理文先生のお城がっこう 歴史編 第10回 御家人(ごけにん)の館

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回は「御家人の館」について解説します。

1185年に平氏が滅亡(めつぼう)し、源頼朝(みなもとのよりとも)(ひき)いる源氏が力を持つようになりました。朝廷(ちょうてい)側のトップである後白河法皇(ごしらかわほうおう)は、源頼朝が力を付け、平清盛(たいらのきよもり)のようになることを恐(おそ)れたのです。そこで、実際(じっさい)に平氏を追いかけて討(う)ち取った頼朝の弟・義経(よしつね)を取り込(こ)もうと、頼朝に知られないようにこそこそと手を回し、兄頼朝を打ち取ることを命じました。

源氏が、力を付けないようにと考えた作戦でしたが、義経は失敗してしまいます。法皇が隠(かく)れて命令したことを知った頼朝は、京都へ軍隊を派遣(はけん)し、おどかし、法皇から「義経を追いかけて捕(つかま)えろ」という命令を出させました。

守護・地頭の設置

頼朝は、さらに義経を捕(つか)まえることを口実にして、法皇に全国に惣追捕使(そうついぶし)後の守護(しゅご)地頭(じとう)を派遣させることを認めさせます。義経を打ち取ると、各地の安全を守るためとして、諸国(各国に1人)に守護を置くことにしました。守護に就(つ)くよう頼朝から命(めい)じられたのは、勢力(せいりょく)のある御家人(将軍から土地をもらった家来)達でした。各地の守護は、任命された国に住む御家人を指導(しどう)し、軍隊や警察(けいさつ)などを率(ひき)いて国内の安全を守るのが仕事でした。守護の最(もっと)も大事な仕事が「大犯三ヵ条(だいぼんさんかじょう)」です。

大犯三ヵ条とは、
①京都に行って朝廷(ちょうてい)の警備(けいび)を行う御家人を決めて、指揮(しき)すること。
②幕府や朝廷に反抗(はんこう)した人を逮捕(たいほ)すること。
③殺人犯を逮捕(たいほ)すること。 
を、いいます。

諸国(しょこく)には朝廷(ちょうてい)から任命(にんめい)された国司(こくし)(中央から派遣された役人で、国内の戸籍を作ったり、税金を集めたりするのが仕事でしたもいたので、この時期の守護は、任命(にんめい)されて自分が住んでいる土地を領地(りょうち)にしたり、国内の御家人を勝手(かって)に部下にしたりすることはありませんでした。

地頭も、御家人の中から選ばれ、荘園(しょうえん)(貴族や大きなお寺が持っていた私有地)公領(こうりょう)(国司が管理している土地、公有地のこと)にそれぞれ1人置かれました。地頭の仕事は、まかされた土地の管理や年貢(ねんぐ)の取り立て、安全を守ることでした。多くの地頭は、直接与(あた)えられた土地に住み着いて、仕事を行っていましたが、有力な御家人は幕府の役職も併(あわ)せて任(まか)されていましたので、鎌倉(かまくら)に住む者も多くいました。その場合、親族(しんぞく)や家臣(かしん)を自分の代わりに現地(げんち)に派遣(はけん)して、管理(かんり)を任せることもありました。

頼朝が「鎌倉政権(せいけん)」を創(つく)った頃は、畿内(きない)や西国は朝廷の力が強く、頼朝も口出しすることがなかなか出来ませんでした。しかし、承久(じょうきゅう)3年(1221)、鎌倉幕府(かまくらばくふ)を滅(ほろ)ぼそうと後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)を中心に、公家勢(くげせいりょく)や畿(きない)周辺の武士や御家人たちが兵を挙げ、幕府軍(ばくふぐん)と戦いましたが、あっけなく敗北してしまいます。後鳥羽・土御門(つちみかど)・順徳(じゅんとく)の3上皇(じょうこう)(天皇が位を退いてからの呼び名)は島へ流され、(いん)(上皇が住んで政治を行ったところ)側の所領(しょりょう)はすべて没収(ぼっしゅう)され、そこに新しい地頭(新補地頭(しんぽじとう))が置(お)かれました。これを承久の乱といいます。この乱(らん)によって、公家(くげ)は力を落とし、鎌倉幕府を中心にした武家の力が全国に及(およ)ぶことになりました。

南条館、堀、土塁
南条館(なんじょうかん)(静岡県富士宮市(ふじのみやし))に残(のこる堀(ほり)と土塁跡(どるいあと)。現在、妙蓮寺(みようれんじ)の境内(けいだい)で、本堂の東側と北側に土塁(どるい)が残っています。南側に広がった不整形(ふせいけい)な形状(けいじょう)の館跡(やかたあと)で、伊豆(いず)の御家人・南条氏の一族が上野の地頭となり構(かま)えた屋敷です

御家人の館

御家人(武士)は、土地を支(しはい)するために、領内(りょうない)の交通の要衝(ようしょう)などの重要な場所に、土塁・堀などに囲まれた館(やかた)を造り住みました。

御家人などの武士が住んでいた屋敷のことを「居館(きょかん)」と呼んでいます。居館は堀ノ内(ほりのうち)・館・土居(どい)などとも呼(よ)ばれます。館の周囲に、田畑の灌漑(かんがい)(農作物のために人工的に田畑へ水を供給すること)用の用水を引いた方形(ほうけい)の水堀を設け、この堀を掘った土で盛り上げた土塁で囲(かこ)んだ中に、居住(きょうじゅう)する場所を構(かま)えたのです。

館は、住居としての役割(やくわり)のほか、戦に備えた城(しろ)や砦(とりで)の役割を持っていました。入口には門を構(かま)え、出入りや荷物を点検(てんけん)する番人が休むことなく見張(みは)っていました。「一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)」には、門の上に塀に囲まれた櫓(やぐら)が置(お)かれ、楯(たて)(敵の矢や槍の攻撃から身を守るための防具)や弓・矢が準備(じゅんび)され、休憩(きゅうけい)施設(しせつ)のような小さな屋形(やかた)も描かれています。

館の中心建物が主屋(おもや・ほんや)(主人や家族が住む、敷地内の中心になる建物)副屋(ふくや)対屋(たいのや)妻や子女が住む主屋とは別棟(べつむね)の建物)で、人と対面する施設(しせつ)としても利用されました。現在の台所である厨(くりや)、燃料を保管する薪小屋(まきごや)、武器庫や納屋(なや)(屋外に建てられた物を納めておく小屋)、蔵(くら)、また、持仏堂(じぶつどう)毎日拝む仏像や先祖の位牌(いはい)を安置しておく場所のような宗教(しゅうきょう)施設が置かれる事もありました。

この他、田畑や、郎従(ろうじゅう)(主従関係によって仕えた家来)などが住む遠侍(とおさぶらい)(主屋から遠く離れた場所に設けられた警護の武士の詰め所)や厩(うまや)も併設(へいせつ)されました。田畑は、農民の夫役(ぶやく)(労働で治める税金)を使い耕作(こうさく)させていました。馬は、戦や荷物の運搬(うんぱん)に欠(か)かすことの出来ない大切な生き物で、屋敷内で飼(か)われていたのです。こうした館の構造(こうぞう)が、文献(ぶんけん)(当時に書かれた記録)や絵図から推定(すいてい)されます。

地方武士の館復元模型
地方武士の館復元模型(ふくげんもけい)(国立歴史民俗博物館蔵(こくりつれきしみんぞくはくぶつかんぞう))。絵図や発掘(はっくつ)調査成果を基(もと)にした復元模型です。土塁と堀に囲まれた方形の居館の広さは方一町(約100m四方)が一般的(いっぱんてき)でした

〈コラム〉国史跡(くにしせき)「足利氏宅跡(鑁阿寺)」(あしかがしたくあと(ばんなじ))

鎌倉時代の武士の館の面影(おもかげ)を伝えているのが鑁阿寺(ばんなじ)で、日本100名城にも選定(せんてい)されています。12世紀の半ばに、足利(あしかが)氏の祖(そ)・源義康(みなもとのよしやす)が構えた屋敷と伝わっています。

建久(けんきゅう)7年(1196)足利義兼(あしかがよしかね)が邸内(ていない)に大日如来(だいにちにょらい)を祀(まつ)る持仏堂を建て、文暦元年(1234)3代・義氏(よしうじ)堂塔伽藍(堂や塔のある寺の建物)を整備し、足利一門の氏寺(うじでら)(一門の繁栄、死後の幸福などを祈るために建てた寺)としました。鎌倉時代から室町(むろまち)時代にかけて寺院として次第に整備され、室町(むろまち)将軍家、鎌倉公方家などにより、足利氏の氏寺として手厚(あつ)く守られていくことになります。

鑁阿寺本堂、国宝
鑁阿寺本堂(ばんなじほんどう)(国宝)。足利尊氏(あしかがたかうじ)の父・貞氏(さだうじ)が正安(しょうあん)元年(1299)に再建したもので、応永14~永享(えいきょう)4年(1407~32)の修理によって屋根が瓦葺(かわらぶき)に改(あらた)められました。

周囲(しゅうい)に堀と土塁を廻(めぐ)らした約200m四方ほどの方形館(ほうけいかん)で、四方に門が作られています。本堂は落雷(らくらい)で焼失(しょうしつ)しましたが、足利貞氏(あしかがさだうじ)禅宗様式(ぜんしゅうようしき)(禅宗が広まると共に普及した禅宗の建築に用いられた建築の様式)を取り入れ正安元年(1299)に改修しました。密教寺院(みっきょうじいん)(本堂を中心とし三重塔あるいは多宝塔(たほうとう)を組み合わせ配置(はいち)した寺)における禅宗様仏堂(ぶつどう)(仏像をお祀りした建物)の初期の例ということで、平成25年に国宝に指定(してい)されました。鐘楼(しょうろう)一切経堂(いっさいきょうどう)が重要文化財(じゅうようぶんかざい)東門西門楼門(ろうもん)多宝塔御霊屋(おたまや)太鼓橋(たいこばし)も昔の姿(すがた)を残しています。

鑁阿寺を廻る土塁と堀
鑁阿寺を廻る土塁と堀。ほぼ正方形の寺域は、約200m四方の広さです。写真は、寺の南東隅角から南の入り口である楼門(ろうもん)方向になります。

今日ならったお城(しろ)の用語


居館(きょかん)
中世段階(ちゅうせいだんかい)の居館は、御家人(ごけにん)などの武士(ぶし)が住んでいた屋敷(やしき)(武装化(ぶそうか)した住居)のことです。堀ノ内(ほりのうち)・館・土居(どい)などとも呼(よ)ばれます。館の周囲に、用水を引いた方形の水堀(みずぼり)を設けたり、土塁(どるい)で囲んだりしていました。広い意味では城に含(ふく)まれます。


次回 歴史編 第11回 は、「元寇防塁の構築」です。

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。



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