理文先生のお城がっこう 歴史編 第9回 鎌倉城と切通し

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。鎌倉というと、鎌倉幕府が置かれた都市というイメージがありますが、実は当時鎌倉は「城」と思われていたそうです。今回は、鎌倉城と切通しについて学んでいきましょう。



■理文先生のお城がっこう
前回「第8回 前九年合戦、後三年合戦に使われた城」はこちら

治承4年(1180)、平氏を追いかけて討ち取るために、兵を集めて軍事的な行動を起こした源頼朝(みなもとのよりとも)は、古くから源氏に縁(えん)の深い地「鎌倉」(かまくら)へと入りました。鎌倉入りは、下総(しもうさ)主に、現在の千葉県北部と茨城県西部)の千葉常胤(ちばつねたね)進言(しんげん)目上の者に対して意見を申し述べること)によるとも言われています。源氏に縁の深い土地であること、それだけではなくさらに海に面した交通の重要な地点であったことが決め手になりました。

源頼朝の鎌倉入り

鎌倉入りした頼朝(よりとも)は、この地を武家(ぶけ)の都にふさわしい都市にする準備を開始します。鎌倉は、北・東・西の三方を険(けわ)しい∩の形をした連続する丘に囲まれ、南は海に面した「理想的な都市」を造るのに適した地形でした。

海に面した交通の重要な場所を押さえるとともに、三方の連なっている丘に7カ所の切通し(きりどおし)山・丘などを切り開いて通した道)を作って出入口とし、簡単(かんたん)に攻め(せめ)寄せることが出来ない町としたのです。

京都では、地形がけわしく守りに有利な土地である鎌倉を「城と同じだ」と理解(りかい)していたようです。九条兼実(くじょうかねざね)の日記「玉葉(ぎょくよう)」の寿永(じゅえい)2年(1183)11月2日の記載に「頼朝が5日に鎌倉城(かまくらじょう)を出発して、京都へ向ったようです。(中略)ただちに上洛(じょうらく)するのを止めて、本城(鎌倉)へ帰ってしまいました。」と書かれています。鎌倉という都市そのものを城と同じだと思っていた証拠(しょうこ)です。

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鎌倉周辺の地形模型(ちけいもけい)(国立歴史民俗博物館所蔵)(こくりつれきしみんぞくはくぶうかんしょぞう)

鎌倉城とは

鎌倉が「城」と呼ばれた主な理由は、南が海で、他の3方向が約100mの山で囲まれた、守りに有利(ゆうり)な土地だったからです。山があるだけでも敵(てき)の侵入(しんにゅう)を防ぐ(ふせぐ)のには十分役立ちます。山を越(こ)えないと鎌倉へは入れないのです。

山越(やまご)は、鎌倉に住む人たちにも大変なので、鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、鎌倉を中心に四方八方に伸(の)びる軍隊(ぐんたい)が通るための道路を造(つく)ました。今なら、トンネルを掘ればよいわけですが、当時は谷を削(けず)って広くして道にしていました。谷底(たにぞこ)道ですので、敵が攻めてきても、ここで敵の動きを止めることが出来ました。こうした、敵の侵入を防ぐため谷底道は「切通し」と呼ばれたのです。鎌倉城の範囲は、稲村ヶ崎(いなむらがさき)から極楽寺坂切通、大仏坂切通、化粧坂(けわいざか)切通、亀ヶ谷坂(かめがやつざか)切通、巨福呂坂(こぶくろざか)切通、名越坂(なごえざか)切通、朝比奈(あさひな)切通を経て飯島崎(いいじまざき)まで連続(れんぞく)して続く丘に囲まれた南が相模湾(さがみわん)に面する地域(ちいき)の中のことです。

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朝比奈切通し                   化粧坂切通し

『吾妻鏡』(あづまかがみ)には、朝比奈切通しを早く完成(かんせい)させるため、執権(しっけん)北条泰時(ほうじょうやすとき)が工事現場に足を運んで監督(かんとく)するだけでなく、工事がはかどらないため泰時までも乗馬(じょうば)で土石を運んだと書き残されています。とても大切な工事だったことがわかります。

鎌倉へ入るための7カ所の切通しは、古くから鎌倉の中と外を結ぶ大切な道路でした。頼朝が鎌倉に幕府を置(お)いて、武家政権(ぶけせいけん)の都としたため、交通量は大幅に増加し、切通の道をより通りやすくするために改修(かいしゅう)したと思われます。

問題は、そこを通る人たちのことを考えて、便利(べんり)に通りやすくすれば、敵方も簡単にここを通るようになってしまうということでした。そこで、切通しの周り(まわり)に、切岸(きりぎし)堀切(ほりきり)竪堀(たてぼり)曲輪(くるわ)を造(つく)って、簡単(かんたん)にここを通過(つうか)させないような工夫をすることになったのです。

切通しの中でも特に重要だったのが、扇ヶ谷(おうぎがやつ)から葛原岡(くずはらがおか)の頂上に通じるSの字状にカーブを描いた坂道で、武蔵大路(むさしおおじ)、巌小路(いわやこうじ)などの市街(しがい)中心部に真っ直ぐ行くことが出来る道でした。化粧坂切通しの周辺を他の場所から独立(どくりつ)させて守ることが出来るように、曲輪のような平坦面(へいたんめん)を造って、巨大な堀切を設けた(もうけた)様子は、まさに砦(とりで)そのものでした。

名越坂切通しは、古い東海道(とうかいどう)へと続(つづ)重要(じゅうよう)な場所で、平坦な場所や尾根(おね)続きに堀切や竪堀、切岸をたくさん造っています。斜面(しゃめん)を人工的に削った切岸が数多く見られますが、特にお猿畠(さるばたけ)の大切岸は、まるで城壁(じょうへき)のようにそそり立っています。

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名越坂切通し                    お猿畠の大切岸

この鎌倉城が出来たのは、おおむね13世紀の中頃から後のことと考えられ、発掘(はっくつ)調査では鎌倉時代の初めに生活した建物跡(たてものあと)や使用した道具類(るい)が確認(かくにん)されています。鎌倉城の成り立ちや仕組みについても、敵の攻撃を防ぎ守るための施設で囲まれた都市とか、あるいは敵に攻められそうな危険(きけん)な状況(じょうきょう)があったので、守りを固(かた)めたとも言われています。

新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻め

元弘3年(1333)、新田義貞は鎌倉攻めのための軍勢(ぐんぜい)を三手に分け、巨福呂坂、極楽寺坂、化粧坂の三方から攻撃(こうげき)を開始(かいし)しました。だが、地形がけわしく守りに有利になっていた切通しは攻めにくく、どちらが勝つか予想できないような戦いが続いて、簡単(かんたん)に突(つ)き破(やぶ)ことができませんでした。

幕府(ばくふ)方は、切通しの守りをより強く攻めにくくするため、曲輪状の平場(ひらば)を設(もう)け、堀切・竪堀などの守るための施設(しせつ)だけでなく、土塁(どるい)の変わりに、尾根沿いや斜面をほぼ垂直(すいちょく)に切り崩(くず)し、切岸にしていたのです。

切通しを突き破って、鎌倉の街へ入ることが難しいと解ったため、新田軍は守りの比較的薄(うす)稲村ヶ崎をめざしたのです。ここを突破することに成功すると、一手が極楽寺坂を背後から急に襲(おそ)い掛(か)かって全滅(ぜんめつ)させました。引き続いて、大仏坂、化粧坂、巨福呂坂を挟み撃ちにすると、幕府軍はまったく抵抗(ていこう)することが出来なくなってしまったのです。

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稲村ケ崎を望む

『太平記』(たいへいき)には、新田義貞が海に面した狭(せま)くて通行の困難(こんなん)な道で、難所(なんしょ)と呼(よ)ばれた稲村ケ崎から攻め入ろうとし、龍神(りゅうじん)に祈(いの)をささげ、自身が身に着けていた「金作(こがねづくり)の太刀」を海に投じたところ、急に潮(しお)が引いて軍船(ぐんせん)も遠くに追いやられ、義貞軍はこの地を突破(とっぱ)できたと書かれています。



今日ならったお城(しろ)の用語


切通し(きりどおし)
山や丘(おか)などを切り開いて、人や馬が通れるようにした道のことです。トンネルを掘る(ほる)技術(ぎじゅつ)が発達(はったつ)していなかったため、切り立った地形の場所を安全に通れるように切り崩して道にしたのです。鎌倉の場合、上から通行する人々が丸見えなので、敵を待ち伏(ぶ)せして攻撃(こうげき)することが出来るようにしていました。 




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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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