた清衡は、義家に助けを求めます。義家は、清衡軍の味方になることを決め、自分の判断を聞かなかった家衡の本拠・沼柵(秋田県横手市)を攻撃(こうげき)しますが、準備(じゅんび)が不足していたため、戦に負けてしまいます。

勝利した家衡は、叔父(おじ)の武衡(たけひら)を味方に付け、険(けわ)しい地形で、敵の攻撃を防(ふせ)ぐのに便利な金沢柵(秋田県横手市)へ立て籠(こ)もりました。

寛治(かんじ)元年(1087)、義家・清衡は、金沢柵に攻(せ)めかかりましたが、守りが固いうえ、逆(ぎゃく)に攻撃されてしまい、どう攻めていいのか迷ってしまいました。そこで、柵を取り囲み、兵糧攻め(ひょうろうぜめ)(食べ物の補給ルートを遮断し孤立させる作戦)に戦い方を変え、遂(つい)に金沢柵を奪(うば)い取ったのです。この戦が「後三年合戦」と呼(よ)ばれています。

後三年合戦絵詞』(金沢柵の攻防、戎谷南山筆
『後三年合戦絵詞』(中巻・金沢柵の攻防)(模写、戎谷南山筆、金澤八幡宮蔵)
絵画に描(えが)かれた金沢柵には、塀(へい)の上に四本ほどの柱で組まれた櫓(やぐら)が描かれ、板で囲み、さらに「掻楯(かいだて)垣根のように楯(たて)を立て並べること)」で守った様子が描かれています

源氏の評判と奥州藤原氏の誕生
東北地方の政治(せいじ)を安定させようとした戦いにも関わらず、朝廷側は義家の私戦(自分のために勝手に行った戦)と判断(はんだん)して、恩賞(おんしょう)(功績に対し土地やお金を与えること)を与えるどころか、戦にかかった費用の支払い(しはらい)までも拒否(きょひ)してしまいました。

そのうえ、陸奥守の任務(にんむ)までも辞(や)めさせられたのです。朝廷の協力を得ることが出来なかったため、義家は戦いに味方してくれた武将(ぶしょう)に対し、自分の財産(ざいさん)をはたいて土地やお金を与えることになります。こうした義家のやり方を見ていた東国の武士たちは、源氏を信用するようになり、関東での源氏の評判は一気に高まりました。

約35年間も続いた戦によって、安倍氏は滅んでしまい、内輪もめをおこした清原氏は、清衡が奥州奥六郡を支配(しはい)することになりました。

清衡は、実父である藤原経清(ふじわらのつねきよ)の名字だった藤原に戻したため、清原氏という名前も消えることになったのです。清衡は、後に莫大(ばくだい)な財力(ざいりょく)や権力(けんりょく)を手にして、これ以上ないというほど富(と)み栄える奥州藤原氏の基礎(きそ)を築(きず)いていくことになります。

厨川柵復元、イラスト
「厨川柵復元イラスト」  監修:西ケ谷恭弘、画:香川元太郎 
断崖絶壁(だんがいぜっぺき)の崖(がけ)地形を利用して、周囲に堀を廻(めぐ)らし守りを固めたと伝わります

《コラム》『陸奥話記(むつわき)』に登場する城柵の跡・大鳥井山遺跡(おおとりいやまいせき)

前九年合戦と後三年合戦の足場とするために築かれたのが「城柵」です。

律令時代(りつりょうじだい)に朝廷によって築かれた築地(ついじ)や木製(もくせい)の塀によって一定の範囲(はんい)を囲(かこ)い込(こ)んだ施設(しせつ)とは違(ちが)って、戦うためだけに造(つく)られた施設でした。

昭和52年(1982)から発掘調査(はっくつちょうさ)が実施(じっし)された大鳥井山遺跡(秋田県横手市)は、清原氏の一族(いちぞく)・大鳥井山太郎頼遠(よりとお)の本拠地(ほんきょち)と考えられ、安倍氏の鳥海柵と共に、この時期の城柵と考えられています。平成22年に国の史跡(しせき)に指定されました。

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大鳥井遺跡実測図(横手市教育委員会提供)
羽州街道(うしゅうかいどう)を見下ろすように、北の小吉山、南の大鳥井山に柵が広がっていました

遺跡(いせき)は、比高(ひこう)約20~24mの2つの独立(どくりつ)した小高い丘小吉山(こきちやま)(標高77m)と大鳥井山(標高80m)の上に立地(りっち)し、西側を横手川、北に吉沢川、南に明水川と、東側以外の三方を河川(かせん)によって囲まれた河岸段丘(かがんだんきゅう)(河川の中・下流域に流路に沿って発達する階段状の地形)上の険(けわ)しい地形の場所にあります。この場所になったのは、東下に、羽州街道が通っているため、この街道を通る敵(てき)に備(そな)える目的があったと考えられます。

発掘調査により、周囲が非常(ひじょう)に大きい二重の空堀(からぼり)によって囲まれていたことが解り(わかり)ました。堀を掘って出て来た土は、外側に積み上げられ土塁(どるい)として利用され、土塁・空堀・土塁・空堀と二重に囲み、厳重(げんじゅう)に守りを固めていた城柵の本来の姿(すがた)が見えて来たのです。

北側に位置する小吉山は、大きな溝や地形によって四つの区画に分かれていました。それぞれの区画で複数の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)が確認されました。

北側の区画が居館(きょかん)(領主が普段住む場所)があった所と考えられています。この居館の外側には柵列(さくれつ)が廻り、柵に沿(そ)って小さな物見のための櫓と思われる跡(あと)も確認(かくにん)されています。

また、外側の堀には土橋(どばし)(通路として利用された土の堤)が設けられていることも解りました。大鳥井山は、二つの区画(くかく)に分けられ、横手川に面した西側で四面庇(しめんびさし)(ひさしがぐるっと四方についた建物)の大型(おおがた)の掘立柱建物が確認されました。

発掘調査で発見された遺物(土器などさまざまな道具や装飾品)は、10世紀後半~12世紀代に使われたものでした。この間に使われていない時期は無(な)いため、150年ほどにわたってずっとこの場所が使われていたことが解(わか)ったのです。

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発掘調査で確認された東側の二重の堀と土塁(秋田県教育委員会提供)

今日ならったお城(しろ)の用語


四面庇(しめんびさし)
建物の中で、住むための場所(部屋)を母屋(おもや)とか身舎(もや)と言います。この住む部屋の周りに柱を立てて屋根をかけたものが庇(ひさし)です。この庇が、部屋の四方(よも)をぐるっと廻(まわ)っている建物のことです。敷地内(しきちない)の中心的な建物が、こうした形式です。

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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